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第八十九章
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第八十九章
族長ホワソンの家の前には二人の番兵が立っていた。この二人も臨時に駆り出された自警団の者らしく退屈そうに槍にもたれかかっていた。
かしらが言ったように門は閉ざされていた。一行が近づいていくと番兵たちは何事だとこちらを振り向いた。
一歩前に出たかしらが芝居がかった仕草でお辞儀をして見せた。
「我らはご覧のとおり旅の芸人でございまする。中庭の深き泉に芸の捧げものがありまする」
番兵たちは警戒するでもなく、あっちへ行けと手を振った。
「ここは誰も通してはいかんと言われているんだ」
「旅芸人だと。こんな時にのんきなものだ」
かしらは口元に笑みを浮かべて尋ねた。
「こんな時と申しますと、どんな時なんで」
「聞くまでもあるまい。我らの町は羊飼いどもと戦争をしようというのだ」
「ほお、そのために族長を閉じ込めておかれるので。そんなためしが王国にございましょうか」
番兵たちは槍の穂先をきらめかせた。空に月が光を増していた。
「人聞きの悪いことを言うな。閉じ込めてなどいないぞ。その証拠にこの門にはかんぬきもかかっていない」
「そうとも、我らはただお前たちのような怪しい連中を追い払うように言われただけだ」
番兵たちが言うことは本当だった。
長老グインとその取り巻きたちは族長を監禁しているとは言わず、あくまでも我らは族長ホワソンから全権を委任されたのだと主張していた。族長を家から出さないのは敵からその身を保護するためだというのだ。
さて、かしらは槍の光に怯むような男ではなかった。シャーマンがこの道だと言うなら行かねばならない。
クランは羊の生皮の下でうつむきながら低くいにしえの言葉を朗唱し続けていた。
クランには見えていた。族長の家の中庭に雲霞のように集う精霊の柱が。それは少し前、カラスに化身したコルウスの翼を萎えさせたのと同じものだった。
「かしらよ、ここだ。ここだぞ」
クランが肩越しにささやくと、かしらは力ずくでも押し通るつもりになった。
その時、緊迫した空気を嘲るような笛の音が響いた。
「お兄さんがた、お堅いこと言いっこなしだよ」
ココがかしらと門番たちの間に割って入った。
番兵たちはブンド族としては風変わりなココの姿に目を奪われた。
月の光にココの上着が玉虫色の光沢を放っていた。乾いた夜気の中に甘く粘りつくような香りまで漂ってくる。
「こんなところで門番なんかしているより広場へ影絵芝居を見に来ないかい。私と一緒に行こうじゃないの」
二人はまだ若かった。少し気をそそられたようだったが、すぐ思い直して首を振った。
「そんな暇はない。俺たちはここを固めているように長老グインさまから直々にご命令を受けたんだからな」
「そうとも、大事なお役目だ。放り出して行けるものか」
ココは、フンと鼻を鳴らして笑った。
「なんだい、いい若いもんが年寄りにこき使われて、何が大事なお役目だよ。意気地がないねえ。じゃあさ、私と一緒に、ちょっと変わったお人形ごっこをしようじゃないか」
笛を鳴らしてココは踊り出した。ブンド族たちもそれに和して太鼓を叩いた。
踊りが調子に乗ってくるとココはいったん笛をしまって両手を高くかかげ、砂塵を舞い上げて足を踏み鳴らしはじめた。
番兵たちはココの妖艶な踊りに目を見開いた。その目に月の光でない光が宿り、鼻息まで荒くなってきた。
拍子に合わせて、くるりくるりとココは体を回し、若い二人の目に見入っていた。ココの指先は魔法印を結んでいた。
番兵たちの様子がおかしくなってきた。手にしていた槍が地面に倒れ、立っているのがやっとらしく、膝をガクつかせている。
ココの踊りは一段と熱っぽさを増していった。ブンド族の太鼓も高鳴る。
