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第六十ニ章

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第六十二章

 洞窟はじとじとと濡れていた。岩壁に手をつくと水滴が手のひらを濡らし、天井からは雫が垂れて襟元に入ってきた。足元では長靴の底が濡れた音をさせ、あるところでは小さな流れができていた。
 低く唸り音が聞こえていた。耳に聞こえるというより、それは身体ごと震える振動だった。腐臭が強くなってきた。湿った空気がそのまま腐っているようで一行は袖口で鼻を覆った。
 ここでも岩壁にはびっしりといにしえの言葉があった。濡れた岩の表面に白い筋が浮かび上がって見えた。
 ふと、それを指でなぞったカラゲルはヌルっとする感触に顔をしかめた。
「こいつは何だ。洞窟がまるで生き物のようだな」
 カラゲルのつぶやきを耳にしたクランは言った。
「生きているわけではないが、死んでいるわけでもない。この腐った臭いからすると手負いの獣のようなものだろうか」
 カラゲルは妙なことを言うという顔をした。
「もしそうなら、いずれ暴れだす。狩りの準備はいいか、クランよ」
「カラゲルよ、狩りの友よ。お前は傷を負い、のたうち苦しんでいる獣を見たらどうする。セレチェンに習わなかったか、慈悲のことを」
「こっちがやられないようにするのが先だ。この先にいる魔物はこれまでのようなおとぎ話の怪物ではないようだからな」
 低い振動と腐臭はしだいに強くなってくるようだった。天井からしたたる水滴は獣の涎のように粘っこくなって首筋におぞましくまとわりついた。
 身体を横向きにして細い岩の裂け目を通り抜けると、そこには円形の広い空間があった。ノガレは篝火台に松明の火を移した。
 天井が高く、そこまでは炎の光も届かない。ドーム状の空間がぼんやり浮かび上がった。急に振動と悪臭が強くなった。
「見よ。あれこそ、あれこそが、私がどうしても退けることのできなかった得体の知れぬ魔物……」
 ノガレの声は震えを帯びていた。
 一行が入ってきたところと正反対の側に黒い影が見えた。
 それは洞窟の奥を天井高くまで占める巨大さで、こちらへのしかかってくるようだった。影とはいえ、そこにはある種の実体があった。
 定まらぬ形の中に渦巻き蠢く流れが見えた。湧き上がる泉のようにうねりくねるかと思えば、霧のように揺らいで空中に散っていく。中心らしきものは見えず、とめどなく動き続けていた。
 身体を震わせる振動と悪臭の源はどうやらその影のようだった。
 呆気に取られた一行はそのおぞましい蠢きに見入っていた。
「こいつは魔物……なのか……」
 カラゲルは身体の芯まで揺さぶられる振動と悪臭に気も遠くなりかけていたが必死に踏ん張っていた。
 ユーグはミアレ姫をかばうように立って呆然とした目を影に向けていた。
「いや、これこそ魔物……だろう……」
 ノガレは蒼白だった顔をさらに白くさせていた。皺の寄った額には汗がにじみ息が荒くなっている。ノガレはクランに尋ねた。
「イーグル・アイよ。お前はこの魔物のことを知っていたな。どうして分かった」
 クランは突き放すように言った。
「そんなことを知ってどうする。さあ、ノガレよ、存分に戦うがいい。お前が最もよく知っているはずの最後の敵だ」
 ノガレはよろめく足取りで影の前に出た。これまでの英雄的な仕草もなく、震える手を上げると印を結んだ。
「魔物よ、影よ。我が火によって滅びよ!」
 荒々しく燃え上がる火球が影の中へ叩き込まれた。影は揺らぎもせず火球を呑み込んだ。
 ノガレは、二度、三度と火球を放ったが、影はまるで美味い餌を与えられたかのように魔法の火を吸収していった。
 ノガレは次に突風を巻き起こして影を吹き払おうとしたが、それも影に吸い込まれてしまった。
