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第十八章

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第十八章

 ブルクット族の聖地へ行くにはベルーフ峰の中腹まで馬で行く。村の中を抜けて行けば早いのだが、そうもいかない。コルウスは別の登り口を知っていた。
 中腹の立木に馬を繋ぐと、あとは徒歩で、最後は険しい岩山をよじ登ることになる。
 コルウスは岩の斜面をたどるうちに道に迷いかかったが、やがて聖地へ到着した。
 十五歳の成人の儀式から十年が経っていた。聖地は変わらず、まるで時が経っていないかのように記憶の通りだった。
 岩の斜面に踊り場を成しているところがあった。乾ききった岩山の中で、そこだけは黄色くミアレの花が咲き広がっている。奥に洞窟の入口があった。
 入口の左右に巨大な鷲の翼が描かれていた。いつ描かれたものかも分からない古いものだ。岩の表面を削り、その溝へ赤い顔料が塗りこまれていた。
 コルウスは岩壁に近づくと溝へ指をこすりつけ、指先にこびりついた顔料を舐めてみた。
 以前と違い、鉱物や植物を調合することに詳しくなっているコルウスには、その顔料の成分におおよそ見当がついた。
「驚いた、こいつには少し獣の血が混じっているようだぜ」
 聖地そのものは洞窟の闇の奥にあった。
 コルウスは用心深い足取りで入口へ歩いていった。腰につけた玉座の剣に手を当て、顔を隠した髪をかきあげて鷲の刺青を露わにしている。
 洞窟の入口に足を踏み入れようとしたコルウスは立ち止まった。足が先に進まない。そこに見えない壁があるようで、つま先がつかえたようになってしまう。
「精霊は俺を認めていないか。これは面倒だな」
 聖地に入るには、族長か長老が立ち会う必要があると知ってはいた。コルウスは自分も片側だけだが長老の刺青を持っている。これでもしやと思っていたのだった。
 ふと見ると足元にまだ新しい血の跡があった。どうも人間の血らしく思えた。
「これは……『勇者の弔い』を求めたか……」
 聖地には言い伝えがある。
 この洞窟はもともと人食い豹の住み家だった。
 古王国時代のブルクット族の者たちは、勇者の名にふさわしい死に方をした者はこの洞窟の入口に死体を置いて豹に食わせた。
 それが、『勇者の弔い』で部族の民には名誉なことだった。
 豹は死体を洞窟の奥深くへ引きずり込んで食うので、洞窟の中にある骨は勇者の骨のみということになる。
 しかし、時に豹が食わない死体もあった。その者は部族の民がどう思おうと、『勇者』とみなされなかった。その時は数日後に死体を村へ戻してやらねばならない。
 ただし、今、この洞窟に豹はいなかった。今、ここにいるのは精霊だった。
 『勇者』の死体を置き、精霊がよしと見れば洞窟の奥へそれを引き込む。それが、現在のブルクット族の信ずるところだった。
「この血は三日ほど経っているな。とすると、そろそろ様子を見に来るはずだが」
 コルウスがよくあたりを調べてみると、死体が引きずり入れられた跡があった。それを確かめに来るのは族長か長老と決まっていた。
 ここで待つか、それとも村へ下りて族長のウル、もしくは今、村にいる長老ジャルガを何とかして連れて来るか。
 コルウスはひとまず今日の夕方まで待ってみることに決めた。
 ただし、この岩の上の踊り場に隠れる場所はない。ウルにせよ、ジャルガにせよ、いざという時は説得するか、さもなければ力づくでいくかしなくてはならない。
 その時はその時だ、これは最後の賭けだぜとコルウスは思った。
 ふと、ココの顔が浮かんできた。あの女となら身を固めるのもいい。俺が衛兵隊長となりゃあ、あいつにも文句はあるまい。コルウスは自分の重ねてきた悪業がどれほどのものか忘れて、虫のいい考えに浸っていた。