ついに番兵たちは立っていられなくなって塀に寄りかかった。妙な内股になって腰くだけになりながら額にじっとり汗をにじませている。
「ちょっと待て、な、なんだこれは……身体に力が入らん……」
「分かった、分かったから……やるなら中でやってくれ!」」
うろたえた様子になった番兵たちは、ついに門を開いた。
かしらを先頭にブンド族の一行は中へ入った。クランとアルテもその後に続いた。
少し離れたところから様子を見ていたブルーノがココのところへやって来た。
「おい、ココ。お前、何をしやがったんだ」
「何もしちゃいないよ。この二人は私の魅力にやられちまったんだ。ねえ、そうだろ、かわいいお人形さんたち」
二人の番兵は四つん這いになって、こそこそ逃げ出すと、野良犬のように通りの向こうへ走り去ってしまった。
ココはその後ろ姿を見送りながら、また嘲るように笑った。
「なんだい、逃げることないじゃないか。ほんとに意気地なしだよ。さあ、ブルーノ、私たちも中へ入ってみようよ。何があるか知らないけどさ」
ブルーノの腕を取って中庭へ入ろうとしたココは見えない壁にぶつかったように足を止めた。
「おい、どうしたんだ。お前、顔色が悪いぜ」
門のところから後ずさるココにブルーノは心配げな顔になった。ココはごまかし笑いをしながら、さらに一歩後ずさりした。
「なあに、なんでもありゃしないよ……ちょっとばかり、めまいがするだけさ……」
「なんだと。さっきあんなにくるくる回っていたから目が回ったんだろ。もういいじゃねえか、宿屋へ行こうぜ。お前の部屋へよ。俺も何だか変な気分なんだ」
ココはブルーノに肩を抱かれながら宿屋へ戻った。
一方、中庭ではブンド族たちとアルテ、そしてクランが族長ホワソンに迎えられていた。ホワソンは家の外に人の声を聞いて出てきたところだった。
「これは驚いた。ブンド族の者たちか。それに、あなたたちシャーマンにはクレオンのところで会ったな」
アルテがホワソンに尋ねた。
「族長よ、どうしてこんなことになったのだ。部族の民が族長を閉じ込めるとは」
「それは話すと長くなる。それより何をしにここへ。いくらブンド族のしきたりとは言え、このような時に……」
クランが目にかかった羊の生皮を頭の上へかかげた。青い片目がホワソンを見た。
「我らは精霊の示す道をたどってきた。族長よ、部族の最後の支えよ。しきたりというものは危うい時にこそ従うべきなのだ」
まるで雨が止んだことを確かめる時のような上目使いでクランは夜空を見た。頭に被っていた羊の生皮を肩まで下ろすと、クランは中庭の奥にある泉へ目を向けた。
「あれが、深き泉か」
「イーグル・アイよ、水が要るのなら汲むがいい。この水は穢されてはいない」
「分かっている。穢れた水のほとりにミアレの花は咲かない」
そちらへ歩いて行くと、水の匂いがするとともに土地の精霊が息づくのが感じられた。おぼろげな空気の流れが頬をかすめ過ぎた。
クランは鳴りを潜めているブンド族の者たちを振り返った。
「どうした。しきたり通りにするがいい。すぐに神殿へ向かうのだから」
ブンド族たちは顔を見合わせたが、すぐに緩やかな拍子で太鼓を叩き始めた。空気が震え、浮き立つようなうねりが生じるのが分かった。
人形使いは人形を踊らせ、子供たちは繰り返しトンボを切った。
クランは深き泉のほとりにひざまずき、低く、極めて低く、いにしえの言葉を朗唱した。すぐ横にアルテが立って泉の様子をうかがっていた。
それまで泉は弱々しく水を吐き出していたが、すぐに朗唱に応えた。水は力を帯び、脈打つように奔流となって噴き出した。その勢いにはアルテも驚くほどだった。
囲みの石を越えて水はあふれ、ミアレの花に注いだ。淡い月光の中で黄色い花が生気を帯びるのがありありと分かった。
それとともに太鼓の音も熱く生気をはらんで鳴り渡り始めた。ブンド族の民は足を高くかかげ、髪を揺すって踊りだした。
