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第四十章

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第四十章

 旅の一行は北のサンペ族の土地に入った。野営の夜が明けて、五人はまた馬上の人となった。
 この土地にも王国の街道、宿駅はあったが、ナンガは別の道を取った。部族の民だけが知る森の中の道だ。
「数日前にブルクット族の村へ向かった時は何でもなかったんですがね。宿駅は荒れ果ててはいたが、あんなのに襲われるなんて。まったく闇の獣ってのはどこから飛び出して来るか分かったもんじゃない」
 気温はしだいに下がってきた。馬が踏む草に霜がきらめいている。一行は毛皮の縁取りのついた襟元をかき合わせた。
 カラゲルはナンガと轡を並べて進んでいた。
「俺たち一行には姫さまという王の血脈がいる。闇の獣はそれに引き寄せられて来るのかも知れない」
 後ろを振り向くとミアレ姫はやや機嫌の悪い顔つきだった。
 闇の蛇から逃げる時、カラゲルが姫の白馬に鞭を当てた荒っぽさが気に入らなかったのだ。そんなことをしなくても声を掛けられれば馬の脚を速めることができたというのが姫の言い分だった。
 姫の横からユーグが言った。
「何を言うか、カラゲルよ。王の血脈は精霊を呼び寄せこそすれ、闇の蛇など呼び寄せるものか」
「いや、分からんぞ。光あるところに闇もあるというだろう」
 カラゲルは低い声で歌った。

『かつて人は闇の中にうずくまって
 闇しか知らなかった
 その闇を稲妻が切り裂いた時
 人は光と闇を知った
 人は稲妻が作った裂け目から
 光の世界へ這い出た
 その時、人は知った
 光の裂け目と闇の裂け目はひとつだと』

 静まり返った森の中に、その声は沁み入るように響いた。
 始めはまばらだった木立がしだいに深くなっていった。ナンガは道なき道を案内していった。
 小さな森を抜けると、その向こうはまた森だった。ナンガの先導がなかったら間違いなく迷っていただろう。
 やがて一行は開けた土地に出た。膝のあたりまでの深い草地、そのところどころに立ち枯れた樹木が乾いた幹を日の光にさらしている。細い水の流れが下生えの根元を洗うかすかな水音がして、あとは無音だ。
 森に慣れぬ身には単調に見える景色の連続に、いつしか同じところをぐるぐる回っているだけのように思えてくる。しかし、ナンガは迷いもなくその中を進んでいった。
「このあたりも大昔は森だったと言います。つまり、どこもかしこも森だったってことです。まあ、古王国時代よりもっと前のことだから、はっきりしたことは分かりませんがね」
 ミアレ姫がナンガに言った。
「ユーグからサンペ族は王国でも最も古い部族だと聞きました」
「ええ、部族の民は大地と同じだけ古いと胸を張ってます。しかし、そんなことがありますかねえ。だって神々がこの世を作ったんだとすると、まず大地を作っておいて、そこへ森を置いて、それから獣だの人だのを置いたんじゃないんですか。それなのに大地と同じくらい古いなんて」
「ナンガは思ったより理屈っぽい人のようですね」
 ナンガは苦笑いして、ミアレ姫を振り返った。
「いや、でもね、姫さま。ものの順序ってのは大事ですよ。人が何を信じようが勝手ですがね、ちょっと考えりゃ分かることでしょ」
 やがて地平線遥かにサンペ族の森が見えてきた。見渡す限り巨大な森が広がっている。その森は白い濃霧に沈んでいた。
「見てください、あの霧を。あんなのが森を覆い尽くしているんです」
 ナンガが悲痛な口調で言った。
 霧は『ここが世界の果てだ。人間は立ち去れ』とでも言っているように見えた。どこまでも澄んだ青空の下で白い壁のように森に入る者を拒んでいる。
 霧の壁にこびりついたしみ汚れのようにサンペ族の集落が小さく見えていた。
 一行が集落に近づいていくにつれ、霧はいよいよ濃くなるように見え、肌を刺すような冷気が迫ってきた。ナンガは口から白い息を吐いて言った。
