地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第一章

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《第一部》

 ダファネア王国は森と草原と精霊の国だった。
 およそ二千年前、鷲使いの英雄ダファネアは闇の王を地下深くへ追い払った。
 英雄の血は王の血脈となって今に伝わっている。
 神々が作り、精霊が英雄に与えた聖剣と聖杖、そして王の血脈は王国に『善き力』を与えていた。
 しかし、人間はしだいに堕落していった。
 いにしえの言葉を忘れた人間は精霊の声を聞くことができなくなった。
 そして、あらゆる悪徳が人間の心を蝕んでいった。貪欲、欺瞞、怠惰……。
 その最たるものが、『絶望』だった。

第一章

 ダファネア王国北部、ブルクット族の土地に獲物を追う勢子の声が響いた。
「オホーイ、ホーイッ……ホイッ、ホイッ、ホイッ……」
 獲物は狐だ。乾いた岩山のふもとを一直線に逃げていく。
 それを追い立てているのは族長の息子カラゲルだった。
 青い縁取りのある濃い茶色の上着、太いズボンは革紐でくくり、長靴の先で馬の鐙を踏んでいる。
 勢子声も慣れたもので鞭で鞍の端を叩きながら馬を駆けさせている。その鞍には弓と矢筒がつけてあるが、今は使わない。
 カラゲルは岩山の上の鷲使いへ合図を送った。
 振り仰ぐ顔の目の端に稲妻の刺青が見えた。今は左目だけだが、いずれ族長になる日には右目にもしるしが彫られるだろう。
 その視線の先にいる山上の鷲使いの名はクラン。
 切れ長の目が走る獲物を追っていた。その瞳は晴れ渡った空を思わせるサファイアの青だった。上着も深い青で縁取りに雲の文様が見えた。
 黒毛の馬にまたがり、右腕の手甲に犬鷲のオローを据えている。クランはオローに目隠しはせず、脚紐をつけることもしなかった。ブルクット族の鷲使いの流儀はそのようなものだった。彼らはただの狩人でなく、戦士だった。
 クランは鷲を放った。オローは巨大な翼を張って山上から獲物へ滑空していった。翼が畳まれると一気に速度を増して急降下していく。
 その姿を目で追うクランはすでに鷲と一体になっていた。草原を渡る風に鷲の羽が空を切る音が混じる。
 狐にオローの爪がかかった。もがく狐と鷲の羽ばたきに砂塵が舞い上がった。
 クランは馬腹を蹴って岩山を下りていった。その後から、もうひとり山上にいた長老のセレチェンが続いた。
 セレチェンはクランにとって鷲使いの師匠であり、育ての親だった。その両目の端には鷲の翼をかたどった長老の刺青があった。
 すでに勢子役のカラゲルは鷲のもとに駆け寄って、こちらへ笑顔を見せていた。
 その時。
「カラゲル、狼だ!」
 クランの放った声にカラゲルは馬上で身を屈めた。とっさに手綱を引いて馬ごと身体の向きを変える。
 背後から飛び掛かってきた狼は馬の反対側に回り込むと、ばねのような跳躍力を見せて、ふたたびカラゲルを襲った。
 馬は驚き、カラゲルは鞍から滑り落ちた。しかし、地面に身体が着くとすぐさま身をひるがえし、腰帯につけていた短刀を抜いた。
 狼は獣の力でのしかかってきた。必死に短刀を振るいながらカラゲルは見た。
 その獣の目は夜闇のように黒一色で、牙をのぞかせた口からは、すすのようなものを吐き出していた。硫黄のような臭気が鼻をつく。
 岩山を駆け下りてきたクランは馬から飛び降りると腰に差した剣を抜いた。
 カラゲルの短刀に怯んだ狼の肩のあたりを突くと、血ではない黒い煙のようなものがにじみ出た。
 弾かれたように狼は跳ね上がった。毛皮に覆われた胴体をよじり、空中でもがくように四肢を痙攣させている。それは剣で突かれた痛みのせいというより、何物かが内側に巣食っているような奇妙な動きだった。
