地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

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第二十一章

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第二十一章

 ブルクット族の聖剣を手に入れたコルウスは王に指定された期限通り、今日の『死者の日』に王都へ帰り着いた。
 さすがに疲れてはいたが胸は希望に躍っていた。闇から闇へと這いずりまわる人生は今日で終わりだ。これで落ちぶれた我が部族の連中を見返してやれるのだ。
 シュメル王は文字通り狂喜乱舞のありさまで剣を受け取り、手ずから褒美の金貨を与えた。衛兵隊長に任命するという約束も果たしたうえ、コルウスが返そうとした玉座の剣まで気前よく取っておけと言い渡した。
「私はこの聖剣を手に入れた。玉座の剣がなんだ。人の作ったものなど、どれほどのものでもない。私は神々の力を手にしているのだ。絶対的な力だ!」
 王の目は妖しい光を帯びていた。焦点の定まらぬ瞳で中空を見つめ、あらぬ夢想に浸っている。
 さっきまで胸を躍らせていたコルウスだが、そんなシュメル王の様子を眺めながら、これは早々に退散した方がよさそうだと思っていた。
 衛兵隊長に任命してもらったのも、少し後悔しはじめていた。いやな予感がする。誰かさんじゃねえが、王都からおさらばした方がよさそうだぜ。コルウスがそろそろと後ずさりして王の前から去ろうとした時、玉座の後ろの衝立から二人の魔導士が姿を現した。
「王よ。聖剣ばかりか、格好の『戦士の血』まで手に入ったようで……」
 シュメル王は口元をゆがめて笑い、獲物を狙う蛇のような目でコルウスを見据えた。
「うむ、この者はブルクット族長老セレチェンの息子。申し分ない勇者の血脈だ」
「いったい何のことで……その……血ってのは……」
 逃げ腰になるコルウスの前にきざはしを降りてきた二人の魔導士が立った。
「これから王はある重要な儀式を執り行われる。それには『王の血』と『祭司の血』、それに、『戦士の血』が必要なのじゃ」
 一人の魔道士が言った言葉を引き取って、もう一人の魔導士が古い書物を示した。
「勇敢なる戦士よ、そう恐れるでない。この『いにしえの書』に書かれてある由緒ある古王国の儀式じゃ。お前を邪神の生贄に捧げる類の野蛮なものではない」
 フードの暗がりにのぞく口元が淫らな笑みを浮かべた。
 コルウスは土気色の顔を蒼白にして後ずさった。足元がふらつき、そのまま床に尻もちをついてへたり込んだコルウスはうろたえきった声を上げた。
「冗談じゃねえ。血だと。そんな約束はしていないぜ!」
「これは異なことを。お前は衛兵隊長に任命されたはずじゃ。それなら王の命令には絶対服従するのが当然じゃろうが」
 魔導士たちは倒れたコルウスの腕をつかむと、老人とも思えぬ力で引き上げた。コルウスは立っているのがやっとだった。
「さあ行くぞ、戦士よ。王に務めを果たす時じゃ」
 地下納骨堂がその儀式の場所だった。二人の魔道士にはさまれたコルウスは王宮の地下深くへ引き立てられて行った。
 階段は狭く、螺旋を描いて下へ下へと向かっていた。空気は乾ききって冷たい。
 コルウスは引きずられるようにして、すり減った石段を降りて行きながら、どうにかしてこの場をごまかすことができないかと考えていた。
 前には松明を持ったシュメル王、両脇には気味の悪い魔導士二人がいた。松明の光が乾いた石段の上に影を揺らめかせた。
 足元の影を見ていると妙に眠くなってくる。この何日か徹夜で駆けずり回ったのだから当然だが、この眠気は異様な重苦しさで迫ってきた。何か巨大なものに引きずり込まれるような感じがした。
