地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第五十六章

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第五十六章

 一行の行く手にサンペ族の土地とテン族の土地の境を成す山並みが見えてきた。
 ひときわ高いオルテン山の峰が青空をくっきりと区切ってそびえている。さほど高山というわけではないが、山並みは長く東西に伸びていた。
 斜面には鬱蒼とした樹木が生い繁り、頂きにはうっすらと白く雪が積もっている。北からの風を受けて山の姿は険しく見えた。
 道はしだいに上り坂になってきた。これは王国の街道ではなく部族の民が行き来するためのものだった。
 先頭で案内に立つブンド族の若者は名をティトと言って、まだ十四歳の少年だった。
 山を越えたあたりまではティトの仲間のブンド族の領分だった。そこまでは自由に行っていい。その先はシャーマンが精霊に尋ねなくてはならない。
 ティトは手綱も握らず馬を進めながら三つのボールを順繰りに投げてはつかみ、つかんでは投げる芸をやっていた。芸といっても誰に見せるということでもなく退屈な道中の手慰みといったところだ。
 ティトの隣りではミアレ姫がそれを感心した表情で眺めていた。姫もすっかり乗馬が上手くなり、白馬も姫になついていた。
「すごいものですね。こうして馬を歩かせながら、そんなことができるなんて」
 ティトは姫へちらりと目を向けたが、その間も手は勝手に動き続けて、ボールを次々に受けては投げ上げていた。
「僕はまだ頑張って四つまでしかできないけど、兄貴は七つ投げられるんだ。もちろん馬を走らせたままでだよ」
「七つですって、いったいどうしてそんなことができるのでしょう」
「どうしてかなんて考えながらやってたらだめなんだよ。自分とボールがひとつにならなくちゃ。僕がボールか、ボールが僕かってくらいにね。これは兄貴の受け売りだけど」
 ティトは一段とボールを高く投げ上げると、三つとも受け止め、馬の鞍袋にしまった。まるで、そのついでといった調子でティトは後ろから来るカラゲルに声をかけた。
「言い忘れてたけど、あのオルテン山には魔物がいるから気をつけてね」
 カラゲルは驚く顔になった。
「なにっ、そんな大事なことを忘れるなよ。おい、クランよ。魔物がいるんだとさ」
「何の気配もないようだがな。オローも平気で空を舞っているぞ」
 クランは晴れ渡った青空を見上げた。オローは天高く円を描いて飛んでいた。
「大丈夫さ、ナビ教の隠者がいて魔物の番をしているんだから。山頂近くの魔物の洞窟の前に小屋を作ってね」
 ティトの言葉を聞いたユーグは、おやという顔になった。
「ナビ教の隠者だと。修行者だろうか。名は何と言う」
「さあ、知らないね。その人は僕が生まれるずっと前から魔物と戦っているらしいよ。山道に出て来たところを一度だけ見たことがあるけど、髪も髭もボウボウで、ズタズタのボロを着て、すごい臭いがプンプンしたよ。食べ物がないって言うんでチーズをあげたら、代わりに薬草をくれたんだ。シャーマンは魔法がかかってるとか、穢れているとか言って捨てちゃったけどね」
 ティトはユーグの姿を振り向いて言った。
「ああいうボロっちいのがナビ教の祭司かと思っていたけど、ユーグさんは違うね」
 ユーグは透き通る日差しに映える白い粗布の裾を風に揺らしていた。旅にあっても清らかな身仕舞いは忘れないユーグだ。
「隠者は山や森の深いところで修行をしているのだ。場合によっては一生かかる修行をな。そうした者たちは身なりなど構わない」
