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第十五章
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第十五章
王子シュメルが王となって二十五年が過ぎた。シャーマンの予言そのままに王国はシュメル王の迷妄の影と化した。
荒野で王となり、王都へ帰還したシュメルは民の歓呼の声に迎えられた。
五年続いた王の不在は民の心に不安な影を落としていた。城門をくぐるシュメルの姿を見た民はそれに飛びつくように王の栄光を称え、王の名を叫んだ。その時、彼らは若き王の瞳にたたえられた暗さには目をつぶっていたのだった。
シュメルが王宮に落ち着いて一年も経たないうちに王都には粛清の嵐が吹き荒れ始めた。
王権を巡る陰謀に少しでも関わりのありそうな者は何かと理由をつけて追放され、従わなければ容赦なく処刑された。
シュメルが特に執着したのは母王妃の遺体の行方だった。ラサ荒野へ捜索隊を繰り出すのはもちろんのこと、母の死の真相を知るためにならば王みずから拷問に手を染めることすらあった。
すでにシュメル王は人間と名のつくものは一切、信じようとしなかった。一時は神への信仰にすがろうとしたが、シュメルはついに神の声を聞くことはできなかった。王は世界から切り離され、みなしごとなっていたからだ。
ついには王宮を守護する役目のブルクット族が追放された。建国以来、王宮からブルクット族が姿を消すのは、これが初めてのことだった。
ナビ教も王が庇護を与えぬと宣言した。王国各地の神殿からナビ教の祭司が姿を消し、ある神殿では礼拝堂に安置されていたダファネア像が何者かに引き倒される騒ぎまであった。
かつては王都の暗い片隅で震えていたならず者たちが衛兵として雇われた。ついこの間まで反逆的なポーズを気取っていたならず者どもは一転して王の権威をかさに着てやりたい放題を始めた。
セレチェンはブルクット族の追放とともにベルーフ峰の村へ帰った。ユーグはなんとか王を諫めようと王宮に頑張っていた。
シュメル王は各部族が王妃にと推してきた女たちを退け、王宮の清掃奉仕にやって来た馬具職人の娘を妻にした。
思いもよらず王妃にさせられた娘はミアレ姫を産み、一年後には亡くなってしまった。王都の民の間には、慣れない王宮生活の心労が原因だろうと噂が流れた。
ユーグをミアレ姫の師傅としたのはシュメル王だった。シュメルは迷妄の中にあってもユーグだけは側に置いて、時に意見を聞くこともあった。もっとも、その意見が容れられたことは一度もなかったが。
ユーグとセレチェンが王都の宿屋で再会を果たした、すぐ次の日のこと。
セレチェンは、クラン、カラゲルとともに王宮に迎え入れられていた。
「昨日は大変な失礼を……王の親書をお持ちのような高貴なご身分のお方とは私なぞはなかなかお会いする機会も少ないもので……」
王の側近であるユーグじきじきの指示は番兵長を震えあがらせた。昨日の高慢な様子はどこへやら、口髭の端もすっかり下を向いてしまっていた。
この番兵長は衛兵たちのような剣の腕だけが自慢のならず者あがりではなく、元は王都の城壁内に店を構える小商人だった。
この男は番兵長の『権利』が売りに出されていると聞き、蓄えをはたいてそれを買い取ったのだった。おいしい話だと思ったからだ。そんな役職にまつわる『権利』は城壁の陰でひそかにやり取りされていた。
セレチェンはこの男を責める気にもならなかった。王宮の腐敗と堕落ぶりは昨日のうちにユーグからたっぷり聞かされていた。
王宮の中は人影もなく静まり返っていた。知らぬ者が見れば廃墟と思うかも知れない。乾いた石壁に足音が響いた。近くで見ると圧倒されるような尖塔が青空の向こうを指さしている。
番兵長に案内された三人は中庭のミアレの園を通りかかった。
中央にダファネアの彫像が立ち、真昼の太陽の下で黄色い花が一面に咲き乱れている。王宮の壁は鮮やかな青のタイルで装飾されて、その色彩は目が覚めるような美しさだった。
愛想笑いを浮かべた番兵長が言った。
「ご覧ください。今年はミアレの当たり年のようですな。ひときわ見事に咲き誇っております」
セレチェンはあたりを見まわして尋ねた。
「以前、この庭園は王都の民に開放されていたはずだが」
「昨年でしたか、シュメル王が門を閉ざされたのです。騒々しいとおしゃったとか」
「王が過ごされる場所はここからずっと奥のはず。なぜ、そんなことを」
「御存じでしょうが、この地下には王の血脈を継ぐ方々の納骨堂があります。王はそこへよくいらっしゃるとかで、そのせいではないかと推察いたします」
番兵長は自分も王宮の立派な一員であることを示そうというのか、口髭の端をひねりながら言った。
セレチェンは足を止め、ミアレの花の地下に広がる納骨堂に思いを馳せた。
「王はそんなところで何をされているのだろう」
「さて、私などには分かりかねますが……」
番兵長はまた卑屈な態度に戻って薄笑いを浮かべた。
カラゲルが脇から口をはさんだ。
「セレチェン、そいつに話をさせるには例の『しるし』が要るんじゃないのか」
とたんに番兵長は手を顔の前で振り、慌てた表情になった。
「とんでもない。ほんとうに知らないのです。まあ、あまり知りたくもないと言うのが正直なところでして……近頃、王のご身辺にはそうしたことが多いようです……」
中庭を抜けたところで、セレチェンたちはユーグとミアレ姫に迎えられた。
番兵長は腰を屈めてお辞儀をすると、そそくさと去っていった。番兵長の身分ではここから先は入れない。
ミアレ姫はクランの着た濃紺の長衣に目を輝かせた。
王の前に出るためにジャルガが持たせた一種の礼服のようなものだが、草原の砂にまみれた旅装とはうって変わった姿だった。
「まあ、クラン、紺の色合いが青い目によく似合いますね」