 王宮の地下納骨堂は、いわば地下へ向かう塔のようなものだった。王宮の象徴である尖塔は天に昇っていくものだが、この螺旋階段は地底へと降っていくものだった。
 階段が尽きると、やや下り坂の廊下があった。その奥の観音開きの扉はすでに大きく開け放たれてあった。
「あ、あの……やっぱり今日でなくちゃいけませんかね、日を改めてとか……」
 コルウスは魔導士たちを振り向いたが、二人は無言のまま腕を引き、奥へ行けと合図した。
 扉の向こうには濃密な闇が満ちているようだった。コルウスはこんな闇をどこかで見たような気がした。ブルクット族の聖地の洞窟、あれに似ている。
 松明を受け取ったシュメル王が中へ入ると納骨堂の様子が薄闇の中にぼんやり見えた。
 そこはそびえ立つ壁を持った六角形の空間で六本の石柱が高い天井を支えていた。
 魔導士たちに背中を押されたコルウスが中に入ると、ひんやりした空気の中に黴の臭いと、かすかだが硫黄の臭いがした。
 魔導士たちの松明が加わったせいで納骨堂はさらにその姿を露わにした。
 石棺を納めた壁龕が壁一面を覆っていた。ここにあるのはダファネア以来の王の血脈を継承した者たちの遺骨だった。ただし、ここは王墓とは性質を異にしていた。
 王国において王の血脈は女が継ぐものだった。王の血脈に部族の血を娶せることで王国は均衡を保ってきた。王墓はこことは別に豪華な拝殿を備えた場所がしつらえられてあって部族の民の誰でも参拝できた。しかし、ここは違う。
 ここは深く秘められた聖地だった。
 シュメル王と魔導士たちは壁の松明に火を移していった。しだいに明るくなっていく納骨堂の真ん中でコルウスは悲鳴を上げた。
 コルウスはそこにある石台の上に、首なしの死体が置かれてあるのに気付いたのだった。
「こ、これはいったい……」
 苦悶するようによじれた手足、朽ちた漆黒の喪服、そして、腰帯についた六角形のしるし。
 コルウスの脳裏に父セレチェンが語った荒野の物語が蘇った。
「もしや、この死体は……ミアレ王妃……」
 シュメル王が死体の上に松明をかざした。王の横顔にゆらめく炎が映えて瞳が異様な輝きを帯びた。
「さすがセレチェンの息子。察しがいいな。いかにもこれは我が母上のお身体だ」
 コルウスはいったん目をそらした死骸にもう一度見入った。
 乾いた油紙のような肌に骨格が浮き出て見える。石台の上に砂がこぼれていた。このミイラ化した死体は掘り出されて間がないのだろう。
 絶句しているコルウスにシュメル王はかすれた小声で言った。
「これから私は母上をこの世に蘇らせる儀式を行うのだ」
 コルウスは雷に打たれたようになって目を大きく見開いた。
「なんですって死者を蘇らせる。そんなことができるのですか」
「そのために私は『鷲の目の杖』、そして『鷲の目の剣』を手元に集めたのだ。この二つが我が手中にあれば神々に等しい力を持つことができる」
 二人の魔導士たちが白い長衣の下に隠し持ってきた聖杖と聖剣をミアレ王妃の死体の脇に置いた。それだけで二つの聖遺物は淡い光を放ち始めた。
 コルウスはその光を避けるかのように、一歩、後ずさった。
「王よ、首のない王妃を蘇生させて、どうしようと言うのです」
「肉体は問題ではない。魂が問題だ。ただ魂の依り代として肉体があるだけなのだ」
 王の言葉に魔導士たちはフードの頭をうなずかせた。まるでよくできた教え子に師傅がうなずいて見せるように。
 王の声はしだいに高ぶってきた。
「母上の魂をここへ呼び戻せば、私はいつでも母上とひとつになれる。そうだ、母と子と手に手を取って間違った運命をやり直すことができるのだ」
 王の口ぶりは何かに憑かれたような陶酔を示し始めた。コルウスは魔導士たちを見たが、やはりフードの暗がりで薄笑いを浮かべているばかりだ。
