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第四十九章
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第四十九章
森に入ったとたん、クランの視野は白一色になった。目の前に白布を垂らされたようで手綱を握る手すら見えない。
耳も塞がれたようになって聞こえるのは自分とハルの息遣い、それに後ろからついてくるナナとその馬の気配だけだった。
「ナナよ、大丈夫か」
「何も見えないな。目を開けているのかどうかさえ分からん。イーグル・アイよ、これは本当に霧なのか」
「まさか、これほどとは思わなかった。いずれにせよ、龍の仕業だろう」
クランは青い目を閉じた。白い闇が黒い闇にとって変わったかと思うと、明暗反転した森の情景が脳裏に浮かんできた。
白一色で物音ひとつない森の中は彷徨える死霊で満たされていた。
生気を失い、足をひきずりながら右往左往する霊たち。男もいれば女もいる。また、どちらとも区別のつかない様子の者もいる。老いさらばえて地を這う者もいれば、へその緒のついた胎児も木の根元で蠢いていた。
すでに人の姿を失っている者も見えた。獣の霊も見えた。あるところでは地面に甲虫が群れて、さながら闇の蛇のように粘っこく波立っていた。
クランはふと、あの王都の祭りの『死者の日』のことを思った。
人の姿をした死霊はあらゆる部族の民の装束を身につけていた。今、目の当たりにする死者の霊に祭りの行列のような生気はまったくなく、色彩もまったくなかったが、その混沌とした蠢きは確かに似ていた。
クランにはこの北の森についての知識はまったくなかったが、突然、直感が教えた。
この森は王国の彷徨える死霊たちが最後にたどり着くところだと。
王都の祭りは生者たちが、いつかはきっとと願うところだった。王国の民が死ぬまでに一度はと憧れる場所だ。
ここは、この北の森は、彷徨える死者たちの呪われた運命を最後に救済する場所だった。みなしごの魂が自分でも何を求めているか分からぬうちにたどり着く、無意識の哀しい憧憬の場所なのだ。
サンペ族が守っていたのは、そういう場所だった。
クランは低く朗唱を始めた。いにしえの言葉が霧の中を沁み通っていく。
死霊たちはさめざめと泣きはじめた。よろめく足取りはそのまま、あてども知れぬ彷徨を続けている。
歩き疲れたか、がっくりくずおれた老婆が見えた。その姿はたちまち甲虫の波に呑まれ、地の底に消えていった。
このままでは、みなしごの魂を導くことなどできない。クランは悟って、朗唱をやめた。
しかし、クランにはまた別のものも見えていた。文字通り霧のようにはかなく、ひらめくように空中を漂っている精霊の姿だ。
いや、姿とは言えない。気配のようなものだ。影絵を成す木立の間を煙のように、鳥のように飛んでいく。
クランはそれを追おうと決めた。これこそ微かな希望の光だ。
クランは森の行く手に見える地形や岩の形、木々の様子をナナに伝えた。
精霊の流れを追う道とナナが教える聖地への道は一致しているようだった。
ある所まで来た時、クランはサンペ族らしき二人の死霊を見た。
二人とも首筋から肩、胸に大きな傷を負っていた。傷は黒く闇をたたえ、二人の目は焦点の定まらぬ狂気に似た色を放っていた。
クランは腰に差したセレチェンの剣が震えるのを感じた。剣を抜いて指し示すと、剣の光によってナナの目にも二人の姿が見えた。
ナナは二人の名前を叫んだ。一人はナナの兄だ。狩りの要領を教えてくれた、年の離れた兄がナナは好きだった。
クランは言った。
「あの二人にはお前の声は聞こえない。二人は死霊と化しているのだ。聖地を浄化することができれば、みなしごの魂を導くことができる」
風に吹きさらわれたかのように死霊の姿はかき消えた。クランは剣を納めた。
集落を出る時のナナの説明では聖地までは馬でも丸一日以上かかるとのことだった。しかし、この霧の中では時間と空間の経過に異変があるようだった。
クランが鷲の視野を通して見た森の姿を語ると、ナナは何度も、本当かと聞き返した。そんなに進んでいるわけがないというのだ。
それに加え、クランもナナも、まったく空腹を覚えず喉が乾きもしなかった。
馬の足取りはいたって穏やかで鞍の上で感じる揺れは眠気を覚えるほどだった。まるで同じ場所で足踏みし続けているかのようだった。
