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第五十七章

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第五十七章

 オルテン山の頂へ向かううち雨はみぞれに変わった。風はいっそう強くなり、旅の一行はそれを真っ向から受けつつ進まねばならなかった。
「もう少しで山頂だよ。これは何かおかしなのがいそうだね。気をつけて」
 案内役のティトが一行を振り返って叫んだ。皆、ずぶ濡れで髪は乱れ、寒さに震えていた。走る馬の息が白く風に吹きさらわれていく。
 急坂を登りきった一行は鬱蒼とした木立に囲まれた場所に出た。
 嵐の真っ只中であるはずなのに、そこには明るく太陽の光が射していた。巨大な岩の上に一見したところ枯れ葉と枯れ枝の塊のようなものが奇妙に蠢いていた。そこから異様なわめき声も聞こえてくる。
「あれが魔物か」
 カラゲルが言うと、ティトがかぶりを振った。
「違うよ、あれは隠者さ」
 枯れ葉と枯れ枝の塊の間にかろうじて人と見える顔があった。その顔はこちらを見ると驚きの表情になり、目が憎悪の色にギラついた。
 嵐の目はここらしかった。隠者の周囲には風が吹いている様子もない。
 隠者は高く両手をかかげ、狂ったように振り回した。その指先はからみ合う蔓草のようにねじ曲がっていた。魔法印だ。
 とたんに風が強くなって一行は顔を覆った。暴風が吹き荒んだ。みぞれも氷粒に変わって、あたりには波立つような音がしはじめた。
「帰れ、ここへ近づくな!」
 隠者がしわがれた声で叫んだ。声はまるで洞窟の中で聞くような不気味な木霊を帯びていた。さらに風が轟々と高まった時、隠者はまた叫んだ。
「ユーグよ、お前はここへ何をしに来たのだ!」
 その声は雷鳴のようにあたりの空気を震わせた。
 カラゲルがユーグに向かって怒鳴った。
「おい、ユーグ。あいつはお前の知り合いなのか」
 ユーグは浮足立つ馬を冷静に御しながら濡れた横顔でじっと隠者へ目を向けていた。
 隠者は頭の上にかかげた両手を荒々しく振った。指先が蛇のようにくねって印を結ぶ。
 ユーグが叫んだ。
「魔法だ、皆、下がれ!」
 巨大な火球が隠者の頭の上に出現した。一行はいななく馬の手綱を引いて後退した。
 すさまじい轟音とともに火球がこちらへ迫って来た。
 ユーグはとっさに片手の指で印を結ぶと横へ払った。火球は魔法障壁に衝突し、形を失って四散した。
「隠者よ、ナビ教の徒よ。なぜ私たちを攻撃するのだ」
 すでに嵐は消滅していた。ユーグは馬を進めて一行の前に出ると、両手を胸のあたりに上げ、ナビ教の祭司同士に通じる挨拶の印を結んで見せた。
 隠者は怒り狂っている様子で印を結び直した。ふたたび両手を頭の上にかかげた時、ユーグが言った。
「よせ、隠者よ。お前の力は穢れている」
 前のものより荒々しく乱れた火球が隠者の頭上に現れた。火球はユーグに狙いをつけて飛んできた。
 ユーグは印を結び直し、両手を左右に開いた。火球はまたも魔法障壁にぶつかったが、今度は消滅せず、そのまま弾き返された。
 自分の放った火球が戻ってくることに驚いた隠者はとっさに嵐の印を結んで我が身を防ごうとしたが、うろたえていて間に合わなかった。火球は隠者に迫った。
 隠者は火に包まれ、身にまとった枯れ葉や枯れ枝が燃え上がったように見えた。
 うああっと絶叫したかと思うと、隠者は巨岩の上で身をよじり、そのまま倒れてしまった。
「おい、ユーグ。殺しちまったのか」
 カラゲルがユーグに駆け寄った。
「いや、気を失っただけだ。他愛もない。この者の法力は見せかけに過ぎぬ。真の力を持ってはいない」
「しかし、この隠者が洞窟の魔物と戦っているんだろう」
「そうだろうな。嵐を起こしたのもこの者の力だ」
 ティトが巨岩によじ登って、隠者の様子を見た。
「まだ生きてるよ。小屋へ運ばなくちゃ。手伝って」
 カラゲルは馬から降りると、ユーグのもとを離れて岩の方へ向かった。
 入れ替わりにクランがやって来た。
「ユーグよ、ここには死霊の気配が満ちているようだ」
「うむ、ミアレ姫のもとに集う良き精霊の力がそれを押し返している」