「冬だからと思われるでしょうが、いつもはこんなピリピリするような寒さじゃないんです。どうも、あの霧には毒気が感じられますね」
 ナンガはミアレ姫とユーグにフードをかぶるように勧めた。
「いったん仲良くなってしまえばいいんですがね、サンペ族ってのは頑固者が多くてね。今度の一件で王族に反感を抱いている者もいますから、まずは族長に紹介します。それから部族の民に身分を明かすのがいいでしょう」
 一行が集落へ入ると、毛皮の服で丸くなった子供たちが駆け寄ってきた。ナンガの名前を呼んではしゃいでいる。子供たちはクランの腕に載っているオローを見て目を輝かせた。
 遠くからは小さく見えた集落だが、ここには数百人の部族の民が生活していた。サンペ族の集落は森の南端に沿って他にいくつかあるが、族長がいるのはここだった。
 樹皮でおおわれた天幕が並び、そのてっぺんからは白く細い煙が出ていた。
 一見、普通の暮らしぶりと見えるが、サンペ族の村は本来もっと北の森に入ったところにあるのだった。そこには、がっちりした丸太小屋が並び、床を高く作った食料倉や壮麗な木彫りの棟飾りのある集会所などがあった。
 この集落は濃霧に追われてきた部族の民の避難所のようなものだった。
 パイプをくわえた髭面の男たちが弓矢の手入れをしていた。その傍らに板に打ち付けた鹿の皮がまだ新しかった。
 ナンガがカラゲルに言った。
「狩場がまったくないわけじゃないんです。ただ、そこは険しい崖の上で部族の民にとっちゃ苦手な場所でね。このまま森に入れないままだったら、おしまいですね」
 ナンガの声を聞いて顔を上げたサンペ族の男が、よおと声をかけた。
「ナンガよ、お前も髭を伸ばす気になったか。髭がなくちゃ女に好かれぬぞ」
 同じ髭面の男たちがくぐもった笑い声をもらした。ナンガは無精髭の伸びた顎を撫でて言った。
「なあに、旅の帰りだ。思ったより難儀したもんでな、髭を剃る間もなかっただけよ」
 男たちはナンガの脇にいるカラゲルへ怪訝そうな目を向けた。稲妻の刺青の意味は彼らも知っていた。目配せし合い、パイプをくわえ直す。
 ナンガとカラゲルの後ろには、フードを被ったミアレ姫とユーグ。そして、しんがりには鷲を腕に据え、片目を隠したシャーマン姿のクラン。
 怪しまれて当然の一行だった。
 少し行くと女たちが天幕の間に渡した紐に鹿肉を干していた。女たちはナンガを笑顔で迎えた。女たちのうち、まだ十代初めらしき少女がナンガの顔を見て、どこかへ駆けていった。
 女たちの一人がおかしそうに笑って声をかけてきた。
「黙って出ていったりして、ナナがたいそう怒ってるよ。うちの子が知らせに行ったから、じきすっ飛んでくるさ。ほら、来た」
 さっき駆けていった少女を後ろに従えて、十六、七歳と見える女が大股に近づいてきた。少し大きすぎる狐の毛皮の帽子。日に焼けた顔。ほっそりした身体つきは小鹿を思わせた。
 ナナは族長オホタの娘だった。小柄だが、すっくと立った姿には、どこか威厳のようなものすら見えた。
 ナナは一行の前に立ちふさがり、馬上のナンガに目を据えた。
「ナンガよ、どこへ行っていた。王都の旅から帰ったと思えば、すぐにいなくなりおって」
 一行の後ろを手で示してナンガは言った。
「見ろ、シャーマンを連れて来た。ブルクット族の族長ウルを助けた力の強いシャーマンだ」
 ナナの顔色が変わった。
「ブルクット族だと。ナンガよ、私の話を聞かせただろう。森を荒らしていたのはブルクット族の者だぞ。私と一緒にいた二人はその者に殺されたのだぞ」
 ナナはナンガに目を向けたまま、あえてカラゲルを無視しているようだった。手は腰帯に差したナイフの柄を握っていた。
 カラゲルは尋ねた。
「サンペ族の娘よ。そのブルクット族の者だが顔に鷲の刺青がありはしなかったか」
 ナナは顔はナンガに向けたまま、ジロリと目だけでカラゲルを見た。
「お前は何者だ。ものを聞きたければ名乗ってからにするがいい」
