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第三十章

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第三十章

 次の日の朝、クランは琥珀の玉を拾い上げ、岩棚から降りていった。木立を抜け岩壁の裂け目を通ってようやく元の荒れ野に出た時には、さすがに気持ちがホッとなった。
 クランは腕の上で澄ました顔のオローに話しかけた。
「お前はここにあの龍がいることを知っていたのか。いたずら者め」
 抜け出てきた岩壁を振り返って見ると、今はその表面に書かれた文字を読むことができた。
 クランはまた岩壁に沿って馬を進めていった。もう、あのめまいは起こらなかった。
 空高くそびえ、地平線の向こうまで伸びている岩壁。その円柱と円柱の間にびっしりと刻まれた文字。クランはそこに王国で起こった全ての出来事が書かれているのだと直観した。
 あるところへ来たクランは岩壁の表面に無数の蟻が這いまわっているのを見つけた。
 馬を降りて目を凝らすと、蟻は腹を膨らまし、それを大きな蜜袋として引きずっていた。蜜袋は褐色に透き通り、琥珀の玉に似ていた。
 その蜜袋の中に、いにしえの言葉が舞っているのがクランには見えた。一匹が一文字ずつ担っているらしかった。
 蟻の群れはかすかに岩をこするような音をさせていた。その顎が岩壁を削っていた。
 彼らはそうやって王国の歴史を岩壁に刻む役を果たしているのだとクランには分かった。
「今では私もこの蟻たちと同類かも知れないな……」
 クランは思わず自分の腹をさすって苦笑いした。
 それから丸三日進んだあたりで、ようやく岩壁は自然の岩山らしく変わってきた。
 円柱は山肌に溶けるように消えて行き。文字も風に吹き消されたように見えなくなっていった。
 切り立った断崖を成していた岩壁も馬でよじ登れる傾斜に変わった。
 クランは越えられそうな尾根を見つけると、ハルを励まして斜面を登っていった。
 頂上まで来たクランは、その向こうに緑の平野が広がっているのを見た。すがすがしい草原の風が吹き上がってきて、クランは胸いっぱいになじみ深い湿った空気を吸い込んだ。
「あれは……シャーマンの樹か……」
 地平線遠くに目を疑うような巨樹が見えた。複雑に交差した枝が空の青を背景にシルエットを成している。
 ここからどれほどの距離があるだろう。行く当てのないクランは、ひとまずあの巨樹に向かってみようと思い立って岩山の斜面を下り始めた。
 岩山の麓から先は広々とした草原になっていた。人の姿はどこにも見えず、街道らしき道筋もなかった。
 草はやや深く、とがった穂先がそよ風になびいている。ハルは機嫌よく目を細め、柔らかな大地を踏んで脚を進めた。オローを空へ放ってやると大きく翼を広げ、上昇気流に乗って軽々と舞い上がった。
 緩やかな川の流れに出会ったクランは、その曲がりくねった川筋に沿って進んで行った。清らかで静かな草原に日の光が優しく降り注いでいる。
 クランは思い迷っていた。
 琥珀の龍との出会い。『いにしえの言葉』。そして、あの岩棚で見た岩絵の物語。
 特に心に残っていたのは、神々が『人への愛のゆえに』イーグル・アイを地上に送ったという言葉だった。
 人への愛のゆえに。神々は身の程知らずな人間を見捨てなかったということだ。
 すなわち、イーグル・アイは神々の愛と憐れみの化身なのだろう。クランは青い瞳を空へ向けた。
 セレチェンは私をイーグル・アイだと言った。あのシャーマンも。しかし、私が神々のような愛と憐れみをこの世にもたらすことができるだろうか。私はそんな人間だろうか。
 ハルが低く鼻を鳴らし、目を細めた。クランはその首を撫でた。
「おい、ハルよ、我が旅の友よ。私を笑っているのか。そうだな、私はそんな立派な人間じゃない。あのバレルだって、私は頭にきて一刀両断にしてやろうかと思ったくらいだ」
