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第四十六章
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第四十六章
同じ頃、サンペ族の集落へ矢傷を負った娘がよろめきながら逃げ込んで来た。
顔は土気色に変わり、目は焦点が合わないようだった。肩の傷から血が流れ、指先から地面にしたたっていた。
集落ではアナンたちの出奔が騒ぎになっていた。部族の民は大天幕のまわりに集まって、いなくなった者を調べているところだった。
「あっ、うちの娘が帰って来た」
矢傷を負った娘は駆け寄った父母の腕の中に倒れ込んだ。
すぐに部族の医者が傷口を調べた。傷はほんの小さなものに過ぎなかった。それなのに娘は口の端に泡を噴き、細い身体を痙攣させていた。
「これは毒だ。傷は矢のものに間違いない。毒矢で射られたのだ」
父母が何があったのだと問うと、娘は虫の息でアナンの名前を言い、そのまま息を引き取った。
知らせを聞いた族長オホタ、二人の長老、そしてナナが大天幕から飛び出して来た。
ナナは娘宿のかしらだった。倒れている娘を見ると雷に打たれたようになって立ちすくんだ。この娘はナナを慕っていた。カラゲル一行が集落に到着した時、真っ先にナナに知らせたのはこの娘だった。
オホタは部族の医者から娘の今際の際の言葉を聞くと、娘を喪って泣き叫んでいる親たちを慰め、ナナのところへ来た。
「アナンに毒矢を射かけられたらしい。おそらく、ここへ戻ろうとして止められたのだろう」
ナナは満面に怒りの色を浮かび上がらせた。腰帯のナイフを握り締めると血を吐くように叫んだ。
「アナンめ、部族の民に、それも女に矢を向けるとは。性根の腐った卑怯者め、生かしてはおかんぞ!」
そこへナンガがやって来た。ナンガは集落に留まった若者宿の男たちに話を聞いていたところだった。
「ナナよ、落ち着け。出奔した者たちが心配だ。どうやら、川向こうの宿駅に手引をする者がいるらしい。女だと言うが、どうも怪しい」
若者宿の男たちはアナンの口止めのせいで、なかなか話そうとしなかったが、ナンガの説得でようやく事情が分かったのだった。
アナンの説明を聞いた族長オホタは気遣わしげな表情になった。
「よし、捜索隊を出そう。ナンガ、男たちに声をかけてくれ。私も行く」
ナンガはかぶりを振った。
「オホタよ、あなたはここにいてください。族長が動いちゃ、部族の民も動揺するでしょう。出奔した連中も族長が呼び戻しに来たとなると、かえって反発するかもしれない。どうか私に任せてください。なんとかして連れ戻しますから」
「よかろう。ナンガよ、お前は若者宿の男たちを率いるといい。若い者同士、よく話して聞かせるのだ。一行がどこまで行ったか分からないが、お前ならば地理にも明るい。よもやアナンにしてやられることもなかろう」
若者宿の男たちはナンガの後ろで小さくなっていたが、声を励まして言った。
「俺たちも行って必ず連れ戻します。アナンはこの頃、頭がおかしくなっていたのだ。まさか、こんなことになるとは」
そこへカラゲルも姿を見せた。カラゲルたち四人は客用にしつらえられた天幕にいたが、部族の民の騒ぐ声で外へ出てきたのだった。
「ナンガよ。差し出がましいようだが、俺も加えてくれないか。あの渡し場の集落へ向かったのなら、また闇の蛇と出くわすかも知れない。あれと戦ったことがある者がいた方がいいだろう」
闇の蛇と聞いて部族の民は騒ぎだした。
ナンガから聞いて知ってはいるが、それを目の当たりにした者はいなかった。闇の王が部族に迫っているらしいことが急に生々しく感じられた。
突然、死んだ娘の父母の大声が聞こえてきた。嘆きつつ哀願する声だった。
「シャーマンさま、青い目のシャーマンさま。どうか、お力でもって私の娘の魂を呼び戻してください。我が娘はまだ死ぬのには早すぎます!」
娘の父母にすがりつかれていたのはクランだった。激しく上着の袖を引かれてビーズの飾りが音をたてた。
