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『所詮現実なんてこんなもんだよ』と過去の僕に言ってみる

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 朝、カーテン越しに予想外の明るさを感じた。

「しまった!」

 ベッドから飛び降りる。周りを見渡す。しばらくすると焦点が合ってくる。気づいた。ここは実家じゃない。混乱したのは一瞬、僕はふーっと息を吐き、胸を撫でおろした。

 ――なんだ、夢か。

 枕元に置かれたスマホを掴む。四月十三日、午前十時。画面を開ける。昨夜開いた就活サイトのホームページ。間違いない。僕は昨日、就活サイトを見ながら、エントリーシートを書いていたはずだ。
 スマホを寝巻きのポケットに入れると、頭を振り、洗面台で顔を洗う。夢の記憶は霧が晴れるようにしだいに薄れていく。降ろしたばかりのリクルートスーツを着ながら、断片的に残った夢を反芻していた。それにしても、おかしな夢だった。まあ、夢は大半がおかしいものだが、違和感がまるでなかった。そして、中里美希。何故今になって彼女が夢に出てきたのか。鏡の前でシャツの襟を正しながら、唇を噛む。畜生、なんてものを見せるんだ。夢に見た彼女の横顔だけは消えてくれそうにない。僕は鏡に映る自分の顔を睨みつけ、ネクタイを結ぼうとして気づく。必要なのは午後からか。鏡越しに時計を見る。十時半過ぎだった。

 ――まだ時間はあるな。

 僕は折りたたんだネクタイと企業説明会の案内をカバンに入れ、大学へと向かった。


 下宿先から山咲川沿いを自転車で下る。川沿いに植えられた桜は散りはじめ、並木道に散った花びらがタイヤに付いた。
 大学の東門を抜け、敷地の奥へ。同じ敷地内とは思えないほど静かな場所に目的の研究所はあった。小さな駐輪スペースにブレーキの音が響く。二年前に出来たばかりの真新しい白色の建物は、周りの緑に囲まれて、白色を際立たせていた。

『睡眠医学先端研究センター』

 一目で分かる施設名。一階のエントランスはだだっ広い空間に、来客用の商談スペースが気持ち程度に用意されているだけで、特に興味を引くものは何もない。
 研究室のある二階より上はエレベーターでしか行けず、学生証を持つ僕でも立ち入れない。エレベーター脇にあるインターホンを鳴らすと、機械的な女性の声で返答があった。

「ご用件は何でしょうか?」
「認知神経科学研究室の高木教之さんに用があるのですが」
「分かりました。少々お待ちください」

 クラシックが流れる。どこかで聞いたことはあるが、曲名も作者も分からない。それにしても、どういう仕組みだろうか? 人工知能なのか? 用件だけで取り次いでもらえるらしい。先に電話なりメッセージなりしておけば良かった。
 不意に音楽が止まった。

「丹野か、久しぶりだな。今日はどうした?」

 久しぶりに聞いたはずの、少し眠そうな声は、夢で聞いた声と全く同じだった。

「ちょっとな。少し相談したいことがあって」
「いまからか?」
「忙しいなら後にする」
「まあ、良いけど。降りるから、待っててくれ」

 それだけ言って通話が切れた。

 僕は仕方なく、商談スペースで待つことにした。高木の専門は認知神経科学。しかも睡眠時の脳神経の働きについてだ。実験協力者に頼んで機械の中で寝てもらい、fMRIや脳波計を使って睡眠時の脳機能を計測するのだという。脳に直接刺激を与える装置もあるらしく、詳しい仕組みは僕には分からないが、相談できる相手でこれ程頼りになるやつはいない。
 それだけ、今日の夢は僕にとって異常な体験だった。
 高木は予想より早くやって来た。

 エレベーターの扉が開く。よれよれの白衣、ボサボサの頭、伸びっぱしの髭、それに眠そうな表情。声が同じでも夢で見た彼とは印象がまるで違うのは歳を取っただけではない。

「いつからここに籠ってるんだ?」
「いきなり、なんだ? そうだな、最長記録二週間ってところだ」

 最近、構内で見かけないと思ったらそういうことか。まあ、自分も就活で大学に来ないことも多いから、お互い様だった。

「今は何の研究をしているんだ?」
「睡眠薬の実薬とプラセボの効果の違いだ。プラセボって分かるか?」
「聞いたことはある。偽薬だろ? 本物の薬と見分けがつかない薬を使うわけだ」
「大体合ってる。大切なのは、『有効成分が入っていない』ことだ。『病は気から』って言うだろ? あながち馬鹿にできないんだよ。特にメンタル面の不調に関しては」

