地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第七十章

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第七十章

 数日後、クレオンの天幕の前にはテン族とナホ族、二つの部族の民が集まった。
 オルテン河に面した小高い岩山の上にある天幕はその主人のまとう長衣に似て白い粗布でできていた。
 岩山はさほど険しくはなく、頂上付近は広く平らな草原で空気は穏やかに澄んでいた。ちらほらとだがミアレの花が黄色く咲いている。
 ここは二つの部族の土地から来る道が合流する場所で岩山の麓には道しるべが築かれていた。
 石積みから突き立っている旗竿にクレオンはナビ教の白い幟をはためかせていた。たとえ壮麗な神殿はなくとも白い幟のはためくところにダファネアの信仰は生きる。それがクレオンの信仰というものだった。
 かつて、こうした白い幟は王国の各地で見られた。草原の旅人は地平線遠くはためく白い幟を目指して馬の脚を進めたものだが、ナビ教の衰退とともにその光景も消えてしまった。
 丘の麓には二つの部族の民が乗ってきた馬が三十頭ほども繋がれてあった。ナホ族の白い幌のかかった馬車も何台か見えた。
 クランたちはテン族の馬を借りてここへやって来た。旅で疲れた自分たちの馬を休ませるためだ。
 天幕の前に居並ぶ各部族の代表は左右に別れて座っていた。テン族代表は厚い毛織物に刺繍をしたものを敷布に座り、ナホ族の代表は亜麻布にシルクの縁取りをしたものの上に座っていた。
 その背後には争いに加わった当の若者たちが立っていた。
 テン族はもちろん、ナホ族の側にも怪我人がいた。頭に白く包帯を巻いているのが何人か見えた。その顔つきから見ると今日の和解に心底納得しているわけではないようだ。
 天幕の入口の前にはミアレ姫の姿があった。姫は椅子に座って左右の部族の民へ目を向けていた。クレオンとユーグ、二人のナビ教祭司が、その左右に立っていた。
 クラン、カラゲル、それにアルテの三人は少し離れたところから、部族の和解の様子を見守っていた。
 頭上高く陽光みなぎる青空が広がっていた。そこに円を描いて飛ぶオローの姿があった。
 ふと空を仰いだクランはオローの飛び方に乱れを感じた。日は高く中天に昇っていた。目を細めて見ると、あの満月の夜と似たベールのような影が通り過ぎていった。
「おい、クラン。始まるようだぞ」
 カラゲルに言われてクランは天幕の前に視線を戻した。
 クレオンが前に出て話し出した。
 この数日、二つの部族の間を行き来して和解のとりまとめに尽力したのはクレオンだった。
 すでに和解成立の手はずはできていた。この土地に根を下ろしている祭司クレオンのとりなしとあれば聞き入れないわけにいかない。今日、ここにやって来たのは顔と顔を合わせて、それを確かなものにするためだった。
「今日はそれぞれの族長はじめ部族の民が和解のために集まってくれた。私はとても嬉しく思う。お互いに許し難いこともあったろうが、譲り合うことによって、両族は諍いを避ける決断をした」
 向かって右にテン族族長アーメルとその妻アンが、左にはナホ族族長ホワソンとその妻サラが座っていた。双子の姉妹二人は共に身ごもって、まるで鏡に映したように見えた。
「私は若い二人の族長へ敬意を表したく思う。アーメルよ、ホワソンよ。賢明なる族長たちよ。これからも賢く、また慈しみ深くあって欲しい。二人の妻は姉妹だ。アーメルとホワソンも、兄弟のごとく、血族のごとく、行き来するとよかろう」
 二人の族長は笑顔で目を見交わした。ホワソンはアーメルよりいくらか年上だったが、まだ若かった。
 ホワソンもアーメルと同じく父から族長の地位を引き継いだ。ホワソンの両親も王都の祭りに旅立ち、そのまま帰って来なかったのだった。