 知る限りの魔法を総動員してノガレは影に立ち向かった。次々に指を組み替えて魔法印を結び、そこから放たれる魔法は洞窟のドームの中で極彩色の夢幻的な光景を繰り広げた。
 その法力のほどは、カラゲル、クラン、ミアレ姫を驚かせたが、ユーグだけは苦り切った表情を浮かべていた。
 ノガレのどこか芝居がかった様子を軽んじていたカラゲルもこうして目の当たりにする隠者の力には感心しきりだった。
「こりゃあすごいぜ。ユーグよ、こいつを仲間にしたら闇の王と対抗するのにきっと力になるだろうな」
 ユーグは馬鹿なと吐き捨てるように言った。
「この者の力は見せかけだけだと言っただろう。見るがいい、あの影は弱るどころか、かえって勢いづいているではないか」
 たしかに影はうねりくねる勢いを増しているようだった。影の中に黒い濁流が見え、嵐を呼ぶ雲のような高まりが見てとれた。
 洞窟を揺るがす振動は高まり、腐臭は吐き気を催すまでになった。
 ノガレは必死の形相で魔法を繰り出し続けていた。その顔は何者かに取り憑かれたようで目はギラつき、獣じみた鼻息を吐いて上下の歯を食いしばっていた。
「影よ、なぜ退かぬ。我が法力を恐れよ、我が力は正義なり!」
 ノガレが絶叫した時、影の中に青白い稲妻がひらめいた。
 次の瞬間、ノガレは雷撃に打たれて身体ごと弾き飛ばされた。
 カラゲルとユーグが地面に倒れたノガレに駆け寄ったが、ノガレは起き上がり、よろめく両脚で立ち上がった。
「負けるものか。我が魔法が負けるわけがないのだ」
 腰の曲がった老人のような姿勢でノガレは、さらなる魔法を放ちだした。
 影が魔法の力を吸収しているのは明らかだった。しだいにうねりを高ぶらせるとともにドーム型の天井からこちらへ覆いかぶさるように巨大化してきた。
 また雷撃が走った。ノガレは全身をのたうたせて倒れた。
「いかん、ノガレよ。ここはいったん退くのだ」
 ユーグがノガレを助け起こしながら言ったが聞き入れるわけもなかった。ノガレはかつての同僚の腕を振り払い、よろよろと立ち上がった。
「まだだ、まだ終わってはいない!」
 頭上にのしかかる影に向かってノガレは魔法を放ち続けた。気力の限界を超えているノガレは鼻血を噴き出し、むせ返って、よろめいた。
 すさまじい轟音とともに稲光が影の中に走った。見かねたユーグがとっさに魔法障壁を展開してノガレをかばった。
 ノガレは正気を失いかけているようだった。魔法印も乱れ、ユーグはその印の中に禁断の邪法が混じっているのに気付いた。
 カラゲルは剣で立ち向かえる相手でないと知りながら思わず剣を抜いてしまっていた。
「ちくしょう、こいつは手がつけられないぜ。ユーグよ、もういいから、ノガレを引きずって帰るぞ」
 それを聞いたノガレはついに半狂乱の様子になって叫び出した。
「何を言うか、今こそ……そうだ、今こそこいつを倒す時だ……見ろ、こいつは苦しんでいる……あの音は苦悩のうめき声、あの振動は必死のあがき、あの臭気は法力の強い者に出会った恐怖だ!」
 今にも影の中へ突進しそうな勢いのノガレをユーグとカラゲルは二人がかりで押しとどめていた。ノガレは両手をかかげ震えが止まらない指で必死に印を結ぼうとしていた。
 クランとミアレ姫は影の前で揉み合う男たちの姿へ目をやっていた。
「クラン、隠者さまはどうなってしまったのです。やはり、正気を失って……」
「今しばらくは様子を見よう。うむ……誰かが近づいて来るようだ……」
 その時、一行が入ってきた岩の裂け目からティトが姿を現した。
「まあ、ティト。あなたどこへ行っていたのですか」
 意外な者の登場にミアレ姫は驚きの表情を浮かべた。
「ちょっとお使いにね……イーグル・アイよ、ほら、この人だよ」
 ティトの後から入ってきた女の顔にクランとミアレ姫は目を見張った。
 その顔は魔物の顔によく似ていた。少し歳を取っていたが同じ顔だった。