「そうか。鷲使いはこんな長衣は着ないがな。ジャルガもどんなつもりなのか」
ユーグがオローに目をやりながら言った。
「すまないが、王の御前では繋ぎ紐をしっかり握っていてもらいたいのだ。シュメル王は鷲が苦手でな」
「私はセレチェンに鷲は王国の守護者だと教わった。それなのに王が鷲を恐れるとはどういうことなのだ」
「シュメル王はかつて荒れ野に暮らした時、鷲が狼の死骸をついばむのを見たのだ。それで、すっかり怯えてしまってな。その頃、王はまだ子供だった」
クランはさげすむような笑みを口元に浮かべた。
「王は狩人にはなれぬな」
すかさずカラゲルが軽口を叩いた。
「むしろ、狩られる方ではないのか」
さすがにユーグは目を怒らせた。
「口を慎め。ミアレ姫の父上なのだぞ」
カラゲルは口が滑ったという顔で苦笑いした。
ミアレ姫は平気な顔だった。
「カラゲルの言う通りです。王の血脈はいつでも狩りの獲物にされる側なのです」
「姫、何をおっしゃいます」
「ユーグ、私、なにか間違ったことを言いましたか。さあ、セレチェン、カラゲル、クラン、謁見の間にご案内しましょう。父がお待ちです」
アーチのある回廊を抜けていくにつれ、彩色タイルの青は深く濃くなってきた。
それが、ほとんど黒に近い紺色になる頃、一行は王宮および王都の中心である尖塔の根元にたどり着いた。
謁見の間はそこにあった。王宮の尖塔は天と地を結び、王と民を結ぶ。王の玉座はそこにしつらえられてある。
ユーグとミアレ姫は扉の前から帰っていった。この頃は、この二人でさえ王に会うことが稀になっていた。
扉の向こうで謁見の間は暗鬱な空気に満たされていた。
真昼だというのに窓にはすべて分厚い垂れ幕が引かれ、外の光を閉め出してあった。代わりに壁に燭台が並び、蜜蝋の燃える甘い香りが濃く漂っていた。
高い天井を支える円柱の間を進んでいくと、左右に篝火が焚かれてある場所があった。
クランがオローとともにそこを通り過ぎた時、炎が大きく燃え上がった。オローには目隠しがしてあった。クランはオローの繋ぎ紐をしっかり握っている。
やがて、三人の目に高く暗い玉座が見えてきた。
シュメル王はきざはしの上に据えられた玉座にぐったりともたれかかるようにして座っていた。
王冠の重みに耐えぬように首を垂れ、王権の指輪をはめた手は肘掛けの上で小刻みに震えていた。漆黒の長衣の前をはだけた襟元に油紙のような肌が見えた。
側近く仕える者はなく、玉座の脇に一本の長剣が立てかけてあるのみだった。
しかし、玉座の後ろにはやや場違いと見える背の高い衝立があって、セレチェンたちはその後ろに人の気配を感じた。目隠しをしたオローがクランの手の上で何か探るように首を動かした。
操り人形が動き出す時に似た唐突な様子で顔を上げたシュメル王は土気色の肌に似合わぬ懐かしげな笑顔を見せた。
「おお、セレチェンではないか。長老が代理にと返書にあったが、お前にまた会えるとは嬉しい限りだ」
セレチェンは実に久し振りに王宮の作法で頭を下げた。ジャルガが用意した黒の長衣には鷲の羽を文様にした金色の縁飾りがあった。
「お久しゅうございます、王よ。親書には何かお尋ねの儀があるとのこと。おそらくは我が息子のコルウスのことであろうかと存じまして、父の私が参上いたしました」
シュメル王は玉座から身を乗り出し、じっとセレチェンの顔を見つめていた。
「ああ、あのラサ荒野の日々を思い出す。お前の鷲の刺青は片方だけだったな。今は左右にある。そうだ、お前の運命……長老たる運命は全きものになったわけだ……」
王の瞳は中空を彷徨い、夢見るような色を帯びた。それから、はっと我に返ったようになると、もう一度、セレチェンを見た。
「……コルウスだと……おお、あの反逆者か。まだ見つからぬよ。王都の衛兵などに捕まえられるものか。なにしろ、お前の息子なのだからな……そこにいる稲妻の刺青の者は……」
「私とともに参りました、族長ウルの息子カラゲルと申します」
「なるほどいい面魂をしておる。王宮にいると下卑た顔ばかり目にすることになるが、草原の風のような爽やかさではないか」
王宮の作法など知るものかとばかりにカラゲルはまっすぐに王の顔を見上げていた。
ユーグが急遽用意してくれた質素な紺の長衣に身を包み、腰には剣を帯びていた。さすがに剣の柄に手をやるようなことはせず、両手を腹の上で組んでいる。
カラゲルは高い天井に木霊する声で言った。
「王は草原の風をご存じか。いつも爽やかなわけではない。肌を斬る氷のような風もあります」
シュメル王は玉座の背に身体をもたれさせた。王権の指輪をはめた手で肘掛けを握り締め、口元にはあいまいな笑みが浮かんでいた。
「族長の息子カラゲルよ。お前は王に仕えるつもりはないらしいな。かつてのブルクット族はこの王宮で王に仕えたのだぞ」
「我が部族は王国の大地に仕えている。それは王に仕えることと同じではない。ブルクット族は王国の大地に根を下ろしているのです」
王はその言葉を噛み締めているようだった。
「なるほど。お前の考えはきっと王国の精霊たちも、またダファネアをはじめ神々も嘉したもうであろう。セレチェン、次の族長は王宮に返り咲こうなどと、あのジャルガ老のような考えは抱いていないらしいな。私はあの老人がどうも好きになれない。カラゲルよ、若き草原の風よ。お前などもそうではないか」
カラゲルはうなずいた。
「その点では王と同意見です。私は族長の息子としてブルクット族の在り方についていろいろ思うところがあるのです」
セレチェンがやや慌てた口調で割って入った。
「王よ、部族の方針は族長だけが決めるものではありません。いろいろな事情をお察しいただきたい」
王は鷹揚にうなずいて見せた。
「分かっているとも。部族のことに口出しなどせぬ。その鷲使いはブルクット族ではないようだが」
王は顔にブルクット族の刺青のないクランに目を向けた。セレチェンは目の端でクランを振り返って言った。