 異様な獣の様子に二人は後ずさった。地上に降りた狼は乾いた地面を蹴って逃げていった。
 カラゲルは身を起こし、狼の逃げた方向に目をやったが、そこには草原が広がっているばかりで獣の姿は見えない。
「あいつどこへ逃げたんだ。消えてしまったみたいだぞ」
 剣を握ったままクランは青い目で草原を見回したが、やはり何も見えなかった。
「どこかのくぼみにでも隠れたか。しかし、どうも変だ。セレチェン、あれを見たか」
 長老セレチェンは地平線に目を向けたまま、何も言わなかった。目元の刺青に深い皺が刻まれた。
 クランは鷲のオローから獲物の狐を取り、代わりに餌を与えた。慣れた仕草で鷲を手甲に載せる。
「あの狼、私たちの獲物を狙って来たのか。それとも、カラゲルを食ってやろうとでも思ったか」
「そう簡単に食われるものか。しかし、まったく気配を感じなかった。それに……何だ、この臭いは……硫黄か……」
 それまで無言だったセレチェンが地面に目をやると、あれを見ろと指さした。
「蛇だ……消えていく……」
 短い草の間に黒い蛇らしきものが見えた。しかし、それは地面に吸い込まれるように消えていった。
「今日の狩りはこれで終わりだ。村へ帰ろう」
 セレチェンの言葉にクランとカラゲルは帰り支度を始めた。
 カラゲルの馬はまだ浮足立っているようだった。カラゲルは繰り返し馬の首を撫でてなだめた。
 獲物の狐は三匹、クランの馬の背につけた。
 獲物をくくる革紐は一風変わった編み方をしてあった。ブルクット族には特有の編み紐があるのだった。クランは狩りの全てをセレチェンから学んだ。
 セレチェンの後についてカラゲルとクランは馬首を並べて行った。
「クラン、ハルは落ち着いたものだな」
 クランは自分の黒毛馬をハルと呼んでいた。
「ああ、こいつはいつも落ち着き払っている。しかし、走る時はどの馬よりも速い」
「どうだ、競争して帰るか」
「こちらはオローがいるんだぞ」
 クランは鷲を据えた腕を支える木製の装具を鞍に当て直した。
「セレチェンに預けろ。元はセレチェンが捕まえてきた鷲だろう。いずれにせよ、オローなら勝手に飛ばしておいてもちゃんと帰ってくるさ」
 前を行くセレチェンが、よせ、と声をかけた。
「馬を疲れさせるだけだ。まったく、この頃の若い者は馬を便利な道具としか思っていないようだな」
「そんなことはない。俺たちにとって、こいつらは道具なんかじゃない。友だ。なあ、そうだろう、クランよ」
 クランとカラゲルは砂埃のついた顔を見合わせた。クランは二十歳になったばかり、カラゲルは少し年上で二十三歳だった。
 カラゲルは成人の儀式を経たブルクット族がそうであるように、顔には刺青があり、髪は髷を結っていた。その髷は部族の流儀の編み紐でくくってある。
 カラゲルが長老セレチェンに尋ねた。
「セレチェン、あの狼はいったい何だ。それにあの黒い蛇は」
「分からん。今、考えているところだ」
「長老の知恵でも分からないか。それなら俺たちに分かるわけがないな」
 カラゲルのからかうような言葉にセレチェンは振り向きもしなかった。カラゲルは鞍の前部にもたれかかりながらクランに言った。
「おい、あの獣はお前のようだったぞ。獰猛な牝狼さ」
 クランは切れ長の目元に薄く笑みを浮かべた。その顔に刺青はない。髪も成人のしるしの髷を結っておらず、肩の後ろになびかせている。
「そうか。お前、ずいぶん慌てていたようだが、とっさに牝と分かるとはな。きっと、村では女の尻ばかり追いかけているのだろう。狼だろうと見境なしか」
「ブルクット族の女は狼よりも獰猛だぞ。俺などは百戦錬磨だが」
「馬鹿め。食い殺されるがいい」
