85 / 101
第八十五章
しおりを挟む
第八十五章
次の日、町には長老グインの名のもとに重大な布告がなされた。
布告の第一は、族長ホワソンは我らの町を苦境から救うため、その全権を長老グインに委ねたということ。
第二は、現在、町を混乱させている水をめぐる騒動にはテン族との境界争いの報復である疑いがある。よって、テン族に勧告したうえで、ことによっては武力に訴えて我が町を守るつもりであるということ。
以上、二つの事が布告されると部族の民には喧々諤々の議論が巻き起こった。
「武力に訴えてとは何だ。まさか戦争をするつもりじゃなかろうな」
「いや、もし井戸を穢し、さらには深き泉を穢したのがあの羊飼いどもなら強硬手段もやむをえぬだろう」
「あの黒い虫はどうなのか。あれも羊飼いどもの仕業か。そうは思えないが」
「例の『闇の王』のことも気になる。いったいぜんたい我らの土地は、我らの町は、どうなってしまっているのだ。族長はなぜグインに全てを託して身を隠しているのだ」
議論には理性的で冷静なものもあったが、感情的で単に日頃の鬱憤晴らしに過ぎない暴論も飛び交った。風聞が風聞を呼び、噂のつむじ風が街角に吹き荒れた。
市のある広場の片隅や木柵近くの裏通り、あの王都から逃れてきた若夫婦がやっている酒場でも、そんな類の言葉の拳骨が飛び交っていた。
「なあに、理屈なんぞどうでもいい。この際だから、あのみじめったらしい羊飼いどもをぶちのめしてやれ」
「おお、そうとも。境界争いなどと言うが、いったい誰が境界を決めたんだ。力のあるものが土地を取って何がいけない」
「戦争となれば俺たちの出番だぞ。あんな羊の糞臭い連中、ひとひねりにしてやる……おい主人、酒がないぞ。じゃんじゃん持って来い!」
ダイオウを飲み干して気勢を上げている者たちは、ならず者とは見えなかった。
この連中は自警団の名のもとに町なかの見回りを『強化』していたのだった。
グインが自警団の権限を拡大したので、この者たちは道端にうずくまっている貧民たちを容赦なくぶちのめすことができるようになった。今、気勢を上げている三人も誰に命令されたわけでもないが、この裏通りを流して、『大掃除』をしてきたところだった。
若主人が残り少ないダイオウを卓に置き、心配げな顔で酔った三人の顔を見回した。
「しかし、戦争になんかなったら、この町はどうなります。王都のようにめちゃくちゃなことになるんじゃありませんか」
自警団の三人はじろりと赤い目をむいて、酒場の主人を見上げた。
「馬鹿をぬかすな。テン族になど、この町には指一本触れさせないぞ」
「それどころかオルテン河の上流で追い払ってやる」
「王都が何だと言うんだ。闇の王などと得体の知れない者にあっけなくやられおって。その成れの果てがあの道端の貧民どもだろうが。我らナホ族は闇の王など鼻面取って引き回してやろうというのだ」
大声で笑う三人に合わせて、別の卓に独りで飲んでいた年寄りの男がへつらい笑いを見せた。
「まったく頼もしい限りですな。いざ戦となれば我ら部族の圧倒的勝利でしょう。闇の王やら、カナ族の軍勢やらも、うまく使ってやればよろしいので」
若主人は王都の陥った運命を目の当たりにしていただけに、この連中の言い草には呆然とするばかりだった。
「まさか、あの黒ずくめの男を闇の王だと信じているわけじゃないでしょうね。闇の王はあんなものじゃありませんよ。それに、王都ではカナ族ってのは駆け引き上手の信用ならない部族だと誰もが言っていました。このままじゃ、町を乗っ取られてしまうかも知れませんよ」
自警団の三人は酔った顔を見合わせた。その時、年寄りの男が口元に皮肉な笑いを浮かべて若主人の顔を指差した。
「皆さん、この若いのは王都から逃げてきた口ですよ。こんな店を構えちゃいるが、あの貧民どもと同類です」