クランは一心にいにしえの言葉の朗唱を続けていた。しらずしらず朗唱はいにしえの言葉の古い古い層へと分け入っていった。そこへ誘い込まれるような感じがあった。
形を成そうとしてできないらしい、おぼろげな精霊の姿が立ち現れた。これはクランの脳裏に映った面影のようなものだった。
クランにはそれが古い古い精霊であることが感じられたが、なぜ、おぼろげなまま形を成すことができないのか分からなかった。
神殿でなく、この場所こそが真実の聖地だ。その確信がクランにはあった。何が足らないのか。水は深呼吸するように泡立ち、ほとばしっている。クランはひとまず朗唱をやめた。
そこへホワソンの妻サラが姿を見せた。太鼓の音を耳にしたサラは家の者たちに付き添われて中庭へ出てきたのだった。
サラはこれから戦争が始まろうとする敵方、テン族の出だ。心中、穏やかでないだろう。その顔にも憂いの色がベールのように漂っていた。
サラは二人のシャーマンを見て、こちらへやって来た。口元に薄く笑みが浮かんだ。
「クレオンさまの天幕でお会いしましたね。我が部族は思いもよらぬことになりました」
アルテはサラの大きな腹に手を当ててうなずいた。
「心配はいらない。この泉を見ろ。精霊はまだ闇の力になど屈していない。イーグル・アイの朗唱にありありと応えている。いずれ全てはあるべきところへ帰るのだ」
サラはミアレの花の上にひざまずいているクランの横に自分も膝をついた。ミアレの花は深き泉の水で濡れていた。
クランはサラの腹に手を当てた。ふたたび朗唱を始めたクランは何事かに耳を傾ける様子を見せた。ブンド族の太鼓は高く低く鳴り続けていた。
家の者が体を冷やさぬようにとサラに耳打ちしたが、サラは聞かなかった。これから生まれ出ようとする子がシャーマンの朗唱に応えているのがサラにも分かった。
クランは青い目をサラの目に合わせ、その奥をのぞき込んだ。
「族長の妻よ。半ば精霊、半ば人の母なる者よ。お前の子は道を知っている。もう一人の子とともに……」
クランは一心に、いしにえの言葉で呼びかけた。青い目を閉じ、胎児に思いを凝らす。頭上にオローが来ているのが分かった。オローは精霊の柱のまわりを螺旋を描いて飛んだ。
胎児はオローが来ていることを喜んでいるようだった。羊水の中でゆるやかに手足を舞わせている。ブンド族の太鼓に和している様子がうかがえた。
クランは顔を上げ、胎児に思いを寄せたまま言った。
「族長に尋ねる。死せる部族の民の魂はどこへ向かうか」
「それをどうして私に。シャーマンこそよくご存知のはず」
ホワソンは戸惑う表情だった。クランは背後にいるホワソンの顔を見ずに言った。
「答えよ、族長よ。私はお前の部族の信仰を尋ねている」
「シャーマンよ、死んだ部族の民の魂は神殿に向かうのだ。神殿こそ我が部族の聖地」
胎児は族長の言葉を否定するように身動きした。サラは半月の光を受けて青く光るシャーマンの目に見入った。
「族長の妻よ。お前には分かるな。お前の子……いや、まだお前の子ではないが……この世に生まれ出た時、初めてこの子は人となるのだから……いずれにせよ、この子は真の魂の道を知っている」
クランは手を取ってサラを立たせると、ミアレの花の上から下がらせた。クラン以外の者たちは深き泉を遠巻きにする形になった。
クランは泉を取り巻く石を調べた。濡れた石の表面に白い筋が見えた。この白い筋には見覚えがある。
オルテン山中に魔物が住むという洞窟を尋ね、アルテの父であるノガレに出会った。
洞窟の内壁には今は亡き古い部族の物語が白い筋で描き出されていた。事が済んだ時、物語は失われたが、クランの手元には白い筋のある小石が残された。
クランはビーズ飾りの房の端にそれをくくりつけておいたのを思い出した。見ると、白い筋は泉の石のものとよく似ている。ティトはいい土産をくれた。
石に泉のしずくがかかると、月光の中で白い筋がいきいきと浮き上がるのが見えた。
クランは石をくくりつけた紐を解くと、それを深き泉へ投げ込んだ。