 おそらく王都に持っていた豪華な邸宅が崩れ落ち、その下敷きになったのだろうと、これは部族の民がさしたる根拠はないが噂していることだった。
 クレオンは天幕の前に腰かけているミアレ姫を手で示した。
「ここにはいま、幸いことに王の血脈をお迎えしている。王の血脈こそ王国の部族を繋ぐ絆だ。ミアレ姫の前で二つの部族が手を握り合うことが……」
 その時、しわがれた老人の声がクレオンの言葉をさえぎった。
「待たれよ、祭司殿。今、幸いと申されたな。しかし、それはちと受け取りかねる」
 その声の主へ部族の民の視線は集まった。
 ナホ族の二人の長老のうちの一人であるグインが深く刻まれた皺の奥から黒い目を光らせていた。上げた手にぴったりした白い絹布の手袋をしているのが場違いに見えた。
「そもそも、これらの諍いも、元をたどればシュメル王の……」
 グインは王の名を口にすると同時に仰々しい態度でミアレ姫へ頭を下げて見せた。しかし、その後に口から出た言葉は辛辣なものだった。
「……過ちより出たることと承る。見るに、王の血脈は王都を失い、王国をそこかしこと彷徨っておられるご様子。クレオン殿、このようなことを幸いと申すも愚かなことと思うが、いかがか」
 あたりからどよめきが起こった。グインに向かい合う位置にいるテン族の長老二人などはミアレ姫への無礼に怒り、腰を浮かしすらした。ナホ族長老のもう一人はと見ると老齢のせいか居眠りをしていて同僚の長老をたしなめる役目もどこへやらだ。
 クレオンは眉一つ動かさず、白い髭の口元に笑みを浮かべさえした。こうしたことには根気が必要だ。クレオンはそうしたことをよく知っていた。
「長老よ、私の言葉が間違っていたというなら正そう。しかし、シュメル王のなしたことについてはすでに話をしたはずだ。納得がいかなかったのか。私はここにいるナビ教祭司ユーグをはじめ、王の血脈を守って旅をしている彼ら一行から王都で起こったことを聞いた」
 クレオンはユーグだけでなく、クランとカラゲルへも軽く会釈して言葉を続けた。
「私の考えではシュメル王は狂気に陥っていたのだ。長い年月にわたる苦悩が王の心を蝕んでいた。それを過ちと言うことはできる。しかし、それが何になるというのだ」
 白い長衣の袖を振り上げ、胸の前でがっちりと左右の手を握って、クレオンは言った。
「我らは争うのではなく、このように手を取り合うべきではないのか。私が幸いだと言った真意は、今ここにミアレ姫がいらっしゃること、これは運命であろうと思うからだ。王国の精霊、さらには神々がここへ王の血脈を遣わされたのだ」
 ナビ教の祭司らしく、クレオンは高く澄み渡る青空へ向けて両手を差し上げた。
 その姿はオルテン河沿いに住む二つの部族の民には見慣れたものだった。クレオンは七つの丘の上や河のほとり、木立の間などにたたずみ、両手で空を支えるような姿で長いこと恍惚としていることがあった。
 長老グインは黒く底光りする目を祭司に向けていた。
「されば王都を闇の王に奪われ、王国が危機に瀕しているのも神々のはからいと仰せか。二人の族長の父母が帰って来ぬのも運命だと、そう思われるのか」
 さすがのクレオンも片眉を上げてグインをにらんだ。
 その時、族長ホワソンがごく穏やかな声音で言った。
「長老よ、少し言葉が過ぎるのではないか。クレオン様に対してばかりでなく、神々に対してもな」
 族長ホワソンの家はナホ族でも最も古い血筋であり、また富裕でもあった。その口振りにも仕草にも粗野なところは一切なかった。
 長老グインは自分の孫と言ってもいい年齢の族長へうやうやしく頭を下げた。一方、クレオンへ頭を下げるつもりはないようだった。
「族長がそう仰せなら引き下がりましょう。しかし、私はこの土地に目に見えぬ暗雲が広がりつつあるように思えます。そして、それは我らナホ族の浮沈に関わることでしょう」