「私が面倒を見ている者です。ブルクット族きっての鷲使いでクランと言います」
「クランよ。その鷲の名は何という」
繋ぎ紐を手に巻きつけているクランは軽く会釈して答えた。
「オローです」
「ダファネアの鷲と同じ名だな。その名にふさわしい強い鷲か」
「オローはセレチェンがベルーフ峰で見つけた鷲です。狼を引き裂く強い鷲です」
「人が鷲を選ぶだけではない、鷲も人を選ぶと言うぞ。クランもそれに負けぬ戦士だろうな」
クランはためらいなく答えた。
「私は戦士ではない。狩人です」
シュメル王はじっとクランの顔を見つめていた。王の瞳に何か波立つような色があった。乾いてささくれだった唇にためらうような動きが現れた。
「セレチェンよ、この者は……いや、そんなことは……」
王は目元に手のひらを当ててうつむき、何事か考え込むようだった。
「セレチェンよ。若い者たちを下がらせてくれ。二人だけで話したい」
セレチェンが目配せすると、カラゲルとクランは王へ一礼してから謁見の間を出ていった。
王は神経質な様子になり、玉座の後ろの衝立を軽く叩いた。
衝立の向こうに何の動きもないと分かると、王は握りこぶしで力いっぱい衝立を叩いた。その奥で何者かが衣擦れの音をさせて去って行くのがセレチェンにも分かった。
さっき、セレチェンは自分からコルウスの名前を出したが、王の狙いはそこではないと分かっていた。人払いをしたからには、いよいよとセレチェンは身構えた。
シュメル王は玉座から身を乗り出し、その目を妖しく光らせた。その目には王の身分にはふさわしからぬ、むさぼるような欲望の色があった。
「セレチェンよ、王の血脈を守った勇者よ。お前に尋ねたいことがある。ブルクット族のもとにあるダファネアの聖剣、鷲の目の剣のことだ」
セレチェンは目を細めて顔を横へそむけた。それでも、言うべきことは言わねばならない。
「王よ、部族の禁忌についてのお尋ねには、お答えできませぬ」
「そうか。それなら、ただ聞いてくれるだけでいい。私はダファネアの聖剣をこの王宮に移したらどうかと思っている。私はダファネア王国を新しく作り変えたいと考えているのだ。そのためにはもっと王権を強化する必要がある。つまり、力が欲しいのだ。確かな力がな」
「それには各部族と話し合うことが一番かと存じます。単なる力の問題ではありますまい」
「それはそうだが……どうだ、聖剣については。新しい時代が来るのだ。すべての過去を塗り替える新しい時代が……」
シュメル王の声はまた夢見るように上ずった調子になってきた。
セレチェンは王がすでにもう一つのダファネアの聖遺物、鷲の目の杖を手に入れているらしいと、ユーグから聞いていた。
それをこの場で王に問いただすのは、さすがにはばかられたが、いずれにせよ王は聖剣と聖杖を自分の手元に集め、唯一絶対なる力を持ちたいと願っているらしいと考えられた。
それだけは決して許してはならない、とセレチェンはシュメル王の顔をまともに見上げた。
「部族の禁忌ではありますが、お答えいたしましょう。王がどれほどお求めであろうと、ブルクット族長老として、そのことを認めることはできませぬ。それに王宮へそれを移動した場合、誰がそれを守るのですか。その力はみだりに使うものではありますまい」
シュメル王の夢見るような目が、今度はセレチェンに取り入ろうとする下卑た目つきに変わった。
「それは簡単なことだ。鷲の目の剣とともにブルクット族に王都へ帰還してもらうのだ。昔のようにベルーフ峰の麓で生まれた選りすぐりの戦士を王都へ送ってもらえばいい。そして、王宮で王に仕えてくれ。いや、王にではなく『善き力』と聖剣に仕えてくれ」
セレチェンはこみ上げる怒りをこらえて、かたく拳を握りしめた。
「部族の禁忌を取引に使うなど、王のなさることとも思われませぬ。もしや、誰か別の者の意志が働いているのではありませぬか」
シュメル王の目が一瞬にして激昂の色に変わった。王権の指輪をはめた手が玉座の肘掛けを握ったまま、ブルブルと震え出した。
「何をほざくか。私はダファネア王国の王だぞ。誰も私を操ることなどできぬ!」
怒鳴り声が高い天井に響き渡った。しかし、セレチェンは動ずることなく静かな口調で話し出した。
「王よ、私からひとつお尋ねいたしたいことがあります。これは定かな話ではありませんが、王はすでにダファネアの聖杖、鷲の目の杖を手元に置かれているとか。もし、これが真実なら、王はすでに王国の禁忌を侵していることになります」
シュメル王は玉座の上で身を堅くして無言のままでいた。背中をまっすぐに伸ばし、空のあらぬ場所に目を据え、あの卒倒の発作を起こすのではないかと見えた。
「王よ、お聞きください。もし、聖杖のうえに聖剣までとなれば、たとえ王であろうとも許されることではありませぬ。いや、神々が許しますまい」
セレチェンは王が神経質そうに首をすくめ、怯えた鳥のように視線を左右させるのをじっと見つめていた。
「さきほどの鷲使いクラン。あれの目をご覧になりましたか。草原の空のような青い目、私はあれこそ、『イーグル・アイ』だと信じております。王国が乱れ、危機が迫る時、イーグル・アイが現れる。王よ、シュメル王よ。よくこのことをお考えください」
シュメル王は物狂おしい目になってガバリと身を起こし、玉座から立ち上がった。脇に置いた長剣を両手で握った王はきらめく刀身を頭上高く王冠のうえに振りかざした。
「私は王だ。神々になど小突きまわされてたまるものか!」
王は玉座の背へ長剣を叩きつけた。刃は鈍い音を立てて弾き返され、王はよろめいた。剣は大きな音をさせて床に落ち、王も玉座の下にくずおれてしまった。
王は顔を両手で覆って泣きだした。王権の指輪を伝って涙が滴り落ちた。
セレチェンは無言のまま王の様子を見つめていた。いまや王の狂気は明らかだった。