クランはめまいを覚えた。時が静止したようでもあり、一瞬のうちに千年もの時が過ぎ去るようでもある。頭の芯で血が逆流するような感覚があった。
ナナも同じらしかった。一度は鞍から落ちかけて慌てて手綱を取り直した。
「イーグル・アイよ、ほんとうにこの道でよいと思うか」
「それは私がお前に聞くのだぞ。族長の娘よ」
「分からん。いったい何が起ころうとしているのだ」
クランはあの琥珀の龍のことを思い出した。脳裏にいにしえの言葉が沸騰しあふれかえった。
「龍だ。我らは龍の領域に入ったのだ」
二人はさらに鬱蒼と生い茂った森の奥へと入っていった。
木立の間は狭くなり、下生えは深くなった。それをかき分けるように進むことができるのはイーグル・アイの視野というよりは、ハルの持つ獣の本能によるものだった。
道はしだいに下っているように思えた。二人は深い谷へと降りていた。
足元に水の音がしはじめた。細い流れがあるようだ。クランがそれを言うと、ナナは答えた。
「そろそろ聖地に近づいているぞ。この谷を突き当たりまで進めば大きな木に行き当たるはずだ」
風の音も聞こえてきた。木の葉や草のそよぎも聞こえてきた。
頭上はまだ霧に覆われていたが、オローがクランのもとへ帰ってきた。オローも役目が済みつつあることに気付いたのだろう。
周囲は霧が薄くなってきた。白い壁のようだった霧の中に流れが見て取れるようになった。急にひんやりと霧の湿気が顔に感じられた。
しだいに視野が広がり、谷の奥に開けた場所があるのが見えた。頭上の霧は晴れていなかったが、濃い緑の色彩が目に蘇ってきた。
「おかしいな、ここは大きな木が生えておったはずだ。枯れてしまったのか」
ナナがつぶやくように言った。ナナはすでにクランの横へ馬を進めていた。
二人は一瞬だが、フッと気が遠くなるのを感じた。
かすんだ視野が元に戻った時、目の前に龍がいた。
聖地の所在を示す巨岩の上に龍は眠っていた。巨岩を抱く手足は木の根と化していた。さながら長年の間に伸びた木の根が岩を抱き込んだように。
翡翠の緑を帯びた半透明の鱗が龍の身体を覆っていた。鱗には細かな葉脈が走り、樹液がその中を流れているのが見えた。
引き込まれるようになってじっと見ていると、自分が目だけの存在になったような気になる。
色とりどりの花がおぼろげな影となって鱗の奥にひらめいた。花は開いては枯れ、枯れては開くことを繰り返していた。花粉がこぼれて宙に舞った。森の中でクランが見た精霊の面影がそこにはあった。
二人の娘の目はさらに奥へと引き込まれた。胞子を放つ微細な菌が触手を伸ばすように繁殖していく。奇妙に底光りする微小な枝や幹が限りなく分岐しながら広がっていき、二人の視野の中でそれは巨大な森と化した。
それらの時間の過ぎ行きは一瞬でもあり、また永遠でもあると感じられた。気が遠くなるようで、身体までばらばらに砕けるかと思われた時、地鳴りのような声が谷間に響いた。
我に返った二人は龍を見た。龍が片目を開けていた。
ナナは得体の知れぬ轟きのみを聞いたが、クランは龍の言葉を解した。
それは、いにしえの言葉だった。
龍が問うた。
「お前は人間か」
クランは答えた。
「見てのとおりだ」
龍はゆっくりとまばたきした。
「そのような人間がいるものか」
クランは尋ねた。
「翡翠の龍よ、この霧はお前のしたことだろう。何があった。教えてくれ」
龍はまたまばたきした。どこか遠くから何者かを呼び出そうとしているように瞳の焦点が遠くへ向かい、また戻って来てクランを見た。
「私の使いの白トナカイが人によって傷つけられた。白トナカイの叫び声は森の隅々にまで轟いた。それによって何が起こったかは分かった。しかし、それっきり声は聞こえなくなり、ここへも帰って来ない。白トナカイは森のどこかを彷徨っているはずだ」
クランはサンペ族の禁忌である御使いの正体が白トナカイであると知った。
「御使いを傷つけたのはサンペ族ではない。彼らの罪ではなかろう」
「それは人の罪だ。人の罪は人が償え」
クランはナナを示して言った。
「この者を見てくれ。サンペ族の族長の娘だ。償いのため、我が身を生贄に捧げる覚悟だ」
龍の吐く息が洞窟を吹き過ぎる風のような音をさせた。龍は笑ったのだった。
「母になる者は生贄にはなれぬ」
クランは意外なことを聞いて驚いた。ナンガの言葉が記憶に蘇ってきた。