 クランはセレチェンの剣に手をやった。あの時は剣を二本、腰に差していた。最初にセレチェンの剣が手に触れたから思いとどまったのだ。
「ハルよ、今日はあの二つ並んだ岩山のところで野営をしよう。さあ、行くぞ」
 クランの掛け声とともにハルは走り出した。セレチェンのことが急に思い出されて、クランは少し泣いた。
 居心地のいい岩山の麓で野営をしたクランは次の日朝早くに起き出し、旅の続きに出発した。
 低い岩山の間を抜ける道へクランは進んでいった。しだいに道の両脇は険しくごつごつした岩の斜面に変わっていった。道そのものも石ころが転がる乾いた砂地と変わった。ハルの蹄の音が木霊して、あちこちから聞こえてきた。
 しばらく進んだところでクランは荒々しい獣の吠え声を聞きつけた。一頭ではない、何頭もの声がする。どうやら狼のものらしかった。
 耳を澄ますと、その吠え声の中に人の悲鳴が混じっているようだった。女の声、それに子供のものらしき叫び声も聞こえた。
 クランは大きく曲がった道の奥へ馬を駆けさせた。すぐに狼の群れが見えてきた。六頭の獣に母と娘と思われる二人が囲まれて怯えきった悲鳴を上げていた。
「オロー、行け!」
 クランは腕に据えていたオローを放った。鷲は大きな翼をはためかせて狼の群れに襲いかかった。
 一頭の獣がオローの鉤爪にかかって地面に押さえ込まれた。狂ったような吠え声をあげて獣はもがき、砂ぼこりを巻き上げた。
 クランは乱れた獣の群れにハルを乗り込ませた。蹄に蹴散らされた獣たちは怒りと恐怖に吠え、唸った。
「逃げろ、早く逃げるんだ!」
 馬上から剣を振りながらクランは母娘へ叫んだ。
 母は娘を抱いて逃げ出そうとした。娘は五歳ほどで激しく泣き叫び、母の上着に必死にしがみついていた。
 狼は驚くべき跳躍力を見せてクランに襲いかかった。目の前に迫る獣の牙と爪にクランは鞍から転げ落ちた。あたりに硫黄の臭いがたちこめた。
 クランはセレチェン、カラゲルと一緒に狩りに行った日のことを思い出した。この獣どもは、あの日、カラゲルに襲いかかってきた狼と同じ黒い目の者どもだ。
 今思えば、あれは闇の蛇と同類の闇の獣だった。
 クランは素早く身を起こして剣を構えた。その時、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
 振り返ると、逃げようとしていた母親の背中に獣が爪を立てていた。母は娘をかばって抱き締め、そのまま地面に倒れた。次の瞬間、その首筋に獣の牙が食いつくのが見えた。
 獣の動きは野に獲物を狩る狼と同じものだったが、どこか、ひときわ邪悪で狂暴なものが感じられた。
 痙攣するような衝動的で予想外の身のよじり方、黒一色の目にたたえられた異様なギラつき、顎が外れているのではないかと思えるほどの開き方をした口。
 自然ではない何者かに突き動かされているのだ。
 クランは自分自身、獣のように身を跳ねさせると母親に食らいついている獣へ剣を突き立てた。
 獣は絶叫し四つ足をもがかせながら死んだ。その目や口、傷口からどす黒い小蛇があふれ出て、地面に吸い込まれるように消えていく。この獣たちの肉体は闇の蛇に乗っ取られていたのだった。
「お母さん、いやあ! 死んじゃいやあ!」
 娘の泣き声が聞こえた。見ると、母親の首は半分ほど獣に食われて血にまみれ、すでに絶命しているようだった。
 クランは母親の身体の下から娘を引き出した。娘は母の上着の袖にしがみついていたが、それを離させると、クランは四つん這いの姿勢で娘を抱いた。
「お前の母は死んだ。逃げるんだ!」
 クランは娘を抱いたまま起き上がり、剣を握り直した。すぐに背後で獣の吠え声が聞こえた。
 こちらへ襲いかかってくる獣の狂暴な姿にクランは思わずのけぞった。その時、オローが飛んで来て獣の背中に鉤爪を立て、鋭利なくちばしで首筋を噛みちぎった。
 獣はまだ三頭ほど残っているはずだ。草原で出くわす狼でさえ、一頭でも手こずるのだ。ここは逃げるしかない。