ブンド族の太鼓が高鳴った。クランが指図したわけではない。彼らは何かを感じたのだ。
クランはいにしえの言葉を朗唱した。それは、あの洞窟で見た古代の部族の物語の一部だった。ほとんどは失われてしまったが、一部といえどクランの脳裏にそれは刺青のごとく刻まれて遺っていた。
泉の水面からおぼろげな空気のゆらぎが立ち上った。クランにはそれが見えた。アルテにもかすかながら見えただろう。
ブンド族の子供たちもトンボを切るのをやめて、泉の上の何もない空間に見入っていた。子供たちは微笑んでいた。
やがて空気のゆらぎは一つの幻像となってクランの前に立った。戦士だ。幻像は古代の戦士の姿を取っていた。
しかし、それはまだゆらいでいた。水面に映る影のように。滝壺に立つ虹のように。
クランは胸にあるシャーマンの鏡に月光がたたえられているのに気付いた。そうだ、ティトは言っていた。何者かの加護を得たようだと。
戦士はずっしりと重そうな広刃の剣をもたげ、ある方角を指した。クランはブンド族のかしらに尋ねた。
「かしらよ、我らが向かう神殿はどちらだ」
かしらは太鼓のばちを上げて神殿の方角を指した。それは幻像の戦士と同じ姿だった。
戦士は神殿へ自分を連れて行けというつもりらしかった。クランは気付いた。
理由は知らないが、おそらく長い年月のうちに聖地が移動されているのだ。今一度、正しく聖地を据え直さねばならない。土地の精霊を請じ迎えねばならない。闇の力に抗うにはそれが必要だ。
クランは立ち上がった。泉の中から石を拾い上げると、幻像の戦士はかき消すように姿が見えなくなった。
「かしらよ、広場へ向かおう。影絵芝居を始めるのだ」
族長ホワソンの家の前には二人の番兵が立っていた。この二人も臨時に駆り出された自警団の者らしく退屈そうに槍にもたれかかっていた。
かしらが言ったように門は閉ざされていた。一行が近づいていくと番兵たちは何事だとこちらを振り向いた。
一歩前に出たかしらが芝居がかった仕草でお辞儀をして見せた。
「我らはご覧のとおり旅の芸人でございまする。中庭の深き泉に芸の捧げものがありまする」
番兵たちは警戒するでもなく、あっちへ行けと手を振った。
「ここは誰も通してはいかんと言われているんだ」
「旅芸人だと。こんな時にのんきなものだ」
かしらは口元に笑みを浮かべて尋ねた。
「こんな時と申しますと、どんな時なんで」
「聞くまでもあるまい。我らの町は羊飼いどもと戦争をしようというのだ」
「ほお、そのために族長を閉じ込めておかれるので。そんなためしが王国にございましょうか」
番兵たちは槍の穂先をきらめかせた。空に月が光を増していた。
「人聞きの悪いことを言うな。閉じ込めてなどいないぞ。その証拠にこの門にはかんぬきもかかっていない」
「そうとも、我らはただお前たちのような怪しい連中を追い払うように言われただけだ」
番兵たちが言うことは本当だった。
長老グインとその取り巻きたちは族長を監禁しているとは言わず、あくまでも我らは族長ホワソンから全権を委任されたのだと主張していた。族長を家から出さないのは敵からその身を保護するためだというのだ。
さて、かしらは槍の光に怯むような男ではなかった。シャーマンがこの道だと言うなら行かねばならない。
クランは羊の生皮の下でうつむきながら低くいにしえの言葉を朗唱し続けていた。
クランには見えていた。族長の家の中庭に雲霞のように集う精霊の柱が。それは少し前、カラスに化身したコルウスの翼を萎えさせたのと同じものだった。
「かしらよ、ここだ。ここだぞ」
クランが肩越しにささやくと、かしらは力ずくでも押し通るつもりになった。
その時、緊迫した空気を嘲るような笛の音が響いた。
「お兄さんがた、お堅いこと言いっこなしだよ」
ココがかしらと門番たちの間に割って入った。
番兵たちはブンド族としては風変わりなココの姿に目を奪われた。