 岩壁にもたれかかって腰を下ろしたコルウスは足元のミアレの花を摘んだ。黄色い花弁をむしって口に放り込み、奥歯で噛み締めると苦い汁が喉の奥に沁みてきた。
 これは囚人鉱山にいた時、狩猟民のサンペ族の男から習ったのだった。疲れて神経が高ぶっている時、こうすると頭の後ろが開いたようになって気分がすっきりする。
 ただし、やり過ぎてはいけない。本当に頭がおかしくなってしまうから。あのブンド族のシャーマンたちのように。サンペ族の男はそう言った。
 コルウスの瞳は朦朧となってきた。ヤケに効き目が強いな、やっぱり疲れているんだなと思った時、踊り場のそこかしこに人影が見えだした。
 真昼の明暗が反転したようになって、人の姿が浮き出て見えた。おぼつかない足取りで右往左往している。中には四つん這いになり、地面を舐めるように頭を下げて動いている者もいた。人か、それとも、狼だろうか。
 こいつらは死霊だ。コルウスは思った。永遠に地上を彷徨っていて、聖地へ入れないのだ。
 コルウスは胸の奥を鷲掴みにされたような気分になった。両手で顔を覆うと嗚咽がこみあげてきた。
 頭がすっきりするどころか、全身の毛穴が開いて寒気がした。ちくしょう、俺は悪酔いしているらしいぜ、コルウスがそう思った時、誰かが怒鳴るような声で自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
「おい、コルウス。お前、こんなところで何をしているのだ!」
 コルウスはたちまち正気に戻った。悪霊は見えなくなり、代わりに目の前に見えたのは長老ジャルガの姿だった。
 コルウスはすぐにいつもの自分に戻った。胸底に甘い毒のような悪業の影が射した。
「久し振りだな、ジャルガ。俺の顔を覚えていたのか。村を追いだされて七年だ。もう、とっくに忘れちまっただろうと思っていたが」
「自分こそ顔に鷲の刺青が入っていることを忘れているじゃろう。誇り高い長老の刺青がお前の顔にはあるのだぞ」
 ジャルガは油断ない足取りでコルウスに近づいた。
「コルウスよ。お前を王のもとに突きだせば、我が部族はいくらか名誉回復ができる。どうじゃ、自首する気はないか」
「長老、何か勘違いをしているんじゃねえか」
「勘違いなどしておらん。お前の父セレチェンは王からのお召しにより、今頃は王都にいるはずじゃ。もちろん、お前のことについてお尋ねがあるはず。場合によっては命に関わるが、族長に代わって王のお召しに答えようと自ら申し出たのじゃ」
 コルウスはうなずき、真面目腐った顔を作った。こんな顔はお手の物だ。
「親父には王都で会った。偶然だ、俺が王宮の役人へ自首して出たところへ親父が来合せていたんだ。シュメル王は俺を許してくれた」
「王がお前を許す、そんなことがあるものか。嘘をつけ」
「ジャルガ、あんただって自分の息子が火あぶりにされそうになったら命乞いするだろう。俺の親父だってそうだ」
「セレチェンが王に対してお前の命乞いをしたというのか」
 ジャルガは半信半疑だった。どうも、セレチェンがしそうなこととは思えない。セレチェンのような男なら自分の手でコルウスの首をはねそうな気がする。しかし、子の親としてのセレチェンなら、また違った振る舞いがあるかもしれぬ。
「ジャルガ、俺が王に許された証拠を見せよう。あんたなら、この剣に見覚えがあるはずだ」
 コルウスは腰の剣を見せた。王の紋章がジャルガの目をひいた。
「これは、玉座の剣。どうしてこんなものを……」
「ジャルガよ、俺はシュメル王の特命を帯びているのだ。王は、我が部族が預かる鷲の目の剣をご所望だ」
 ジャルガは禁忌を避ける仕草も忘れ、驚愕の表情になった。
「王といえども、そんなことが許されると思うか。部族の禁忌にあたる聖剣を我が物にしようなどと」
「しかし、もし俺が聖剣を持って帰らなかったら、親父は死ぬことになる。王が俺を許すにあたっての条件がそれさ」