三人は目を上げて若主人を見た。
「おい、そりゃあ本当か。お前はあの道端の薄汚い輩と同類か」
「いいえ、私は女房がナホ族の出なんです。それで……」
席を立った三人は若主人を血走った目でにらみつけた。
「そんなことは関係ない。この町はお前のような者どもが流れ込んできたおかげでおかしなことになっているんだ」
「そうとも、お前たちがやって来る前はこんな町じゃなかった」
「俺たち自警団はお前らのようなのを掃除しようとしているのだ。こんな風にな!」
一人がいきなり卓の上の椀や皿を床に払い落とした。大きな音がして、他の客は席を立ち外の通りへ逃げ出した。
余計な口を叩いた年寄りも酒の器を抱え込んで、そそくさと逃げ去った。おかげで溜まったツケを踏み倒せそうだと口元に薄笑いを浮かべ、店の外から様子をうかがっている。
「何をするんです。やめてください!」
乱暴を止めようとした若主人はまた別の一人に突き飛ばされた。
「お前のようなのがいると我が部族の士気に関わる」
もう一人は腰につけた棍棒で卓を叩いた。
「そうとも、よそ者が酒場をやるなんてのはもってのほかだ。出て行け、この町から出ていけ!」
三人は卓をひっくり返したのを手始めに店の中で暴れ始めた。悪酔いしているせいもあってどうにも手がつけられない。
若主人は店の奥へ駆け込んだ。騒ぎを聞きつけた女房が出てきたが、若主人はそれを押し返すようにして裏口から逃げ出した。
裏路地を抜けて行くと、騒ぎは自分の店だけではないようだった。叫び声や泣き声、哀願するような声がこの木柵際の裏町一帯から聞こえてきた。
この時、町には、王都から逃れてきた難民を一挙に排斥しようとする動きが発生していたのだった。あらゆる裏通り、道端、溝のほとりから、行き場のない貧民たちが叩き出されようとしていた。
若主人は裏通りの様子を見て、女房に言った。
「こりゃあもうだめだ。お前はナホ族だ。姉さんのところへ行っていろ」
「そんなこと言って、あんたはどうするんだい」
「俺は町を出る。このままじゃ、下手したら殺されちまう」
王都を脱出して以来、この若夫婦もいろいろな目に遭ってきた。町に充満する息苦しいような気配から、今は逃げる時だと悟っていた。
「それなら、あたしも一緒に行くよ。何のためにここまで苦労してきたんだい」
女房は若主人の腕を取り、なるべく安全な裏路地を選んで進んでいった。
やがて、町の出口の橋のたもとへたどり着いたが、そこは追い立てられて逃げ出す難民の群れでひしめき合っていた。
やっとの思いで橋を渡り、町を囲む濠の外へ出ると、北のオルテン山へ向かう街道に長い行列ができていた。数百人はいるだろうか。誰も彼もが薄汚れた着の身着のままで、子供も混じっていた。
「あんた、この人たちはなんだい。どこへ行くんだい」
女房に尋ねられた若主人は街道を吹き過ぎる寒風に肩をすくませた。
群衆に押されて行列に入ると、あとは川の流れにさらわれるように、ただ前へ前へと歩くしかなかった。
「どこへって言ったって……この先にはテン族の土地があるだけだ」
「テン族が私たちをかくまってくれると思うかい。王都から逃げてきた時だって、テン族のところまで行った人はいないだろうよ」
「そりゃあそうだ。テン族の村ってのはあの町みたいに裕福じゃないからな。難民の面倒を見る余裕はないだろう。でも、羊飼いたちはナホ族みたいに薄情じゃない……といいんだが……」
若主人は町を振り返った。
木柵がいつもよりずっと高くそびえているように見えた。町の上空に黒い虫がゆらめいている。見ようによっては町が燃え上がっているようでもあった。
「おい、まだ間に合うぞ。お前は帰れ。このままじゃ野垂れ死にするかもしれない」
女房は若主人の腕をぐいぐい引っ張って歩いていた。自分たちを見捨てた町にもう未練はなかった。