「それは言われずとも私も感じていることだ。あの奇怪な害虫も未だに駆除する方法を知らぬ。だが、ことは我が部族だけのことではない。今は王国の行く末を思うべき時だ。ここは我らの兄弟と力を合わせるべき時ではないか」
「されど、我らは我が部族の命運を第一に……」
 ホワソンは優雅と言ってもいい手つきであたりを示した。場所柄をわきまえよというのだ。
「長老よ、もう口を閉じるがいい。王の血脈の御前である。草の穂の如くはびこる言葉を慎み、深き根の如く思いを潜めよというであろう。すでに、祭司クレオンさまのとりなしにより我ら族長は和解に心を決している。そうであろう、兄弟よ」
 それまでアーメルはホワソンとグインの仰々しいやりとりに腕組みし、小首をかしげて見入っていたが、兄弟と呼びかけられて、にっこり笑った。
「もちろんだ。もっと早いうちに話し合っておくべきだったんだ。そうさ、酒でもやりながらな」
 あたりから笑い声が上がった。
 そもそも和解といっても、道しるべを崩され、部族の一人を殺されているテン族の方が譲歩を強いられているのだ。土地を侵されているテン族が譲らないと言えば和解など成立しえないのだが、クレオンはホワソンの賢明さに訴え、ナホ族側からそれなりの補償をさせる約束まで取りつけてあった。
 また、アーメルも叔父の死の無念さを乗り越えて部族戦争の危機を避けようと決心していた。そのためなら譲歩も必要だ。
 ホワソンはアーメルに向かって両手を広げて見せた。手のひらに日が差して白く見えた。そこには友好と同時に謝罪の意も含められていた。
「我が部族の民が道しるべを壊した時に話し合いをするべきだったが、私のところに知らせが入ったのが遅かったのだ。決してこのことを軽んじたわけではない」
 アーメルは顔の前で手を振った。
「いや、それもそうだが、悪い虫が出た時だってそうだ。そんなことがあるなら、こちらへ相談してくれたってよかったんだ」
 黙って引っ込んでいたグインが呆れたような顔で言った。
「族長アーメルよ。失礼ながら羊飼いの民にどうして畑の害虫のことが分かるのです。我が部族の専門の者ですら戸惑っているというのに」
「いや、そりゃあそうだろうがさ。何でも言ってくれたらいいんだ。何か知恵が出るかもしれないじゃないか。なあ、お前もそう思うだろう、我が子よ」
 アーメルは妻のお腹に耳を当てて胎児の声を聞くような顔つきをした。
 アンとサラの双子姉妹は顔を見合わせて笑った。
 顔を上げたアーメルは言った。
「我らの女房二人が一緒に子を身ごもったのもきっとクレオンの言う運命さ。これを幸いと言わずして何と言うんだ。もうじき子供が生まれる。二人、いや、もっとかも知れないぞ。しかし心配無用だ。見ろ、いまやオルテン河のほとりには王の血脈、そして二人のシャーマンがいる。精霊の加護のなんと心強いことだ」
 アーメルはホワソンのしたように両手を広げて見せた。その手のひらはマメができ、なめし革のように皮が厚くなっていた。
 頃はよしとクレオンが二人の族長をうながした。
「さあ、族長たちよ。手を握れ。ミアレ姫さまが見届けてくださる」
 アーメルとホワソンは立ち上がり天幕の前に立った。クレオンにうながされてミアレ姫も前に出た。
 二人の族長は手を握り合った。その握った手へミアレ姫も手を重ねて言った。
「オルテン河の流れのように長く、長く、この地に平和が続きますように。テン族とナホ族がいついつまでも兄弟の絆を……」
 ミアレ姫はふと口をつぐんだ。あたりの地面から低く重苦しい轟音が湧き上がって空気までもが震え出した。この丘全体が身震いしているようだ。
「あれを見ろ!」
 部族の民の一人が岩山の麓の道しるべを指さした。積まれた石が内側から突き上げられて吹っ飛び、白い幟を付けた旗竿が倒れたと見ると、そこに開いた穴から奔流となって黒い虫の群れが飛び出してきた。
 無数の虫が背中の羽をチキチキと鳴らしながら中空に舞い上がる。道しるべの穴は脈打つように虫の群れを吐き出し、黒雲となって人々の頭上を覆った。