すぐ脇に付き添っていたブンド族のシャーマンがその手を振りほどいた。
「これ、無理を言うものではない。シャーマンの力でどうにかできるものなら、とっくにやっておる。その娘の魂はすでに身体を離れてしまっている。誰であれ、呼び戻すことなどできはせぬ」
父母はクランの足元にうずくまり泣き出した。
クランは口の中で、済まないとつぶやき、後ずさるしかなかった。
ブンド族のシャーマンが言った。
「イーグル・アイよ、あなたが謝ることはありません。シャーマンは魔法使いではない。できることとできないことがある。あの娘の魂を呼び戻すことはできなくても、部族の聖地へ導いてやることはできます。どうか、森の霧を払ってください」
ブンド族のシャーマンは、また娘の死体のそばで泣きわめきだした父母へ魂の行方について説いてやっていた。しだいに二人は気を落ち着かせていった。
しかし、娘の死体の反対側ではナナがいまだ怒り狂っていた。
「おい、ナンガよ。私を置いて行くな。この娘の仇を取る。私は娘宿のかしらだ。このことには責任がある」
捜索隊の男たちに指示を出していたナンガはナナの剣幕を危ぶむ顔になった。
「ナナよ、これは仇討ちではない。部族の危機だ。アナンは生かして連れ帰り、事情を聞かねばならない。そうしなければ、また同じような者が出て、いずれ部族はばらばらになってしまう」
「いやだ! 私はなんとしても……」
ナナはいきなりナイフを抜き、死んだ娘の矢傷と同じところを斬りつけた。上着の袖に鮮血がにじみ出た。
部族の民はどよめき、娘の父母さえ驚きの目を見張った。
「これは血の誓いだ。我が身に引き換えても、仇を……」
その時、クランがきっぱりとした声で言った。
「ナナよ、お前は私と一緒に来るのだ。森へ行かねばならない。部族の絆が断ち切れる前に」
クランの青い片目に決意の色があった。時は今だ。部族の魂が散り散りばらばらにならぬうちに。死んだ娘の魂がみなしごになって彷徨うことのないように。
ナナが不満げに何か言おうとするのをクランは制した。
「ナナよ。族長の娘よ。お前はもっと大きなもののために血を流さねばならない。それが、その娘の死に報いる道だ」
同じ頃、サンペ族の集落へ矢傷を負った娘がよろめきながら逃げ込んで来た。
顔は土気色に変わり、目は焦点が合わないようだった。肩の傷から血が流れ、指先から地面にしたたっていた。
集落ではアナンたちの出奔が騒ぎになっていた。部族の民は大天幕のまわりに集まって、いなくなった者を調べているところだった。
「あっ、うちの娘が帰って来た」
矢傷を負った娘は駆け寄った父母の腕の中に倒れ込んだ。
すぐに部族の医者が傷口を調べた。傷はほんの小さなものに過ぎなかった。それなのに娘は口の端に泡を噴き、細い身体を痙攣させていた。
「これは毒だ。傷は矢のものに間違いない。毒矢で射られたのだ」
父母が何があったのだと問うと、娘は虫の息でアナンの名前を言い、そのまま息を引き取った。
知らせを聞いた族長オホタ、二人の長老、そしてナナが大天幕から飛び出して来た。
ナナは娘宿のかしらだった。倒れている娘を見ると雷に打たれたようになって立ちすくんだ。この娘はナナを慕っていた。カラゲル一行が集落に到着した時、真っ先にナナに知らせたのはこの娘だった。
オホタは部族の医者から娘の今際の際の言葉を聞くと、娘を喪って泣き叫んでいる親たちを慰め、ナナのところへ来た。
「アナンに毒矢を射かけられたらしい。おそらく、ここへ戻ろうとして止められたのだろう」
ナナは満面に怒りの色を浮かび上がらせた。腰帯のナイフを握り締めると血を吐くように叫んだ。
「アナンめ、部族の民に、それも女に矢を向けるとは。性根の腐った卑怯者め、生かしてはおかんぞ!」
そこへナンガがやって来た。ナンガは集落に留まった若者宿の男たちに話を聞いていたところだった。
「ナナよ、落ち着け。出奔した者たちが心配だ。どうやら、川向こうの宿駅に手引をする者がいるらしい。女だと言うが、どうも怪しい」