月の光にココの上着が玉虫色の光沢を放っていた。乾いた夜気の中に甘く粘りつくような香りまで漂ってくる。
「こんなところで門番なんかしているより広場へ影絵芝居を見に来ないかい。私と一緒に行こうじゃないの」
二人はまだ若かった。少し気をそそられたようだったが、すぐ思い直して首を振った。
「そんな暇はない。俺たちはここを固めているように長老グインさまから直々にご命令を受けたんだからな」
「そうとも、大事なお役目だ。放り出して行けるものか」
ココは、フンと鼻を鳴らして笑った。
「なんだい、いい若いもんが年寄りにこき使われて、何が大事なお役目だよ。意気地がないねえ。じゃあさ、私と一緒に、ちょっと変わったお人形ごっこをしようじゃないか」
笛を鳴らしてココは踊り出した。ブンド族たちもそれに和して太鼓を叩いた。
踊りが調子に乗ってくるとココはいったん笛をしまって両手を高くかかげ、砂塵を舞い上げて足を踏み鳴らしはじめた。
番兵たちはココの妖艶な踊りに目を見開いた。その目に月の光でない光が宿り、鼻息まで荒くなってきた。
拍子に合わせて、くるりくるりとココは体を回し、若い二人の目に見入っていた。ココの指先は魔法印を結んでいた。
番兵たちの様子がおかしくなってきた。手にしていた槍が地面に倒れ、立っているのがやっとらしく、膝をガクつかせている。
ココの踊りは一段と熱っぽさを増していった。ブンド族の太鼓も高鳴る。
ついに番兵たちは立っていられなくなって塀に寄りかかった。妙な内股になって腰くだけになりながら額にじっとり汗をにじませている。
「ちょっと待て、な、なんだこれは……身体に力が入らん……」
「分かった、分かったから……やるなら中でやってくれ!」」
うろたえた様子になった番兵たちは、ついに門を開いた。
かしらを先頭にブンド族の一行は中へ入った。クランとアルテもその後に続いた。
少し離れたところから様子を見ていたブルーノがココのところへやって来た。
「おい、ココ。お前、何をしやがったんだ」
「何もしちゃいないよ。この二人は私の魅力にやられちまったんだ。ねえ、そうだろ、かわいいお人形さんたち」
二人の番兵は四つん這いになって、こそこそ逃げ出すと、野良犬のように通りの向こうへ走り去ってしまった。
ココはその後ろ姿を見送りながら、また嘲るように笑った。
「なんだい、逃げることないじゃないか。ほんとに意気地なしだよ。さあ、ブルーノ、私たちも中へ入ってみようよ。何があるか知らないけどさ」
ブルーノの腕を取って中庭へ入ろうとしたココは見えない壁にぶつかったように足を止めた。
「おい、どうしたんだ。お前、顔色が悪いぜ」
門のところから後ずさるココにブルーノは心配げな顔になった。ココはごまかし笑いをしながら、さらに一歩後ずさりした。
「なあに、なんでもありゃしないよ……ちょっとばかり、めまいがするだけさ……」
「なんだと。さっきあんなにくるくる回っていたから目が回ったんだろ。もういいじゃねえか、宿屋へ行こうぜ。お前の部屋へよ。俺も何だか変な気分なんだ」
ココはブルーノに肩を抱かれながら宿屋へ戻った。
一方、中庭ではブンド族たちとアルテ、そしてクランが族長ホワソンに迎えられていた。ホワソンは家の外に人の声を聞いて出てきたところだった。
「これは驚いた。ブンド族の者たちか。それに、あなたたちシャーマンにはクレオンのところで会ったな」
アルテがホワソンに尋ねた。
「族長よ、どうしてこんなことになったのだ。部族の民が族長を閉じ込めるとは」
「それは話すと長くなる。それより何をしにここへ。いくらブンド族のしきたりとは言え、このような時に……」
クランが目にかかった羊の生皮を頭の上へかかげた。青い片目がホワソンを見た。
「我らは精霊の示す道をたどってきた。族長よ、部族の最後の支えよ。しきたりというものは危うい時にこそ従うべきなのだ」
まるで雨が止んだことを確かめる時のような上目使いでクランは夜空を見た。頭に被っていた羊の生皮を肩まで下ろすと、クランは中庭の奥にある泉へ目を向けた。