「王よ、あなたは神々に逆らおうとなさっている。それは並大抵のことじゃねえ。部族の禁忌どころか、人間の禁忌だぜ!」
 王へ敬意を示す言葉使いすら忘れて、コルウスは叫んだ。
 シュメル王は落ち着き払っていた。その言葉は静かで流れるようだった。
「恐れるな、反逆者コルウスよ。お前は以前、この王に逆らったな。その前には父セレチェンに。そして、その部族にも逆らったはずだ。神々に逆らうのをなぜ恐れる。天罰を恐れているのか」
 王の瞳がコルウスの怯えた顔を凝視した。
「お前の生涯はそれ自体、罰のようなものではないのか。罪にまみれ、心の根の根まで腐り果てている。お前の触れたものはことごとく腐臭を放ち、毒と化す。あらゆるものが絶望の暗闇へ堕ちていく。お前は私に似ている。お前は私の兄弟だ。さあ、お前の血を杯に注ぐのだ」
 魔導士たちが左右からコルウスの腕をつかんだ。恐ろしいほどの力だ。
 黒い上着の袖がまくり上げられ、むき出しになった腕に短刀の刃が押し当てられた。石台には青銅製の大杯が用意されていた。そこへ『戦士の血』を注ぐつもりだ。
「ちくしょう、放せ!」
 コルウスは全身の力を振り絞って魔導士の手を振り払い、出口の扉へ向かって駆けだした。
 その時、コルウスは背中にとてつもない突風を受けたような衝撃を感じた。足が宙に浮き、身体が反り返って石柱の一本に叩きつけられた。魔導士の法力によってコルウスの身体が弾き飛ばされたのだった。
 魔導士は床に倒れてうめいているコルウスの手に短剣の刃を握らせ、引き抜いた。手のひらからほとばしる鮮血をもう一人が大杯に受けた。
 目当ての血を取ると、もう用済みだとばかりにコルウスは放置された。
 魔導士たちは王妃の遺体の、今はない頭のあたりに大杯を置いた。
 そこへ今度は魔導士の一人が自分の血を注いだ。これで、『戦士の血』と『祭司の血』が揃った。
 シュメル王も前に出て、手のひらに短刀を握り、引き抜いた。『王の血』がほとばしり、大杯に加えられた。
「王よ、聖杖と聖剣をお取りください。精霊に祈願をこめるのです」
 左右から魔導士たちが差し出した『鷲の目の杖』と『鷲の目の剣』を両手に握った王は、それを胸の前で交差させると、あらためて二つの聖遺物に目をやった。
 淡い光を放っていた聖杖と聖剣は王の血脈のなせる業か、内側から力強く光りはじめた。
「これぞ我が力! 精霊よ、我は王なり。聖なる力を帯び、神と等しき者なり。我のもとに来りて我が望みをかなえよ。我が求めるのは、母の魂!」
 王がそれを大杯の上にかざすと血は沸騰し、見えない何者かがその血をすすった。
「おお、精霊が我が願いを請け合ったようだぞ。神々に頼んで母上の魂をこの世へ還してくださるはずだ」
 その時、聖剣に異変が起こった。
 光をみなぎらせていた刀身の一点から血がにじむように闇があふれ出た。光と闇は刀身を舞台にせめぎ合いを演じていたが、みるみるうちに光は圧倒されていった。
 やがて闇は勝利し、蛇のように刀身にからみついて、その身をうねりくねらせた。
 その闇の蛇を目にした魔導士たちは恐れおののき、フードの顔を見合わせた。二人は王の脇からじりじりと後ずさった。
 聖剣にまとわりついていた闇の蛇は禍々しく鎌首をもたげたかと思うと、聖杖の方へもからみついていった。
 聖杖は身悶えするように末期の光を放ったが、すぐに闇に支配されてしまった。
 怖気づく魔導士たちとは反対にシュメル王は目を妖しく輝かせた。左右の手に握った力の象徴は闇を帯びていたが、その闇こそ王の目には絶対的な力だと思えた。
「これこそ神々が私に力を与えてくれたしるしだ。母上、おお、母上よ。今こそ、母上の魂を呼び戻しましょう」
 王は闇をまとった聖剣と聖杖を首のない王妃の死骸へかざした。
 聖剣と聖杖はまるで生き物のように身震いした。王は霊と物質の間にある種の感応が発生していることを確信した。