「俺はブルクット族の族長ウルの息子カラゲルだ。その者に心当たりがある」
 それを聞いたナナは自分では名乗りもせず、森をうろついていた怪しい男のことを話した。
 男は灰色の馬に乗り、真っ黒な目の狼を従えていた。濡れたような漆黒の上着をナナは覚えていた。
「その男は我が部族の狩場を穢した。手下の狼が殺した獣の肉を引き裂いてあたりに捨て、森の大地を血で穢した。しかし、それは手始めに過ぎなかったのだ。男は水場に毒を投げ込んだらしい。その水を飲んだ獣は森のあちこちで倒れ、倒れた死体は怪しい火とともに燃え上がり、森に火事が起こった」
 あたりにいた女たちも黙りこくってナナの話を聞いていた。ナナを呼びに行った少女の目が険しく光っていた。
「精霊の加護であろう、幸い大事にはならなかったがな。獣たちは森の奥へ奥へと姿を隠してしまった」
 ナナはふとクランに目をやった。
「男は顔を半分髪で隠していた。ちょうど、そこにいるシャーマンのように。その男の姿は我が部族の民もすでに何度か見かけていた。部族の民が追うと、いつの間にか姿を消してしまうのだ」
 ナナは部族の男たち二人と森を捜索に出かけた。
 そのうちの一人はナナの兄だったが、男たちは二人とも狼の牙と爪にかかって引き裂かれた。大きすぎる毛皮の帽子は兄の遺品だ。
 サンペ族きっての射手であるナナが弓で狼を倒すと、男は馬首を返して逃げかけた。追うと、森の茂みの暗がりに逃げ込み馬ごと姿を消した。
 次の瞬間、ナナは鴉が飛び立つのを見た。
「あの男、鴉に化身したのだろうか。半人半獣、化け物めが。その後だ。森が白い霧に包まれたのは」
 まぎれもなく、その男はコルウスだった。カラゲルは念のため尋ねた。
「どうして、それがブルクット族だと分かった」
「逃げる時に髪が風に吹かれた。お前が言うように片目の端に大きな刺青があった。鷲かどうかは知らぬがな。それに馬具だ。革紐の編み方で分かった。鞍の形でも分かる」
「目がいいらしいな」
「相手の様子をよく見るのは狩人の習性だ。そうでなくては獲物は手に入らない。長生きもできない」
 カラゲルは少し驚いた顔になった。
「長生きだと。まだ若いのにそんなことを考えているのか」
 ナナはカラゲルの稲妻の刺青を見て、フンと鼻で笑った。
「我が部族はブルクット族のように最初から死ぬつもりでかかっていくなどということはしない。そこが賢い狩人と愚かな戦士の違いだ。ところで、そこにいる者たちは何だ」
 ナナはフードを被っているミアレ姫とユーグの方へ顎をしゃくった。
「この二人は旅の道連れだ」
 カラゲルの答えを聞いたナナは口元に薄く笑みを浮かべた。
「まさか物見遊山じゃあるまい。何用あって、こんな北の辺境まで来たのだ」
 ナンガが口をはさんだ。
「ナナよ。この人たちを族長に会わせたい。そこを通してくれないか。俺たちは長旅で疲れている」
「父上なら大天幕におる。部族の民と話し合いだそうだ。朝に話し合い、昼に話し合い、夜になっても話し合っている。きっと夢の中でも話し合っておるのだろう。話ばかりしていて何になる。あの刺青の男を狩らねば」
 ナナの顔がまた険しくなった。ナンガはなだめるように言った。
「しかし、森の霧のことは精霊にお伺いを立てねばならない。族長はそのために人々の知恵を集めているのだ。さあ、我らを通してくれ」
 ナナはこみあげる怒りのせいか顔を赤くしたが、何も言わずに走り去った。
 ナンガは一行へ、さあ行きましょうと声をかけた。
「あれは族長の娘でナナです。山猫みたいに気性は荒いが、気立てはいいんで。まあ、失礼は許してやってください」
 カラゲルは苦い顔になっていた。
「あの娘が言っていたのはコルウスのことだ。ブルクット族を追放されたならず者で王国のお尋ね者。今は闇の王の手下だ」
「やはり、そうですか。霧ってやつは、いわば白い闇ですからね」
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