地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第四十二章

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第四十二章

 その時、ナナが天幕に入ってきた。
 ナナは天幕の外で話をすべて聞いていた。ここのところ、大天幕で話し合われることは何もかも気に食わないナナだったが、今は黙っていられない気持ちだった。
 ナナはカラゲルたちの一行を中にしてアナンと対峙する位置に立った。
「おい、アナン。いいから、この者たちの話を聞いてやれ」
 ナナの登場に天幕はしんと静まり返った。
 この十代の少女には族長の娘で娘宿のかしらというだけではない不思議に頼もしげなところがあった。
 十歳ほども年上のアナンは苦い顔つきになった。
「なんだと、ナナ。お前も言っていたじゃないか。年寄りどもは話ばかりしていて駄目だと」
 ナナはアナンとナンガを見比べるようにして言った。
「いいから、聞いてやれ。ナンガがどういうつもりでこの者たちを連れて来たのか知りたい」
 アナンは、フンと鼻で笑った。
「なるほど……ナナはナンガがお気に入りだから……」
「うるさい、お前は黙って聞いておればいいのだ。姫さま、それにナビ教の祭司よ。あなたたちは王国を再建しようとしているのか」
 ミアレ姫は静かにうなずいた。
「そうです、族長の娘よ。ダファネア王国をこのままにしておいてよいわけがありましょうか」
「ならば、我が部族になぜ王国が必要なのか教えてもらいたい。サンペ族は森さえあれば生きていけるのだぞ」
 ユーグが言った。
「ナナよ。そのことは私から説明させてくれ」
「私にだけでなく部族の民に納得がいくように話してもらいたい」
 ナナは両手を腹の前で組み、やや目を伏せて聞き入る姿勢になった。これは相手に敬意を示し、まずは口をつぐんで話を聞こうという仕草だった。
 ナナの姿を見て、それまで怒鳴り合っていた天幕の中は静かになり、部族の民はユーグの声に耳を傾けた。
 ユーグは天幕の中央に進み出た。毛皮の縁のついた上着の下に粗布の白い長衣がのぞいていた。ナビ教の徒が王都から追放される以前ならば、この白さはもっと信頼されていただろう。
「この地の北、生命の源である森は濃霧に閉ざされている。これは白い闇とも呼ぶべきものだ。闇の王の出現がこれに何らかの関わりを持っていることは間違いなかろう……」
 白い闇とは、ナンガが言っていたことだった。部族の民には実感をもって感じられるものだった。
「一方で我らは南にも脅威を持っている」
「ブルクット族だ!」
 アナンの声が飛んだ。とたんに若者たちは騒ぎだした。
 ユーグはそれを手で制して言った。
「そうではない。カラゲルも言ったようにブルクット族は王国の守護者だ。カラゲルはそれを証明するために、ミアレ姫、つまり、王の血脈を守護してここまでやって来た」
 一息置いてユーグは話を続けた。
「我らが南に持っている脅威とは、ウラレンシス帝国だ」
 天幕の中は怪訝そうな顔とささやき交わす声でいっぱいになった。
 アナンが嘲るような声を上げた。
「馬鹿な。ナビ教の祭司どのは何か勘違いをしているのではないのか。こんな北の辺境に住む貧しい狩人の部族に、どうして帝国が興味を持つのだ。ブルクット族といい、ナビ教の徒といい、妄想が過ぎるのではないのか」
 またわき起こったどよめきが静まるのを待って、ユーグは再び口を開いた。
「妄想か……アナンよ、目の前に見え、手に触れられるものだけが現実ではない。我らは三つの現実を同時に生きている。一つはさっき言った、目の前に見え、手に触れられるものだ」
 ユーグは両手を身体の前に掲げ、手のひらを上にして何かを支えているような仕草をして見せた。次に右手を右から左へと振って言った。
「二つ目は我らはどこから来たのかということだ。起源、神話、そして歴史、これらも現実の一部だ。そして、三つ目は……」
 ユーグの左手が手のひらをひるがえして左へ振られた。