「グズグズ言っていないで歩くんだよ。二人一緒ならどうにかなるじゃないか」
日は傾いていた。人々の行く手遥かに濃い陰影を刻んだオルテン山の山並みが見えた。
ここに生を受けた者には母の懐とも見えるその峰、そして、そこから流れ出るオルテン河のきらめき。それらの眺めが追放された難民たちには寒々とした荒れ野となって迫ってきた。
あてども知れぬ人の列が長々と続いた。どれくらい経ったか、日も沈もうかという頃、列の先頭はナホ族の耕された黒土の土地から離れようとしていた。その先には、どの部族のものでもない手つかずの草原が広がっていた。
その時、耕地の方から街道に駆け寄ってくる一団が姿を現した。
ある者は馬に乗り、ほとんどの者は荷馬車に分乗している。二十人ほどが揃いのお仕着せを着て、豪農の雇い人たちだとひと目で分かった。
「待て、お前たち!」
「この盗人どもめ、逃さんぞ!」
怒号とともに駆け寄ってきた一団は、いきなり難民の列へ馬を寄せた。
列は乱れ、悲鳴が上がった。逃げ遅れた者が街道の轍にけつまずいて倒れた。
雇い人のかしらと見える男が鞍の上から馬鞭を振り上げて言った。
「この先の畑を荒らしたのはお前たちだろう。町を出された腹いせか知らんが、芽を出したばかりの穀物畑がめちゃくちゃになっているぞ」
難民たちは口々に、そんなことは知らないと言い返した。
「俺たちはずっと町から街道をたどって来たんだ。やっとここまで」
「その途中でしたことだろう。芋畑もやられていた。あちこち、ほじくり返され、腐ったような臭いがしていた。お前たちの臭いと同じだ」
「そんな馬鹿なことがあるか。俺たちを追い出すばかりか、証拠もなくそんな面倒事までこちらになすりつけるとは!」
「なんだと、このクズどもが!」
雇い人のかしらは馬鞭を振り下ろして難民の一人を打った。わっと騒ぎ立つところへ荷馬車の荷台から雇い人たちが降りて来て、鍬や鋤を振りまわし始めた。
ただでさえ飢えと渇きに責めさいなまれていた難民たちはよろめく足取りで逃げ惑った。行列は後から後から続いていた。すぐに街道は人でいっぱいになり、怒声と悲鳴と立ち昇る砂ぼこりで大混乱となった。
ついに一人の男が部族の民の鍬で打たれて道端に倒れた。男は死にはしなかったが、頭から血を流してうめき声を上げた。
娘らしき少女が駆け寄って倒れた男の背中に取りすがった。少女が泣き声を上げても、まわりには人とも思われぬ叫び声や悲鳴が飛び交うばかりだった。
踏み荒らされた街道から砂塵が舞い上がって、西日の射す乾ききった空気をゆらめかせた。その光景はあたかも黒い虫が空にゆらめくのと変わりなかった。
難民たちは前へ進むこともできず、かといって町へ帰ることもできずに、ただ驚き、怯えていた。仲間を助けようなどという気力も失せていた。
そこへ足音荒く駆け寄る騎馬の一団があった。
「おい、お前ら、やめろ。やめねえか!」
雷のような怒号とともに騒ぎへ割って入ったのはコウモリの巣のかしら、ヤンゴだった。
「こんな貧乏人どもを殴ってどうする、よせ、よさねえか、ちくしょうめ!」
コウモリの巣の一味、十騎があたりを取り巻き、仲裁に入った。喧嘩の仲裁ならお得意の面々だが、こんな目も当てられないような諍いは初めてだった。
弱った難民たちを一方的に殴りつけている連中の肩をつかみ、突き飛ばし、押し返し、引きはがしていく。
次第に騒ぎは収まったが、雇い人のかしらはヤンゴたちがくちばしを突っ込んできたことが気に食わないらしかった。
「おい、ヤンゴよ。お前は誰を相手にしているか分かっているのか。我らのあるじは長老グイン様だぞ」
「そんなことは知らねえ。それより何だってこんなみじめったらしい奴らを殴るんだ」