しばらくして王は涙に濡れた顔を上げた。まだきざはしの下に控えているセレチェンを見ると、王はよろめく足取りで降りてきた。
「おお、セレチェン……私は……私は……」
うわ言のように言いながら、王はセレチェンにしがみついてきた。そのまま倒れかかる王をセレチェンは支え、床にひざまずいた。
「王よ、シュメル王よ。御心をしっかりお持ちください」
王はセレチェンをかき抱き、その胸に頬ずりした。まるで少年に戻ったような仕草だった。髪は乱れ、王冠は傾いた。
「セレチェン、さっきの鷲使いの娘……母上に似ていなかったか……」
「ミアレ王妃に……まさか、そんな……」
思いもかけないことを言われたセレチェンは鷲の刺青に戸惑いの色を浮かべた。
「お前は母上の顔も忘れてしまったのか。私は忘れはしないぞ。そうだ、あのラサ荒野の頃……私は幸せだった……」
シュメル王は低くささやくような声で話した。
「大好きな母上と二人でいられたあの頃。私は幸せだった。ずっとこのままでもいいと、そう思ったものだ……あの満月の夜までは……お前、覚えているだろうな、あの夜のことを……」
「あの夜……いったい何のことをおっしゃっているのです……」
「セレチェン、私は見ていたんだ……母上の天幕に入っていく、お前の姿を……」
セレチェンは顔色を変えた。心の奥底に押し込めていた暗がりが氷のように冷たく湧き出してきた。王はセレチェンの顔を見上げて薄く笑みを浮かべた。
「私は見たぞ、その鷲を。鷲は満月の青い光の中を音もさせずに飛んで、天幕の合わせ目から中へ入った。合わせ目は内側から開いた。母上がお前を迎え入れたのだ」
「王よ、それは夢を見られたのでしょう。そんなことは決して……」
シュメルはセレチェンの長衣の縁飾りを強く握った。
「夢ではない。私はラサ荒野では一度たりとも夢を見なかった……なぜだろう。王宮にいた時は毎夜、いろいろな夢を見たのに……ラサ荒野では目をつぶっても、そこにあるのは暗闇ばかりだった……」
セレチェンは王都を逃れ、荒れ野に馬を向けた時のシュメルを思い出していた。あの時もシュメルはセレチェンの上着の端を必死に握りしめていた。
シュメル王は少し身を起こし、セレチェンの顔をまともに見た。
「今になってみれば、私にも分かる。母も一人の人間であり、女だったとな。しかし、子供だった私は母をけがらわしいものと思い込んだ。母を憎んだぞ、セレチェンよ。そして、お前もな。荒れ野で私は孤独を知った。砂の地平線に恐ろしいほど大きな月が出ていた。覚えているか、セレチェンよ。あの月を。あの冷たく光っていた月を」
セレチェンは王の顔から目をそらしながら言った。
「いったい 私に何をおっしゃりたいのです。私はいつものように警護についてご命令を受けていただけのこと」
「確かか、セレチェン。あの月夜のことだぞ」
「確かでございます」
「いつものように、と言ったな。それならなぜ、あの月夜のことを覚えているのだ。いつものこと、ありふれたことなら、なぜ、あの月を覚えている」
セレチェンは、しまったという顔になった。
しかし、セレチェンはどこまでも、そのたどり着く先が死者の国であるとしても、王妃を守るのが務めだった。たとえ最後に残った剣がもろい草の茎に等しい浅はかな嘘だけだったとしても。
セレチェンはずっと自分を敗者だと思っていた。皆が言うような王の血脈を守った勇者などでは断じてないと。今、セレチェンはそれを確信した。
王の声は荒れ野に吹く風のように寂しく響いた。
「セレチェンよ、私はお前を責めてなどいない。きっと母上も王の血脈を守るためには私一人では心もとないと思われたのだろう。母上は私の母上だが、同時に王国の母なのだから……あの後、母上は私に王権の指輪を託された……」
王は王権の指輪をはめた手を傾いた王冠にやり、静かな口調で話した。
「私はたくさんの人間を殺した。ラサ荒野から帰って玉座につき、初めての王命は拷問と処刑だったのだ。私は母上を探した。そのために数えきれないほどの首をはねた。数えきれないほどの人間を焼いた。そればかりか、それを諫めたブルクット族の戦士とナビ教の神官たちを追放した。私は後戻りのできないところまで突き進んだ……」
王の口元が震え、異様な形にゆがんだ。
「黙っていようと思ったが……セレチェン、お前には教えよう。私は母上の亡骸を見つけたのだ」
「なんですと。それは確かなのですか。あれからもう三十年近くが経っているのですぞ」
「漆黒の喪服、腰帯の金具は王妃の紋章。朽ち果ててはいるが、すべて見覚えがある。間違いない……ただし……首はない……」
セレチェンは絶句した。これが王の狂気から来る妄想なのか、それとも現実なのか、見当もつかなかった。
「セレチェンよ。あのシャーマンを覚えているか。シャーマンは母上の亡霊には首がないと言ったな。あれとぴったり符合する……」
王は乱れる心を集中させようとするかのように、中空の一点をにらみ据えていた。
「きっと最初は母上を生きたまま、どこかへ連れ去ろうとしたのだろう。しかし、それが無理だと思った刺客は首だけを持ち去ったのではないか。私はそう考えている」
シュメル王は暗い目を輝かせて、セレチェンを見た。
「私は力が必要だ。絶対的な力がな。あの日の満月のような力だ。冷たく動じず、あらゆる苦悩と無縁な力。純粋な力。世界を我が物にする力だ。そうすればすべてをやり直せるはずだ。運命を拒み、ひっくり返し、神々を憎み、笑ってやれるのだ!」
セレチェンは王の目を真っ向から見据えて言った。
「王よ、この世のすべては神々のはからいの下にあります。神々の御意思を推し量ることは人間にはできません。ましてや、それを変えることなど」
「そうかな、セレチェン。私は諦めないぞ。王国の精霊どもを我が足下にひれ伏させ、神々を出し抜いてやる」
もはや王は目の前のセレチェンなど見ていなかった。その瞳には血がにじむように闇が広がっていった。