「俺たちの畑に出たのと同じだぞ」
「どんどん増えていくぞ、逃げろ、みんな逃げろ!」
 あたりは大混乱に陥った。いまや虫の群れは轟々と唸りを上げ、降り注ぐ雨のような音とともに部族の民に襲いかかった。
 虫は底光りするような漆黒で、その姿はバッタ、あるいは蝗のように見えた。
 一人の若者が叫び声を上げた。手で押さえた首筋から血が流れ出た。この虫が食らうのは畑の植物ばかりではないらしい。
 クレオンはミアレ姫をかばいながらユーグに向かって怒鳴った。怒鳴りでもしなければ声が聞こえないほどの羽音が轟いていた。
「姫さまを天幕へ、急げ!」
 ユーグはミアレ姫を抱き取ると天幕へ駆け込んだ。
 族長たちもそれぞれの妻と長老たちとともに天幕へ逃げ込んだ。
 あたりには硫黄の臭気がたちこめていた。人々のわめき騒ぐ声に混じって、繋がれた馬のいななきと踏み鳴らす蹄の音が聞こえてきた。虫が馬を襲っていた。
 絞り出すようないななきとともに棒立ちになった馬がもんどり打って倒れた。左右の目から鮮血が飛び散った。虫は馬の目をえぐり抜いていた。
 カラゲルは剣を抜くと斜面を駆け下り、片っ端から馬の繋ぎ紐を切って逃した。馬は跳ね上がるような足取りで草原へ駆け出した。
 ナホ族の幌馬車の馬がもうたまらぬというように走り出した。ひとしきり道を駆けた馬は草むらへ突っ込み、よじれるようにして馬車ごと倒れた。
 クランとアルテは飛び交う虫を避けて顔の前で腕を振りながら、天幕の前のクレオンのところへ駆け寄った。
「クレオン、なぜ道しるべから虫が出てきたのだ、これはいったい何だ」
 さすがのクランもうろたえ気味になってクレオンに叫んだ。虫の群れの轟音はどんどん高まってきた。
「私にも分からん、道しるべは精霊の集うところのはず。ええいっ、このままでは」
 クレオンは白い粗布の長衣をひるがえし、両手を高くかかげた。
「二人とも身を伏せておれ!」
 クレオンが印を結んで魔法障壁を放った。クランとアルテは地面に伏せていたが、とたんに耳がツンとなって何も聞こえなくなった。
 クレオンを中心にして岩山全体を覆うほどの巨大な魔法障壁が広がっていった。こんな巨大な障壁を展開するのはたとえユーグでも不可能だった。放浪僧クレオンの魔法は荒々しいまでの法力を示した。
 同心円状に広がっていく魔法障壁に触れて黒い虫は弾け飛び、ちぎれた羽でのたうちながら地に落ちた。
 同時に、あたりを逃げ惑っていた部族の民もある者は気絶して倒れ、ある者は膝からくずおれて嘔吐した。鼻血を流して地面を転げ回っている者もいた。
 地面に伏せていたクランとアルテが目を上げると、虫の群れは上空高くに逃げ去っていた。青空を背景に黒いベールのような群れがよじれねじれて飛び回っている。
 その時、天幕の中からナホ族長老グインがよろめき出てきた。血走った目で空を見上げると白い手袋の手を頭上にかかげ、大声でわめきだした。
「これは陰謀だ、テン族どもの陰謀だぞ!」
 グインはあたりにうずくまっているナホ族の若者たちの間を駆け回り叫んだ。
「我が部族はだまし討ちに遭わされたのだぞ。何をしておるか、羊飼いどもから我らの族長をお守りするのだ!」
 若者たちはその声に目を上げ、お互いに顔を見合わせた。どうすべきか迷っているようだ。
「馬鹿者、長老みずから部族の民を扇動するとは何事だ!」
 クレオンの割れ鐘のような声が響いた。その額に汗がにじんでいるのは、法力の限りを尽くして放った魔法のせいで消耗しているのだった。
「これが陰謀なものか。二つの部族が共に襲われたのではないか」
 グインは目をギラつかせてクレオンをにらんだ。
「何だと、私を馬鹿者と呼ぶのか。だまされはせぬ。祭司よ、あなたはテン族と語らって、この地を我がものとしようとしているのだろう。その魔法で虫を操り、我らの耕地を破滅させようとしているのだろう。この襲撃とて、そのたくらみを隠蔽しようと、わざと引き起こしたのだ」