 すでに二人の魔導士は近くの柱の陰に身を隠していた。『いにしえの書』にあるなどと確信ありげなことを言った魔導士たちだが、実のところ断片的な知識しかないのだった。
 この期に及んで彼らは自分たちが何か大事なことを知らなかったらしいと気付いた。『いにしえの書』の全体を知らず、利用できそうなところだけを繋ぎ合わせた知識で何かを成そうとするなら、思わぬ災厄が起こってもおかしくはない。
 その災厄でみずからが滅んだとしても、彼らはなぜそんなことになったのかすら分からぬままこの世を去るしかないだろう。
 王は、おのれの手中にある力に夢中で何も見えなくなっていた。
「神々よ、あなたたちが奪った母上の魂を還せ。あなたたちの計画は間違っている。あるべき世界は別にある!」
 王は闇をまとった聖剣と聖杖を交差させ、もう一度、ミアレ王妃の死体の上にかざした。
 その時、王妃の死体は内側に何者かが宿ったようにうねりだした。乾いた肌が波打ち、よじれた手足が苦悶を示して蠢いた。
 朽ちた喪服が枯れ葉のこすれるような音をさせて破れた。腰帯も千切れて、王妃のしるしの六角形が砕けて飛び散った。
 露わになった土気色の肌の下で黒い液体のようなものが渦巻くのが透けて見えた。
 液体はしだいにドロドロとした粘汁と化し、湧き上がっては沈み込み、分裂しては合流した。それは、いかにも生命らしく見えた。
 王の顔に歓喜の色が浮かんだ。これは蘇生の兆しに違いない。
 聖剣と聖杖の力をあたかも自分の力であるかのように感じた王は指の関節が白くなるほど柄をきつく握りしめた。王権の指環が肌に食い込んだ。
 納骨堂全体が唸るような轟きを発し始めた。石壁や天井から細かな砂が降ってきた。耳鳴りがして何も聞こえない。
 柱の陰に隠れていた魔導士たちは身をすくめ、白い長衣ごと身体を震えあがらせていた。逃げ出そうにも足がすくんで動けないでいる。
 それまで成り行きを見守るばかりだったコルウスも腰を抜かしたまま床を這っていた。恐怖が身体の芯を貫き、息をするのもやっとだ。
「このままじゃ、みんな生き埋めになっちまう!」
 胸苦しく、怯えきって、すがるものを求めたコルウスは上着の懐からこぼれ出たミアレの花を口に入れた。それを奥歯で噛むと、たちまち視界は明暗反転した。
 地下納骨堂の空間全体を死霊が跳梁跋扈していた。そんなことはありえないことだった。この場所は王家の聖地なのだ。こんな異形の者たちに占拠されるなど。
 コルウスは石台の王妃の上に巨大な闇が蠢くのを見た。
「王よ、いけない。そいつは死霊だ。王妃の魂なんかじゃない!」
 コルウスの絶叫が響くと同時に王妃の死体は全身を反り返らせて硬直した。
 次の瞬間、死体の左脇腹の皮膚が破れて、ドロリと黒いものがあふれ出た。
 王は怯えた目をして後ずさった。
「母上……ああっ、母上が……」
 黒いものはたちまち奔流となってほとばしった。油紙のような皮膚に大きな亀裂が走り、王妃の死体はすぐに人間の形を失った。
 石台の上は一面に黒い蠢きで覆われた。よく目を凝らすと、それはヌメ光る肌をした小さな蛇の群れだった。無数の闇の蛇が王妃の死体のあった場所から噴き出していた。
 蛇の奔流は石台からこぼれて床に広がりだした。群れには意思があるようだった。その先端は加速しながら柱の陰に隠れている魔導士たちへ突進した。
「来るな、ああっ、来るな!」
「た、助けてくれ! 王よ、どうか我々をお助けください!」
 蛇の群れは魔導士たちの足元から這い上がり、大群衆のざわめきのような音をたてて肉と骨をむさぼり食らった。
 血まみれの白い長衣だけを残して魔導士たちが消滅する頃には、闇の蛇はさらに群れを大きく増殖させていた。
 群れはすぐにシュメル王へと向かった。