 岩の上から降ろされる隠者へ目をやりながら、クランは言った。
「あの隠者、お前がここに来るのを予知していたようだが。あれは何者だ」
 ユーグは苦々しい顔つきになった。
「ノガレという。初めて会ったのは私がまだ少年の修行者だった時、王都の大聖堂でのことだ」
 ノガレは小屋へ運び込まれ寝台に寝かされた。
 ボロ布の上に一面、枯れ葉や枯れ枝を縫い付けたものを身にまとっているが焼け焦げひとつなく、身体にやけども見当たらなかった。
 ミアレ姫が不思議そうに言った。
「特に手当をする必要はないようですね。ずいぶん大きな火でしたけど」
 ユーグは蔑むような目でノガレを見下ろしていた。
「あれは幻影に過ぎません。私が火球を弾き返した時、無力化したのです。この者は自分が火に包まれたという思い込みで卒倒しただけのことです」
 カラゲルはノガレの髭面を眺めて首をかしげた。
「ユーグよ、こいつはお前めがけて火球を放ったようだったぞ。えらい剣幕だった。何か恨みを買うようなことでもあったのか」
「うむ、心当たりがないでもない。以前、この者がシュメル王のもとに仕えようとしてやって来たが、私が反対したので王はお取り立てにならなかった」
 その時、ノガレがうわ言をもらした。
「……アルテ……私のアルテ……」
 カラゲルは小首をかしげ、次にニヤリと笑った。
「アルテだと、女の名だな。ユーグよ。もしや、お前、こいつと女を取り合ったなんてことが……」
 カラゲルはユーグの深刻な顔つきに気付いて咳払いをした。
「……あるわけないよな。ユーグよ、いったいなんだこいつは。嵐を起こしたり、火の玉を放ったり、物騒なやつだ」
 ユーグは疲れきって青白くしなびたノガレの顔に見入った。
「若い頃のノガレは……その頃は私も若かったが……放浪の修行を終え、王都の大聖堂でさらなる修行に励んでいた。その頃は、ずば抜けて法力が強く、魔法の使い手としては私の遥か上を行く男だった。しかし……」
 ユーグはナビ教の徒としてのノガレには謙虚さが足らないと考えていた。
 ナビ教に言う謙虚さとは単にへりくだったり、謙遜したりすることではない。他人に妬まれるのを避けるなどという卑小な処世術のことではなかった。
 それは、精霊、さらには神々と人のあいだにおける謙虚さのことだった。
 人は決して我が力のみで生きているわけではない。聖なる力とともに、この世界に生かされている我を自覚することこそ謙虚さというものだった。
「……それがなくては魔法など力の濫用に過ぎない。人に過ぎたる力のな」
 ノガレは自分の力に並々ならぬ自信を抱いていた。それと同時に野心も。ユーグに対抗心を燃やしていたらしいが、ユーグの方は気にしていなかった。
 やがてユーグが王家に召され、その頃は王子だったシュメルの師傅に任ぜられると、ノガレは自分こそ王子の守護役にふさわしいと言い触らすようになった。
 王宮にはびこる陰謀から王の血脈を守るためには我が法力が役に立つと公言して、人々のひんしゅくを買った。
 王宮に『陰謀』が存在しているのは誰もが知っていたが、おおっぴらにそれを口にすべきではないと思われていた。それは部族の民の間に分断を引き起こすきっかけになりうるからだった。
 さらにノガレは、いざという時にはナビ教祭司の禁忌を犯すことも躊躇しないとまで言って、大聖堂の祭司長から厳しく叱責を受けたりしていた。
 ナビ教祭司の禁忌とは口にするのもはばかられる死霊へ呼びかける魔法のことだった。
「聞いたところ、えらく傲慢な奴のようだな。このしょぼくれて、しわくちゃな男が」
 カラゲルは気を失ったままのノガレの顔を見て軽くかぶりを振った。
「若い頃のノガレはなかなかの男っぷりだったのだぞ。カラゲル、お前など足元にも及ばぬほどのな」
 カラゲルは稲妻の刺青をゆがめて苦笑いした。
「ナビ教の祭司が女にモテてもしかたないだろう。仮に女神と人間の女を二股かけてみたって神々には寝床の中までお見通しってわけで……おっと失礼いたしました、姫さま」
 ミアレ姫が横目でカラゲルをにらんだ。
「カラゲル、かつてのナビ教祭司は美男子が多かったといいますよ。ほら、ユーグをご覧なさい。きっと女神に仕えるのにその方がいいからでしょう」