「我らはどこへ向かって行くのかということ。希望、願望、あるいは欲望と言ってもいい。この三つを我らは同時に生きている。アナンよ。お前はどれを現実と呼び、どれを妄想と呼ぶのだ。いや、これらはみな現実だ」
 天幕の中は静まり返っていた。いったいそれが自分たちに何の関係があるという顔がちらほら見えた。
「ウラレンシス帝国の左手は我らダファネア王国にかかろうとしている。いや、帝国がそうしたがっているのはずっと以前からだ。彼らは機会をうかがっている。我らの王国がその起源、神話、歴史を見失って、ばらばらに砕け散る時を待っている」
 ユーグの手が左右に大きく開き、そのままだらりと下がった。
「ウラレンシス帝国の野望について話そう。帝国が望むのはただ一つのこと。帝国は世界を自らの権力一色に染め上げようとしている。なぜかと問うても無駄だ。帝国はそういう類の野獣なのだ」
 天幕の中を見回すユーグの顔は厳粛そのものだった。それを見守る部族の民も険しい表情になっていた。
「帝国は力の強い者が世界を支配するのをよしとする。部族の民よ、それでよいのか。強い者が支配する世界では弱い者は奴隷になるしかない」
 奴隷という言葉が天幕の中に戦慄を引き起こした。サンペ族にとって、それは最も恐るべき言葉だった。
 彼ら狩人たちは自由を愛した。世界は森のようにあらゆる者がその分に応じて共存できるべきなのだった。それでなくてはどうして狩人たちが生きながらえることができるだろう。
 ユーグはまた話し始めた。
「部族の民よ、帝国は何かに似ていると思わないか。闇の王だ。闇の王は世界を死の一色に塗り潰そうとしている。森を閉ざす白一色の闇を見よ。我がダファネア王国は、そして、サンペ族は、この二つの力によって自由を奪われ、奴隷にされ、いずれは部族の生命を失うのだ」
 天幕は静まり返っていた。
「我らの王国は帝国とも、闇の王とも違う。王国は部族の均衡によって形作られている。貧しい部族も富める部族も、また、強い力を持つ部族もそうでない部族も、王国の一部であることは同じだ。そして、それを一つにまとめているのが、他ならぬ王の血脈だ」
 その時、アナンがうわずった声を上げた。
「王もまた権力者ではないか。ウラレンシス帝国には皇帝がいると聞く。それと、王と何が違う」
 その問いにはミアレ姫その人が答えた。
「アナンよ、王は力ではありません。王はちょうどこの天幕のようなもの。人々が集う場所なのです」
 ユーグが言葉を添えた。
「権力は盲目で野蛮なものだ。人はともすれば野蛮に堕ちていく。それと知らずに。王国は野蛮から人を救うためにあるのだ」
 アナンは怒鳴り声とともに立ち上がった。
「野蛮だと。シュメル王が神々の意思に反して死者を蘇らせようとしたのは、その最たるものではないか。それなのに王国は野蛮から人を救うだと。王家の者がどの口で言えるのだ」
 それまで黙って話に耳を傾けていたナナが鋭くさえぎった。
「アナン、黙っておれと言ったぞ。話はまだ終わっていない」
「ナナよ、こいつらの口車に乗せられるな。南へ向かうんだ。南には我らの新天地がある。俺は知っているんだ」
 ナナは怪訝そうにアナンの顔を見た。アナンは慌てて顔を背け、天幕を飛び出して行った。若者宿の者たち数人が後を追って出て行った。
 大天幕は不安げなささやきでいっぱいになった。
 その中でナナは何事か考え込むようだった。
 やがて、ナナはミアレ姫に向かって言った。
「姫さま、我らの自由を守るためには新しい王国が必要だ。そうだな」
 ミアレ姫は深くうなずいた。
「ナナよ、分かってくれましたか。私たちが王国を生まれ変わらせるのです」
「我が部族に何ができるだろうか。我らのような貧しい辺境の部族に」
「いずれ、その時が来ます。サンペ族が王国の光となる時が」
 口元を真一文字に結んだナナは何事か思いを凝らしている様子だった。
 一方、族長オホタは、まだ心配そうな表情のままだった。
「しかし、森についてはどうなのだ。さしあたり、このことをなんとかせねば。シャーマンよ、どうだ。力の強いシャーマンならば霧を晴らすことができるのか」