「こいつらは畑を荒らした。殴っていけないわけがあるか」
「証拠でもあるのか」
「この連中の他に誰がやるというんだ。部族の民がすることじゃない」
ヤンゴは自分の馬の鞍につけてあった焼け焦げたような色の毛皮を手に取った。
「それはきっとこいつらの仕業だぜ」
ヤンゴが投げつけた毛皮を手に取った雇い人のかしらはとたんに顔をしかめた。畑で嗅いだ腐臭はこの硫黄の臭いだった。
ヤンゴは、やっぱりそうかという顔で言った。
「このあたりには真っ黒な目をした狼がうろついてる。結構前からだぜ。そいつは、今、俺たちがやっつけた奴の一匹さ。馬につけておいて隠れている奴をおびき寄せようと思ったんだが、お前にくれてやろう。グインへ土産にするんだな」
雇い人のかしらは苦い顔になったが、毛皮を鞍袋に押し込んだ。
「ヤンゴよ、お前たちの一味は何でこんなところをうろついているんだ。まさか、真っ当に畑仕事に精を出そうなんて、そんな殊勝な気持ちじゃあるまい」
「土いじりなんぞまっぴら御免だが、俺らも一応は町の住人だ。これから何が起こるのか知っておきたいと思ってな、あたりを見回っていたのよ。お前はグインの家の者だと言ったな。カナ族の軍勢を町に引き入れたのはグインだと聞いたが本当か」
「てめえらのようなヤクザ者の知ったことじゃない。グイン様は王国の未来を見据えていらっしゃるんだ」
雇い人のかしらは、ふと北の方角へ目をやった。
「おい、ヤンゴ。コウモリの巣は敵方につく気なんじゃないのか。もしそうなら正気じゃないぜ」
「正気じゃないのはお前らよ。敵方だと。部族同士で戦争するのが正気かよ」
「今に分かるさ。最後に勝つのは我らのあるじグイン様だ」
「その硫黄の臭いでグインの目が覚めりゃあいいんだがな。そいつは畑の肥やしにはならねえぜ」
雇い人たちは馬と荷馬車に乗って、町へと去っていった。
後に残された難民たちは疲れ果て道端にへたり込んでいた。長い行列も完全に止まってしまって、後ろまで皆、座り込んでしまっている。
頭から血を流して倒れた男の娘はまだ細々と泣き声を上げていた。
ヤンゴと手下が男の傷を見ると、手当すればまだ何とかなりそうに見えた。禿頭をこすりこすり考え込んだヤンゴはやがて言った。
「町へ行けねえ以上、北へ行くしかねえ」
手下の一人が呆れた声を出した。
「まさか、この貧民どもと一緒に北へ行くつもりか。町に残っている仲間もいるんだぜ」
町にはブルーノとココをはじめ、結構な数の手下が残っていた。
ヤンゴは西日が当たる頭をごしごしこすってうめいた。
「ええい、面倒なことになりやがった。おい、哀れっぽい顔で俺を見るな」
救いを求めるような難民たちの目にヤンゴは苦い顔になった。ヤンゴは手下たちへ言った。
「こうなったら行くところまで行ってやるさ。帰りたい奴はここから帰れ」
手下たちは薄笑いを浮かべて顔を見合わせた。帰ろうという者はいない。
「かしらが行くんなら俺たちだって行くよ。ただ、あんたがどんなつもりか聞いただけさ。いいじゃねえか。いざとなりゃあ懐かしのオルテン山へ帰るさ」
手下たちから笑い声が上がった。
今、ヤンゴとともにいる手下たちはコウモリの巣ができた最初からのつきあいだった。カナ族の囚人鉱山を脱走し、オルテン山の岩窟に潜伏していた連中だ。
ヤンゴはうなずき、改めて北へ目をやった。
「怪我人を馬に乗せろ。俺たちは北へ向かう」
次の日、町には長老グインの名のもとに重大な布告がなされた。
布告の第一は、族長ホワソンは我らの町を苦境から救うため、その全権を長老グインに委ねたということ。
第二は、現在、町を混乱させている水をめぐる騒動にはテン族との境界争いの報復である疑いがある。よって、テン族に勧告したうえで、ことによっては武力に訴えて我が町を守るつもりであるということ。