「翡翠の龍よ、精霊の王よ。お前は人に何を求めているのだ。教えてくれ」
「私の白トナカイをここへ連れ戻すのだ。白トナカイは迷っている」
「ならば、霧を晴らしてくれ。そうしたら探すことができる」
「だめだ。森には邪悪な人間がうろついている。その者は闇を背負っている。お前が精霊と人の間に立つ者ならば、その者は死霊と人の間を取り持っている」
クランは無駄だと知りつつ言った。
「その者が御使いを傷つけたのだ。コルウスという。サンペ族ではない」
「人の名前など私には意味がない」
取り付く島もない龍の様子にクランもややいらだってきた。
「この霧の中を、どう探せというのだ」
龍はクランをなだめるつもりか、またゆっくりとまばたきした。
「お前の剣には光が宿っている。光と闇は背中合わせにあるものだ。お前には森に闇の王が迫っているのが分かるか」
「闇の王だと。闇の蛇ならば、川向うで会ったが」
「同じことだ。闇の王に実体はない。闇の力は凍てつく霜のように森の大地に染み通って来ている。私はここでそれを押し戻そうとしているのだ。ここから動けぬ」
どうだ分かるか、というように龍はもう一度、まばたきした。
「イーグル・アイよ。お前の剣に霧を払う力を授けよう。ただし、これはお前の身のまわりのみのことだ」
クランの腰で剣が唸りを上げた。剣を抜くと冷気が走り、あたりを取り囲んでいた白い霧が透き通る氷霧と化してきらめいた。
「気をつけることだ。その力で氷の結晶が宙に充満する。物の形はゆらめいて、ゆがんで見える。夢のようにな」
クランは剣を鞘に納めて言った。
「私はある龍に言われた。私の存在など、その龍が見る夢に過ぎないと」
「たとえ夢でもなすべきことをなせ。後悔とともに目覚める前に……」
翡翠の龍はそれだけ言うと、また眠り込んでしまったようだった。
クランはナナを振り返った。呆然とした顔だ。ナナには、いにしえの言葉は分からない。
「問答は済んだ。さあ、行くぞ」
「行くぞとは……イーグル・アイよ、龍はなんと言ったのだ。生贄のことはどうなった」
クランは、それはと言って咳き込んだ。いにしえの言葉を使った後は喉が変になることがあった。
「生贄だと……取り返しのつかぬことをしおって……とにかく、白トナカイを見つけて連れて来いと、これが龍の求めだ」
森に入ったとたん、クランの視野は白一色になった。目の前に白布を垂らされたようで手綱を握る手すら見えない。
耳も塞がれたようになって聞こえるのは自分とハルの息遣い、それに後ろからついてくるナナとその馬の気配だけだった。
「ナナよ、大丈夫か」
「何も見えないな。目を開けているのかどうかさえ分からん。イーグル・アイよ、これは本当に霧なのか」
「まさか、これほどとは思わなかった。いずれにせよ、龍の仕業だろう」
クランは青い目を閉じた。白い闇が黒い闇にとって変わったかと思うと、明暗反転した森の情景が脳裏に浮かんできた。
白一色で物音ひとつない森の中は彷徨える死霊で満たされていた。
生気を失い、足をひきずりながら右往左往する霊たち。男もいれば女もいる。また、どちらとも区別のつかない様子の者もいる。老いさらばえて地を這う者もいれば、へその緒のついた胎児も木の根元で蠢いていた。
すでに人の姿を失っている者も見えた。獣の霊も見えた。あるところでは地面に甲虫が群れて、さながら闇の蛇のように粘っこく波立っていた。
クランはふと、あの王都の祭りの『死者の日』のことを思った。
人の姿をした死霊はあらゆる部族の民の装束を身につけていた。今、目の当たりにする死者の霊に祭りの行列のような生気はまったくなく、色彩もまったくなかったが、その混沌とした蠢きは確かに似ていた。
クランにはこの北の森についての知識はまったくなかったが、突然、直感が教えた。
この森は王国の彷徨える死霊たちが最後にたどり着くところだと。
王都の祭りは生者たちが、いつかはきっとと願うところだった。王国の民が死ぬまでに一度はと憧れる場所だ。
ここは、この北の森は、彷徨える死者たちの呪われた運命を最後に救済する場所だった。みなしごの魂が自分でも何を求めているか分からぬうちにたどり着く、無意識の哀しい憧憬の場所なのだ。
サンペ族が守っていたのは、そういう場所だった。
クランは低く朗唱を始めた。いにしえの言葉が霧の中を沁み通っていく。
死霊たちはさめざめと泣きはじめた。よろめく足取りはそのまま、あてども知れぬ彷徨を続けている。