 そこで、高木の声が止まる。ようやく僕の服装に気づいたようだ。

「似合ってないな」
「大きなお世話だ」
「今日は企業説明会の日か」
「なんだ、知っていたのか」
「毎年あるからな。そんな時期だと思っただけだ」
「ああ、なるほど」
「今年も流れは同じなのか?」
「そう。六月に面接解禁。七月末にはほぼ終わってるはずだ。うまくいけば、な」
「俺よりも決まるのは早いのか」

 羨ましそうな高木の声に、僕は思わず笑ってしまった。

「ここのドクター行くなら、もう決まったようなもんじゃないか」
「一応、面接はあるぞ。まぁ、形だけだけどな。それで、相談事とはなんだ? まさか、就活の相談じゃあないだろう」
「ああ」と、僕は少し息を吸い込んで言った。

「今日見た夢の話なんだがな」

「夢の話?」高木は訝しげに僕の顔を見た。目があう。先に話し出したのは高木だった。

「たしかに夢は魅力的な研究テーマだし、うちの研究室でも扱っているが、個人の夢にフォーカスを当てることはない。わざわざ、夢の話をする為にここに来たのか」
「普段の夢と全く違うんだよ。高校の頃の夢なんだが、醒めた後も現実が続いているような感覚だった」
「そういう夢なら俺も見たことがあるぞ。同じく高校の頃の夢だ。テスト直前にな、勉強してないことに気づくんだよ。悪いことにそのタイミングで目が覚めた。慌てて飛び起きたよ。そして気づいた。「俺、大学生だ」って。あれ程、寝起きの心臓に悪い夢もなかったな」
「勉強のし過ぎだよ、高木は。でも、もっと現実感があるんだよ。本当に昨日の出来事みたいで、高校生の自分を一日経験していたんだ。学校では高木と同じクラスだった」
「そこは現実と同じか。夢の奇妙さならありきたりの部類だな。他に何か気になることでもあったのか?」
「そのクラスに、中里美希もいた」

 静寂。高木は何も言わず、腕を組んで、僕の目を見ていた。いや、実際は僕を通して過去を、六年前を見ていたのかもしれない。彼の表情からは感情は読み取れなかった。何秒ぐらい経っただろうか。高木は視線を天井に向けて、「なるほど」と呟いた。

「丹野が気にする理由は分かった。でもな、あくまで夢の話だろう。お前がいかに後悔してようが現実は変えられない。それに、彼女とは同じクラスじゃなかったはずだ」
「まあね、彼女は八組だった。別に現実を変えられるとは思ってはいない。『彼女は自殺した』これは取り返しのつかない事実だ。だけどな、こんな夢を見ると、何か出来たんじゃないかって思ってしまうんだよ」
「そんな懺悔は当時何度も聞いたさ。幼馴染だったこともな。一回の夢にそこまで考え込む必要もない。まあ、教授に頼めば、専門のカウンセラーも紹介できるが、どうする?」
「いや、そこまでは大丈夫だ。たしかにそうだな。久しぶりに思い出したもんだから、神経質になっていた気がする」
「夢はその日の感情に影響されやすいからな。知らず知らずのうちにストレスを抱え込んでるんじゃないか」
「それは、そうかもしれんな」

 腕時計を見る。もうすぐ正午だった。

「どうする? 久しぶりに食堂行くか?」
「いや、今日が山なんだよ。データ取りが終われば、明日からは余裕ができる」
「そうか、悪かったな。突然呼び出して」
 立ち上がり、出口に向かう僕に「ああ、そうだ」と後ろから声がかかる。