以上、二つの事が布告されると部族の民には喧々諤々の議論が巻き起こった。
「武力に訴えてとは何だ。まさか戦争をするつもりじゃなかろうな」
「いや、もし井戸を穢し、さらには深き泉を穢したのがあの羊飼いどもなら強硬手段もやむをえぬだろう」
「あの黒い虫はどうなのか。あれも羊飼いどもの仕業か。そうは思えないが」
「例の『闇の王』のことも気になる。いったいぜんたい我らの土地は、我らの町は、どうなってしまっているのだ。族長はなぜグインに全てを託して身を隠しているのだ」
議論には理性的で冷静なものもあったが、感情的で単に日頃の鬱憤晴らしに過ぎない暴論も飛び交った。風聞が風聞を呼び、噂のつむじ風が街角に吹き荒れた。
市のある広場の片隅や木柵近くの裏通り、あの王都から逃れてきた若夫婦がやっている酒場でも、そんな類の言葉の拳骨が飛び交っていた。
「なあに、理屈なんぞどうでもいい。この際だから、あのみじめったらしい羊飼いどもをぶちのめしてやれ」
「おお、そうとも。境界争いなどと言うが、いったい誰が境界を決めたんだ。力のあるものが土地を取って何がいけない」
「戦争となれば俺たちの出番だぞ。あんな羊の糞臭い連中、ひとひねりにしてやる……おい主人、酒がないぞ。じゃんじゃん持って来い!」
ダイオウを飲み干して気勢を上げている者たちは、ならず者とは見えなかった。
この連中は自警団の名のもとに町なかの見回りを『強化』していたのだった。
グインが自警団の権限を拡大したので、この者たちは道端にうずくまっている貧民たちを容赦なくぶちのめすことができるようになった。今、気勢を上げている三人も誰に命令されたわけでもないが、この裏通りを流して、『大掃除』をしてきたところだった。
若主人が残り少ないダイオウを卓に置き、心配げな顔で酔った三人の顔を見回した。
「しかし、戦争になんかなったら、この町はどうなります。王都のようにめちゃくちゃなことになるんじゃありませんか」
自警団の三人はじろりと赤い目をむいて、酒場の主人を見上げた。
「馬鹿をぬかすな。テン族になど、この町には指一本触れさせないぞ」
「それどころかオルテン河の上流で追い払ってやる」
「王都が何だと言うんだ。闇の王などと得体の知れない者にあっけなくやられおって。その成れの果てがあの道端の貧民どもだろうが。我らナホ族は闇の王など鼻面取って引き回してやろうというのだ」
大声で笑う三人に合わせて、別の卓に独りで飲んでいた年寄りの男がへつらい笑いを見せた。
「まったく頼もしい限りですな。いざ戦となれば我ら部族の圧倒的勝利でしょう。闇の王やら、カナ族の軍勢やらも、うまく使ってやればよろしいので」
若主人は王都の陥った運命を目の当たりにしていただけに、この連中の言い草には呆然とするばかりだった。
「まさか、あの黒ずくめの男を闇の王だと信じているわけじゃないでしょうね。闇の王はあんなものじゃありませんよ。それに、王都ではカナ族ってのは駆け引き上手の信用ならない部族だと誰もが言っていました。このままじゃ、町を乗っ取られてしまうかも知れませんよ」
自警団の三人は酔った顔を見合わせた。その時、年寄りの男が口元に皮肉な笑いを浮かべて若主人の顔を指差した。
「皆さん、この若いのは王都から逃げてきた口ですよ。こんな店を構えちゃいるが、あの貧民どもと同類です」
三人は目を上げて若主人を見た。
「おい、そりゃあ本当か。お前はあの道端の薄汚い輩と同類か」
「いいえ、私は女房がナホ族の出なんです。それで……」
席を立った三人は若主人を血走った目でにらみつけた。
「そんなことは関係ない。この町はお前のような者どもが流れ込んできたおかげでおかしなことになっているんだ」
「そうとも、お前たちがやって来る前はこんな町じゃなかった」