「セレチェンよ、あのイーグル・アイの娘を大事にすることだ。神々は不可解で残酷なものだからな」
王子シュメルが王となって二十五年が過ぎた。シャーマンの予言そのままに王国はシュメル王の迷妄の影と化した。
荒野で王となり、王都へ帰還したシュメルは民の歓呼の声に迎えられた。
五年続いた王の不在は民の心に不安な影を落としていた。城門をくぐるシュメルの姿を見た民はそれに飛びつくように王の栄光を称え、王の名を叫んだ。その時、彼らは若き王の瞳にたたえられた暗さには目をつぶっていたのだった。
シュメルが王宮に落ち着いて一年も経たないうちに王都には粛清の嵐が吹き荒れ始めた。
王権を巡る陰謀に少しでも関わりのありそうな者は何かと理由をつけて追放され、従わなければ容赦なく処刑された。
シュメルが特に執着したのは母王妃の遺体の行方だった。ラサ荒野へ捜索隊を繰り出すのはもちろんのこと、母の死の真相を知るためにならば王みずから拷問に手を染めることすらあった。
すでにシュメル王は人間と名のつくものは一切、信じようとしなかった。一時は神への信仰にすがろうとしたが、シュメルはついに神の声を聞くことはできなかった。王は世界から切り離され、みなしごとなっていたからだ。
ついには王宮を守護する役目のブルクット族が追放された。建国以来、王宮からブルクット族が姿を消すのは、これが初めてのことだった。
ナビ教も王が庇護を与えぬと宣言した。王国各地の神殿からナビ教の祭司が姿を消し、ある神殿では礼拝堂に安置されていたダファネア像が何者かに引き倒される騒ぎまであった。
かつては王都の暗い片隅で震えていたならず者たちが衛兵として雇われた。ついこの間まで反逆的なポーズを気取っていたならず者どもは一転して王の権威をかさに着てやりたい放題を始めた。
セレチェンはブルクット族の追放とともにベルーフ峰の村へ帰った。ユーグはなんとか王を諫めようと王宮に頑張っていた。
シュメル王は各部族が王妃にと推してきた女たちを退け、王宮の清掃奉仕にやって来た馬具職人の娘を妻にした。
思いもよらず王妃にさせられた娘はミアレ姫を産み、一年後には亡くなってしまった。王都の民の間には、慣れない王宮生活の心労が原因だろうと噂が流れた。
ユーグをミアレ姫の師傅としたのはシュメル王だった。シュメルは迷妄の中にあってもユーグだけは側に置いて、時に意見を聞くこともあった。もっとも、その意見が容れられたことは一度もなかったが。
ユーグとセレチェンが王都の宿屋で再会を果たした、すぐ次の日のこと。
セレチェンは、クラン、カラゲルとともに王宮に迎え入れられていた。
「昨日は大変な失礼を……王の親書をお持ちのような高貴なご身分のお方とは私なぞはなかなかお会いする機会も少ないもので……」
王の側近であるユーグじきじきの指示は番兵長を震えあがらせた。昨日の高慢な様子はどこへやら、口髭の端もすっかり下を向いてしまっていた。
この番兵長は衛兵たちのような剣の腕だけが自慢のならず者あがりではなく、元は王都の城壁内に店を構える小商人だった。
この男は番兵長の『権利』が売りに出されていると聞き、蓄えをはたいてそれを買い取ったのだった。おいしい話だと思ったからだ。そんな役職にまつわる『権利』は城壁の陰でひそかにやり取りされていた。
セレチェンはこの男を責める気にもならなかった。王宮の腐敗と堕落ぶりは昨日のうちにユーグからたっぷり聞かされていた。
王宮の中は人影もなく静まり返っていた。知らぬ者が見れば廃墟と思うかも知れない。乾いた石壁に足音が響いた。近くで見ると圧倒されるような尖塔が青空の向こうを指さしている。
番兵長に案内された三人は中庭のミアレの園を通りかかった。
中央にダファネアの彫像が立ち、真昼の太陽の下で黄色い花が一面に咲き乱れている。王宮の壁は鮮やかな青のタイルで装飾されて、その色彩は目が覚めるような美しさだった。
愛想笑いを浮かべた番兵長が言った。
「ご覧ください。今年はミアレの当たり年のようですな。ひときわ見事に咲き誇っております」
セレチェンはあたりを見まわして尋ねた。
「以前、この庭園は王都の民に開放されていたはずだが」
「昨年でしたか、シュメル王が門を閉ざされたのです。騒々しいとおしゃったとか」
「王が過ごされる場所はここからずっと奥のはず。なぜ、そんなことを」
「御存じでしょうが、この地下には王の血脈を継ぐ方々の納骨堂があります。王はそこへよくいらっしゃるとかで、そのせいではないかと推察いたします」
番兵長は自分も王宮の立派な一員であることを示そうというのか、口髭の端をひねりながら言った。
セレチェンは足を止め、ミアレの花の地下に広がる納骨堂に思いを馳せた。
「王はそんなところで何をされているのだろう」
「さて、私などには分かりかねますが……」
番兵長はまた卑屈な態度に戻って薄笑いを浮かべた。
カラゲルが脇から口をはさんだ。
「セレチェン、そいつに話をさせるには例の『しるし』が要るんじゃないのか」
とたんに番兵長は手を顔の前で振り、慌てた表情になった。
「とんでもない。ほんとうに知らないのです。まあ、あまり知りたくもないと言うのが正直なところでして……近頃、王のご身辺にはそうしたことが多いようです……」
中庭を抜けたところで、セレチェンたちはユーグとミアレ姫に迎えられた。
番兵長は腰を屈めてお辞儀をすると、そそくさと去っていった。番兵長の身分ではここから先は入れない。
ミアレ姫はクランの着た濃紺の長衣に目を輝かせた。
王の前に出るためにジャルガが持たせた一種の礼服のようなものだが、草原の砂にまみれた旅装とはうって変わった姿だった。
「まあ、クラン、紺の色合いが青い目によく似合いますね」
「そうか。鷲使いはこんな長衣は着ないがな。ジャルガもどんなつもりなのか」
ユーグがオローに目をやりながら言った。
「すまないが、王の御前では繋ぎ紐をしっかり握っていてもらいたいのだ。シュメル王は鷲が苦手でな」
