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第四十五章

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第四十五章

 次の日の夜明け前。
 部族の民の目を避けつつ、サンペ族の集落を出ていく人影があった。
 若者宿の男たちのうちの二十人ほど。彼らは馬に乗っていた。
 男たちの馬に囲まれて馬車が二台見えた。一頭立ての荷馬車で幌はない。こちらには娘宿の女たちが十人ほど分乗していた。
 先頭に立っているのはアナンだった。この人数はアナンが思っていたのよりは少なかった。いざ部族を離れるとなると二の足を踏む者が多かった。
 あたりはまだ暗い。それに今朝はいつもより霧が濃いようで、集落の中にまで乳のような霧が入り込んでいた。これは彼らにとって好都合だった。
 集落の囲いを出てしばらく行くうちに馬車の中からすすり泣くような声が聞こえてきた。今になって不安になった女たちがいるようだ。
「おい、アナンよ。本当に大丈夫なんだろうな」
 男の中にも不安を口にする者がいた。
 部族を割って出るということ。北の森を見捨てるということ。これは並大抵のことではなかった。これはみずからの生命の源から自分を切り離すということだった。
 もちろんそんなことで彼らが死ぬわけではない。ナンガやナンガの父のような流れ者も王国には大勢いた。流れ者には放浪の末に得た流れ者の『永遠』があった。
 しかし、いま部族を離れていくこの者たちには、まだそんな覚悟はなかった。
「今頃になって何をほざいているんだ。不安なら部族のもとへ帰ってもいいが、ただで帰しはしないぞ」
 アナンは腰帯につけたナイフを叩いて見せた。
「いや、不安ということもないが、お前が頼りにしているという女、素性が知れないのだろう」
「それがどうした。ココは自由な女だ。そして、俺たちも自由だ。何だってできるのだ。何だってやってやるぞ」
 一行は川沿いのまばらな森にさしかかっていた。夜明け前の薄闇があたりを青黒く見せている。馬の蹄が霜で凍った土を踏む音が妙に大きく聞こえた。
 その時、馬車の一つから、私、帰ると叫んで飛び降りた者がいた。まだ、十二、三歳の少女で故郷を離れる不安に耐えられなくなったのだった。
 少女は霜の降りた地面の上を集落へ向かって駆け出した。
 振り返ったアナンは肩にかけていた弓を素早く構えると矢をつがえた。
「何をする、アナン!」
 すぐ横にいた男がアナンの腕をつかんだおかげで矢は少女の肩すれすれをかすめてそれた。
 少女は悲鳴を上げ、肩に手をやると必死になって木立の間を駆け抜けていった。肩から血が出ているのが薄暗い中でも見てとれた。
 アナンはつかまれた腕をふりほどき、怒鳴り声を上げた。
「なぜ邪魔をした。あの娘を追わねば」
「帰りたい者は帰らせてやればいいだろう」
「追っ手がかかったらどうする」
「追っ手だと。お前が誰にも言わずに出て来いと言うからそうしたが、我らは罪人ではないぞ」
 一行の最後尾にいた男がふと気になって、アナンの放った矢を見にいった。矢は凍った地面に突き刺さって細く白煙を上げていた。
 男は矢を引き抜くと、その先に鼻を近づけた。ツンと来る異臭が男の顔をしかめさせた。
 男はその矢を手にアナンのところへ駆け戻った。
「アナンよ、この矢は何だ。お前は矢に毒を塗っているな」
 サンペ族にとって矢に毒を塗るなどというのは狩人としてあるまじきことだった。一行から非難と不安の入り混じった声が上がった。
 アナンは落ち着き払っていた。口元に笑みすら浮かべていた。