 女はクランの青い目を見ると、ハッとした顔になった。女はシャーマンの装束を身に着けていた。クランが何者であるか女には分かった。そして、クランにも、この女が何者であるか分かっていた。
 その時、影が轟音を上げ、あたりを震わせた。悪臭がいっそう濃くあたりにたちこめた。
 女は半狂乱になっているノガレへ呼びかけた。
「ノガレよ、囚われの魔法使いよ。私が誰か分かるか」
 振り向いたノガレは怯えたような目になり、振り上げていた手をゆっくり下ろした。
 ノガレを押さえていたカラゲルとユーグは女の顔に驚きの表情を浮かべた。二人も女の顔が魔物の顔と同じであることに気付いた。
 ノガレはじっと女の顔に見入っていたが、激しくかぶりを振って叫んだ。
「お前など知らぬ。シャーマンよ、いったいこの私に何の用だ」
 女は憐れむような、悲しむような顔になって言った。
「分からなければしかたない。シャーマンには禁忌だが、一度だけ呼ぼう……我が父よ……」
 ノガレは胸元のボロをかきむしるようにしていたが、やっとの思いで声をしぼり出した。
「なんだと……お前は……我が娘、アルテ……ほんとうにアルテなのか……い、いや、違う……断じて違うぞ……しかし……しかし……」
 影はノガレの背後にあった。頭上にのしかかる影は荒々しさを消し、鎮まっていた。
 アルテは我が父ノガレにまっすぐな視線を向けていた。
「私の名を呼んではいけない。お前もブンド族のシャーマンがどのようなものか知っているはずだ。シャーマンはみずからの過去を捨て、その父や母の子ではなく大地の子として生きるのだ」
 ノガレはいくらか正気を取り戻したようだった。
「おお、アルテ……そうだ、アルテだ……お前は私の愛した娘だ。ああ、私にはもうお前しか残っていないのだ。誰かにお前を連れ去られてから私がどれほど悲しんだかお前に分かるか。盗人め、ならず者め。ああ、アルテよ。私のもとに帰って来てくれ」
 アルテは獣の骨と毛皮で飾られた袖を振って、ノガレの言葉を制した。
「私の名を呼ぶなと言ったぞ。ノガレよ、穢れた修行者よ。お前は私に魔法をかけて王都から連れ去ったのだ。私への愛ではなく、お前の我欲のためにそうしたのだ」
 影は鳴りを潜めていた。アルテの言葉が高い天井に響いた。
「私は覚えている。王都を出たお前はあてどもない修行に打ち込んだ。民を救うための修行でなく、おのが法力を強めるためだけの修行だ。無謀な苦行を行い、無理な処方で薬草を根こそぎにした……」
 ノガレは哀れな声音で、おお、アルテよと呟いたが、シャーマンはそれを無視していた。
「私は覚えている。何度か私はお前のそばを離れようとした。そのたび私は悪夢を見た。巨大なおぞましい影の夢を。影がまだ幼かった私に恐怖を植え付けた。お前から離れたら、私は影に捕らえられ石ころのように無価値なものにされてしまうと……」
 シャーマンはノガレの背後にある影へ憎悪の目を向けた。
「お前は王国のあちこちを彷徨った末、この山にたどり着いた。私は覚えている。お前がこの洞窟を見つけ、三日三晩して出てきた時に言ったことを。『ここには行き場を失った彷徨える魂が充満している。私はあの者たちの王になろう』……そうお前は言った……見よ、おのれの姿を。死霊の力を我がものにせんとして反対に闇に取り憑かれているおのれのみじめな姿を!」
 影はまた低くうめき声を上げはじめた。洞窟が不満げに震えた。
「今では私も知っている。それがナビ教の最も邪悪な禁忌であることを。私にかけられた魔法はナビ教の放浪僧が見破り、私をそれから解き放ってくれた。そして私をブンド族のシャーマンのもとに託したのだ」
 ノガレは胸元のボロをかきむしり、ついに引き裂いた。
「嘘だ! 嘘だ! 私が嘘だと言ったら嘘だ! お前はアルテではない。私の娘は私にどこまでも尽くしてくれる優しい娘だったぞ!」