 クレオンは怒るよりも呆れるような気持ちになっていた。
「お前の言っていることはすべて妄想に過ぎない。私はあくまでも中立の立場だ。ナビ教は土地を我がものになどしない。王国の土地は全ての部族の民のものだ」
「何を言う。ナホ族の土地はナホ族のものぞ。見よ、あの道しるべを。ナビ教の白い幟の立つあの道しるべから虫が……あっ」
 空を見上げたグインは驚きに目を見張った。
 空高く舞い狂っていた虫の群れがまた一斉にこちらへ向かって来ていた。慌てたグインは何を思ったか転げるように斜面を駆け下りはじめた。老齢で足元のおぼつかない長老はその中腹で草につまずいて倒れた。
 黒い群れは転倒したグインに目をつけたようだった。まるで群れに一つの意思があるかのように上空から羽を鳴らして飛び下ってくる。
 消耗しているクレオンに代わってクランが立ち上がった。クランが空を見ると、そこにはオローが大きな翼を広げていた。
「フーウィーッ!」
 呼び声に応えて鷲は急降下してきた。一つの巨大な虫と化している群れに翼をすぼめて突入していく。
 虫は群れを乱し、空中に四散した。そのうちにアルテがグインに駆け寄り、老体を引き起こした。
 グインはアルテの腕を乱暴に振りほどいた。立っているのもやっとの様子で、よろめきながらクレオンへ白手袋の指を突きつけて怒鳴った。
「祭司よ、あの虫どもに私を狙わせたのであろう。その法力をもってすればたやすいことであろうな」
 クレオンの後ろに二人の族長が顔を出した。一変してしまったあたりの光景に目を見張っている。
 グインはホワソンに向かって声を張り上げた。
「おお、我が族長よ、ご無事で。その男……そのナビ教の祭司を信用してはなりませぬ……なりませぬぞ……う、ううっ」
 グインは興奮しすぎたせいか、その場に卒倒してしまった。アルテが容態を見て、大丈夫だと言った。
「倒れた時に打ちどころが悪かったのだろう。あとで薬草を飲ませておこう」
 虫はいつの間にか空の彼方へ飛び去っていた。魔法障壁の衝撃で倒れていた者たちも気を取り直して起き上がり、おのおのの族長のもとへ集まった。
 クランは丘を下り、道しるべを調べた。虫が噴出してきたところには深く暗い穴が開いていた。
 カラゲルがやって来て一緒に穴をのぞき込んだ。硫黄の臭いが鼻をついてカラゲルは顔をしかめた。
「クランよ、こいつはどこにつながっているんだろうか。まったく、闇の王の力は神出鬼没だ」
「道しるべはテン族の聖地の一部だ。地の底には見えない精霊の道が通じている。そこを闇の力が穢しているのだ」
 穴の奥からまたチキチキと虫が湧く音が聞こえてきた。一匹の黒い虫が穴の縁から這い出し、崩れた積石の上で羽を鳴らした。
 クランは腰に差したセレチェンの剣が低く唸るのを感じた。青い目を閉じると、明暗反転した視野の中にきらきらと氷の結晶が舞うのが見えた。
 クランは剣を抜いた。あたりの空気が引き締まったようになって肌が寒気に粟立った。
 暗い穴に剣を突き入れると翡翠の龍に授かった氷霧の剣の力で虫のざわめきは鎮まった。石の上にいた虫もたちまち凍りついてしぼみ、やがて地に吸い込まれるようにして消えた。
 岩山の上で言い争いが起こっていた。見ると、祭司クレオンが疲れたような顔で二つの部族の間に立っていた。
 二人の族長は改めて和解を成立させようとしたが、ナホ族の若者の一部がいきりたち、大声を上げて反対していたのだった。
 夕暮れ時、二つの部族は和解を諦め、それぞれの土地へ帰ることになった。
 カラゲルが逃してやった馬は行方知れずの三頭を除いて連れ戻すことができた。倒れた幌馬車の馬は脚を折っていてどうしようもなく、その場で殺した。
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