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未来について
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はじめに
死があって生が輝く。
死は肥料である。どう生きたかを、後の人間が吸い取り、糧にする。
どれだけの死の歴史を、そこの想いをくみとることが出来たのかで今の私の人生を成長させることが出来る。
人は人に影響される。影響させる。
しかし、その根幹を形成させるには、自然に回帰せねば、得られない(教訓を)
次に
死は糧である。物質的にも、精神的にも。ニーチェに言わせれば
「神は死んだ」からこそ、今の科学があることとなる。
神が死んだことで。ヒトは隙間のない確かなものを得た代わりに余裕を失った
私はさまざまな死を見た。死とはそのぎりぎりの絶えるその「キワ」で驚くほどの輝きを生者に向けて放つ。それはショックとなり、脳裏に刻まれる。
強い光を浴びた時と同じような、しかし、いつまでも消えない光を、残す。
同時に闇も与える。光を浴びると影が出来るように、死者の放った光を浴びて
みずからの影が出来たときに、その影をみて、自分をみて怖くなる。
芯の、生々しい自らをそこに見るからだ。普段見ることのない、内側の、今までの自分を死者が照らす。そこに恐怖を感じる。死者が照らしたのだ。どうしても死を意識する。
死とは延長線上でなく、死とは、内包されている、常にスイッチが押されていることに気がつく。それを見てみないフリをするのか、それとも糧にするのかで、彼の人生は動く。
死とは思考の限界でもある。思考を停止すれば、それは死なのである。
ひっくり返った虫が、息絶えてしまうのは、よもやどうしようもないと思考を停止させてしまったのだ。思考のアポトーシスとでも呼ぶのか先に進まなければならない。常に死は内包されている。止まってしまったらばそこで、その彼は死んでしまうのだ。
常に最善を尽くすべきなのは、そういうことである。
死がどうしても内包されていて、常にスイッチが押されているということであれば自らが他人への肥料となるために自らに「蓄えなければ」ならない。
死に向かっていく、どうしても、ならばどうせなら最後に強い光を放って、それをみた者たちヘショックを与えて脳裏に刻ませてやろう。一発ぶちかましてやるのだという、前向きな生き方。死が内包されていても、生はやはり楽しいものなのである。
(人と人は生と生で影響を与える。人と人とでは教訓や栄養をもらうのは、なかなか難しいなぜならそこに「生きている意志」が混じってしまっているからである。その意思、死した物質(肥料)にはない物、意思が入っているから模倣になってしまう、完全に私という個人で食った物でなくなってしまう。みずから、ハンティングしたものではなくなる)学ぶべきは人。丸裸にしたその人の芯である。死した姿とでも言おうか
常に進まなければならない。死んではならないのである。思考停止などもってのほかである。本当に進みたいなら、死にたくないなら、死を食べる。そういうことだ。
余談1
善を知る。そのために心の柱を建てる。
その柱を持って人と出会い、人を知る。
柱もまた、善でなければならない。
その善はどこから選ぶのか?本か?音楽か?
生か?死か?自然か、人工か?いや、人工はダメだ。人が作ったものは、基本的には
人のためのものであり、それは、悪である。人工物はだめだ。それを除外して
自然を選ぶ。芯なる物、骨。今まで見てきたもの、見てきたものを消化して
できた、その経験の中での骨。もろい、より深く、食べなければならない。
余談2
役人はある意味死んでいる。思考停止だ。
学者もまた死んでいる。美しさを見るために、その本質、美と骨を見るために。
世間から離れ死を選んだ。役人は元来死んでいなければならない。しかし
いきいきとしているのは、世間とつながりを持ち、血肉をすすろうと
絶えず、蜘蛛のような動きをしているからだ。役人は学ばなければならない。
世間は醜い。本質はない。死を含めず、生のみだ。影響が影響を与えている。
最後に
その繰り返しである。私たちは死によって生かされている。
生ではない、死という肥料が合って生にすがりつくことが出来る。
そこから、教訓や栄養をもらう。(影響というよりは、それは違う、生のほうが
影響を与えるという言葉がふさわしい。生きている人の模倣をするのが、われわれ
人という動物の「サガ」なのだ
花火はそこで終わってしまうから美しい。今の時代、ネオンや、そういう技術で
花火を永久に切り取って飾ることが出来るが、それをしないのは、別にそれを見たくない
からだ。同じ色、光を持ってしてもその一瞬、その一時、その数秒を味わうために花火を見る。いかなる季節、時期でも。花火はいつでも花火なのだ。
生と死が内包されている。だからこそ、常にそこに意味を見出すことができる。
(夏のはかなさ、冬の暖かさ、新年の喜び、行く年への悲しみ)
人生もそれと同じではないか?蓄えた物を一瞬で吐き出すになっても、それは
一瞬であっても、永遠である。生と死のジレンマのように。
安易な光は人に美しさを見出させないのである。小手先、ずる賢さ。常に善を向いていな
