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第七十八章
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第七十八章
日に日に病者は増え、死者も増え、それにもまして狂者が増えていった。
狂気は伝染する。狂気に満たされた者は道端で絶叫し、地面にうずくまり、のたうちまわり、何も口にしなくなって飢えと渇きで死んでいった。
そんな光景を目にした者たちは心のどこかにおぼろげな影のような狂気を宿した。そうした狂気はまるで菌類のように胸の内に育ち、ある時突如としてはっきりした影像を成して心の中に立ち現れた。
町のそこかしこに集まって部族の民は勝手な推測を言い合った。
「これは疫病だ。何年か前にも同じことがあったじゃないか。そうさ、あの王都から流れて来た奴らが疫病を垂れ流しているのだ」
「いや、こんな疫病があるものか。やっぱり、これは闇の王の仕業だぞ。あの虫だよ。あの虫が水の中に飛び込むとこうなるんだ」
「私の考えは違うな。これはやはりテン族の陰謀だ。初めは道しるべだの境界だのと言っていたが、この機に乗じて我ら部族の土地を奪うつもりに違いない」
また、オルテン河の精霊の祟りだという意見を述べる者も多かった。
その場合、精霊を怒らせた犯人はさまざまで、ある者は我が部族の誰かだと言い、ある者は源流に近い羊飼いたちだと言い、またある者は土地の精霊を軽んじるナビ教祭司たちだと主張した。いずれにせよ全ては憶測でしかなく、自分以外の誰かを犯人扱いして騒ぎ立てるばかりだった。
族長ホワソンは困り果てていた。
「みんな、冷静になってもらいたい。おのおの思うところを言うばかりでは、ことは解決しないであろうが」
ホワソンの家の中庭には部族の主だった豪農のあるじたちが顔を揃えていた。
日頃はその富に応じて鷹揚な様子を見せているこの者たちも、今はうろたえきって町の噂に右往左往しているのだった。
「族長の仰せの通り。しかしながら族長みずからはどうすればよいとお考えか」
「族長よ、このままでは町は混乱するばかりです。せめて部族の民の心を安んじる言葉なりともお与えください」
ホワソンはほとんどは年上であるあるじたちへうなずいて見せた。
「我らの『深き泉』はいまだ穢されてはいない。町の者たちに清い水を配ろう」
族長の家の中庭には古い泉があった。この中庭はいつでも部族の民に開かれていて自由に出入りして水を汲むことができた。
泉のまわりはオルテン山中から運んできた岩で囲んであった。その岩についてきたのだろう、近くの地面には泉を縁取るようにミアレの花が繁茂していた。
この水は普通の井戸水やオルテン河の流れとは違った水脈から湧き出るものだと考えられていて、深き泉を守るのは、象徴的にも、また現実的にも、族長の家系の務めであった。
もっとも、日常この泉の水を必要とすることはなかった。深き泉の水は精霊に呼びかけるさまざまな儀礼の時に使われるものだった。たとえば、出産の時、安産を祈願するために、どこの家にもある木彫りの蛙の像へ捧げたりする。
また、ブンド族の一行が町に滞在する時は、この中庭の泉のそばで芸を披露するのが決まりだった。深き泉への崇敬の念は古くからの信仰に根ざしていたのだ。
「町の者たちにここへ来てもらうのは大変だ。神殿の前へ水瓶に入れた水を運ぼうと思う。あれを見てくれ」
族長の家の者たちが納屋から大きな水瓶を横倒しにして転がしてきた。それを載せて運ぶ荷馬車の用意もできていた。
あるじたちは、それはいいと賛同した。その中の一人があたりを見回して言った。
「ところで長老たちはどうしているのだ。こんな時に姿が見えぬのは、どうも気になる。族長よ、二人の長老をお召しにならないのですか」
それまで落ち着いた態度だったホワソンは初めて表情を曇らせた。
「皆は知らないのか。二人の長老のうち一人はすでにこの世を去った」
中庭にはどよめきが広がった。死んだのは年長の方の長老だった。長老はナホ族の中でも最も長寿を保っていたが、日頃かわいがっていた曾孫の男の子が死んだのを知り、その心労から命を落とすことになったのだった。
「族長よ、長老グインは無事なのでしょう。呼び寄せられるとよい。グインの家には多くの若者が使用人として仕えております。泉の水を運ばせましょう」
あるじの中の一人がそう進言すると、別の者が口を出した。
「おい、グインはだめだぞ。家に引きこもって一歩も外へ出ようとしないのだ。家の者も外には出さん」
もう一人がうなずいて言った。
「井戸の水も他家には与えぬというぞ。敷地には濠からの水路が引き込んであるが、その水すら汲ませないというのだ」
あるじたちはいっせいに騒ぎ出した。
「そのようなこと、もってのほか。長老ならば族長をお助けするのが当然ではないか。ましてや長老の一人が亡き今、グインこそ先頭に立って働くべきだろう」