「私はセレチェンに鷲は王国の守護者だと教わった。それなのに王が鷲を恐れるとはどういうことなのだ」
「シュメル王はかつて荒れ野に暮らした時、鷲が狼の死骸をついばむのを見たのだ。それで、すっかり怯えてしまってな。その頃、王はまだ子供だった」
クランはさげすむような笑みを口元に浮かべた。
「王は狩人にはなれぬな」
すかさずカラゲルが軽口を叩いた。
「むしろ、狩られる方ではないのか」
さすがにユーグは目を怒らせた。
「口を慎め。ミアレ姫の父上なのだぞ」
カラゲルは口が滑ったという顔で苦笑いした。
ミアレ姫は平気な顔だった。
「カラゲルの言う通りです。王の血脈はいつでも狩りの獲物にされる側なのです」
「姫、何をおっしゃいます」
「ユーグ、私、なにか間違ったことを言いましたか。さあ、セレチェン、カラゲル、クラン、謁見の間にご案内しましょう。父がお待ちです」
アーチのある回廊を抜けていくにつれ、彩色タイルの青は深く濃くなってきた。
それが、ほとんど黒に近い紺色になる頃、一行は王宮および王都の中心である尖塔の根元にたどり着いた。
謁見の間はそこにあった。王宮の尖塔は天と地を結び、王と民を結ぶ。王の玉座はそこにしつらえられてある。
ユーグとミアレ姫は扉の前から帰っていった。この頃は、この二人でさえ王に会うことが稀になっていた。
扉の向こうで謁見の間は暗鬱な空気に満たされていた。
真昼だというのに窓にはすべて分厚い垂れ幕が引かれ、外の光を閉め出してあった。代わりに壁に燭台が並び、蜜蝋の燃える甘い香りが濃く漂っていた。
高い天井を支える円柱の間を進んでいくと、左右に篝火が焚かれてある場所があった。
クランがオローとともにそこを通り過ぎた時、炎が大きく燃え上がった。オローには目隠しがしてあった。クランはオローの繋ぎ紐をしっかり握っている。
やがて、三人の目に高く暗い玉座が見えてきた。
シュメル王はきざはしの上に据えられた玉座にぐったりともたれかかるようにして座っていた。
王冠の重みに耐えぬように首を垂れ、王権の指輪をはめた手は肘掛けの上で小刻みに震えていた。漆黒の長衣の前をはだけた襟元に油紙のような肌が見えた。
側近く仕える者はなく、玉座の脇に一本の長剣が立てかけてあるのみだった。
しかし、玉座の後ろにはやや場違いと見える背の高い衝立があって、セレチェンたちはその後ろに人の気配を感じた。目隠しをしたオローがクランの手の上で何か探るように首を動かした。
操り人形が動き出す時に似た唐突な様子で顔を上げたシュメル王は土気色の肌に似合わぬ懐かしげな笑顔を見せた。
「おお、セレチェンではないか。長老が代理にと返書にあったが、お前にまた会えるとは嬉しい限りだ」
セレチェンは実に久し振りに王宮の作法で頭を下げた。ジャルガが用意した黒の長衣には鷲の羽を文様にした金色の縁飾りがあった。
「お久しゅうございます、王よ。親書には何かお尋ねの儀があるとのこと。おそらくは我が息子のコルウスのことであろうかと存じまして、父の私が参上いたしました」
シュメル王は玉座から身を乗り出し、じっとセレチェンの顔を見つめていた。
「ああ、あのラサ荒野の日々を思い出す。お前の鷲の刺青は片方だけだったな。今は左右にある。そうだ、お前の運命……長老たる運命は全きものになったわけだ……」
王の瞳は中空を彷徨い、夢見るような色を帯びた。それから、はっと我に返ったようになると、もう一度、セレチェンを見た。
「……コルウスだと……おお、あの反逆者か。まだ見つからぬよ。王都の衛兵などに捕まえられるものか。なにしろ、お前の息子なのだからな……そこにいる稲妻の刺青の者は……」
「私とともに参りました、族長ウルの息子カラゲルと申します」
「なるほどいい面魂をしておる。王宮にいると下卑た顔ばかり目にすることになるが、草原の風のような爽やかさではないか」
王宮の作法など知るものかとばかりにカラゲルはまっすぐに王の顔を見上げていた。
ユーグが急遽用意してくれた質素な紺の長衣に身を包み、腰には剣を帯びていた。さすがに剣の柄に手をやるようなことはせず、両手を腹の上で組んでいる。
カラゲルは高い天井に木霊する声で言った。
「王は草原の風をご存じか。いつも爽やかなわけではない。肌を斬る氷のような風もあります」
シュメル王は玉座の背に身体をもたれさせた。王権の指輪をはめた手で肘掛けを握り締め、口元にはあいまいな笑みが浮かんでいた。
「族長の息子カラゲルよ。お前は王に仕えるつもりはないらしいな。かつてのブルクット族はこの王宮で王に仕えたのだぞ」
「我が部族は王国の大地に仕えている。それは王に仕えることと同じではない。ブルクット族は王国の大地に根を下ろしているのです」
王はその言葉を噛み締めているようだった。
「なるほど。お前の考えはきっと王国の精霊たちも、またダファネアをはじめ神々も嘉したもうであろう。セレチェン、次の族長は王宮に返り咲こうなどと、あのジャルガ老のような考えは抱いていないらしいな。私はあの老人がどうも好きになれない。カラゲルよ、若き草原の風よ。お前などもそうではないか」
カラゲルはうなずいた。
「その点では王と同意見です。私は族長の息子としてブルクット族の在り方についていろいろ思うところがあるのです」
セレチェンがやや慌てた口調で割って入った。
「王よ、部族の方針は族長だけが決めるものではありません。いろいろな事情をお察しいただきたい」
王は鷹揚にうなずいて見せた。
「分かっているとも。部族のことに口出しなどせぬ。その鷲使いはブルクット族ではないようだが」
王は顔にブルクット族の刺青のないクランに目を向けた。セレチェンは目の端でクランを振り返って言った。
「私が面倒を見ている者です。ブルクット族きっての鷲使いでクランと言います」
「クランよ。その鷲の名は何という」
繋ぎ紐を手に巻きつけているクランは軽く会釈して答えた。