「俺たち自警団はお前らのようなのを掃除しようとしているのだ。こんな風にな!」
一人がいきなり卓の上の椀や皿を床に払い落とした。大きな音がして、他の客は席を立ち外の通りへ逃げ出した。
余計な口を叩いた年寄りも酒の器を抱え込んで、そそくさと逃げ去った。おかげで溜まったツケを踏み倒せそうだと口元に薄笑いを浮かべ、店の外から様子をうかがっている。
「何をするんです。やめてください!」
乱暴を止めようとした若主人はまた別の一人に突き飛ばされた。
「お前のようなのがいると我が部族の士気に関わる」
もう一人は腰につけた棍棒で卓を叩いた。
「そうとも、よそ者が酒場をやるなんてのはもってのほかだ。出て行け、この町から出ていけ!」
三人は卓をひっくり返したのを手始めに店の中で暴れ始めた。悪酔いしているせいもあってどうにも手がつけられない。
若主人は店の奥へ駆け込んだ。騒ぎを聞きつけた女房が出てきたが、若主人はそれを押し返すようにして裏口から逃げ出した。
裏路地を抜けて行くと、騒ぎは自分の店だけではないようだった。叫び声や泣き声、哀願するような声がこの木柵際の裏町一帯から聞こえてきた。
この時、町には、王都から逃れてきた難民を一挙に排斥しようとする動きが発生していたのだった。あらゆる裏通り、道端、溝のほとりから、行き場のない貧民たちが叩き出されようとしていた。
若主人は裏通りの様子を見て、女房に言った。
「こりゃあもうだめだ。お前はナホ族だ。姉さんのところへ行っていろ」
「そんなこと言って、あんたはどうするんだい」
「俺は町を出る。このままじゃ、下手したら殺されちまう」
王都を脱出して以来、この若夫婦もいろいろな目に遭ってきた。町に充満する息苦しいような気配から、今は逃げる時だと悟っていた。
「それなら、あたしも一緒に行くよ。何のためにここまで苦労してきたんだい」
女房は若主人の腕を取り、なるべく安全な裏路地を選んで進んでいった。
やがて、町の出口の橋のたもとへたどり着いたが、そこは追い立てられて逃げ出す難民の群れでひしめき合っていた。
やっとの思いで橋を渡り、町を囲む濠の外へ出ると、北のオルテン山へ向かう街道に長い行列ができていた。数百人はいるだろうか。誰も彼もが薄汚れた着の身着のままで、子供も混じっていた。
「あんた、この人たちはなんだい。どこへ行くんだい」
女房に尋ねられた若主人は街道を吹き過ぎる寒風に肩をすくませた。
群衆に押されて行列に入ると、あとは川の流れにさらわれるように、ただ前へ前へと歩くしかなかった。
「どこへって言ったって……この先にはテン族の土地があるだけだ」
「テン族が私たちをかくまってくれると思うかい。王都から逃げてきた時だって、テン族のところまで行った人はいないだろうよ」
「そりゃあそうだ。テン族の村ってのはあの町みたいに裕福じゃないからな。難民の面倒を見る余裕はないだろう。でも、羊飼いたちはナホ族みたいに薄情じゃない……といいんだが……」
若主人は町を振り返った。
木柵がいつもよりずっと高くそびえているように見えた。町の上空に黒い虫がゆらめいている。見ようによっては町が燃え上がっているようでもあった。
「おい、まだ間に合うぞ。お前は帰れ。このままじゃ野垂れ死にするかもしれない」
女房は若主人の腕をぐいぐい引っ張って歩いていた。自分たちを見捨てた町にもう未練はなかった。
「グズグズ言っていないで歩くんだよ。二人一緒ならどうにかなるじゃないか」
日は傾いていた。人々の行く手遥かに濃い陰影を刻んだオルテン山の山並みが見えた。
ここに生を受けた者には母の懐とも見えるその峰、そして、そこから流れ出るオルテン河のきらめき。それらの眺めが追放された難民たちには寒々とした荒れ野となって迫ってきた。