「我らだってこうして駆けつけているというのに」
あるじたちは口々にグインについて噂し始めた。
グインは日頃、メル族の隊商との交渉を一手に引き受け、部族の民、特に裕福な者たちにはその手腕を認められていた。
王都の部族会議でも辣腕を振るい、王国の穀物の相場はグインが作っているのだという者までいた。
また、家系も由緒正しく、その開祖はオルテン河の灌漑に尽くし、部族の耕作の基礎を作ったとされていた。
しかし、グインにどこか利己主義的なところを感じるものは多くいた。特に貧しい者たちへの容赦ない態度は長老ホワソンと対照的であった。もっともこの点は、今、中庭に集まっているあるじたちも似たようなものだったが。
また、グインには迷信深く思い込みの強いところも見えた。考えが偏りやすい気味もあった。
「族長よ、ぜひともグインをお召しください」
「そうです。何なら、力づくで引きずり出してでも」
ホワソンは苛立つあるじたちへ手を振ってなだめた。
「長老へは使いを出してある。我が叔母はグインには親戚筋だ。その手紙も届けてある。いずれ顔を見せてくれるものと信じている」
ホワソンの家の者たちが深き泉の水を柄杓で汲んで、荷馬車に載せた水瓶に注ぎはじめた。これには時間がかかりそうだった。泉の湧き出す水量は瀧の如くというわけにはいかなかったからだ。
「こういう時にはシャーマンがいてくれると良いのだが。死霊の穢れを寄せ付けぬようにな。誰か、ブンド族の者たちを見なかったか」
族長の問いかけに、あるじの一人が答えた。
「族長よ。クレオンさまのところには二人のシャーマンがいたとうかがいましたが」
「おお、そうだ。使いをやってみるとしよう」
ホワソンの言葉を聞いて、別のあるじが言った。
「お待ちあれ、族長よ。クレオンさまはそもそも我が部族とテン族とどちらの味方についているのです」
ホワソンは当惑げな顔になった。
「これはおかしなことを聞く。クレオンさまは中立のお立場だ。そして言うまでもなく、シャーマンとブンド族の人々はあらゆる部族の民から超然としている」
あるじたちはまたも騒々しい話し合いを始めた。その声音には疑心暗鬼が影を落とし、迷いと空威張りと憶測が飛び交った。
ホワソンは戸口へ顔を見せた身重の妻サラに小さくため息をついて見せた。
「よろしい。シャーマンへ使いを出すのはよそう。このことは我ら部族の民だけで解決することにする」
水瓶の準備には夜まで、場合によっては明日までかかりそうに見えた。
それでも、深き泉の清水は部族の民に心の安定をもたらしてくれるはずだった。
日に日に病者は増え、死者も増え、それにもまして狂者が増えていった。
狂気は伝染する。狂気に満たされた者は道端で絶叫し、地面にうずくまり、のたうちまわり、何も口にしなくなって飢えと渇きで死んでいった。
そんな光景を目にした者たちは心のどこかにおぼろげな影のような狂気を宿した。そうした狂気はまるで菌類のように胸の内に育ち、ある時突如としてはっきりした影像を成して心の中に立ち現れた。
町のそこかしこに集まって部族の民は勝手な推測を言い合った。
「これは疫病だ。何年か前にも同じことがあったじゃないか。そうさ、あの王都から流れて来た奴らが疫病を垂れ流しているのだ」
「いや、こんな疫病があるものか。やっぱり、これは闇の王の仕業だぞ。あの虫だよ。あの虫が水の中に飛び込むとこうなるんだ」
「私の考えは違うな。これはやはりテン族の陰謀だ。初めは道しるべだの境界だのと言っていたが、この機に乗じて我ら部族の土地を奪うつもりに違いない」
また、オルテン河の精霊の祟りだという意見を述べる者も多かった。
その場合、精霊を怒らせた犯人はさまざまで、ある者は我が部族の誰かだと言い、ある者は源流に近い羊飼いたちだと言い、またある者は土地の精霊を軽んじるナビ教祭司たちだと主張した。いずれにせよ全ては憶測でしかなく、自分以外の誰かを犯人扱いして騒ぎ立てるばかりだった。
族長ホワソンは困り果てていた。
「みんな、冷静になってもらいたい。おのおの思うところを言うばかりでは、ことは解決しないであろうが」
ホワソンの家の中庭には部族の主だった豪農のあるじたちが顔を揃えていた。
日頃はその富に応じて鷹揚な様子を見せているこの者たちも、今はうろたえきって町の噂に右往左往しているのだった。
「族長の仰せの通り。しかしながら族長みずからはどうすればよいとお考えか」
「族長よ、このままでは町は混乱するばかりです。せめて部族の民の心を安んじる言葉なりともお与えください」
ホワソンはほとんどは年上であるあるじたちへうなずいて見せた。
「我らの『深き泉』はいまだ穢されてはいない。町の者たちに清い水を配ろう」
族長の家の中庭には古い泉があった。この中庭はいつでも部族の民に開かれていて自由に出入りして水を汲むことができた。
泉のまわりはオルテン山中から運んできた岩で囲んであった。その岩についてきたのだろう、近くの地面には泉を縁取るようにミアレの花が繁茂していた。
