地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第五十一章

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第五十一章

 クランとナナはさらに三日、森を彷徨った。
 なお濃い霧の中、クランは死霊を追っていた。暗い視野に映る死霊はいよいよ無残な姿に堕ちていくようだった。
 最後の頼りの聖地にたどり着くこともできず森を彷徨っている者たち。人でありながら人の姿を留めぬ者たち。深い下生えの底で泥のようになって蠢くしかできない者もいる。
 死霊たちはあてどもなく彷徨うようだったが、それでも、かすかな方向性があるようでもあった。クランはそのあいまいな動きを捉えながら進んでいった。
 死霊を見失うと、オローがどこからともなく飛んで来て先導した。ハルは辛抱強く脚を進め、下生えをかき分け、木立をすり抜けた。
 日が暮れて、さすがに疲れてくると、クランは剣をかざした。あたりの霧が氷霧に変わるとナナが野営に適した場所を見つけ、そこに留まった。
 これまで来たこともない森の奥ではあるが、ナナは自分たちがしだいに北の果てに向かっていると分かっていた。
 クランとナナは、その夜、岩山の中腹にある岩棚の上で野営した。松明のように剣を岩の割れ目に突き刺しておいて、二人は焚き火のそばに身を寄せ合った。氷霧のゆらめく空間が天幕のように二人を包んだ。
「ナナよ。森は果てしなくあるわけではあるまい。この森の向こうには何があるのだ」
「そんなことを私が知っていると思うか。ただ、部族の伝承によれば森の向こうにはとてつもなく大きな氷の山があるという。世界の終わりの日にはその氷が溶けて大洪水になる」
「今、その洪水が起こったら、この喉の渇きも癒えるだろうがな」
 食料はすでに尽き、森は乾ききっていて飲み水にすら不自由している二人だ。
 ナナは呆れたような顔で笑った。
「馬鹿な。洪水が来たら森の獣も人も流されて死に絶え、残った者も氷の中に棲んでいる鯨に食われてしまうのだ。そこからは鯨の世になる」
「その時、人は滅びるということか」
「いや、獣も人も鯨になる。より永遠に近づくのだ」
 クランは焚き火の光に青い目を向けていた。
「なるほど、鯨になって水の中を泳ぐのもいいだろうな。私はいい加減、鞍に揺られて尻が痛くなってきた」
「私もだ」
 ナナはクランの腕を叩いて笑った。ビーズの房飾りが揺れて音を立てた。
 クランは言った。
「ナナよ、古き部族の娘よ。闇の王は洪水のようなものだ。地から湧き上がり、我らを呑み込み、彷徨える死霊に変える」
「それもまた運命だと言うのか、イーグル・アイよ」
「いや違う。死霊は永遠に彷徨うばかりで新たな世を生みはしない。我らは鯨のように新たな世に生まれ変わらねばならない」
 クランとナナはさらに森の奥へと分け入った。
 飢えと渇きで二人の視野は暗く狭くなった。しかし、その代わりに別の感覚が鋭くなるようでもあった。
 いまやクランばかりでなく、ナナにさえ死霊の気配が感じ取れるようになってきた。耳元をかすめるように過ぎる冷気の流れ、目の奥に食い込んでくるような闇の感覚。そんなものが馬上の二人を包み込んだ。
 森は北の果てに近づいていた。あたりには途方に暮れ、狂乱の体の死霊が跳梁跋扈している。乱舞している。みなしごの魂が悲痛な叫び声を上げている。
 霧が薄らいできた。昼のはずなのにあたりは暗く、色彩を失って、クランとナナの視野は白と黒だけになった。
 いよいよ悪夢めいてきた視野に二人はある予感を覚えていた。
 影法師と化している木立の向こうに開けたところがあった。血と脂の臭いがあたりに立ち込めている。
 二人はそこにコルウスの姿を見出した。そっと馬を降りた二人は木の幹の陰からその様子をうかがった。
 奥が枯れ草に覆われた崖になっている。その前にコルウスは熊の毛皮を被り、背を丸めて座り込んでいた。
 火があり、あたりに食い散らかした獣の骨や臓物が散乱していた。崖の麓に見えるのは熊の巣穴らしかった。
 目を凝らして見ると、コルウスのまわりには七頭の狼が前脚に頭を載せてうずくまっていた。黒一色の目をした闇の狼たちは生気がなく、腐って土に戻りかけているように見えた。
 コルウスはうめ声をもらし、消えかけた火を棒きれでかき起こした。
「ちくしょうめ、やたら死霊ばかりが集まってきやがる。彷徨える魂なんて言うが、道案内のできるやつはいないのか。このままじゃ、永久に凍え続けなくちゃならねえ」
 鷲の刺青を隠した前髪をかき上げたコルウスは目を血走らせ、唇の端に白く脂のかすをつけている。おそらくコルウスも森の奥へ入り込みすぎて道に迷っているのだろう。