「ハル、こっちだ!」
 ハルがいななきながら駆け寄ってきた。クランは娘を抱き上げ、ハルの背中に乗せようとした。その時、娘が叫んだ。
「お母さん!」
 振り返ると母親がゆらりと立ち上がるのが見えた。両手をだらりと下げ、首は半分もげかけて奇妙な方向へかしげている。
 闇の蛇が母の肉体にとりついて、その内側に充満していた。
 闇の王に乗っ取られたシュメル王に似ていたが、こちらには意思らしきものは見てとれなかった。母は盲目的な衝動のままにこちらへ襲いかかってきた。
「お母さんじゃない! お母さんじゃないよお!」
 クランの腕の中で娘は絶叫した。小さな手がクランの上着の裾にしがみついてきた。
 クランは迫ってくる母の肉体へ手にした剣を横殴りに叩きつけた。
 刃は異様に傾いていた首を斬った。娘の目の前で母の首が地に落ち、そのまま、その肉体もくずおれた。傷口から血のように闇の蛇があふれ出て、砂地に吸い込まれていく。
 クランは娘を抱いた。自分はどうなろうとこの娘だけはと、必死の思いが胸に湧き上がってきた。
 クランはハルの背に娘を乗せ、しっかり鞍につかまるように言った。
「手を離すんじゃないぞ。ハル、行くんだ!」
 ハルは鼻を鳴らして足踏みした。
「何をしている。この娘を乗せて逃げるんだ。そら、行け!」
 クランはいつもなら決してしない荒っぽい仕草でハルの尻を叩いた。ハルは娘だけを乗せて岩山の間の道を駆け出した。
 何はともあれ、娘をこの場から離れさせなくてはならない。クランは娘を乗せたハルの後ろ姿を見届けると残りの獣どもを片付けようと身構えた。
 三頭の獣が地面に横たわっている母親のまわりに集まっていた。
「さあ、来い。お前たちもセレチェンの仇のようなものだ」
 この獣たちはやはり狼だった。群れで狩りをする狼らしく、どこか統制の取れた動きでクランのまわりを取り囲んだ。
 獣たちは黒一色の目に憎悪をみなぎらせていた。鋭い牙の隙間から赤い舌ではなく、黒い蛇が出入りしている。あたりに硫黄の臭気が濃くたちこめた。
 斜め後ろから襲いかかってきた獣の動きをクランは敏感に察知して剣を振るった。すぐに別の一頭が吠え声を上げながら飛びかかってくる。
 クランは身をひるがえし、セレチェンの剣を縦横に操って、まず一頭を倒した。残る二頭は怯みもせず攻撃をゆるめもしなかった。
 疲れを知らぬ獣の動きにクランは目くるめく思いだった。
 オローも急降下してきて戦いに加わった。一頭の背中へ鉤爪が突き刺さり、獣はもんどりうって空中に飛び跳ねた。
 クランはもう一頭へ向かって剣を振るった。
 クラン自身、気が付かないうちに服にはいくつも獣の爪が作った裂け目ができていた。剣を握る手の甲には切り傷ができて血が流れていたが、気持ちが高ぶっているクランはそれにも気付かなかった。
 オローの鉤爪を逃れた獣がクランの足元へ食いついてきた。クランは果敢に長靴の足先を振り上げ、大きく開いた口の端を蹴り飛ばした。
「しぶとい奴らめ!」
 奮戦するクランが、一瞬、息を切らした時、獣の爪が顔の前に飛んできた。
 次の瞬間、クランは目の前が真っ赤に染まるのを感じた。急に視野が狭くなり、身体がしびれたようになった。
「こんなところでやられてたまるか!」
 セレチェンの仇を取るのだ。クランの闘志が一気に燃え上がった。
 さらに獣が飛びかかってくるのを、かすむ目で見たクランは渾身の力をこめて剣を突き出した。
 獣を仕留めた手ごたえがあった。もう一頭と思った時、オローの鋭い鳴き声が聞こえ、獣の悲鳴が上がった。
 最後の一頭は大きな翼を開いたオローに地面に押さえつけられ、くちばしと鉤爪で引き裂かれた。
 よくやったオロー、そう言おうとしたクランは、ふっと気が遠くなって、その場に倒れた。乾いた砂の上に鮮血が飛び散った。
 獣の爪がクランの左目を深く切り裂いていたのだった。
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