あてども知れぬ人の列が長々と続いた。どれくらい経ったか、日も沈もうかという頃、列の先頭はナホ族の耕された黒土の土地から離れようとしていた。その先には、どの部族のものでもない手つかずの草原が広がっていた。
その時、耕地の方から街道に駆け寄ってくる一団が姿を現した。
ある者は馬に乗り、ほとんどの者は荷馬車に分乗している。二十人ほどが揃いのお仕着せを着て、豪農の雇い人たちだとひと目で分かった。
「待て、お前たち!」
「この盗人どもめ、逃さんぞ!」
怒号とともに駆け寄ってきた一団は、いきなり難民の列へ馬を寄せた。
列は乱れ、悲鳴が上がった。逃げ遅れた者が街道の轍にけつまずいて倒れた。
雇い人のかしらと見える男が鞍の上から馬鞭を振り上げて言った。
「この先の畑を荒らしたのはお前たちだろう。町を出された腹いせか知らんが、芽を出したばかりの穀物畑がめちゃくちゃになっているぞ」
難民たちは口々に、そんなことは知らないと言い返した。
「俺たちはずっと町から街道をたどって来たんだ。やっとここまで」
「その途中でしたことだろう。芋畑もやられていた。あちこち、ほじくり返され、腐ったような臭いがしていた。お前たちの臭いと同じだ」
「そんな馬鹿なことがあるか。俺たちを追い出すばかりか、証拠もなくそんな面倒事までこちらになすりつけるとは!」
「なんだと、このクズどもが!」
雇い人のかしらは馬鞭を振り下ろして難民の一人を打った。わっと騒ぎ立つところへ荷馬車の荷台から雇い人たちが降りて来て、鍬や鋤を振りまわし始めた。
ただでさえ飢えと渇きに責めさいなまれていた難民たちはよろめく足取りで逃げ惑った。行列は後から後から続いていた。すぐに街道は人でいっぱいになり、怒声と悲鳴と立ち昇る砂ぼこりで大混乱となった。
ついに一人の男が部族の民の鍬で打たれて道端に倒れた。男は死にはしなかったが、頭から血を流してうめき声を上げた。
娘らしき少女が駆け寄って倒れた男の背中に取りすがった。少女が泣き声を上げても、まわりには人とも思われぬ叫び声や悲鳴が飛び交うばかりだった。
踏み荒らされた街道から砂塵が舞い上がって、西日の射す乾ききった空気をゆらめかせた。その光景はあたかも黒い虫が空にゆらめくのと変わりなかった。
難民たちは前へ進むこともできず、かといって町へ帰ることもできずに、ただ驚き、怯えていた。仲間を助けようなどという気力も失せていた。
そこへ足音荒く駆け寄る騎馬の一団があった。
「おい、お前ら、やめろ。やめねえか!」
雷のような怒号とともに騒ぎへ割って入ったのはコウモリの巣のかしら、ヤンゴだった。
「こんな貧乏人どもを殴ってどうする、よせ、よさねえか、ちくしょうめ!」
コウモリの巣の一味、十騎があたりを取り巻き、仲裁に入った。喧嘩の仲裁ならお得意の面々だが、こんな目も当てられないような諍いは初めてだった。
弱った難民たちを一方的に殴りつけている連中の肩をつかみ、突き飛ばし、押し返し、引きはがしていく。
次第に騒ぎは収まったが、雇い人のかしらはヤンゴたちがくちばしを突っ込んできたことが気に食わないらしかった。
「おい、ヤンゴよ。お前は誰を相手にしているか分かっているのか。我らのあるじは長老グイン様だぞ」
「そんなことは知らねえ。それより何だってこんなみじめったらしい奴らを殴るんだ」
「こいつらは畑を荒らした。殴っていけないわけがあるか」
「証拠でもあるのか」
「この連中の他に誰がやるというんだ。部族の民がすることじゃない」
ヤンゴは自分の馬の鞍につけてあった焼け焦げたような色の毛皮を手に取った。
「それはきっとこいつらの仕業だぜ」
ヤンゴが投げつけた毛皮を手に取った雇い人のかしらはとたんに顔をしかめた。畑で嗅いだ腐臭はこの硫黄の臭いだった。
ヤンゴは、やっぱりそうかという顔で言った。