「なんだと。そんな馬鹿な!」
「ジャルガよ、俺だってふざけた話だと思うぜ。しかし、親父を人質に取られちゃ従うしかねえだろう」
 ジャルガは考え込む様子だった。これは本当か嘘か。判断がつかぬ。王都へ使いを出して真偽を確かめるべきなのか。
「それなら、ウルと相談せねばならぬ。お前、勝手に剣を持ち出すつもりだったのか」
「そうさ。族長と相談して、剣は出せねえってことになったら俺の親父の命はどうしてくれるんだ。第一、ウルが承知すると思うのか」
 ウルが承知するわけがない、ジャルガはそう思った。ウルは優柔不断なようで部族の根に当たる部分では決して譲ることはしない。
 コルウスはすっかり気力を取り戻し、頭の後ろに両手を当てて鷲の翼の描かれた岩壁にもたれかかった。
「ジャルガよ、部族一の賢い長老よ。あんたは人の命と古い剣を天秤にかけるようなことはしねえよな。親父だけじゃねえ、下手すりゃ、供回りもみんなバッサリだぜ」
「供回りだと」
 ジャルガはコルウスの言葉を不審に思いはじめた。
「コルウスよ、お前はセレチェンだけでなく、お供の衆にも会ったのか」
「えっ、そりゃそうさ。王宮でよ」
 コルウスは衛兵隊長が村へ王の親書を届けたと聞いていた。王の親書で招かれたからには、その一行にそれなりの人数の供回りがつくのは当然のことだった。
「お前の知った顔もあったじゃろう。誰と会った」
「うん、そうだな……なにしろ久し振りの顔ばかりだから、そう……カラゲル、あいつに会った」
 これはコルウスのはったりだった。ジャルガはさっき、族長の代わりにセレチェンがと言ったはずだ。族長が行かぬとなれば、その息子を出してもおかしくない。
 ジャルガはカラゲルがこっそり王都へ向かったことを知っていた。息子のバレルから聞いたのだった。
 バレルはよく村の入り口にいて行き来する部族の民と話をしていた。足が悪いので狩りにも行けず遠出もできないが、村人たちの噂には精通していた。
 カラゲルはバレルにだけ、セレチェンたちを追って王都へ行くと打ち明けていた。誰にも言うなよとカラゲルは言ったが、家へ帰って来ないのを心配しているウルとジャルガにだけ二日ほどしてから教えてやったのだ。
「そうか、カラゲルにな。あとは誰に会った」
「さあ、誰に会ったっけなあ……」
「お前、クランに会わなかったか」
 コルウスは一瞬、意外な名前を聞いたという顔になったが、すぐに笑みを浮かべて言った。
「ああ、クランか。久し振りに会ったが、いい女になったもんだぜ」
 ここでジャルガはコルウスを試した。
「馬鹿を言うな。クランなぞがどうして供回りに入れると思うのじゃ。お前、嘘をついているな。本当は誰にも会っていないのだろう。クランにも、カラゲルにも、お前の父にさえ」
「い、いや……嘘なんかついてねえよ……ああ、そうだ、俺がクランだと思ったのは勘違いだ。他の女を見間違えたんじゃねえかな……」
「お前、クランを見間違えると思うか。あの青い瞳を他の誰と間違えるのじゃ。よし、教えよう。クランはちゃんとセレチェンと王都に向かった。私はそれに反対だったから供回りはつけてやらなかったのじゃ」
 長老ジャルガは剣を抜いた。いつもは、やや軽薄な口舌の徒と見える男だが、今は鷲の刺青が凄味を放っていた。ジャルガもまた生粋のブルクット族だった。
「コルウスよ。お前はまったく利口者じゃの。カラゲルの名前が出た時は信じかけたが、お前の言うことは一切信用ならん。セレチェンがお前のために命乞いしたというのも嘘に決まっている。玉座の剣については分からぬが」
 コルウスは自分の話に説得力を持たせようとしてしくじったことを知った。化けの皮をはがれたコルウスは口の端を吊り上げて下卑た笑いを浮かべた。
「洞窟に入るのにあんたの力を借りたかっただけさ。どうだい、いっそのことウルも親父も抜きでよ、俺たち二人で王からもらえる褒美を山分けってのは。どうせ我が部族なんぞ落ちぶれる一方だぜ」