歩き疲れたか、がっくりくずおれた老婆が見えた。その姿はたちまち甲虫の波に呑まれ、地の底に消えていった。
このままでは、みなしごの魂を導くことなどできない。クランは悟って、朗唱をやめた。
しかし、クランにはまた別のものも見えていた。文字通り霧のようにはかなく、ひらめくように空中を漂っている精霊の姿だ。
いや、姿とは言えない。気配のようなものだ。影絵を成す木立の間を煙のように、鳥のように飛んでいく。
クランはそれを追おうと決めた。これこそ微かな希望の光だ。
クランは森の行く手に見える地形や岩の形、木々の様子をナナに伝えた。
精霊の流れを追う道とナナが教える聖地への道は一致しているようだった。
ある所まで来た時、クランはサンペ族らしき二人の死霊を見た。
二人とも首筋から肩、胸に大きな傷を負っていた。傷は黒く闇をたたえ、二人の目は焦点の定まらぬ狂気に似た色を放っていた。
クランは腰に差したセレチェンの剣が震えるのを感じた。剣を抜いて指し示すと、剣の光によってナナの目にも二人の姿が見えた。
ナナは二人の名前を叫んだ。一人はナナの兄だ。狩りの要領を教えてくれた、年の離れた兄がナナは好きだった。
クランは言った。
「あの二人にはお前の声は聞こえない。二人は死霊と化しているのだ。聖地を浄化することができれば、みなしごの魂を導くことができる」
風に吹きさらわれたかのように死霊の姿はかき消えた。クランは剣を納めた。
集落を出る時のナナの説明では聖地までは馬でも丸一日以上かかるとのことだった。しかし、この霧の中では時間と空間の経過に異変があるようだった。
クランが鷲の視野を通して見た森の姿を語ると、ナナは何度も、本当かと聞き返した。そんなに進んでいるわけがないというのだ。
それに加え、クランもナナも、まったく空腹を覚えず喉が乾きもしなかった。
馬の足取りはいたって穏やかで鞍の上で感じる揺れは眠気を覚えるほどだった。まるで同じ場所で足踏みし続けているかのようだった。
クランはめまいを覚えた。時が静止したようでもあり、一瞬のうちに千年もの時が過ぎ去るようでもある。頭の芯で血が逆流するような感覚があった。
ナナも同じらしかった。一度は鞍から落ちかけて慌てて手綱を取り直した。
「イーグル・アイよ、ほんとうにこの道でよいと思うか」
「それは私がお前に聞くのだぞ。族長の娘よ」
「分からん。いったい何が起ころうとしているのだ」
クランはあの琥珀の龍のことを思い出した。脳裏にいにしえの言葉が沸騰しあふれかえった。
「龍だ。我らは龍の領域に入ったのだ」
二人はさらに鬱蒼と生い茂った森の奥へと入っていった。
木立の間は狭くなり、下生えは深くなった。それをかき分けるように進むことができるのはイーグル・アイの視野というよりは、ハルの持つ獣の本能によるものだった。
道はしだいに下っているように思えた。二人は深い谷へと降りていた。
足元に水の音がしはじめた。細い流れがあるようだ。クランがそれを言うと、ナナは答えた。
「そろそろ聖地に近づいているぞ。この谷を突き当たりまで進めば大きな木に行き当たるはずだ」
風の音も聞こえてきた。木の葉や草のそよぎも聞こえてきた。
頭上はまだ霧に覆われていたが、オローがクランのもとへ帰ってきた。オローも役目が済みつつあることに気付いたのだろう。
周囲は霧が薄くなってきた。白い壁のようだった霧の中に流れが見て取れるようになった。急にひんやりと霧の湿気が顔に感じられた。
しだいに視野が広がり、谷の奥に開けた場所があるのが見えた。頭上の霧は晴れていなかったが、濃い緑の色彩が目に蘇ってきた。
「おかしいな、ここは大きな木が生えておったはずだ。枯れてしまったのか」
ナナがつぶやくように言った。ナナはすでにクランの横へ馬を進めていた。
二人は一瞬だが、フッと気が遠くなるのを感じた。
かすんだ視野が元に戻った時、目の前に龍がいた。
聖地の所在を示す巨岩の上に龍は眠っていた。巨岩を抱く手足は木の根と化していた。さながら長年の間に伸びた木の根が岩を抱き込んだように。
翡翠の緑を帯びた半透明の鱗が龍の身体を覆っていた。鱗には細かな葉脈が走り、樹液がその中を流れているのが見えた。
引き込まれるようになってじっと見ていると、自分が目だけの存在になったような気になる。