「オローです」
「ダファネアの鷲と同じ名だな。その名にふさわしい強い鷲か」
「オローはセレチェンがベルーフ峰で見つけた鷲です。狼を引き裂く強い鷲です」
「人が鷲を選ぶだけではない、鷲も人を選ぶと言うぞ。クランもそれに負けぬ戦士だろうな」
クランはためらいなく答えた。
「私は戦士ではない。狩人です」
シュメル王はじっとクランの顔を見つめていた。王の瞳に何か波立つような色があった。乾いてささくれだった唇にためらうような動きが現れた。
「セレチェンよ、この者は……いや、そんなことは……」
王は目元に手のひらを当ててうつむき、何事か考え込むようだった。
「セレチェンよ。若い者たちを下がらせてくれ。二人だけで話したい」
セレチェンが目配せすると、カラゲルとクランは王へ一礼してから謁見の間を出ていった。
王は神経質な様子になり、玉座の後ろの衝立を軽く叩いた。
衝立の向こうに何の動きもないと分かると、王は握りこぶしで力いっぱい衝立を叩いた。その奥で何者かが衣擦れの音をさせて去って行くのがセレチェンにも分かった。
さっき、セレチェンは自分からコルウスの名前を出したが、王の狙いはそこではないと分かっていた。人払いをしたからには、いよいよとセレチェンは身構えた。
シュメル王は玉座から身を乗り出し、その目を妖しく光らせた。その目には王の身分にはふさわしからぬ、むさぼるような欲望の色があった。
「セレチェンよ、王の血脈を守った勇者よ。お前に尋ねたいことがある。ブルクット族のもとにあるダファネアの聖剣、鷲の目の剣のことだ」
セレチェンは目を細めて顔を横へそむけた。それでも、言うべきことは言わねばならない。
「王よ、部族の禁忌についてのお尋ねには、お答えできませぬ」
「そうか。それなら、ただ聞いてくれるだけでいい。私はダファネアの聖剣をこの王宮に移したらどうかと思っている。私はダファネア王国を新しく作り変えたいと考えているのだ。そのためにはもっと王権を強化する必要がある。つまり、力が欲しいのだ。確かな力がな」
「それには各部族と話し合うことが一番かと存じます。単なる力の問題ではありますまい」
「それはそうだが……どうだ、聖剣については。新しい時代が来るのだ。すべての過去を塗り替える新しい時代が……」
シュメル王の声はまた夢見るように上ずった調子になってきた。
セレチェンは王がすでにもう一つのダファネアの聖遺物、鷲の目の杖を手に入れているらしいと、ユーグから聞いていた。
それをこの場で王に問いただすのは、さすがにはばかられたが、いずれにせよ王は聖剣と聖杖を自分の手元に集め、唯一絶対なる力を持ちたいと願っているらしいと考えられた。
それだけは決して許してはならない、とセレチェンはシュメル王の顔をまともに見上げた。
「部族の禁忌ではありますが、お答えいたしましょう。王がどれほどお求めであろうと、ブルクット族長老として、そのことを認めることはできませぬ。それに王宮へそれを移動した場合、誰がそれを守るのですか。その力はみだりに使うものではありますまい」
シュメル王の夢見るような目が、今度はセレチェンに取り入ろうとする下卑た目つきに変わった。
「それは簡単なことだ。鷲の目の剣とともにブルクット族に王都へ帰還してもらうのだ。昔のようにベルーフ峰の麓で生まれた選りすぐりの戦士を王都へ送ってもらえばいい。そして、王宮で王に仕えてくれ。いや、王にではなく『善き力』と聖剣に仕えてくれ」
セレチェンはこみ上げる怒りをこらえて、かたく拳を握りしめた。
「部族の禁忌を取引に使うなど、王のなさることとも思われませぬ。もしや、誰か別の者の意志が働いているのではありませぬか」
シュメル王の目が一瞬にして激昂の色に変わった。王権の指輪をはめた手が玉座の肘掛けを握ったまま、ブルブルと震え出した。
「何をほざくか。私はダファネア王国の王だぞ。誰も私を操ることなどできぬ!」
怒鳴り声が高い天井に響き渡った。しかし、セレチェンは動ずることなく静かな口調で話し出した。
「王よ、私からひとつお尋ねいたしたいことがあります。これは定かな話ではありませんが、王はすでにダファネアの聖杖、鷲の目の杖を手元に置かれているとか。もし、これが真実なら、王はすでに王国の禁忌を侵していることになります」
シュメル王は玉座の上で身を堅くして無言のままでいた。背中をまっすぐに伸ばし、空のあらぬ場所に目を据え、あの卒倒の発作を起こすのではないかと見えた。
「王よ、お聞きください。もし、聖杖のうえに聖剣までとなれば、たとえ王であろうとも許されることではありませぬ。いや、神々が許しますまい」
セレチェンは王が神経質そうに首をすくめ、怯えた鳥のように視線を左右させるのをじっと見つめていた。
「さきほどの鷲使いクラン。あれの目をご覧になりましたか。草原の空のような青い目、私はあれこそ、『イーグル・アイ』だと信じております。王国が乱れ、危機が迫る時、イーグル・アイが現れる。王よ、シュメル王よ。よくこのことをお考えください」
シュメル王は物狂おしい目になってガバリと身を起こし、玉座から立ち上がった。脇に置いた長剣を両手で握った王はきらめく刀身を頭上高く王冠のうえに振りかざした。
「私は王だ。神々になど小突きまわされてたまるものか!」
王は玉座の背へ長剣を叩きつけた。刃は鈍い音を立てて弾き返され、王はよろめいた。剣は大きな音をさせて床に落ち、王も玉座の下にくずおれてしまった。
王は顔を両手で覆って泣きだした。王権の指輪を伝って涙が滴り落ちた。
セレチェンは無言のまま王の様子を見つめていた。いまや王の狂気は明らかだった。
しばらくして王は涙に濡れた顔を上げた。まだきざはしの下に控えているセレチェンを見ると、王はよろめく足取りで降りてきた。
「おお、セレチェン……私は……私は……」