「へえ、そう。兄貴も芸は一生かかる修行だって言ってたから似たようなもんかな。僕らのシャーマンは精霊と話しているみたいだけど、隠者は魔物と話しているのかもね」
 ユーグは行く手にそびえる山を見上げ、小首をかしげた。
「魔物か……どうも気になる。その隠者の住み家は近いのか」
「少し遠回りだけど寄り道して行けないことはないよ。山の中で一泊余計に野宿するつもりで行くならね。だけどさ、洞窟には魔物がいるんだよ。近づいたら危ないよ」
 カラゲルは心配げなユーグの横顔をのぞき込んだ。
「ユーグよ。その魔物、闇の王と何か関係があるだろうか」
「ティトが生まれる前からと言うのだから関係ないかもしれないが、王国に闇が蠢いている今、魔物も勢いづいているかもしれない。隠者が魔物を防ぎきれずに暴れ出さないとも限らぬな」
 ミアレ姫がユーグを振り返って尋ねた。
「いくら隠者とはいえ、ナビ教の祭司が魔物退治などすることがあるのですか。聞いたことがありません」
「その点も気になります。そもそも魔物というが、どんな相手なのか」
 気軽な調子でクランが言った。
「行ってみればいい。さしあたり、テン族の土地へ急ぐ理由もないしな。おそらく、なんらかの精霊が悪霊と化したものだろう。ティトよ、部族のシャーマンは何だと言っていた」
「ただ、魔物だって言ってただけだよ。あと、穢れた魂の成れの果てだって言っていたかな。あっ、それじゃ、こっちの道を上だよ。少し行くと急坂になるから気をつけて」
 一行は針葉樹が生い茂る山へと分け入った。
 道はしだいに細く険しくなってきた。木の下闇は濃いが、見上げる枝の間には青空が晴れ渡っていた。
 カラゲルはユーグに尋ねた。
「いったい、ナビ教の隠者とは何だ。神殿に仕えるのがナビ教の祭司ではないのか」
「うむ、一概にそうとばかりは言えないのだ……」
 ユーグは途絶えかけているナビ教の伝統について話した。
 ナビ教の祭司になろうとする者は自分の生まれた部族の成人儀礼を経る前に部族を離れねばならない。部族の風習によるが、たいていは十二、三歳の頃だ。
「ユーグもその頃に部族を離れたのか。たしかスナ族の出だったな」
「そうだ、十二歳の時だ」
「そんな歳でどうしてナビ教の祭司になろうなどと思ったのだ。俺などは、その頃は剣を振り回すことに夢中だったぞ」
 ユーグはまじめくさった顔で言った。
「ナビ教の徒になるのはみずからこころざしてなるのでなく、いわば運命なのだ」
 ナビ教の祭司になる者は幼い頃に精霊の呼び声を聞く。そして自分の運命を悟る。
 かつてのナビ教は各部族の土地に神殿を持っていた。精霊の呼び声を聞いた少年はそこへ行き、父母と族長の許しを得て修行に入る。
「ユーグよ、少年と言ったな。祭司になれるのは男だけか」
「言うまでもなくそうだ」
「女っ気まったくなしの神殿に入れられてしまうとは運命を呪う奴もいるだろうな」
「馬鹿を言うな。そんな者がいるものか。まあ、ごくまれに戒律を破る者もいるが」
「だろうな。俺はそっちの連中となら友達になれそうだ」
 修行者となった少年たちは各地にある神殿を頼りつつ王都へ向かう。王都の大神殿で伝統の儀式を受けると、あらためて王国を放浪する修行と試練の旅に出る。
 修行場は各地にあった。草原のまっただなかに孤立してあるもの。険しい岩山の崖っぷちにあるもの。森の暗い奥深くにあるもの。それらこそ、ナビ教の徒の聖地だった。
 それらを何年もかけて遍歴すると、また王都へ戻る。いまや少年とは呼べない歳になった修行者は学僧との問答を経て正式に祭司とされ、各地の神殿に仕えるようになる。これが正統的なナビ教の祭司の道だった。