この水は普通の井戸水やオルテン河の流れとは違った水脈から湧き出るものだと考えられていて、深き泉を守るのは、象徴的にも、また現実的にも、族長の家系の務めであった。
もっとも、日常この泉の水を必要とすることはなかった。深き泉の水は精霊に呼びかけるさまざまな儀礼の時に使われるものだった。たとえば、出産の時、安産を祈願するために、どこの家にもある木彫りの蛙の像へ捧げたりする。
また、ブンド族の一行が町に滞在する時は、この中庭の泉のそばで芸を披露するのが決まりだった。深き泉への崇敬の念は古くからの信仰に根ざしていたのだ。
「町の者たちにここへ来てもらうのは大変だ。神殿の前へ水瓶に入れた水を運ぼうと思う。あれを見てくれ」
族長の家の者たちが納屋から大きな水瓶を横倒しにして転がしてきた。それを載せて運ぶ荷馬車の用意もできていた。
あるじたちは、それはいいと賛同した。その中の一人があたりを見回して言った。
「ところで長老たちはどうしているのだ。こんな時に姿が見えぬのは、どうも気になる。族長よ、二人の長老をお召しにならないのですか」
それまで落ち着いた態度だったホワソンは初めて表情を曇らせた。
「皆は知らないのか。二人の長老のうち一人はすでにこの世を去った」
中庭にはどよめきが広がった。死んだのは年長の方の長老だった。長老はナホ族の中でも最も長寿を保っていたが、日頃かわいがっていた曾孫の男の子が死んだのを知り、その心労から命を落とすことになったのだった。
「族長よ、長老グインは無事なのでしょう。呼び寄せられるとよい。グインの家には多くの若者が使用人として仕えております。泉の水を運ばせましょう」
あるじの中の一人がそう進言すると、別の者が口を出した。
「おい、グインはだめだぞ。家に引きこもって一歩も外へ出ようとしないのだ。家の者も外には出さん」
もう一人がうなずいて言った。
「井戸の水も他家には与えぬというぞ。敷地には濠からの水路が引き込んであるが、その水すら汲ませないというのだ」
あるじたちはいっせいに騒ぎ出した。
「そのようなこと、もってのほか。長老ならば族長をお助けするのが当然ではないか。ましてや長老の一人が亡き今、グインこそ先頭に立って働くべきだろう」
「我らだってこうして駆けつけているというのに」
あるじたちは口々にグインについて噂し始めた。
グインは日頃、メル族の隊商との交渉を一手に引き受け、部族の民、特に裕福な者たちにはその手腕を認められていた。
王都の部族会議でも辣腕を振るい、王国の穀物の相場はグインが作っているのだという者までいた。
また、家系も由緒正しく、その開祖はオルテン河の灌漑に尽くし、部族の耕作の基礎を作ったとされていた。
しかし、グインにどこか利己主義的なところを感じるものは多くいた。特に貧しい者たちへの容赦ない態度は長老ホワソンと対照的であった。もっともこの点は、今、中庭に集まっているあるじたちも似たようなものだったが。
また、グインには迷信深く思い込みの強いところも見えた。考えが偏りやすい気味もあった。
「族長よ、ぜひともグインをお召しください」
「そうです。何なら、力づくで引きずり出してでも」
ホワソンは苛立つあるじたちへ手を振ってなだめた。
「長老へは使いを出してある。我が叔母はグインには親戚筋だ。その手紙も届けてある。いずれ顔を見せてくれるものと信じている」
ホワソンの家の者たちが深き泉の水を柄杓で汲んで、荷馬車に載せた水瓶に注ぎはじめた。これには時間がかかりそうだった。泉の湧き出す水量は瀧の如くというわけにはいかなかったからだ。
「こういう時にはシャーマンがいてくれると良いのだが。死霊の穢れを寄せ付けぬようにな。誰か、ブンド族の者たちを見なかったか」
族長の問いかけに、あるじの一人が答えた。
「族長よ。クレオンさまのところには二人のシャーマンがいたとうかがいましたが」
「おお、そうだ。使いをやってみるとしよう」
ホワソンの言葉を聞いて、別のあるじが言った。
「お待ちあれ、族長よ。クレオンさまはそもそも我が部族とテン族とどちらの味方についているのです」
ホワソンは当惑げな顔になった。
「これはおかしなことを聞く。クレオンさまは中立のお立場だ。そして言うまでもなく、シャーマンとブンド族の人々はあらゆる部族の民から超然としている」
あるじたちはまたも騒々しい話し合いを始めた。その声音には疑心暗鬼が影を落とし、迷いと空威張りと憶測が飛び交った。
ホワソンは戸口へ顔を見せた身重の妻サラに小さくため息をついて見せた。
「よろしい。シャーマンへ使いを出すのはよそう。このことは我ら部族の民だけで解決することにする」
水瓶の準備には夜まで、場合によっては明日までかかりそうに見えた。
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