 王はすでに完全なる狂気に堕ちていた。左右の手に握った聖剣と聖杖を振りかざし、訳の分からないことを絶叫していた。聖剣と聖杖はその聖性を失ってしまったようだった。闇も光も失せ、それはただの古い剣と古い杖と化していた。
 王は足元に這い寄る蛇の群れを追い払おうと剣と杖を振り回した。
「母よ、なぜ私を襲うのです。なぜ私を殺そうとするのですか!」
 蛇は剣の先、杖の先にからみついてきた。蛇は王の手から腕へ、肩から首筋へと這い上がり、黒い群れが王の身体を覆った。
 蛇は口、鼻、耳など身体の穴という穴から体内へ侵入し、王の身体はよろめき、硬直し、関節はありえない方向へねじ曲げられた。
 シュメル王は内側から闇の蛇に食い荒らされていった。王の身体は死の舞踏を演じていたが、やがて、その場にくずおれた。
 しかし、その直後、王の身体は立ち上がった。闇の蛇を充満させた王の肉体は異様に膨張した姿と化していた。
 腹ははちきれそうに肥え太り、顔もむくんでゆがんでいた。
 唇から黒く濡れた蛇がよだれのようにあふれた。眼窩から赤い舌が顔を出し、鼻腔の右から左へと長い胴体が動いた。傾いた王冠へも螺旋を描いて蛇が這った。
「ちくしょう、王の身体を乗っ取りやがったな!」
 たった一人残ったコルウスが叫んだ。まだ立ち上がることができず、柱にしがみついて上体を起こしていた。
 王の腕が信じられない長さに伸びてコルウスの首をつかみ、その身体を宙に吊り上げた。割れ鐘のような耳障りな声が轟いた。
「これは面白い。ここまで魂の腐りきった者も珍しいぞ。このかぐわしき腐臭よ」
 コルウスは宙吊りにされてあがいた。首をつかむ手をほどこうとしても、ビクともしない。コルウスは叫んだ。
「ううっ、てめえは何者だ!」
 また異様な声が轟いた。
「我は闇の王。罪の始祖にして穢れの井戸。死霊を操り、生者をつまずかせる者」
 シュメル王の身体は内側から食い尽くされ、闇の王の身体と化していた。その声もひずんだ響きを持っていたが、いまだ王の声だった。
「王妃の死体に隠れてやがったのか」
「そうではない。いずれ、教えてやろう」
 闇の王はコルウスに向け一匹の蛇を放った。蛇はコルウスの鼻の穴から侵入してきた。
「ううっ、何をする……うああっ!」
 鼻の奥から脳髄へ潜り込まれる苦痛にコルウスは絶叫した。
 闇の王はコルウスを床に叩きつけ、地下納骨堂を震わせるような声で言った。
「お前は闇の道化となれ。地上を闊歩し、闇の王の到来を告げよ」
 倒れ伏せていたコルウスは顔を上げ、闇の王を見上げた。蛇の侵入のせいで目から血の涙がこぼれていた。
「闇の道化だと。そりゃあ、面白れえや。だがな大将、俺はあんたの奴隷になんぞならねえぜ。あんたは俺に何をくれるんだ」
「我はすでに二つのものをお前に授けた。一つは……そらっ、これだ」
 闇の王が軽く手を振ると、コルウスは身体がふわりと浮き上がるのを感じた。思わず両手を振りまわしたコルウスは自分の腕が黒く濡れたような色の翼に変わっているのに気付いた。
「どうだ、鴉に化身した気分は」
 闇の王は膨らんだ腹を揺すって嘲りに満ちた哄笑を響かせた。
「我の到来を告げるのにふさわしい姿よ。そら、もっと羽ばたけ、もっと鳴いてみろ」
 コルウスは自分の目の下に長く醜悪なくちばしが尖っているのを見た。抗議の声を上げようとしても壊れたラッパのような声しか出すことができなかった。
 懸命に翼を振りながら柱の間を飛び回るうち、コルウスは自分と同じように空中を舞う死霊たちの姿に気付いた。
「我が闇の道化よ。どうだ、この冗談は。なかなか洒落が利いていると思わぬか」
 闇の王がまた手を一振りするとコルウスは元の姿に戻り、床に墜落してうめき声をもらした。
「ちくしょう、俺をこけにしやがって」
「これからは我の力を要せず、自分で化身できるようになるはずだ。そして、もう一つ、お前に授けたものがある」