ければならない。もし、止まってしまったらば、光となりえない。死して光えない。
死があって生が輝く。
死は肥料である。どう生きたかを、後の人間が吸い取り、糧にする。
どれだけの死の歴史を、そこの想いをくみとることが出来たのかで今の私の人生を成長させることが出来る。
人は人に影響される。影響させる。
しかし、その根幹を形成させるには、自然に回帰せねば、得られない(教訓を)
次に
死は糧である。物質的にも、精神的にも。ニーチェに言わせれば
「神は死んだ」からこそ、今の科学があることとなる。
神が死んだことで。ヒトは隙間のない確かなものを得た代わりに余裕を失った
私はさまざまな死を見た。死とはそのぎりぎりの絶えるその「キワ」で驚くほどの輝きを生者に向けて放つ。それはショックとなり、脳裏に刻まれる。
強い光を浴びた時と同じような、しかし、いつまでも消えない光を、残す。
同時に闇も与える。光を浴びると影が出来るように、死者の放った光を浴びて
みずからの影が出来たときに、その影をみて、自分をみて怖くなる。
芯の、生々しい自らをそこに見るからだ。普段見ることのない、内側の、今までの自分を死者が照らす。そこに恐怖を感じる。死者が照らしたのだ。どうしても死を意識する。
死とは延長線上でなく、死とは、内包されている、常にスイッチが押されていることに気がつく。それを見てみないフリをするのか、それとも糧にするのかで、彼の人生は動く。
死とは思考の限界でもある。思考を停止すれば、それは死なのである。
ひっくり返った虫が、息絶えてしまうのは、よもやどうしようもないと思考を停止させてしまったのだ。思考のアポトーシスとでも呼ぶのか先に進まなければならない。常に死は内包されている。止まってしまったらばそこで、その彼は死んでしまうのだ。
常に最善を尽くすべきなのは、そういうことである。
死がどうしても内包されていて、常にスイッチが押されているということであれば自らが他人への肥料となるために自らに「蓄えなければ」ならない。
死に向かっていく、どうしても、ならばどうせなら最後に強い光を放って、それをみた者たちヘショックを与えて脳裏に刻ませてやろう。一発ぶちかましてやるのだという、前向きな生き方。死が内包されていても、生はやはり楽しいものなのである。
(人と人は生と生で影響を与える。人と人とでは教訓や栄養をもらうのは、なかなか難しいなぜならそこに「生きている意志」が混じってしまっているからである。その意思、死した物質(肥料)にはない物、意思が入っているから模倣になってしまう、完全に私という個人で食った物でなくなってしまう。みずから、ハンティングしたものではなくなる)学ぶべきは人。丸裸にしたその人の芯である。死した姿とでも言おうか
常に進まなければならない。死んではならないのである。思考停止などもってのほかである。本当に進みたいなら、死にたくないなら、死を食べる。そういうことだ。
余談1
善を知る。そのために心の柱を建てる。
その柱を持って人と出会い、人を知る。
柱もまた、善でなければならない。
その善はどこから選ぶのか?本か?音楽か?
生か?死か?自然か、人工か?いや、人工はダメだ。人が作ったものは、基本的には
人のためのものであり、それは、悪である。人工物はだめだ。それを除外して
自然を選ぶ。芯なる物、骨。今まで見てきたもの、見てきたものを消化して
できた、その経験の中での骨。もろい、より深く、食べなければならない。
余談2
役人はある意味死んでいる。思考停止だ。
学者もまた死んでいる。美しさを見るために、その本質、美と骨を見るために。
世間から離れ死を選んだ。役人は元来死んでいなければならない。しかし
いきいきとしているのは、世間とつながりを持ち、血肉をすすろうと
絶えず、蜘蛛のような動きをしているからだ。役人は学ばなければならない。
世間は醜い。本質はない。死を含めず、生のみだ。影響が影響を与えている。
最後に
その繰り返しである。私たちは死によって生かされている。
生ではない、死という肥料が合って生にすがりつくことが出来る。
そこから、教訓や栄養をもらう。(影響というよりは、それは違う、生のほうが
影響を与えるという言葉がふさわしい。生きている人の模倣をするのが、われわれ
人という動物の「サガ」なのだ
花火はそこで終わってしまうから美しい。今の時代、ネオンや、そういう技術で
花火を永久に切り取って飾ることが出来るが、それをしないのは、別にそれを見たくない
からだ。同じ色、光を持ってしてもその一瞬、その一時、その数秒を味わうために花火を見る。いかなる季節、時期でも。花火はいつでも花火なのだ。
生と死が内包されている。だからこそ、常にそこに意味を見出すことができる。
(夏のはかなさ、冬の暖かさ、新年の喜び、行く年への悲しみ)
人生もそれと同じではないか?蓄えた物を一瞬で吐き出すになっても、それは
一瞬であっても、永遠である。生と死のジレンマのように。
安易な光は人に美しさを見出させないのである。小手先、ずる賢さ。常に善を向いていな
ければならない。もし、止まってしまったらば、光となりえない。死して光えない。
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