色とりどりの花がおぼろげな影となって鱗の奥にひらめいた。花は開いては枯れ、枯れては開くことを繰り返していた。花粉がこぼれて宙に舞った。森の中でクランが見た精霊の面影がそこにはあった。
二人の娘の目はさらに奥へと引き込まれた。胞子を放つ微細な菌が触手を伸ばすように繁殖していく。奇妙に底光りする微小な枝や幹が限りなく分岐しながら広がっていき、二人の視野の中でそれは巨大な森と化した。
それらの時間の過ぎ行きは一瞬でもあり、また永遠でもあると感じられた。気が遠くなるようで、身体までばらばらに砕けるかと思われた時、地鳴りのような声が谷間に響いた。
我に返った二人は龍を見た。龍が片目を開けていた。
ナナは得体の知れぬ轟きのみを聞いたが、クランは龍の言葉を解した。
それは、いにしえの言葉だった。
龍が問うた。
「お前は人間か」
クランは答えた。
「見てのとおりだ」
龍はゆっくりとまばたきした。
「そのような人間がいるものか」
クランは尋ねた。
「翡翠の龍よ、この霧はお前のしたことだろう。何があった。教えてくれ」
龍はまたまばたきした。どこか遠くから何者かを呼び出そうとしているように瞳の焦点が遠くへ向かい、また戻って来てクランを見た。
「私の使いの白トナカイが人によって傷つけられた。白トナカイの叫び声は森の隅々にまで轟いた。それによって何が起こったかは分かった。しかし、それっきり声は聞こえなくなり、ここへも帰って来ない。白トナカイは森のどこかを彷徨っているはずだ」
クランはサンペ族の禁忌である御使いの正体が白トナカイであると知った。
「御使いを傷つけたのはサンペ族ではない。彼らの罪ではなかろう」
「それは人の罪だ。人の罪は人が償え」
クランはナナを示して言った。
「この者を見てくれ。サンペ族の族長の娘だ。償いのため、我が身を生贄に捧げる覚悟だ」
龍の吐く息が洞窟を吹き過ぎる風のような音をさせた。龍は笑ったのだった。
「母になる者は生贄にはなれぬ」
クランは意外なことを聞いて驚いた。ナンガの言葉が記憶に蘇ってきた。
「翡翠の龍よ、精霊の王よ。お前は人に何を求めているのだ。教えてくれ」
「私の白トナカイをここへ連れ戻すのだ。白トナカイは迷っている」
「ならば、霧を晴らしてくれ。そうしたら探すことができる」
「だめだ。森には邪悪な人間がうろついている。その者は闇を背負っている。お前が精霊と人の間に立つ者ならば、その者は死霊と人の間を取り持っている」
クランは無駄だと知りつつ言った。
「その者が御使いを傷つけたのだ。コルウスという。サンペ族ではない」
「人の名前など私には意味がない」
取り付く島もない龍の様子にクランもややいらだってきた。
「この霧の中を、どう探せというのだ」
龍はクランをなだめるつもりか、またゆっくりとまばたきした。
「お前の剣には光が宿っている。光と闇は背中合わせにあるものだ。お前には森に闇の王が迫っているのが分かるか」
「闇の王だと。闇の蛇ならば、川向うで会ったが」
「同じことだ。闇の王に実体はない。闇の力は凍てつく霜のように森の大地に染み通って来ている。私はここでそれを押し戻そうとしているのだ。ここから動けぬ」
どうだ分かるか、というように龍はもう一度、まばたきした。
「イーグル・アイよ。お前の剣に霧を払う力を授けよう。ただし、これはお前の身のまわりのみのことだ」
クランの腰で剣が唸りを上げた。剣を抜くと冷気が走り、あたりを取り囲んでいた白い霧が透き通る氷霧と化してきらめいた。
「気をつけることだ。その力で氷の結晶が宙に充満する。物の形はゆらめいて、ゆがんで見える。夢のようにな」
クランは剣を鞘に納めて言った。
「私はある龍に言われた。私の存在など、その龍が見る夢に過ぎないと」
「たとえ夢でもなすべきことをなせ。後悔とともに目覚める前に……」
翡翠の龍はそれだけ言うと、また眠り込んでしまったようだった。
クランはナナを振り返った。呆然とした顔だ。ナナには、いにしえの言葉は分からない。
「問答は済んだ。さあ、行くぞ」
「行くぞとは……イーグル・アイよ、龍はなんと言ったのだ。生贄のことはどうなった」
クランは、それはと言って咳き込んだ。いにしえの言葉を使った後は喉が変になることがあった。
「生贄だと……取り返しのつかぬことをしおって……とにかく、白トナカイを見つけて連れて来いと、これが龍の求めだ」
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