「王は本当に聖剣をご所望なのじゃな」
「そうさ、だから王がこの剣をくれたんじゃねえか。でも、まともに言っても、あんたが手助けしてくれるわけがねえと思ったからよ。だから……」
 ジャルガは剣の切っ先で横向きに8の字を描いてから刀身を静止させた。それはブルクット族が戦闘態勢に入る時の古くからの作法のようなものだった。
「もし、本当に王が剣を我ら部族から奪おうというのなら、ここで止めねばならん」
 コルウスは少しづつ横へ逃げながら腰の剣に手をかけて言った。
「おい、ジャルガよ。これは王の剣だぞ。王の剣に歯向かうのは反逆だぞ」
「部族の聖地は王国の大地に繋がっている。それを汚そうというのは王と言えども許されぬ。王の前に王国の大地があるのだ。お前などには分かるまいが」
「ちぇっ、説教なんぞ親父から聞き飽きてるぜ。そういうことなら剣で片をつけようじゃねえか」
「望むところじゃ!」
 問答無用とジャルガが突いて出た。コルウスは得意のすばしっこい身ごなしでかわし、剣を抜いた。
「ふむ、剣を抜く手だけは速いようじゃな。だが握りが甘いわ」
 ジャルガが剣を振り下ろして、コルウスが構えた刀身を叩いた。あやうく玉座の剣を取り落としそうになってコルウスはよろめいた。
 ジャルガは他のブルクット族たちと違い、剣の腕を誇るようなことはしなかった。剣などは使わずに済めばそれが一番だとわきまえていた。
 しかし、今のジャルガはその老体と剣にコルウスへの怒りをみなぎらせていた。偽りの言葉を連ねて世の中を小ずるく渡って行こうとする、この若者の性根の醜さが気に食わない。
 ジャルガは縦横に剣を振るい、コルウスは防戦一方になった。だまし討ちが得意のコルウスにはこうして真正面から押しまくられるのが一番苦手なのだった。
「コルウス、防いでばかりでは勝負に勝てぬぞ。少しは突いて出てみい」
 挑発されたコルウスは両手で剣を握り、横なぎに刀身を振るった。
 ジャルガはそれを軽くかわしておいて、よろけたコルウスの肩を足蹴にした。
 あっと叫んで、コルウスは倒れた。取り落とした玉座の剣へ手を伸ばしたコルウスの顔の前にジャルガは剣を突きつけた。
「お前のような卑しい者が王の剣を持つとは図々しいにもほどがある。さあ、立つのじゃ」
 丸腰になったコルウスは立ち上がった。汗に濡れた顔は砂だらけになって鷲の刺青を汚していた。黒い上着にも土がついていた。
「ジャルガ、どうするんだ。俺の首をはねるか」
「ここは我が部族の聖地じゃ。お前のような者の血で汚されてたまるものか。あの血の跡を見たじゃろう。『勇者の弔い』じゃ」
 数日前、狩りに出た村の男が狼に殺された。自分を犠牲にして仲間を助けたのだった。
「部族の民の魂はみなここへ集まるが、勇者ならば肉体までも精霊が救い取ってくださるのじゃ。いずれ、同じ肉体とともにこの世へ帰って来れるように」
 ジャルガはほんの少しだけだが、コルウスも回心することがあるのではないかと思っていた。この男はセレチェンの息子だった。まぎれもない勇者の息子だった。
 しかし、コルウスはジャルガの話を鼻先で笑って言った。
「へえ、そうかい。しかしよ、狼なんぞに手こずるような野郎のどこが勇者なんだ」
「その狼はまともなものではなかった。仲間たちの話によれば、目は黒一色で口からは硫黄の臭いをさせていた。おそらくは何者かの化身じゃろう」
 コルウスはさっき見た死霊たちのことを思い出した。
「化身だかなんだか知らねえが、きっとそいつも往生できずに迷ってるんだろうぜ」
「お前も心を入れ替えねばそうなるぞ」
 コルウスはジャルガの鷲の刺青にじっと目を当てていた。父と同じ長老の鷲だ。
「わかったよ、ジャルガ。俺を村へ連れて行ってくれ。あんたの鷲の刺青を見ていたら親父を思い出したよ」