うわ言のように言いながら、王はセレチェンにしがみついてきた。そのまま倒れかかる王をセレチェンは支え、床にひざまずいた。
「王よ、シュメル王よ。御心をしっかりお持ちください」
王はセレチェンをかき抱き、その胸に頬ずりした。まるで少年に戻ったような仕草だった。髪は乱れ、王冠は傾いた。
「セレチェン、さっきの鷲使いの娘……母上に似ていなかったか……」
「ミアレ王妃に……まさか、そんな……」
思いもかけないことを言われたセレチェンは鷲の刺青に戸惑いの色を浮かべた。
「お前は母上の顔も忘れてしまったのか。私は忘れはしないぞ。そうだ、あのラサ荒野の頃……私は幸せだった……」
シュメル王は低くささやくような声で話した。
「大好きな母上と二人でいられたあの頃。私は幸せだった。ずっとこのままでもいいと、そう思ったものだ……あの満月の夜までは……お前、覚えているだろうな、あの夜のことを……」
「あの夜……いったい何のことをおっしゃっているのです……」
「セレチェン、私は見ていたんだ……母上の天幕に入っていく、お前の姿を……」
セレチェンは顔色を変えた。心の奥底に押し込めていた暗がりが氷のように冷たく湧き出してきた。王はセレチェンの顔を見上げて薄く笑みを浮かべた。
「私は見たぞ、その鷲を。鷲は満月の青い光の中を音もさせずに飛んで、天幕の合わせ目から中へ入った。合わせ目は内側から開いた。母上がお前を迎え入れたのだ」
「王よ、それは夢を見られたのでしょう。そんなことは決して……」
シュメルはセレチェンの長衣の縁飾りを強く握った。
「夢ではない。私はラサ荒野では一度たりとも夢を見なかった……なぜだろう。王宮にいた時は毎夜、いろいろな夢を見たのに……ラサ荒野では目をつぶっても、そこにあるのは暗闇ばかりだった……」
セレチェンは王都を逃れ、荒れ野に馬を向けた時のシュメルを思い出していた。あの時もシュメルはセレチェンの上着の端を必死に握りしめていた。
シュメル王は少し身を起こし、セレチェンの顔をまともに見た。
「今になってみれば、私にも分かる。母も一人の人間であり、女だったとな。しかし、子供だった私は母をけがらわしいものと思い込んだ。母を憎んだぞ、セレチェンよ。そして、お前もな。荒れ野で私は孤独を知った。砂の地平線に恐ろしいほど大きな月が出ていた。覚えているか、セレチェンよ。あの月を。あの冷たく光っていた月を」
セレチェンは王の顔から目をそらしながら言った。
「いったい 私に何をおっしゃりたいのです。私はいつものように警護についてご命令を受けていただけのこと」
「確かか、セレチェン。あの月夜のことだぞ」
「確かでございます」
「いつものように、と言ったな。それならなぜ、あの月夜のことを覚えているのだ。いつものこと、ありふれたことなら、なぜ、あの月を覚えている」
セレチェンは、しまったという顔になった。
しかし、セレチェンはどこまでも、そのたどり着く先が死者の国であるとしても、王妃を守るのが務めだった。たとえ最後に残った剣がもろい草の茎に等しい浅はかな嘘だけだったとしても。
セレチェンはずっと自分を敗者だと思っていた。皆が言うような王の血脈を守った勇者などでは断じてないと。今、セレチェンはそれを確信した。
王の声は荒れ野に吹く風のように寂しく響いた。
「セレチェンよ、私はお前を責めてなどいない。きっと母上も王の血脈を守るためには私一人では心もとないと思われたのだろう。母上は私の母上だが、同時に王国の母なのだから……あの後、母上は私に王権の指輪を託された……」
王は王権の指輪をはめた手を傾いた王冠にやり、静かな口調で話した。
「私はたくさんの人間を殺した。ラサ荒野から帰って玉座につき、初めての王命は拷問と処刑だったのだ。私は母上を探した。そのために数えきれないほどの首をはねた。数えきれないほどの人間を焼いた。そればかりか、それを諫めたブルクット族の戦士とナビ教の神官たちを追放した。私は後戻りのできないところまで突き進んだ……」
王の口元が震え、異様な形にゆがんだ。
「黙っていようと思ったが……セレチェン、お前には教えよう。私は母上の亡骸を見つけたのだ」
「なんですと。それは確かなのですか。あれからもう三十年近くが経っているのですぞ」
「漆黒の喪服、腰帯の金具は王妃の紋章。朽ち果ててはいるが、すべて見覚えがある。間違いない……ただし……首はない……」
セレチェンは絶句した。これが王の狂気から来る妄想なのか、それとも現実なのか、見当もつかなかった。
「セレチェンよ。あのシャーマンを覚えているか。シャーマンは母上の亡霊には首がないと言ったな。あれとぴったり符合する……」
王は乱れる心を集中させようとするかのように、中空の一点をにらみ据えていた。
「きっと最初は母上を生きたまま、どこかへ連れ去ろうとしたのだろう。しかし、それが無理だと思った刺客は首だけを持ち去ったのではないか。私はそう考えている」
シュメル王は暗い目を輝かせて、セレチェンを見た。
「私は力が必要だ。絶対的な力がな。あの日の満月のような力だ。冷たく動じず、あらゆる苦悩と無縁な力。純粋な力。世界を我が物にする力だ。そうすればすべてをやり直せるはずだ。運命を拒み、ひっくり返し、神々を憎み、笑ってやれるのだ!」
セレチェンは王の目を真っ向から見据えて言った。
「王よ、この世のすべては神々のはからいの下にあります。神々の御意思を推し量ることは人間にはできません。ましてや、それを変えることなど」
「そうかな、セレチェン。私は諦めないぞ。王国の精霊どもを我が足下にひれ伏させ、神々を出し抜いてやる」
もはや王は目の前のセレチェンなど見ていなかった。その瞳には血がにじむように闇が広がっていった。
「セレチェンよ、あのイーグル・アイの娘を大事にすることだ。神々は不可解で残酷なものだからな」
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