 ノガレの絶叫が洞窟に反響して、影の唸りと混じり合った。
 それまで黙っていたクランが口を開いた。
「それはお前が魔法の力によってそうさせていたのだ。お前は真実に娘を愛していたのか。そうではあるまい。お前が愛していたのは、お前自身だけだ」
 ノガレは両手で顔を覆って泣き出した。影がその背後に迫り、また、おぞましいうねりくねりを演じ始めた。
 クランは静かな口調で言った。
「お前はお前の中に閉じこもっている。まるでこの洞窟の魔物のように。お前は自分の力に慢心して、この世の全てを一人で背負う気でいるようだ。まるで神々の一人であるかのように。ノガレよ、たとえどんな偉大な力を持とうと、この世は人が独りで背負うことができるような、そんなものではない」
 これはクランがひとりで考え出したことではなく、シャーマンの知恵だった。死に瀕したクランを救った、あのブンド族のシャーマンが授けてくれた教えが口をついて出たのだった。
 ユーグは打ちひしがれているノガレに手を差し伸べた。
「世界は苦悩に満ちているが、それは独りでは背負えない。それを皆で背負おうとする時、人々の間に精霊が立ち現れ、加護を与える。これがナビ教の一番の教えだったはずだ。ノガレよ、お前は本当に娘を、いや、人を愛したことがあるのか。自分の胸に問うてみよ」
 ノガレは顔に当てていた手から目元だけを出してこちらを見た。涙に濡れた目は明らかな狂気を帯びてギラついていた。
 背後にある影に雷鳴が轟き、稲妻が走った。ノガレは怒り狂っていた。
「……愚か者どもめ……下等な家畜どもめ……お前たちに私の何が分かるというのだ……偉大なる我が救済の何が分かるというのだ……私はこの法力で世界を救おうとしているのだぞ……たとえ、それが禁忌であろうと!」
 猛烈な悪臭が影から発散されてきた。洞窟は身震いし岩壁も崩れるかと思えた。
「私が娘を愛していないだと。私は誰よりもアルテを愛した。私自身を愛するようにアルテを愛した。アルテよ、お前にはそれが分からぬのか!」
 今はシャーマンとなったアルテはたじろぐことなく影を指さした。
「ノガレよ、お前の魂の分身がその影に囚われている。その魔物はお前の影だ」
 アルテは朗唱を始めた。死霊をあぶり出す朗唱だ。
 それに力を添えるようにクランは剣を抜いた。セレチェンの魂はそれに応え、おごそかに光を放った。
 それまで混沌としていた影の中におぼろげな人影が浮かび上がった。これこそノガレの魂の影法師だった。
 クランは言った。
「ノガレよ、この洞窟に住む怪物はすべて、お前の病める魂が産んだものだ。増上慢に溺れ、おのれを救済者とうぬぼれる幼稚な魂がそのままあの陳腐な怪物たちと化したのだ。お前はずっとお前自身と闘っていたのだ……知っていたのだろう、ノガレよ、囚われの隠者よ……」
 クランの青い瞳は影の中に揺らぐノガレの魂の分身に見入っていた。
「ここには死霊が渦巻いている。その死霊は古く穢れている。部族の民を失って聖地をめぐる精霊の流れが塞き止められているからだ。今はミアレ姫の精霊の力が死霊どもを押し返しているが、いずれお前はあの影に呑まれてしまうだろう」
 ノガレは我が胸をかきむしり、頭を抱えて、手負いの獣のようなうめき声を上げた。矛盾して争う魂が肉体までも引き裂こうとしているようだった。
 ユーグが苦悩するノガレへ言った。
「ノガレよ。今からでも遅くはない。ナビ教の本来の場所へ立ち戻るのだ。それは人への愛と憐れみだ。お前は憎しみと欲望に囚われている。捨てよ、お前の過去を捨てよ。生まれ変わることはいつだってできるのだ」
 ノガレは洞窟の天井にまで響く絶叫をほとばしらせた。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 我が法力を何と心得る。我こそは王国一の法力を持つ者。我こそは大祭司たる資格を持つ唯一の者。そうだ我こそは神々に等しい大魔法使いなのだ。我こそは救い主。おお、神々よ、我に力を与え給え!」