「就活、頑張れよ」

 僕は笑った。高木の性格からは想像できない台詞だったからだ。「頑張れよ」なんて、高校を含めた、この九年間で初めて聞いた言葉ではないだろうか。振り返って答える。

「博士課程に進む人間に言われても応援に聞こえないんだよ」

 我が道を行く高木が純粋に羨ましかったのだ。
 

 企業説明会は学内の講堂にて行われる。講堂のトイレでネクタイを締め直し、中に入る。講堂は僕と同じような黒色のスーツを着た就活生と、色とりどりの自社ロゴを掲げる企業のブースで賑わっていた。
 各ブースにはパイプ椅子が並べられ、就活生たちは行儀良く座りながら、メモを取っていた。企業側は名札を掛け、胸に自社のピンバッチを付けた社員が紹介動画を流しながら、笑顔で説明している。学生たちは現金なもので、大企業には立ち聴きができるほど集まっていた。僕は会場の熱気に当てられ、その様子を遠目で見ていた。
 結局、その日は席が空いていた化学系メーカーを二、三社周り、名刺とパンフレット、そして手書きのエントリーシートを貰って説明会を抜けた。わずか一時間足らずの滞在だった。
 

 下宿先のアパートに帰り、スーツとズボンを脱ぎハンガーにかけると、緩めたネクタイを解いた。シャツを洗濯機に投げ入れ、朝脱ぎ捨てたスウェットを着る。

 ――やっぱり、マスターから研究職は厳しいか。

 説明会で感じたのは企業側は即戦力が欲しいということ。その点で研究職の本場は修士課程を終えてからの博士課程であり、学部と博士の間にある修士卒は半端者となる。
 修士卒から研究職に行けるとしたら、自身の研究がよっぽど企業の現在の開発とマッチしているか、もしくは、今後その企業が力を入れようとしている研究範囲であるか、二択だ。もう一つあるとするなら、大学や教授とのコネクションだ。

 ため息を吐き、今日貰った書類を取り出す。取り敢えず、エントリーシートだけでも書いてしまおうか。机に向かい、手書きを要求してくるエントリーシートを広げた。
 このご時世になんで手書きなんだ? まあ、もしかしたら便宜を計ってくれるかもしれない。仕方なしに書き始める。
 少しして、手を止めた。『志望動機』の欄。
 「企業説明会に参加させて頂き――」
 
 この先が思い付かない。まるまる二十分は使い、今日貰ったパンフレットとスマホで調べた企業のホームページを見ると、チャレンジ精神が大事らしい。それを利用させてもらうことにした。なんとか自分の研究と絡めながら書き切り、予め考えていた趣味、特技の欄を記入してエントリーシートを完成させた。
 そうしていると案外気分は乗ってくるもので、昨日途中で止めていたエントリーを再開する。ついでに外部で行われる適性試験に申し込みをし、気づいたら、外が暗くなっていた。

 僕はコンビニで買ってきた弁当をレンジで温めつつ、テレビを付けた。いつものように動画配信サイトに移動しようとした時、流れてきたニュースに目を止めた。

 それは、中学生の女の子がビルから飛び降りて亡くなったという報道だった。自殺と断定されてはいないが、遺書が残されているらしいから、ほぼ間違いないと報道関係者は伝えていた。なんで、今日に限って。いや、逆か。今日だから、いつもなら気に留めなかった報道が目に付いたのだ。そういえば、中里美希はどうだったか。記憶の限りでは報道された覚えはない。先生も生徒たちもあまり事件のことを喋りたがらなかった。当然だ。実際にあんな光景を目にしたら、噂などしていられない。そんなものを話題にできるのは、外にいる人間だけだ。普段なら登れないはずだった屋上から飛び降りた彼女は、遺書を残すことなくこの世を去った。
 スマホで検索をかける。やはり、情報は出てこない。少し記憶を探る。彼女が亡くなってから家はどうなっただろうか。一度、保育園ぐらいの頃、彼女の家に遊びに行ったことがあった。リビングの隅に置かれたジャングルジムみたいな遊具で彼女と一緒に遊んだ記憶がある。彼女のお母さんは、僕の母さんよりも若いように見えて、実際そうだったことが親同士の会話で分かった。動機が分からぬまま亡くなった彼女。家族はどういう気持ちだったのだろうか。

 電子レンジの温め終わる音で、はっとする。

 ニュースは明日の天気に変わっていた。
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