「あれが、深き泉か」
「イーグル・アイよ、水が要るのなら汲むがいい。この水は穢されてはいない」
「分かっている。穢れた水のほとりにミアレの花は咲かない」
そちらへ歩いて行くと、水の匂いがするとともに土地の精霊が息づくのが感じられた。おぼろげな空気の流れが頬をかすめ過ぎた。
クランは鳴りを潜めているブンド族の者たちを振り返った。
「どうした。しきたり通りにするがいい。すぐに神殿へ向かうのだから」
ブンド族たちは顔を見合わせたが、すぐに緩やかな拍子で太鼓を叩き始めた。空気が震え、浮き立つようなうねりが生じるのが分かった。
人形使いは人形を踊らせ、子供たちは繰り返しトンボを切った。
クランは深き泉のほとりにひざまずき、低く、極めて低く、いにしえの言葉を朗唱した。すぐ横にアルテが立って泉の様子をうかがっていた。
それまで泉は弱々しく水を吐き出していたが、すぐに朗唱に応えた。水は力を帯び、脈打つように奔流となって噴き出した。その勢いにはアルテも驚くほどだった。
囲みの石を越えて水はあふれ、ミアレの花に注いだ。淡い月光の中で黄色い花が生気を帯びるのがありありと分かった。
それとともに太鼓の音も熱く生気をはらんで鳴り渡り始めた。ブンド族の民は足を高くかかげ、髪を揺すって踊りだした。
クランは一心にいにしえの言葉の朗唱を続けていた。しらずしらず朗唱はいにしえの言葉の古い古い層へと分け入っていった。そこへ誘い込まれるような感じがあった。
形を成そうとしてできないらしい、おぼろげな精霊の姿が立ち現れた。これはクランの脳裏に映った面影のようなものだった。
クランにはそれが古い古い精霊であることが感じられたが、なぜ、おぼろげなまま形を成すことができないのか分からなかった。
神殿でなく、この場所こそが真実の聖地だ。その確信がクランにはあった。何が足らないのか。水は深呼吸するように泡立ち、ほとばしっている。クランはひとまず朗唱をやめた。
そこへホワソンの妻サラが姿を見せた。太鼓の音を耳にしたサラは家の者たちに付き添われて中庭へ出てきたのだった。
サラはこれから戦争が始まろうとする敵方、テン族の出だ。心中、穏やかでないだろう。その顔にも憂いの色がベールのように漂っていた。
サラは二人のシャーマンを見て、こちらへやって来た。口元に薄く笑みが浮かんだ。
「クレオンさまの天幕でお会いしましたね。我が部族は思いもよらぬことになりました」
アルテはサラの大きな腹に手を当ててうなずいた。
「心配はいらない。この泉を見ろ。精霊はまだ闇の力になど屈していない。イーグル・アイの朗唱にありありと応えている。いずれ全てはあるべきところへ帰るのだ」
サラはミアレの花の上にひざまずいているクランの横に自分も膝をついた。ミアレの花は深き泉の水で濡れていた。
クランはサラの腹に手を当てた。ふたたび朗唱を始めたクランは何事かに耳を傾ける様子を見せた。ブンド族の太鼓は高く低く鳴り続けていた。
家の者が体を冷やさぬようにとサラに耳打ちしたが、サラは聞かなかった。これから生まれ出ようとする子がシャーマンの朗唱に応えているのがサラにも分かった。
クランは青い目をサラの目に合わせ、その奥をのぞき込んだ。
「族長の妻よ。半ば精霊、半ば人の母なる者よ。お前の子は道を知っている。もう一人の子とともに……」
クランは一心に、いしにえの言葉で呼びかけた。青い目を閉じ、胎児に思いを凝らす。頭上にオローが来ているのが分かった。オローは精霊の柱のまわりを螺旋を描いて飛んだ。
胎児はオローが来ていることを喜んでいるようだった。羊水の中でゆるやかに手足を舞わせている。ブンド族の太鼓に和している様子がうかがえた。
クランは顔を上げ、胎児に思いを寄せたまま言った。
「族長に尋ねる。死せる部族の民の魂はどこへ向かうか」
「それをどうして私に。シャーマンこそよくご存知のはず」