「このあたりには真っ黒な目をした狼がうろついてる。結構前からだぜ。そいつは、今、俺たちがやっつけた奴の一匹さ。馬につけておいて隠れている奴をおびき寄せようと思ったんだが、お前にくれてやろう。グインへ土産にするんだな」
雇い人のかしらは苦い顔になったが、毛皮を鞍袋に押し込んだ。
「ヤンゴよ、お前たちの一味は何でこんなところをうろついているんだ。まさか、真っ当に畑仕事に精を出そうなんて、そんな殊勝な気持ちじゃあるまい」
「土いじりなんぞまっぴら御免だが、俺らも一応は町の住人だ。これから何が起こるのか知っておきたいと思ってな、あたりを見回っていたのよ。お前はグインの家の者だと言ったな。カナ族の軍勢を町に引き入れたのはグインだと聞いたが本当か」
「てめえらのようなヤクザ者の知ったことじゃない。グイン様は王国の未来を見据えていらっしゃるんだ」
雇い人のかしらは、ふと北の方角へ目をやった。
「おい、ヤンゴ。コウモリの巣は敵方につく気なんじゃないのか。もしそうなら正気じゃないぜ」
「正気じゃないのはお前らよ。敵方だと。部族同士で戦争するのが正気かよ」
「今に分かるさ。最後に勝つのは我らのあるじグイン様だ」
「その硫黄の臭いでグインの目が覚めりゃあいいんだがな。そいつは畑の肥やしにはならねえぜ」
雇い人たちは馬と荷馬車に乗って、町へと去っていった。
後に残された難民たちは疲れ果て道端にへたり込んでいた。長い行列も完全に止まってしまって、後ろまで皆、座り込んでしまっている。
頭から血を流して倒れた男の娘はまだ細々と泣き声を上げていた。
ヤンゴと手下が男の傷を見ると、手当すればまだ何とかなりそうに見えた。禿頭をこすりこすり考え込んだヤンゴはやがて言った。
「町へ行けねえ以上、北へ行くしかねえ」
手下の一人が呆れた声を出した。
「まさか、この貧民どもと一緒に北へ行くつもりか。町に残っている仲間もいるんだぜ」
町にはブルーノとココをはじめ、結構な数の手下が残っていた。
ヤンゴは西日が当たる頭をごしごしこすってうめいた。
「ええい、面倒なことになりやがった。おい、哀れっぽい顔で俺を見るな」
救いを求めるような難民たちの目にヤンゴは苦い顔になった。ヤンゴは手下たちへ言った。
「こうなったら行くところまで行ってやるさ。帰りたい奴はここから帰れ」
手下たちは薄笑いを浮かべて顔を見合わせた。帰ろうという者はいない。
「かしらが行くんなら俺たちだって行くよ。ただ、あんたがどんなつもりか聞いただけさ。いいじゃねえか。いざとなりゃあ懐かしのオルテン山へ帰るさ」
手下たちから笑い声が上がった。
今、ヤンゴとともにいる手下たちはコウモリの巣ができた最初からのつきあいだった。カナ族の囚人鉱山を脱走し、オルテン山の岩窟に潜伏していた連中だ。
ヤンゴはうなずき、改めて北へ目をやった。
「怪我人を馬に乗せろ。俺たちは北へ向かう」
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
【完結】選ばれなかった王女は、手紙を残して消えることにした。
曽根原ツタ
恋愛
「お姉様、私はヴィンス様と愛し合っているの。だから邪魔者は――消えてくれない?」
「分かったわ」
「えっ……」
男が生まれない王家の第一王女ノルティマは、次の女王になるべく全てを犠牲にして教育を受けていた。
毎日奴隷のように働かされた挙句、将来王配として彼女を支えるはずだった婚約者ヴィンスは──妹と想いあっていた。
裏切りを知ったノルティマは、手紙を残して王宮を去ることに。
何もかも諦めて、崖から湖に飛び降りたとき──救いの手を差し伸べる男が現れて……?
★小説家になろう様で先行更新中
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる