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第七十一章
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第七十一章
和解がならずに終わった日から数日が経った。
その頃には、ココはすっかりナホ族の町に居着いていた。あの荷馬車の男はどうなったか。そんなことは知ったことではないココだった。
神殿広場に面した宿屋に部屋を取ったココは毎日あちらこちらをほっつき歩いて町の様子をうかがっていた。
街道が廃れている今、宿屋は空き部屋が多く、主人は見るからに怪しげなココですら歓迎した。
都合のいいことに後払いでいいと言う。実のところ、ココは使える金が尽きかけていたのだ。例のニセ金貨はあるが、やたらに使うのは危ない。
こうした繁華な町で宿屋をやっているような男ならば一度ならず贋金を目にしたことがあるはずだ。よく出来た金貨だが、バレたら大変なことになる。
ココが泊まっている部屋は町で一番の豪勢な作りだった。以前はメル族の豪商の定宿だったのだと主人は自慢した。
「隊商の紳士ご一同様と言えば、身なりといい、お振る舞いといい、それはそれはご立派でいらしたものです。それが、あの闇の王とやらの騒動で商売あがったりでございまして……ところで奥さまはこのような時にどんなご用向で旅をなさっていらっしゃるのですか」
シルク張りの長椅子に寝そべったココは目が覚めるような豪華な長衣を身にまとっていた。光沢のある深緑の生地に金糸の縁取りがある衣装は、部族の豪農の『奥さま』でもそうは着ていないだろう代物だった。ココはこれに有り金はたいていたのだ。
「ご用ってほどのことはないけどね、実は人を待っているんだよ」
「どなたさまかとお約束で。お越しになられましたら、お知らせいたしましょう。どのようなお方で」
ココは近くの卓に置いた酒瓶に口をつけて飲み、唇を拭って言った。
「あんたも噂に聞いてるだろう。闇の王さ。私はね、いっぺん闇の王って奴の顔を拝んでやろうと思っているんだ。こんな大きな町だから、きっと闇の王も目をつけているはずだよ。いずれ、ひょいと顔でも出しそうな気がするんだけどね」
主人はからかわれたと思って目をぱちくりさせ、愛想笑いを浮かべた。
「とんでもないことでございます。闇の王などが我ら部族の町に現れたら……」
「どうなるだろうね。王都にいた連中はあらかた食い殺されちまったらしいじゃないか」
主人は表情を青ざめさせた。
「我が部族の土地には、このところ正体不明の黒い虫が多く出ております。それは、日に日に数を増しているようです」
「へえ、そう。もし、その黒い虫を見かけたら捕まえておいてちょうだい」
「いったい、そんなものをどうなさるおつもりで」
「籠に入れて、そこの広場で見世物にするのさ。虫の鳴き声に合わせて、私が踊るんだ。こう見えても私は踊りが得意なんだよ」
長椅子から跳ね起きたココは主人の手を取って踊りだした。またも、からかわれたと思った主人は怒って部屋を出ていった。
主人が階段を踏み鳴らして階下へ降りていく音を聞きながら、ココは口の端をゆがめて笑った。
最初は後払いでいいと言った主人だが、毎日、ただ町をブラつくだけの女客を怪しく思うようになったらしい。このところ用もないのに部屋へやって来るのは様子見がてら宿賃をいったん精算させようというつもりだろう。
「そういつまでもごまかしてばかりもいられないしねえ……」
ココは額面の何分の一かでいいから、ニセ金貨をまともなカネに換えたいと考えていた。
「しょうがない。また、酒場でカモを見つけることにしようかね」
ココはぶらりと宿を出た。
目の前の神殿広場は雲ひとつない青空の下、神聖とはほど遠い乱雑ぶりを示していた。
広場を取り巻く漆喰造りの建物は三階建てが多く、四階建てのものまであった。その一階には商店が並んでいて絶えず人がそぞろ歩いている。
中には三階建ての建物すべてが売り場になっているメル族の隊商の直営店などもあった。ここは部族の民でも裕福な者しか立ち入ることを許されていなかった。
ココが豪華な衣服を手に入れたのはここで、例によってお得意の怪しげな魔法で門番をたぶらかして侵入したのだった。ココは支払いもごまかしてやれと背中にまわした手で魔法印を結んだが、なぜかこれは効き目がなかった。
メル族という連中はこと金勘定となれば、魔法すら受けつけないらしい。ココはいくらかでも負けさせようと女の魅力に訴えたが、これも無駄だった。
まったくつまらない連中だよと呟きながら、諦めて値札通り支払ったココだった。もちろん、ニセ金貨だが。
広場には小商人たちの市が立っていた。市が立つのは、神殿の祭りの日を除き、毎日のことだった。
街道や宿駅が廃れてしまっているせいで物や人の行き来は途絶えているが、それでも以前から蓄積されていた物量は大変なものだった。
穀物、野菜、果物など農作物はもちろんのこと、オルテン河で獲れる魚や貝類、テン族が運んでくる乳製品や獣肉もたっぷりだ。また、それらの燻製や干物など加工品もふんだんにある。
茶やタバコは王国で知られた名物と言っていい。穀物から醸した酒も安酒から上等なものまで各等級揃っていた。
テン族などは発酵酒は自分たちで作るが、蒸留酒はこの町で買い込んで帰るのだった。クランたちが振る舞われた蠍酒はこの町の蒸留酒に草原の蠍を漬けて作るのだ。
それを壺ごと市へ持って来て、珍しもの好きな町の人間に柄杓一杯いくらで売るということもあった。元の蒸留酒の倍くらいで売れるのだから、テン族にとっていい副業だった。
ココは通りすがりの店で宿屋で飲むための茶を買おうとしたが、思いとどまった。
「下手にカネ使っちまったら元手に困るしね。まったく、こんなところでカネ詰まりになるとは思わなかった」
ため息をついたココの耳に荒々しい怒鳴り声が聞こえてきた。
「この世の終わりは近い! 聞け、愚かなる部族の民よ。贖罪の時だ、人がその罪を償わねばならぬ時が来たのだ!」
広場の中央に神殿があった。神殿は古代の高床の穀物倉を模したもので、重厚な石組みの土台の上に太い丸太で組まれてあった。三角屋根が青空にそびえ、正面扉の前に高く急な大階段があった。
観音開きの扉は大きく開かれて階段の下からでもダファネア像をはじめとするナビ教の神像が立ち並んでいるのが見えた。
供物も捧げられてあったが、祭司の姿はなかった。今、この神殿を取り仕切っているナビ教祭司たちは、もう神殿でお勤めをしたりはしなかった。
彼らはすでに十分過ぎるほど裕福になっていて町に構えた邸宅で暮らしていた。
粗布でなく絹物の白衣をまとい、ただ依頼があった時だけ祈祷をし、人を雇って供物の回収をさせていた。市で店開きをするには彼らに場所代を払う必要があった。
神殿の大階段は以前から部族の民に訴えたいことのある者が演説をぶつ場として公認されていた。
今も、そんな連中が二人ばかり階段の中ほどに立っていた。
「あの黒い虫を見たか。あれは神々が人を罰するために送ってよこしたのだぞ。悔改めよ、愚かなる部族の民よ!」
ほとんどボロ布といっていいものを身にまとった、若いとも年寄りともつかない男が両手を高くかかげてわめいていた。薄汚れた髭面の口元に唾の泡を飛ばしている。
どうやら、この男は物乞いのようだった。足元に大きな木椀を置いて、誰かがそこへ銅貨を投げてやると演説を続けながら卑屈に会釈していた。
「いいや、違う。こんな男の言うことを聞いてはいかんぞ!」
別の男が前の男の声をかき消すような大声で叫んだ。こちらも負けず劣らずボロボロの布を身体に巻きつけていた。
「神々が虫を送ってよこしただと。神々がそんな無法なことをするものか。いいか、よく聞け、あの虫はな、テン族の堕落した信仰が生んだ怪物だ!」
あたりを取り巻いていた十数人の者たちが、おお、そうかとどよめくような声を上げた。男はこれに気を良くして、さらに声を張り上げた。
「黒い虫は羊飼いどもの土地が発生源だ。奴らの道しるべは闇の王の力に乗っ取られていて地下の穢れの噴出孔になっていた。それというのも奴らの信仰が穢れているからよ」
男は白髪混じりの蓬髪を振りたてながら、テン族の者たちが草原で交わす合図の指笛を真似て見せた。
足元の椀に銅貨が投げ込まれると、男はいい気になって指笛を繰り返した。
「なかなか上手じゃないか。おい、お前、まさか羊飼いの仲間じゃあるまいな」
見物人の中からかかった声に男は激しくかぶりを振った。
「冗談じゃない。私は生粋のナホ族だ」
別の見物人が嘲笑とともに罵声を浴びせた。
「ふざけるな。お前のような物乞いは我が部族の民と言えん。恥さらしめ」
あたりから、どっと笑い声が上がった。
蓬髪の男はうろたえた様子になって、待ってくれと叫んだ。
「私が言いたいのはそんなことじゃない。聞いてくれ、虫のことだ。黒い虫のことだよ。早くあいつらの腐った道しるべを壊してしまわないとえらいことになるぞ。なあ、そうは思わんか、我が部族の民よ」
あたりから、そうだそうだ、俺もそう思うぞと同意する声がかかった。
気を良くした蓬髪の男は卑屈な笑みとともに物乞いの木椀を人々の前に差し出した。銅貨が投げ込まれるたびに男は白髪混じりの頭を下げた。
部族の和解の場であったはずのクレオンの天幕で起こった事件は、町じゅうの人間に知れ渡っていた。
ナホ族の民はもちろん、この町に暮らす他の部族の者たちまでもが北の羊飼いテン族に根拠もなく不審の念を抱くようになっていた。
その時、演説をさえぎられて憤っていた髭面の男が階段を駆け下りてきた。
「おい、でたらめを言うんじゃない。あの黒い虫は神々の使いだぞ」
「なにを。お前こそ、神々の名を騙る不届き者め!」
ボロをまとった二人は階段の上でつかみ合いの喧嘩を始めた。見物人たちが囃し立てるうちに二人は銅貨の入った椀をひっくり返し、急な階段から転げ落ちた。
あたりを取り巻いていた連中が後ずさりしながら近くの小店の日除け覆いを踏み倒した。商品の陶器を壊された商人は怒って怒鳴り声を上げ、周囲にひしめく連中を押し返そうとしながら見境なく棒きれを振り回しはじめた。
たちまち殴り合いが巻き起こって、市場は騒然となった。自警団らしき連中が割って入ろうとしたが、かえって手にした捕物棒を奪われて殴り返される始末だ。
石畳の地面から砂ぼこりが舞い上がって人々の頭上に降り注いだ。
その上では透き通る青空が人間たちを無表情に見下ろしている。
「馬鹿な連中だよ。どうせ馬鹿なら阿呆踊りでもやって見せたらいいのにさ」
ココは厄介事はごめんだとばかりに、そそくさと広場を後にした。
和解がならずに終わった日から数日が経った。
その頃には、ココはすっかりナホ族の町に居着いていた。あの荷馬車の男はどうなったか。そんなことは知ったことではないココだった。
神殿広場に面した宿屋に部屋を取ったココは毎日あちらこちらをほっつき歩いて町の様子をうかがっていた。
街道が廃れている今、宿屋は空き部屋が多く、主人は見るからに怪しげなココですら歓迎した。
都合のいいことに後払いでいいと言う。実のところ、ココは使える金が尽きかけていたのだ。例のニセ金貨はあるが、やたらに使うのは危ない。
こうした繁華な町で宿屋をやっているような男ならば一度ならず贋金を目にしたことがあるはずだ。よく出来た金貨だが、バレたら大変なことになる。
ココが泊まっている部屋は町で一番の豪勢な作りだった。以前はメル族の豪商の定宿だったのだと主人は自慢した。
「隊商の紳士ご一同様と言えば、身なりといい、お振る舞いといい、それはそれはご立派でいらしたものです。それが、あの闇の王とやらの騒動で商売あがったりでございまして……ところで奥さまはこのような時にどんなご用向で旅をなさっていらっしゃるのですか」
シルク張りの長椅子に寝そべったココは目が覚めるような豪華な長衣を身にまとっていた。光沢のある深緑の生地に金糸の縁取りがある衣装は、部族の豪農の『奥さま』でもそうは着ていないだろう代物だった。ココはこれに有り金はたいていたのだ。
「ご用ってほどのことはないけどね、実は人を待っているんだよ」
「どなたさまかとお約束で。お越しになられましたら、お知らせいたしましょう。どのようなお方で」
ココは近くの卓に置いた酒瓶に口をつけて飲み、唇を拭って言った。
「あんたも噂に聞いてるだろう。闇の王さ。私はね、いっぺん闇の王って奴の顔を拝んでやろうと思っているんだ。こんな大きな町だから、きっと闇の王も目をつけているはずだよ。いずれ、ひょいと顔でも出しそうな気がするんだけどね」
主人はからかわれたと思って目をぱちくりさせ、愛想笑いを浮かべた。
「とんでもないことでございます。闇の王などが我ら部族の町に現れたら……」
「どうなるだろうね。王都にいた連中はあらかた食い殺されちまったらしいじゃないか」
主人は表情を青ざめさせた。
「我が部族の土地には、このところ正体不明の黒い虫が多く出ております。それは、日に日に数を増しているようです」
「へえ、そう。もし、その黒い虫を見かけたら捕まえておいてちょうだい」
「いったい、そんなものをどうなさるおつもりで」
「籠に入れて、そこの広場で見世物にするのさ。虫の鳴き声に合わせて、私が踊るんだ。こう見えても私は踊りが得意なんだよ」
長椅子から跳ね起きたココは主人の手を取って踊りだした。またも、からかわれたと思った主人は怒って部屋を出ていった。
主人が階段を踏み鳴らして階下へ降りていく音を聞きながら、ココは口の端をゆがめて笑った。
最初は後払いでいいと言った主人だが、毎日、ただ町をブラつくだけの女客を怪しく思うようになったらしい。このところ用もないのに部屋へやって来るのは様子見がてら宿賃をいったん精算させようというつもりだろう。
「そういつまでもごまかしてばかりもいられないしねえ……」
ココは額面の何分の一かでいいから、ニセ金貨をまともなカネに換えたいと考えていた。
「しょうがない。また、酒場でカモを見つけることにしようかね」
ココはぶらりと宿を出た。
目の前の神殿広場は雲ひとつない青空の下、神聖とはほど遠い乱雑ぶりを示していた。
広場を取り巻く漆喰造りの建物は三階建てが多く、四階建てのものまであった。その一階には商店が並んでいて絶えず人がそぞろ歩いている。
中には三階建ての建物すべてが売り場になっているメル族の隊商の直営店などもあった。ここは部族の民でも裕福な者しか立ち入ることを許されていなかった。
ココが豪華な衣服を手に入れたのはここで、例によってお得意の怪しげな魔法で門番をたぶらかして侵入したのだった。ココは支払いもごまかしてやれと背中にまわした手で魔法印を結んだが、なぜかこれは効き目がなかった。
メル族という連中はこと金勘定となれば、魔法すら受けつけないらしい。ココはいくらかでも負けさせようと女の魅力に訴えたが、これも無駄だった。
まったくつまらない連中だよと呟きながら、諦めて値札通り支払ったココだった。もちろん、ニセ金貨だが。
広場には小商人たちの市が立っていた。市が立つのは、神殿の祭りの日を除き、毎日のことだった。
街道や宿駅が廃れてしまっているせいで物や人の行き来は途絶えているが、それでも以前から蓄積されていた物量は大変なものだった。
穀物、野菜、果物など農作物はもちろんのこと、オルテン河で獲れる魚や貝類、テン族が運んでくる乳製品や獣肉もたっぷりだ。また、それらの燻製や干物など加工品もふんだんにある。
茶やタバコは王国で知られた名物と言っていい。穀物から醸した酒も安酒から上等なものまで各等級揃っていた。
テン族などは発酵酒は自分たちで作るが、蒸留酒はこの町で買い込んで帰るのだった。クランたちが振る舞われた蠍酒はこの町の蒸留酒に草原の蠍を漬けて作るのだ。
それを壺ごと市へ持って来て、珍しもの好きな町の人間に柄杓一杯いくらで売るということもあった。元の蒸留酒の倍くらいで売れるのだから、テン族にとっていい副業だった。
ココは通りすがりの店で宿屋で飲むための茶を買おうとしたが、思いとどまった。
「下手にカネ使っちまったら元手に困るしね。まったく、こんなところでカネ詰まりになるとは思わなかった」
ため息をついたココの耳に荒々しい怒鳴り声が聞こえてきた。
「この世の終わりは近い! 聞け、愚かなる部族の民よ。贖罪の時だ、人がその罪を償わねばならぬ時が来たのだ!」
広場の中央に神殿があった。神殿は古代の高床の穀物倉を模したもので、重厚な石組みの土台の上に太い丸太で組まれてあった。三角屋根が青空にそびえ、正面扉の前に高く急な大階段があった。
観音開きの扉は大きく開かれて階段の下からでもダファネア像をはじめとするナビ教の神像が立ち並んでいるのが見えた。
供物も捧げられてあったが、祭司の姿はなかった。今、この神殿を取り仕切っているナビ教祭司たちは、もう神殿でお勤めをしたりはしなかった。
彼らはすでに十分過ぎるほど裕福になっていて町に構えた邸宅で暮らしていた。
粗布でなく絹物の白衣をまとい、ただ依頼があった時だけ祈祷をし、人を雇って供物の回収をさせていた。市で店開きをするには彼らに場所代を払う必要があった。
神殿の大階段は以前から部族の民に訴えたいことのある者が演説をぶつ場として公認されていた。
今も、そんな連中が二人ばかり階段の中ほどに立っていた。
「あの黒い虫を見たか。あれは神々が人を罰するために送ってよこしたのだぞ。悔改めよ、愚かなる部族の民よ!」
ほとんどボロ布といっていいものを身にまとった、若いとも年寄りともつかない男が両手を高くかかげてわめいていた。薄汚れた髭面の口元に唾の泡を飛ばしている。
どうやら、この男は物乞いのようだった。足元に大きな木椀を置いて、誰かがそこへ銅貨を投げてやると演説を続けながら卑屈に会釈していた。
「いいや、違う。こんな男の言うことを聞いてはいかんぞ!」
別の男が前の男の声をかき消すような大声で叫んだ。こちらも負けず劣らずボロボロの布を身体に巻きつけていた。
「神々が虫を送ってよこしただと。神々がそんな無法なことをするものか。いいか、よく聞け、あの虫はな、テン族の堕落した信仰が生んだ怪物だ!」
あたりを取り巻いていた十数人の者たちが、おお、そうかとどよめくような声を上げた。男はこれに気を良くして、さらに声を張り上げた。
「黒い虫は羊飼いどもの土地が発生源だ。奴らの道しるべは闇の王の力に乗っ取られていて地下の穢れの噴出孔になっていた。それというのも奴らの信仰が穢れているからよ」
男は白髪混じりの蓬髪を振りたてながら、テン族の者たちが草原で交わす合図の指笛を真似て見せた。
足元の椀に銅貨が投げ込まれると、男はいい気になって指笛を繰り返した。
「なかなか上手じゃないか。おい、お前、まさか羊飼いの仲間じゃあるまいな」
見物人の中からかかった声に男は激しくかぶりを振った。
「冗談じゃない。私は生粋のナホ族だ」
別の見物人が嘲笑とともに罵声を浴びせた。
「ふざけるな。お前のような物乞いは我が部族の民と言えん。恥さらしめ」
あたりから、どっと笑い声が上がった。
蓬髪の男はうろたえた様子になって、待ってくれと叫んだ。
「私が言いたいのはそんなことじゃない。聞いてくれ、虫のことだ。黒い虫のことだよ。早くあいつらの腐った道しるべを壊してしまわないとえらいことになるぞ。なあ、そうは思わんか、我が部族の民よ」
あたりから、そうだそうだ、俺もそう思うぞと同意する声がかかった。
気を良くした蓬髪の男は卑屈な笑みとともに物乞いの木椀を人々の前に差し出した。銅貨が投げ込まれるたびに男は白髪混じりの頭を下げた。
部族の和解の場であったはずのクレオンの天幕で起こった事件は、町じゅうの人間に知れ渡っていた。
ナホ族の民はもちろん、この町に暮らす他の部族の者たちまでもが北の羊飼いテン族に根拠もなく不審の念を抱くようになっていた。
その時、演説をさえぎられて憤っていた髭面の男が階段を駆け下りてきた。
「おい、でたらめを言うんじゃない。あの黒い虫は神々の使いだぞ」
「なにを。お前こそ、神々の名を騙る不届き者め!」
ボロをまとった二人は階段の上でつかみ合いの喧嘩を始めた。見物人たちが囃し立てるうちに二人は銅貨の入った椀をひっくり返し、急な階段から転げ落ちた。
あたりを取り巻いていた連中が後ずさりしながら近くの小店の日除け覆いを踏み倒した。商品の陶器を壊された商人は怒って怒鳴り声を上げ、周囲にひしめく連中を押し返そうとしながら見境なく棒きれを振り回しはじめた。
たちまち殴り合いが巻き起こって、市場は騒然となった。自警団らしき連中が割って入ろうとしたが、かえって手にした捕物棒を奪われて殴り返される始末だ。
石畳の地面から砂ぼこりが舞い上がって人々の頭上に降り注いだ。
その上では透き通る青空が人間たちを無表情に見下ろしている。
「馬鹿な連中だよ。どうせ馬鹿なら阿呆踊りでもやって見せたらいいのにさ」
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