 ユーグが強くかぶりを振って言った。
「姫さま、それは王都の者が言う俗信です。大聖堂の儀式の時、そうした方が見栄えがいいというので美男を揃えたのです。私に言わせれば、そんなことは儀式の神聖を穢す堕落です」
 ノガレがまた、さっきと同じうわ言をもらした。ユーグは苦い顔になった。
「女か……そうだ、ノガレが道を踏み外したのも女がきっかけだった……」
 ノガレは心が荒み、王都の外郭地域の宿に好きな女が出来て、娘が生まれた。娘の存在を隠しておこうとしたが、女の親から祭司長へ苦情が出て、ノガレは王都の大聖堂から追放された。
「へえ、なかなかやるものだ。すると、アルテはその女の名前か。さもなければ娘の」
 カラゲルが言うと、ユーグはかぶりを振った。
「女の名までは知らない。私はその頃、セレチェンとともに荒れ野にいた。このことは、ずっと後になって知ったのだ」
 追放されたノガレは放浪の修行者になり、各地を彷徨ったが、ナビ教の神殿を訪ねても相手にしてもらえず、しだいに森や山の奥など辺地を住み家とするようになった。
 やがてシュメル王子が王となったと聞いたノガレは王都へ舞い戻った。すでに王都からはナビ教、ブルクット族が追放され、殺伐とした空気になっていた。
 大聖堂はからっぽになり、自分を追放した祭司長もいない。ノガレはいい機会だと思ったのだろう。
「私は王家の師傅としてシュメル王に引き続き仕えていた。王宮にとどまり、何とか、かつてのナビ教を復興せねばならないと考えていたからだ。真のナビ教、真の信仰をな。そこへ変わり果てた姿のノガレが現れた」
 ユーグはその時のことを思い出したらしく、また苦い顔つきになった。
「謁見の間で王の御前に出たノガレは得意になって魔法を見せた。さっきのように風を起こし、火の玉を放ち、天井に花を咲かせて花園にし、石畳の床から逆さまに雨を降らせて見せたのだ」
「へえ、それは面白そうだ。おい、ティト、この魔法使いを一座に加えたらどうだ」
 カラゲルの言葉にティトは鼻をつまんで見せた。
「こんな臭い奴、仲間にしたくないね。だいいち、シャーマンが嫌がるよ。シャーマンはたいていナビ教が嫌いだからね」
 ユーグは言った。
「かつてのナビ教祭司はシャーマンへの信仰を俗信、迷信と言って、人々をシャーマンから遠ざけた。私は少し考えが違うが、いずれにせよノガレはブンド族の仲間にはなれない。この者は大地の精霊への敬意を欠いているからだ」
 シュメル王はノガレの魔法に興味をそそられ、取り立てようとしたが、意見を聞かれたユーグは断固として反対した。
「ノガレの魔法は邪道だ。ノガレをお取り立てになるなら私は王宮を出て行くと申し上げると、シュメル王は、もうその頃いくらか精神を病んでおられたが、それならよそうと笑みを浮かべておっしゃったのだ」
 カラゲルはなるほどという顔でうなずいた。
「話が始めに戻ったな。その時にこいつの恨みを買ったというわけだ。まったく執念深い男だ。しかし、ユーグよ。俺はこいつが番をしているという洞窟の魔物、それが気になる」
「私もそれは同じだ。闇の王が地上に出現したのは最近だが、その力は少しづつ地上をめざして浸透してきたとも考えられる。洞窟の魔物もその力が形を成したもので、たまたまノガレがそれを発見し、長年に渡って抑え込んできたのかも知れぬ。もしそうなら闇の王の力が地上に流出してきたのは決してシュメル王の行いによるものでなく、王の行いはその流出を決定的にしただけのことであって……」
 カラゲルはしだいに熱を帯びてくるユーグを手で制した。
「待て、王のことはひとまず置いておこう。ユーグよ、お前は洞窟の魔物を闇の王と繋がるものと考えているということだな」
 ユーグはカラゲルに話の腰を折られたので不快げな顔になったが、自分の考えが先走りし過ぎていたことに気付いてうなずいた。
 ユーグはシュメル王の行いが諸悪の根源だとは思いたくなかったのだ。
「うむ、そうだ。いずれにせよ洞窟をよく調べてみる必要がある。それにノガレの話も聞く必要が……おや、目を覚ましたようだぞ」
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