ホワソンは戸惑う表情だった。クランは背後にいるホワソンの顔を見ずに言った。
「答えよ、族長よ。私はお前の部族の信仰を尋ねている」
「シャーマンよ、死んだ部族の民の魂は神殿に向かうのだ。神殿こそ我が部族の聖地」
胎児は族長の言葉を否定するように身動きした。サラは半月の光を受けて青く光るシャーマンの目に見入った。
「族長の妻よ。お前には分かるな。お前の子……いや、まだお前の子ではないが……この世に生まれ出た時、初めてこの子は人となるのだから……いずれにせよ、この子は真の魂の道を知っている」
クランは手を取ってサラを立たせると、ミアレの花の上から下がらせた。クラン以外の者たちは深き泉を遠巻きにする形になった。
クランは泉を取り巻く石を調べた。濡れた石の表面に白い筋が見えた。この白い筋には見覚えがある。
オルテン山中に魔物が住むという洞窟を尋ね、アルテの父であるノガレに出会った。
洞窟の内壁には今は亡き古い部族の物語が白い筋で描き出されていた。事が済んだ時、物語は失われたが、クランの手元には白い筋のある小石が残された。
クランはビーズ飾りの房の端にそれをくくりつけておいたのを思い出した。見ると、白い筋は泉の石のものとよく似ている。ティトはいい土産をくれた。
石に泉のしずくがかかると、月光の中で白い筋がいきいきと浮き上がるのが見えた。
クランは石をくくりつけた紐を解くと、それを深き泉へ投げ込んだ。
ブンド族の太鼓が高鳴った。クランが指図したわけではない。彼らは何かを感じたのだ。
クランはいにしえの言葉を朗唱した。それは、あの洞窟で見た古代の部族の物語の一部だった。ほとんどは失われてしまったが、一部といえどクランの脳裏にそれは刺青のごとく刻まれて遺っていた。
泉の水面からおぼろげな空気のゆらぎが立ち上った。クランにはそれが見えた。アルテにもかすかながら見えただろう。
ブンド族の子供たちもトンボを切るのをやめて、泉の上の何もない空間に見入っていた。子供たちは微笑んでいた。
やがて空気のゆらぎは一つの幻像となってクランの前に立った。戦士だ。幻像は古代の戦士の姿を取っていた。
しかし、それはまだゆらいでいた。水面に映る影のように。滝壺に立つ虹のように。
クランは胸にあるシャーマンの鏡に月光がたたえられているのに気付いた。そうだ、ティトは言っていた。何者かの加護を得たようだと。
戦士はずっしりと重そうな広刃の剣をもたげ、ある方角を指した。クランはブンド族のかしらに尋ねた。
「かしらよ、我らが向かう神殿はどちらだ」
かしらは太鼓のばちを上げて神殿の方角を指した。それは幻像の戦士と同じ姿だった。
戦士は神殿へ自分を連れて行けというつもりらしかった。クランは気付いた。
理由は知らないが、おそらく長い年月のうちに聖地が移動されているのだ。今一度、正しく聖地を据え直さねばならない。土地の精霊を請じ迎えねばならない。闇の力に抗うにはそれが必要だ。
クランは立ち上がった。泉の中から石を拾い上げると、幻像の戦士はかき消すように姿が見えなくなった。
「かしらよ、広場へ向かおう。影絵芝居を始めるのだ」
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三矢さくら
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【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

凡人がおまけ召喚されてしまった件
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勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。

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