「そうだ。その毒はな、これから俺たちが会うココにもらったのだ。これさえあれば、命中せずとも矢の先でかすめさえすれば獲物をものにできるのだ。七本に一本しか当てにならぬ精霊の力など頼らなくていいのだ。これこそ、『技術』というものだ」
 馬車の女たちの間から悲鳴がもれた。
「なんだって。それじゃ、あの子はどうなってしまうの。肩に傷を負っていたじゃないの」
「勘違いするな。俺はあいつを引き留めようとしただけだ。殺すつもりなどあるものか。なに、死にはせん。狩りに使えるからと言ってココがくれたのだ。そんなに強い毒ではないはずだ。おい、みんな聞け」
 アナンは馬の上から怒鳴るような声で言った。
「他にも逃げたい者はいるか。いたら、次こそ俺の弓で胸の真ん中を射抜いてやる」
 鞍の上で弓を構えたアナンは薄闇の中でもそれと分かるほど目をギラギラと輝かせていた。アナンはココの魔性の力に骨がらみにからみ取られて、理性を失いかけていたのだった。
 部族一の射手であるアナンの腕は皆が知っていた。次々に矢をつがえて放つ速射も得意だ。誰かが逃げ出せば何人死ぬか分かったものではない。
 一行はアナンに追い立てられるようにして進んでいった。どの顔にも、こんなつもりじゃなかったと書いてあった。
 川沿いのまばらな森を抜けた一行は渡し場にたどり着いた。あたりはしだいに明るくなってきた。鈍い灰色に沈んだ川の面には霧が薄く漂っている。
 アナンは女たちに馬車から降りるように命じた。いずれにせよ荷馬車で長旅はできない。ココが一行のために居心地の良い上等な馬車を用意すると約束していた。
 筏は一行の重みで半分沈みかけながら川を渡った。渡し場から少し行くと宿駅が見えてきた。
 通りに人影は見えなかった。アナンは馬を進め、大声を出した。
「ココよ。どこにいる。俺だ、アナンだ。部族のみんなを連れてきたぞ」
 廃墟と化した宿駅はしんと静まり返っていた。やがて口元に薄笑いを浮かべたココが通りに姿を現した。
 アナンは馬を降り、ココへ駆け寄った。アナンがココの肩へ伸ばした手をココは邪険に振り払った。
「なんだい、思ったより人数が少ないじゃないか。あんたの話だと、この倍くらいは連れて来るのかと思っていたよ」
 ココは品定めするようにサンペ族たちを眺めた。男たちは馬から降り、困惑のていであたりを見回し、娘たちはひとかたまりになって怯えていた。
「いざとなると尻込みするのが多くてな。途中、一人逃げ出したのがいて、そいつには矢を射かけてやった。そら、お前にもらった毒を塗った矢だ」
「なんだって。それで仕留めたのかい」
「いや、邪魔をする奴がいてな。しかし、矢先がかすめたから今頃は身体がしびれて倒れているだろう。部族の連中が見つけるまでには時間がある。大丈夫だ」
 ココは大声で笑い出した。
「そうかい、それじゃ、あんたも立派な人殺しになったってわけだね」
 アナンはココの口元に浮かんだ邪悪な笑みに打たれたようになった。
「なんだと。あの毒は狩りに……獣をしびれさせるものじゃないのか……」
「まあ即死ってことはないにせよ、いずれ間違いなく死ぬってやつさ」
 それを聞いたサンペ族たちが騒ぎ出した。
「おい、アナン、戻ろう。まだ生きているかもしれない。手当ができるかも」
「アナン、あんた、いったいどんなつもりで、こんな女と約束したんだい」
 呆然としているアナンへ男も女もいっせいに詰め寄った。
 アナンは気を取り直して、ココに言った。
「ココよ、今日の約束はなかったことにしてくれ。俺たちは……」
「そうはいかないねえ」
 ココは口元の笑みを消すと、手を上げて合図を送った。
 廃墟と化した建物の陰から全身黒ずくめの男たちが馬に乗って現れた。フードをかぶり、顔も黒布で覆っていた。
 男たちは七人。慣れた動きでサンペ族たちを取り囲んだ。腰には銀の飾りをちりばめた豪華なこしらえの剣を提げていた。