「しかし、ある程度、神殿の祭司を勤めたのち、思うところあって放浪の修行に出る者もいる。厳しい禁欲、苦行などを自らに課し、究極の悟りに至ろうとする者たちだ。彼らは神殿からも修行場からも遠く離れて、己の信念を試そうとするのだ」
「その究極の悟りとはなんだ、ユーグよ」
 カラゲルの問いにユーグは微笑を浮かべた。
「それが分かれば苦労はせん。ただ、私が思うところでは、それはさほど大げさなものではないのかも知れない。例えば、お前のような戦士が剣を構えたり、騎手が馬を駆る時の夢我夢中の心。狩人たちが獲物と我が身の間にある絆めいた何かを捉える時の心。そんなところに悟りはあるような気がする」
 ユーグの笑みには自嘲の色が混じっていた。
「まあ、そんな気がするだけだが。私は祭司としてさほど修行のできた者ではないからな。私もかつてそんな修行の旅に出たいと考えたこともあったが、王家の師傅となってシュメル王子にお仕えするようになったので思いとどまったのだ」
 ユーグは少し先を行くミアレ姫に目をやった。山道はいよいよ険しくなってきた。姫の白馬はたのもしい足取りで進んでいた。この白馬を捕らえてきたクランが姫の横に付き添っている。
 カラゲルは言った。
「おい、ユーグよ。その究極のところを捕まえたら、すごい魔法使いになれるということではないのか。それなら厳しい修行というのも、やりがいがあるな」
「カラゲルよ、ナビ教の祭司は魔法使いではないぞ。我らの魔法はダファネアへの信仰と王国を守るため、やむをえぬ時にだけ使うのだ」
「それなら今こそ、その時だろう。闇の王を撃退する魔法があってもよさそうなものだ。闇の獣をやっつける魔法だって。もし、そんなものがあるなら王都の奪還にも役に立つだろう。隠者がもしそんな魔法を知っていたら……」
 ユーグはかぶりを振った。
「いや、我らの魔法はそうしたものではない。それはシャーマンのいにしえの言葉のようなものだ。王国の精霊に語りかけ、助力を乞う。それだけのことだ。決して、何かを打ち破ったりするためのものではない」
 カラゲルは納得がいかないという顔で黙り込んだが、すぐに表情を輝かせて言った。
「しかし、ユーグよ。お前の力はこの間の奴隷商人を懲らしめた時に見たぞ。あんなことができるとはたいしたものだ……おや、なんだか風が強くなってきたな」
 その一言を言い終える間もなく山道には猛然と強風が巻き起こった。大粒の雨まで降ってきて真っ向から顔に吹き付けてきた。
 一瞬にして、あたりは嵐に変わった。山の天気は変わりやすいというが、あまりにも唐突な変化だった。
 先頭を行くティトが困惑した表情になった。吹き付けてくる雨粒に目を細めている。
「変だな、こんな嵐になるなんて。この辺じゃめったにないことだよ。どうする、引き返すかい」
 振り向いて尋ねるティトにカラゲルが怒鳴った。怒鳴らないと声が通らないほどの轟々たる風音が山道に響き渡っていた。
「隠者の小屋は近いのか」
「あと、もう少しだよ。でも、山の上はもっと吹いているかも知れない」
 嵐が一段と激しさを増した。馬までも浮足立ちはじめた。
 カラゲルはユーグに向かって叫んだ。
「おい、嵐を押し返す魔法はないのか」
「そんなもの、あってたまるか!」
 その時、ミアレ姫がクランに声をかけ、空を指さして見せた。
「クラン、あれを」
 見上げると交差する木の枝の向こうに明るい青空が見えた。空は晴れ渡っているのに一行のいる地上だけは大嵐に見舞われているのだ。
 空に円を描いていたオローが山頂の方向へ一直線に飛んで行った。
 クランは一行へ手を振って合図した。
「これはきっと魔物の仕業だ。山頂へ向かうぞ」
 一行は嵐をついて山道を駆け上がった。
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