 ナナは怒りにかられ、声を震わせた。
「鷲の刺青の者め、冬眠中の熊を狩りおって。我ら部族は決してせぬことだぞ」
 クランが止める間もなく、ナナは木立の陰から飛び出し、矢を放った。
 驚いて身を起こしたコルウスの胸に矢が突き刺さった。コルウスは驚きの表情を凍りつかせたまま地面に倒れた。
 闇の狼たちがいっせいにこちらへ襲いかかってきた。生気を失っていると見えたが、獲物を目にすると血に飢えた集団と化した。
 ナナは素早い連射で三頭を倒したが、次の一頭は地を蹴って飛び、毛皮の袖口に食いついてきた。弓を捨てたナナはすかさず腰帯のナイフを抜いて獣の胴体へ突き立てた。
 獣の脇腹から血ではない漆黒の蛇の群れがあふれ出てきた。硫黄の臭いと腐臭が鼻をついたかと思うと、獣は目はうつろに、顎を開き、魂なきただの物体と化して地にくずおれた。
 すでにクランも木立から飛び出していた。剣を抜き、身をひるがえして、獣の爪と牙を避けると、次々に二頭を倒した。最後の一頭が飛びかかってきたが、これはどこからともなく飛び来たったオローが爪にかけた。
 七頭の獣は二人の周囲で腐った毛皮と化した。ヌメ光る鱗の蛇はのたうちながら凍った地面に吸い込まれていった。
「クランよ、よく来たな」
 声のした方を見ると、コルウスが胸に矢を突き立てたまま、むっくりと起き上がるところだった。熊の毛皮からのぞく漆黒の上着の胸は流れ出た血で濡れていた。
 コルウスは口の端と目の端を吊り上げて笑った。
「おい、そんなところに突っ立っていないで、火のそばへ寄りな」
 立ち上がったコルウスは片手を振ってあたりを示した。
「ようこそ、俺のコルウス王国へ。見ろ、俺は手始めに熊を殺した。熊は森の王だって言うだろ。王になりたきゃ王を殺すことだ。この毛皮は王のマント、そこの巣穴は俺の宮殿さ」
 ナナが怒りの表情を浮かべると、いったん捨てた弓を拾って構えた。矢を突きつけられたコルウスはただ嘲笑うばかりだった。クランも油断なく剣を構えていた。氷霧の剣の力でコルウスの姿はゆがんで見えた。
 コルウスは胸に突き刺さった矢を握ると力任せに引き抜いた。薄暗く色彩を失った視野に真っ赤な鮮血が飛び散るのが見えた。
 ニタリと笑ったコルウスは上着の破れ目を指で開いて見せた。傷口に黒い蛇が顔をのぞかせたかと思うと、すぐに皮膚の穴はふさがった。
「よせやい、狩人のねえちゃんよ。俺は矢なんぞで死にやしねえ。それでも身体に刺さりゃ死ぬほど痛えんだから……うう、いててっ」
 コルウスは胸を押さえ、目から血の涙をこぼした。呆気にとられたナナとクランの前でコルウスはうめきながら身体を前屈みにした。
 次の瞬間、コルウスは上着に隠した吹き矢筒を抜き、ナナを射た。
 ナナは空気を切り裂く矢音に慌てて身をよじった。毒矢は耳元すれすれを飛んでいった。
 コルウス得意のだましうちだが、狙いは外れた。
「ちぇっ、まだ肺に穴が開いてやがった。腐れ蛇もあてにならねえや」
 血走った目をパチクリさせたコルウスは薄闇を透かすようにクランを見た。
「お前の剣には妙な力が宿っているらしいな。お前たちが水の底にいるみたいに見えるぜ。こういうのを水臭いっていうのかな、我が妹よ、我が父の剣を持つ娘よ」
 クランは動じず、しかし、剣は油断なく構えていた。
「コルウスよ、王国のならず者よ。白トナカイを傷つけたのはお前だろう。なぜ、そんなことをした」
 薄笑いを浮かべたコルウスは答えた。
「分からねえか。龍が人に愛想を尽かすようにさ。闇の旦那が龍に取って代わるようにさ。そして、王国が闇の旦那のものになるようにさ」
「王国が闇に支配される。お前にはその方が生きやすいとでもいうのか。闇に媚びて生きる悪党め!」
 コルウスは片目でクランの顔を見つめた。クランも青い片目でそれを見返した。
「クランよ、どうしてお前は王国に義理立てしようとするんだ。お前はこっち側じゃねえのか。俺とお前は似たもの同士さ」
 クランはそんなことには取り合わなかった。
「白トナカイはどこにいる。教えろ」
「俺が知っているわけがないだろう。きっとどこかで朽ち果ててるさ」
「そうか。ならば、せめてお前の死体くらいは龍への手土産にせねばなるまい」
 剣を握り直したクランにコルウスは苦笑いして見せた。
「よせよ、俺は殺せないぜ」
「私の剣には光がある。お前の闇を切り裂く光だ」
「そりゃ面白い。だがよ、お前の腕で俺が斬れるかな。なにしろ俺は殺しの場数だけはみっちり踏んでいるんでな」
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