「霧を晴らすことができるとは言うておらぬぞ。ただ、少なくとも何が起こっているかは知ることができるだろう。いずれにせよ、私などの手には負えぬ。しかし……」
 ブンド族のシャーマンは天幕の入り口脇に座ったクランへ目をやった。天幕中の視線がクランに集まった。
 クランはナンガの父がくれた干し肉をオローにやっているところだった。
 ナンガの父がクランに声をかけた。
「おい、みんながお前のご託宣を待っているようだぞ」
 クランはオローの方を向いたまま低く朗唱を始めた。オローの目とクランの目が向かい合い、ひとつになっているようだった。
 ブンド族のシャーマンは身を前に乗り出し、聞き慣れない朗唱に耳を傾けた。
 ふと朗唱を止めたクランはシャーマンに青い目を向けた。
「……今のを聞いたか」
「……いや……何も……」
「森の深いところだ……シャーマンよ、翡翠の龍のことを聞かせてくれ」
 クランは前にユーグから聞いていた森に棲む精霊の王のことを尋ねた。
 おそらく朗唱に答えたのはその者だろう。遠く聞こえたいにしえの言葉の面影にひときわ古寂びた調子があった。
 ブンド族のシャーマンは席についたまま話しだした。
「この森の奥深くにはサンペ族の聖地がある。翡翠の龍はそこを守っておるのだ。龍は精霊の王だ。王国広しといえども、龍が聖地を守っているのは、こことスナ族の聖地くらいだろう」
 かつての古王国時代にはもっと多くの龍がいたはずだとシャーマンは言った。人がもっと精霊に近かった頃には。
「いまや我らの前に龍が姿を見せることはない。翡翠の龍もその姿を目の当たりにした者はいない」
 シャーマンは大天幕の中を見回した。
「しかし、その存在を疑う者もいないだろう。部族の民は龍の御使いを通して森の精霊とさらには龍と結ばれる」
 カラゲルが口をはさんだ。
「龍の御使いとは、どのような者だ」
 そのとたん、あたりに歯の間から息を吐くシーという音が湧き上がった。カラゲルはうなずいた。
「なるほど、禁忌か。しかし、龍の御使いと会わないことには始まらないだろう」
「普通なら向こうから姿を現すのだ。こちらはそれをお迎えするのみ。しかし、森がこのありさまでは」
 ナナが言った。
「霧の中で目が見えるなら、私が聖地へ案内できるのだが……」
 族長オホタがナナに尋ねた。
「しかし、ナナよ、我が娘よ。聖地へ行ってどうしようというのだ。龍を説得しようとでも言うのか」
 ナナは首を左右に振って言った。
「私は龍にこの身を生贄に捧げるつもりだ」
 天幕はどよめきに満たされた。驚いたオホタが椅子から身を前に乗り出した。
「ナナ、馬鹿なことを言うものではないぞ」
「父上、これは決して馬鹿げたことでない。私はシャーマンから聞いたのだ。かつて古い時代には人を生贄に捧げたこともあるとな。そうすれば、龍の加護を得られるだろう。この霧がなんであろうと、そこに光明が見えてくるはずだ」
 オホタは驚きと怒りに目を光らせた。
「人の身を生贄に捧げるなど、野蛮な!」
「父上、さっきの話を聞いただろう。それをうわまわる『野蛮』が我らには迫っておるのだ。それで龍の加護を得られるのなら、私は自分で自分の喉をかき切ってでも……」
 ナナは腰帯からナイフを引き抜き、切っ先を喉元へ向けた。
「しかし、それには聖地に赴き、龍を呼び出さねばならないのだ。力の強いシャーマンならそれができる。だが森は霧に閉ざされ、御使いも現れぬ。どちらを向いても闇だ」
 オホタはブンド族のシャーマンへ非難するような目を向けた。
「シャーマンよ。あなたは私の娘に何ということを教えてくれたのだ」
「私は部族の民のために知っていることを言うたまでだ」
 天幕の中はまたも騒然となった。人々は矛盾と混乱の中で戸惑うばかりだった。
 その時、オローが一声、鋭く鳴いた。空気を切り裂く声音に部族の民はいっぺんに静まりかえった。
 振り返ったナナにクランは青い瞳を向けた。
「ナナ、お前を生贄に捧げよう」
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