「私もセレチェンも部族の長老だ。長老は部族の民みんなの父じゃ」
「それなら、あんたも俺の親父だというわけだな。今やっとそれに気付いた」
 ジャルガはまだ用心してはいたが、険しい表情をやわらげた。
「よし、村へ帰るのじゃ。お前をどうするかは族長とも相談せねばな」
 剣を突きつけたままジャルガは岩山の降り口を示した。コルウスはそちらへ歩いていきかけたが振り返って言った。
「そんなに剣を向けなくても大丈夫だ。俺は見てのとおり丸腰だから。玉座の剣を拾ってくれ。俺を王都へ連行するにしても、あの剣がなくちゃ格好がつくまい」
 ジャルガはミアレの花の上に転がっている玉座の剣を横目で見た。用心深くコルウスに剣を向けたまま後ずさり、落ちている剣を手探りした。
 ジャルガがほんの一瞬、目を下へ向けた時、コルウスは上着の内側から吹き矢を取り出し、素早く毒矢を放った。
 あっと驚愕の表情になったジャルガは首筋に手を当てたまま黄色い花の上にくずおれた。身体が地面に横たわる前にジャルガは絶命していた。
「父だと。親父など一人でたくさんだぜ」
 こんなこともあろうかと、あらかじめ一発込めておいた矢が役に立ったとコルウスは笑った。しかし、すぐに考え込むような顔になった。
「うっかり殺しちまったが……さて、どうするか……」
 コルウスは洞窟の入口に目をやった。その時、暗く開いた入口からうめき声のような音が聞こえた。風が吹き抜けるような、深いため息のような音だった。
 倒れたジャルガの方へ目を向け直したコルウスは傍らに転がっている玉座の剣を取り上げた。
 コルウスはジャルガの首に剣を当てた。毒矢の傷から血が流れ、ミアレの花弁を汚していた。そこへ、さらなる鮮血が噴きこぼれた。
 コルウスは難なくジャルガの首を胴体から切り離した。こんなことは賞金首を相手にしているコルウスには慣れっこだった。
 あたりが急に暗くなってきたようだった。日が傾きかけていた。
 コルウスはジャルガのきつく結んだ髷をつかんで、顔の前にランタンのように掲げた。
「さて、これで聖地の精霊をだませるものかどうか。一か八かだ」
 洞窟の入口に立つと、またうめくような声が奥から響いて来た。
 コルウスの視野は一瞬、さっきのように明暗反転した状態になった。
 生首を掲げたコルウスの周囲に死霊たちが群がってきた。四つん這いの死霊がコルウスの長靴のつま先を舐めた。
 その時、洞窟の奥から光に縁取られた鷲が飛び出して来た。鷲はそのまま空高く舞い上がり、戻って来なかった。
 コルウスの視野はすぐに元へ戻った。その一瞬は普通の人間には認識することすらできないほどの短さだった。
 コルウスは洞窟へ足を踏み入れた。今度は中へ入ることができた。
「よし、いいぞ。長老の首のご利益は大したもんだぜ」
 口の両端を吊り上げて笑いながら、コルウスは洞窟の奥へ進んでいった。
 しばらくは立って歩いていくことができるが、すぐに天井が低くなり背を屈めないと進めなくなった。その頃には外の光も入らなくなり、目を開いているかどうかすら分からない真の闇となった。
 すでに成人の儀式でこの暗闇を体験済みだったコルウスは、片手でジャルガの首を掲げ、片手は洞窟の壁につけて、少しづつ奥へ進んでいった。
 外は乾ききっている岩山だが、洞窟の中はじっとり湿っていた。壁につく手のひらにまで感じられるほどの湿気で首が生臭く匂った。
 さらに奥へ進むと、もう四つん這いにならなくては進めなくなった。腰に差した玉座の剣の鞘先が地面にこすれて音をたてた。
 コルウスは手にした首を闇の奥へ向けながら進んだが、時々、剣が何かに引っ張られるのを感じていた。腰をひねってやると鞘先が岩壁に当たって固い音をたてた。
 湿気でコルウスの黒衣はびっしょり濡れていた。岩壁からジクジクとにじみ出てくるものがあった。暗闇と沈黙の中でコルウスの息だけが妙に大きく響いた。