若者宿の男たちはアナンの口止めのせいで、なかなか話そうとしなかったが、ナンガの説得でようやく事情が分かったのだった。
アナンの説明を聞いた族長オホタは気遣わしげな表情になった。
「よし、捜索隊を出そう。ナンガ、男たちに声をかけてくれ。私も行く」
ナンガはかぶりを振った。
「オホタよ、あなたはここにいてください。族長が動いちゃ、部族の民も動揺するでしょう。出奔した連中も族長が呼び戻しに来たとなると、かえって反発するかもしれない。どうか私に任せてください。なんとかして連れ戻しますから」
「よかろう。ナンガよ、お前は若者宿の男たちを率いるといい。若い者同士、よく話して聞かせるのだ。一行がどこまで行ったか分からないが、お前ならば地理にも明るい。よもやアナンにしてやられることもなかろう」
若者宿の男たちはナンガの後ろで小さくなっていたが、声を励まして言った。
「俺たちも行って必ず連れ戻します。アナンはこの頃、頭がおかしくなっていたのだ。まさか、こんなことになるとは」
そこへカラゲルも姿を見せた。カラゲルたち四人は客用にしつらえられた天幕にいたが、部族の民の騒ぐ声で外へ出てきたのだった。
「ナンガよ。差し出がましいようだが、俺も加えてくれないか。あの渡し場の集落へ向かったのなら、また闇の蛇と出くわすかも知れない。あれと戦ったことがある者がいた方がいいだろう」
闇の蛇と聞いて部族の民は騒ぎだした。
ナンガから聞いて知ってはいるが、それを目の当たりにした者はいなかった。闇の王が部族に迫っているらしいことが急に生々しく感じられた。
突然、死んだ娘の父母の大声が聞こえてきた。嘆きつつ哀願する声だった。
「シャーマンさま、青い目のシャーマンさま。どうか、お力でもって私の娘の魂を呼び戻してください。我が娘はまだ死ぬのには早すぎます!」
娘の父母にすがりつかれていたのはクランだった。激しく上着の袖を引かれてビーズの飾りが音をたてた。
すぐ脇に付き添っていたブンド族のシャーマンがその手を振りほどいた。
「これ、無理を言うものではない。シャーマンの力でどうにかできるものなら、とっくにやっておる。その娘の魂はすでに身体を離れてしまっている。誰であれ、呼び戻すことなどできはせぬ」
父母はクランの足元にうずくまり泣き出した。
クランは口の中で、済まないとつぶやき、後ずさるしかなかった。
ブンド族のシャーマンが言った。
「イーグル・アイよ、あなたが謝ることはありません。シャーマンは魔法使いではない。できることとできないことがある。あの娘の魂を呼び戻すことはできなくても、部族の聖地へ導いてやることはできます。どうか、森の霧を払ってください」
ブンド族のシャーマンは、また娘の死体のそばで泣きわめきだした父母へ魂の行方について説いてやっていた。しだいに二人は気を落ち着かせていった。
しかし、娘の死体の反対側ではナナがいまだ怒り狂っていた。
「おい、ナンガよ。私を置いて行くな。この娘の仇を取る。私は娘宿のかしらだ。このことには責任がある」
捜索隊の男たちに指示を出していたナンガはナナの剣幕を危ぶむ顔になった。
「ナナよ、これは仇討ちではない。部族の危機だ。アナンは生かして連れ帰り、事情を聞かねばならない。そうしなければ、また同じような者が出て、いずれ部族はばらばらになってしまう」
「いやだ! 私はなんとしても……」
ナナはいきなりナイフを抜き、死んだ娘の矢傷と同じところを斬りつけた。上着の袖に鮮血がにじみ出た。
部族の民はどよめき、娘の父母さえ驚きの目を見張った。
「これは血の誓いだ。我が身に引き換えても、仇を……」
その時、クランがきっぱりとした声で言った。
「ナナよ、お前は私と一緒に来るのだ。森へ行かねばならない。部族の絆が断ち切れる前に」
クランの青い片目に決意の色があった。時は今だ。部族の魂が散り散りばらばらにならぬうちに。死んだ娘の魂がみなしごになって彷徨うことのないように。
ナナが不満げに何か言おうとするのをクランは制した。
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