 そんな出で立ちの者をサンペ族の者たちは見たことがなかった。馬もこのあたりで見るようなものと違い、背が高く、脚が長かった。馬具も華美な装飾が施されている。流れ者やならず者とも違う。かといって真っ当な部族の民とも思えない。
 男の中の首領格と見える者が黒マスクの奥の口を動かした。
「ココよ、こんな人数では約束の報酬は払えないぞ」
 ココは不満げな様子になった。
「何言ってんだい。一人あたまいくらって約束じゃないか」
「それはお前が言ったように五十人ほどが一度に手に入るということを前提にしての話だ。このくらいの人数ではな」
「そうは言うけどさ、ほら見てご覧よ。あんな若い娘までいるんだよ。サンペ族ってのはね、身体が引き締まっているからね、都会の男どもはよだれを垂らすよ。ほら、あんたたちの親方のメル族みたいな連中はさ……」
 メル族という言葉を聞いた瞬間、首領がココの顔の前で馬鞭をピシリと鳴らした。ココは、しまったという顔で口をつぐんだ。
 サンペ族の一人が黒衣の男たちを指差して叫んだ。
「こいつらは奴隷商人だぞ!」
 黒衣の男たちは無言のまま、サンペ族を取り囲む輪を縮めてきた。サンペ族たちは口々に騒ぎ慌てながら通りの真ん中へ追い詰められていった。
「おい、俺たち、奴隷に売られてしまうのか」
「いやだ、そんなこといやだよお」
「こんなことが王国で許されるものか!」
 サンペ族の男の一人がすきを見て包囲から駆け出し、馬に乗って逃げようとした。
 その男は手綱にすがりついたところで横なぎに一刀両断、首を斬られた。
 男は少しの間、首なしのまま立っていたが、やがて身体は地面にくずおれた。恐るべき斬れ味の剣だ。狩人のナイフとはわけが違う。
 それでもサンペ族の男たちは怯まず、いっせいに弓を構え、女たちを中にして黒衣の男たちに立ち向かった。
 首領格の男が黒マスクの奥でくぐもった笑い声を上げた。
「そんなもので我らと戦おうというのか。お前たちの武器は獣を狩るためのものに過ぎない。我らの武器は人を狩るために作られているのだ」
 通りの向こうに四頭立ての馬車が現れた。馬車もまた漆黒に塗られ、明け方の光にシルエットを成していた。その荷台には鉄格子のついた巨大な檻が載せられていた。
 アナンが振り絞るような声で叫んだ。
「ココよ、俺を裏切ったな!」
 とうの昔に道端へ避難していたココはせせら笑いを浮かべた。
「裏切ってなんかいないさ。私は、いいところへ連れて行ってやると言っただけじゃないか。まあ、落ち着いて考えてごらんよ。こんな寒いところで森を駆けずりまわっているよりかさ、南のあったかいところで奴隷でもしていた方が気楽でいいんじゃないのかい」
「馬鹿なことを言うな」
 アナンは目にも留まらぬ素早さで矢をつがえると、ココに向かって放った。
 あっと叫んでココは身をひるがえした。矢は建物の壁に当たって弾き返された。
 蹴つまずいて地面に両手を着いたココは四つん這いになって首領の馬の陰に転がり込んだ。
 ココは馬の尻の向こうから顔をのぞかせ、ニタリと笑った。
「馬鹿はあんたさ。この笛の音に誘われて踊ったんだよ、そら、こんな具合にさ」
 骨笛を手に持ったココはそれを左右に振って見せた。
「人買いの旦那たち、さっさとその連中を檻に入れちまってよ」
 首領の合図で黒衣の男たちは包囲を縮めていった。
 馬車の方からも十数人の者たちが駆け寄ってきた。こちらの者たちは襤褸を着て、顔も隠していない。その額には焼印が押してあった。
 この者たちは下働きに使われている奴隷なのだった。男とも女ともつかない一団は目をギラつかせ、その手には鞭と鎖が握られていた。
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