 草原を行く馬の向こうに雪を頂いたベルーフ峰が見えた。ブルクット族の聖地で村はそのふもとにあった。
 日は傾きかけて、遥かな草原を流れる川筋を薄赤くきらめかせていた。秋分のひと月ほど前、空気は澄み切っていた。
 カラゲルが言った。
「しかし、俺もあの狼には気付かなかった。まったく不覚を取ったものだ」
「いや、岩山の上から見ても、突然現れたようだった」
「そして、突然消えた……蛇を残して……」
 草原を渡る風としだいに強くなる西日に二人の顔は乾いていった。硫黄の臭いが鼻について離れなかった。
「あれは……『闇の獣』か……」
 セレチェンがつぶやくように言った。風に吹かれて飛んできたその言葉をカラゲルは鼻で笑った。
「また、あの『イーグル・アイ』の戯言が始まったか」
 カラゲルは馬を進め、セレチェンの脇につけた。
「王国に災いが迫ると『イーグル・アイ』を持った者が現れ、英雄ダファネアのように王国を救う。それは分かった。しかし、今、王国は危機に瀕しているのか」
 カラゲルは稲妻の刺青のある目を草原に向けた。鳥の群れが風に乗ってベルーフ峰の方へと飛んでいく。空は深い青から紫色を帯びてきたようだ。
「とてもそのようには見えないが」
 カラゲルは少し目を細めてセレチェンの横顔を見た。毛皮の帽子の下で鷲の刺青のある目が憂いを帯びていた。
「王国の災いはすでに始まっている。ずっと前にな」
「それについては何度も聞いたぞ。つまり、クランはそのためにこの世へ生まれてきたのだと。それに、最近伝え聞いたところによると、王都でシュメル王は何か企んでいるらしい。まったく、俺には王が何のためにあるのかすら分からん」
 しかし、とカラゲルはベルーフ峰の白雪に目を向けて言った。そこをじっと見つめていると視野が暗くなるほど強く山頂は西日を反射していた。
「ブルクット族の土地はゆるぎないものだ。そうではないか、セレチェン」
「いや、災いはそのように世に現れるものではない」
 セレチェンは自分の子供のような年齢のカラゲルに疲れたような目を向けた。
「災いはしだいに水位を上げてくる地下水のようなものだ。それがあるところを過ぎると地上にあふれ出てくる」
 長老はこの若き族長の息子に年月というものの重さと逃れられぬ運命ということについて、どう伝えたものか考えあぐねていた。
 やがて三人は道端の道しるべに行き当たった。たくさんの石が積まれて塚となっている。そこに立ててある旗竿にはナビ教の白い幟がまとわりついていた。
「ナビ教もすっかり廃れてしまった……」
 幟はボロボロになって風に吹かれていた。セレチェンはおぼろげな記憶を探るような目つきになっていた。
 カラゲルは山麓に見えてきた村に細めた目を向けていた。西日は大きく傾いてベルーフ峰の山腹を濃い紫に染めていた。
「セレチェン、最近、街道には旅人の姿が目立つようだ。王都の祭りに行くのだろう。秋分の祭り『死者の日』というそうだが、一度行ってみたいものだ」
「王都ではブルクット族はあまり歓迎されぬぞ」
「我が部族はこの顔の刺青で一目瞭然だからな。しかし、伝説では英雄ダファネアも顔に刺青があったらしいではないか」
 後ろを追ってきたクランが二人に駆け寄って、獲物の狐のうち二匹を差し出した。
「私は先に帰るぞ。これは狩りの分け前だ」
 カラゲルとセレチェンは獲物を押し頂くようにして受け取った。狩りの獲物を丁寧に扱うのは狩人の流儀だ。獲物は単なる財物ではない。土地の精霊からの賜物だ。
 クランは道を逸れて馬を進めていった。クランはブルクット族の村から離れた自分だけの天幕に暮らしていた。彼女はブルクット族とみなされていなかった。
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