 コルウスが顔を上げると、闇の王は真っ暗な洞穴のような口元に微笑を浮かべていた。
「それは永遠の命だ。お前に授けた蛇。あの蛇が死なぬ限り、お前は生きる。お前の肉体が八つ裂きにされても蛇がそれを元に戻すだろう。お前の魂が地上を去ろうとしても蛇が鎖となってそれを引き戻すだろう。これこそ我が恵みよ」
 コルウスはちょうど目の裏側あたりで闇がひらめき、蠢くのを感じた。
「永遠の命だと。冗談じゃねえ。そんなものは恵みどころか、呪いじゃねえか」
「お前にも今に分かるだろう。天上の神々を欺く我が喜劇の毒が。精霊どもの顔さえしかめさせる我が舞踊の穢れた美しさが。お前にも一役買ってもらうぞ」
 闇の王の手がコルウスの両腕をつかむと、まるで子供がおもちゃ代わりの虫の脚をもぐように、その腕をもいだ。
 コルウスの絶叫が納骨堂の天井に響いた。
 闇の王の手は、次にコルウスの両脚をもぎ、首も胴体からもぎ取ってしまった。
 激痛にもがき苦しみながらもコルウスの意識ははっきりしていた。目の奥で闇が蠢くのを感じたかと思うと、八つ裂きにされた身体は元に戻っていた。
 うめきながら身を起こしたコルウスは上着が破れていないのを見て、幻覚を見せられたのだと思った。
 しかし、目を下に向けると、床の上には自分のものらしい鮮血が飛び散っていた。激痛の記憶もはっきりしていた。
 闇の王の声が轟いた。
「お前は幻を見たのでも、夢を見たのでもない。いまや、お前の存在は半ば死霊の世界に属しているのだ。物質と霊魂のはざま、そこがお前の舞台よ」
 闇の王は床に転がっていた『鷲の目の剣』と『鷲の目の杖』を左右の手に取った。とたんに聖剣と聖杖は燃え上がる炎のように闇をまとった。指にはシュメル王がしていた王権の指輪がそのまま光っていた。
 納骨堂の床に乾いたささやきのような音がわき上がった。闇の王の足元から漆黒の蛇が増殖し、みるみるうちに床を埋め尽くしていく。
 コルウスは慌てて起き上がり、足先から這い上がってくる蛇の群れを追い払おうと滑稽な舞踊を演じた。
 腰にはまだ玉座の剣があった。それを抜いて振り回すが、なんの効き目もない。闇を闇で払おうとしても無駄なことだ。
 雷のような声がコルウスに迫った。
「我が闇の道化よ。鴉に化身せよ。さもなくば蛇どもに永遠にむさぼり食われることになるぞ」
 せっぱつまった心の中で鴉になった自分を思い描いた時、コルウスは鴉になっていた。地下納骨堂の高い天井へ舞い上がりながら、コルウスは隷従の屈辱を声にして吐き出そうとした。しかし、今度も出たのは調子外れの鳴き声だけだった。
 そのうちに闇の蛇は納骨堂を満たして限りなく増殖していった。井戸の水位が上がるようにヌメ光る蛇の胴体が絡み合いながら地下の空間に充満していく。
 納骨堂は苦悶のうめきを上げて震え、天井を支える六本の石柱は次々と食い尽くされていった。
 シュメル王の身体をまとった闇の王の姿も蛇のうねりの中に消えていた。コルウスはしだいに天井高く追い詰められながら、うろたえきった鳴き声を上げて飛び回った。
 増殖する闇の蛇はついに納骨堂の天井ドームにまで達した。鴉のコルウスも蛇の群れに呑まれて身動きができなくなった。
 その時、ついに蛇のうねりは石造のドームを突き崩した。水面に浮き上がろうとする魚群のように闇の蛇は螺旋を描いて、土を貫き、岩を砕いて、地表へ向かった。
 王宮のミアレの園にすさまじい土砂の噴出が発生したのは、その直後のことだった。
 黄色い花弁を空中に巻き上げながら、漆黒の蛇の群れが陽光みなぎる青空の下に姿を現した。
 黒い奔流から鴉のコルウスが飛び出して来た。しわがれた鳴き声が王宮の尖塔に木霊して、闇の王の到来を告げた。
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