 錯乱状態に陥ったノガレに共鳴するかのように影がのたうち蠢いて雷鳴を轟かせた。すさまじい嵐が吹き荒れ、稲妻が空中を走った。
 ノガレはしだいに影に包まれていった。まるで触手を伸ばすようにノガレの姿を取り巻き呑み込んでいく。
 ユーグは叫んだ。
「ノガレ、影から離れろ。こちらへ来るんだ!」
 しだいに濃くなる影の中でノガレがもがき苦しんでいるのが見えた。助け出そうにも嵐はいっそうすさまじさを増し、ユーグも顔を覆って後ずさるしかなかった。
 カラゲルとティトはもちろん、クラン、アルテも洞窟の岩壁に背を押し当てて横面を殴られるような突風に耐えているばかりだった。
 その時、吹き荒ぶ風の中に純白の長衣がひるがえるのが見えた。
 ミアレ姫だった。ミアレ姫は荒ぶる影に立ち向かうように、少しづつ前へ進んでいった。
「姫さま、いけません。お下がりください!」
 ミアレ姫を引き止めようとしたユーグの腕をクランがつかんだ。
「姫には精霊の加護がある。今は精霊に突き動かされているのだ」
 轟々と勢いを増して渦巻く影の前へミアレ姫は両手を開いて立った。
 影の中にノガレの姿が見え隠れしていた。ノガレは苦悩と恐怖に表情をゆがめ、声なき叫びを上げていた。
 ミアレ姫はノガレに向かって呼びかけた。
「隠者さま、今こそ、あなたの力を使う時です。我が王の血脈に集う精霊たちがあなたに力を与えるでしょう」
 ノガレは胸の前で印を結びかけたが、指は乱れ、印は成らなかった。影に呑まれかけているノガレはもう自分の身体が自分のものでなくなってしまったかのようだった。
「隠者さま、もう一度、試すのです。おのれを捨て、精霊を我が胸に招き入れるのです。あなたの法力は決して虚しいものではないはずです」
 ミアレ姫は両手を広げ、崖から身を投じる者のように両目を閉じた。
 洞窟に叩きつけるような轟音が響いた。空間すら歪むかと思うような不協和音が空気を震わせ、岩壁も崩れるかと思えた。
 ミアレ姫をのぞく皆は耳を塞ぎ、壁際にうずくまった。ティトなどは耐えきれずに地面に這いつくばり嘔吐しはじめた。
 カラゲルは両手で耳を塞いだままユーグへ怒鳴った。
「これはいったい何だ。何が起こっているんだ」
 ユーグはカラゲルの耳元に口を近づけて大声を出した。
「王の血脈に慕い寄る精霊の力と影の力がせめぎ合っているのだ。ノガレがおのれの心へ精霊を迎え入れさえすれば影を吹き払うことができるはず」
「ちくしょう、なんて音だ。脳みそが煮えくり返るようだ。おい、ティト、しっかりしろ」
 カラゲルは倒れているティトを抱き起こそうとしたが、すぐに両手を耳に戻した。
 轟音は限りなく高まっていくようだった。嵐もとめどなく荒ぶり、影は渦巻き、のたうった。
 影の中でノガレは全身を硬直させて棒立ちになっていた。いったんは影から脱しようとしていたノガレだが、今、その顔は苦悩と絶望にゆがんで蒼白な仮面と化していた。ノガレは叫んだ。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 私は私であり続けねばならない。このままでは私が私でなくなってしまう。誰よりも強い私でなくなってしまう!」
 影が暗く濃くなったかと思うと、ノガレの姿は闇に消えた。
 次の瞬間、影の中から七人の男たちが姿を現した。見上げるような巨躯。天井に頭がつきそうだ。この者たちは巨人だった。
 人の三倍ほどはあるだろうか。屈強な肉体に鈍く光る金属製の鎧をまとい、手には長大な剣を構えている。
 呆気にとられている一行の前で男たちは奇妙な流儀で剣を振った。ブルクット族が敵に立ち向かう時、横方向の8の字を剣先で描く。それと同類の戦士の流儀と見えた。