 洞窟はさらに狭くなり、這って進むしかなかった。ジャルガの首が邪魔でしかたなかったが、これを手離したら何が起こるか分からない恐ろしさがあった。
「……生埋めになるか……八つ裂きになるか……なにしろ、精霊のくせに『勇者』の死体を引き込むような腕力を持っているんだからよ……」
 岩壁から身体を押し潰されそうな圧力が感じられた。成人の儀式の時はこれほど苦しくなかったような気がする。湿った空気がしだいに薄くなるようで呼吸と動悸が早まった。血の気が引いて吐き気がする。
「ちくちょう、おかしなことにはまり込んじまったもんだぜ。どうして俺はこんなところでこんなことをしているんだ」
 肉体的にも精神的にも限界だと思った時、前方に光が見えてきた。コルウスは最後の力を振り絞って、そちらへ這っていった。
 ついにコルウスは聖地の深奥へ這い出した。
 そこは広場のようになっていた。手前から奥に向かって広くなる形で、岩の天井の裂け目から夕暮れ時の赤光が射していた。
 広場の中央には外の街道で見るような道しるべがあった。
 街道の道しるべは石積みで旗竿を立ててあるが、ここの道しるべは石の代わりに人間の頭蓋骨が積み上げてあった。これこそ、代々のブルクット族の勇者たちの頭蓋骨だった。
 旗竿の代わりには太い柱が立ててあり、その頂上に鷲の像があった。
 これは天に昇る霊魂のための道しるべなのだった。
 コルウスはジャルガの首を捧げ持ったまま洞窟の出口で立ち上がった。
 見ると、頭蓋骨の道しるべの前に全身の骨格を残した白骨があった。これが狼にやられちまった奴だなとコルウスは心の中で畏れの感情を押し殺しながら思った。
 まだ何日も経っていないはずなのに白骨は洗い清められたかのように乾ききっていた。頭蓋骨の額に丸く小穴が見えた。これは狼の牙の跡だろう。
 コルウスはあたりが暗くなるのを恐れて聖地の奥へ進んだ。成人の儀式では、この場所で族長が豹の毛皮をまとい、鷲の目の剣を持って待っていた。
 コルウスの顔の刺青は、その最初の一突きを族長ウルからもらっていた。ウルは聖地の奥にある石の箱から聖剣を取り出していたことをコルウスは覚えていた。
 聖地の一番奥まったところに、どこか石棺めいた石作りの箱があった。箱の横には鷲の姿が描かれ、蓋には大きく鷲の目が刻まれていた。
「これだ……この中にあるはずだぜ……」
 コルウスは脇にジャルガの首を置くと、その重い蓋を力をこめてずらした。
 何か起こるのではないかとおっかなびっくりだったが、蓋が反対側に落ちて大きな音をさせても何も起こりはしなかった。
 箱の底に淡い青色に光る剣があった。その光は反射によるものでなく内側からの光のようだったが、弱々しく消えるまぎわの蝋燭の火のように揺らいでいた。
 コルウスの目がその光を受けてギラギラと輝いた。
「間違いない、こいつだ」
 成人の儀式の時、ウルの手の中で青く光っていた剣のことをコルウスは思い出した。あの時はもっと強く光っていたような気がするが、いずれにせよシュメル王ご所望のブルクット族の聖剣はこれで間違いない。
 コルウスは箱の底に手を伸ばし、剣を握った。そのとたん、青い光は震えおののくようにして消えていった。
 剣を取り出したコルウスは岩の裂け目から降り注ぐ夕日にそれをかざしてみた。もう剣は光をたたえることはなかった。
 コルウスは用意しておいた布で剣をくるむと革紐で背中にくくりつけた。あとはこれをシュメル王のもとに届けるだけだ。
 また洞窟の穴へ這い込もうとしたコルウスは、いったん戻ってジャルガの首を手にした。用心に越したことはない。
 帰り道は来た時よりも楽な気がした。剣を手に入れた嬉しさがそう思わせたのかもしれない。不思議なことに、さっきまで湿っていた洞窟が今はすっかり乾いていた。
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