 その者たちが何者か、クランにだけは分かった。ここへたどり着くまで、イーグル・アイの視野で見た古代の部族の戦争。彼らの鎧、その流儀。
 この者たちは戦争で非業の死を遂げ、部族の滅亡によってみなしごの魂と化した古代部族の戦士たちだった。暗く、呪われた魂の化身、死霊戦士だった。
 戦士たちは一斉に剣を振りかざし、ミアレ姫に襲いかかった。ミアレ姫は一切無防備のまま両手を広げ目を閉じていた。
 クランはとっさにいにしえの言葉を朗唱した。

 『ブルクット族の勇者たちに乞い願う
  我はイーグル・アイ
  我らが戦いに助力を賜らんことを』

 シャーマンの鏡に光がひらめいたかと見ると、あのベルーフ峰の聖地で加護を得たブルクット族の古き勇者たちが姿を現した。
 勇者たちはミアレ姫を守るように立ち、人の背よりも大きな盾を構えて防壁を作った。
 襲いかかってきた古代部族の剣は盾に弾き飛ばされた。すぐに盾は消え、次の瞬間、古き勇者たちは大剣を手にしていた。
 勇者たちは巨躯に飛びつき、剣を突き立て、振り払われても振り払われても、斬って、斬って、斬りまくった。しかし、死霊戦士は斬られても、斬られても、怯みもせず長大な剣を振りかざした。
 この巨人の死霊戦士たちは知らなかった。自分たちが何のために戦っているのかを。自分たちが生きているのか、死んでいるのかすら知らなかった。
 彼らの死闘は永遠に続くかと見えた。
 クランは青い目を閉じた。
 明暗反転した視野の中に影はなおも蠢いていたが、その向こう側に見えてきたものがあった。
 何の変哲もない平たい岩だった。岩は楕円形をしていて、表面にわずかな窪みがあり、そこに乾ききった細い割れ目が見えた。
 これこそ古代部族の聖地の道しるべだとクランは直感した。いにしえの言葉の朗唱がクランの口をついて出た。
 
 『今は亡き古代の部族よ
  我はお前たちの運命を悼み哀しむ
  お前たちの同胞はみなしごとなって彷徨っている
  我はイーグル・アイ
  我が霊のもとへ来たりて同胞を導け』
 
 岩の割れ目から泉が湧き出してきた。透き通る水は松明の光でなく内からの光で輝いていた。
 その光の中にクランがここへたどり着くまでに見た古代の部族の面影がひらめいた。
 水は岩の窪みからあふれるほどにほとばしった。水は粘り気を持っているようで、軟体動物が触手を伸ばすように地に広がった。
 その光る表面から植物のようにたくさんの芽が伸び上がったと見ると、それらの芽はきらめく胞子を放ちだした。
 胞子は空中に蠢く影ににじみ入って流れを作り出した。荒ぶる影は光と一つになって、のたうつようだった動きを鎮めていった。
 限りない死闘を演じていた死霊戦士たちは吹き払われる霧のように姿を消した。クランが助けを乞うたブルクット族の古き勇者たちもそれに応じて帰っていった。
 耳を圧するようだった轟音もいつの間にか静まっていた。
 見ると、光の胞子は王の血脈に慕い寄るようで、ミアレ姫のまわりにきらめく渦巻きを成していた。
 影は消えた。轟音も消え、微かな倍音だけが空中を漂うように響いている。
 永遠に続くかと見えた死闘も、ほんの一瞬のことに過ぎなかった。シャーマンの目で見るならば、世界は肉の身体と霊の身体でできている。これらのことはすべて霊の身体の側で繰り広げられていたのだった。
 一行の目の前でノガレが地面に倒れ伏していた。その背中はまったく動かず、息をしている様子がなかった。
 クランはアルテに言った。
「シャーマンよ、この者の彷徨える魂を呼び戻すのだ」
 アルテはブンド族のシャーマンに伝わる型通りの朗唱を始めた。
 やがて、ノガレは息を吹き返した。
 何が起こったのかと戸惑う顔を上げたノガレへアルテは言った。
「囚われの魂は帰ってきた。最後に一度だけ呼ぼう……父よ、さらばだ」
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