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百二十四 ハンベエ引き続き覚醒中!だよお。
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ハンベエは逃げたテッフネールを兵士達に追わせなかったし、捜させもしなかった。
放って置けば、傷を癒してハンベエの前に向こうからやって来るだろう、下手に刺激して犠牲者を出すには及ばない、というのがハンベエの考えであった。
ハンベエには、テッフネールは誰でも彼でも見境無しに斬るような人間には見えなかった。千人斬りを目指し、機会有れば誰か斬らんと企んでいる俺とは違う人間のようだな、とハンベエは思った。
思うに、テッフネールはもう十分と本人が飽きが来るほど、人を斬って斬って斬り倒して来たのではないのだろうか。
奴は斬る相手のえり好みをする、とハンベエは感じていた。テッフネールの狙いの第一がこのハンベエである以上、俺の首を放っておいて、他の者に刃を向ける事は無い。断じて無い。ハンベエはそう見切った。
しかし、このハンベエの見切りは少々外れている気も筆者はしないではない。何故なら、タゴロロームへの道中、ちょっかいを出して来た相手は容赦も躊躇も無く斬って捨てたテッフネールである。自分から人に襲い掛かるという事は無かったが、えり好みをするとまでは断じきれないのである。勿論、雑魚がテッフネールに下手な手出しをしない方がいいのには違いなく、部下兵士に手を出すなというハンベエの指示は正解なのだが。
テッフネールとの闘いの翌朝、一日置きのイザベラへの通信を鴉のクーちゃんに托すと、いつも通りに司令部の屋上での鍛練を始めた。
イザベラ宛ての手紙には次のようにしたためられていた。
『昨日、かねて連絡のあったテッフネールと立ち合う。
尋常ならざる使い手にて、勝敗決せず。次回を期して相手方一旦撤退、敢えて追わさず。
当方、五体満足、心配無用。
引き続き、敵情を求む。』
イザベラの奴、心配するかな、とチラとハンベエは思いかけたが、そんなタマじゃねえよな、苦笑した。
テッフネールと斬り合った後、不機嫌とも思えるほど気の張った仏頂面を続けていたハンベエであった。が、どうやら、緊張の糸とやらは何時までも張り続けられるものでもないようだ。
この時、それがぷっつりと切れるのではなく、何とは無しに緩んだのは、この若者の凄みと言えよう。元来ハンベエは恐怖心が鈍く、命というものに対する関心が薄いようである。それは他人に対してもであるが、自分自身の命についても同様なようで、緊張の果てにおかしくなってしまうようなタマではなかった。ヒョウホウ修行がそういう精神構造を形成したのであろうか。
鍛練に入りながら、ハンベエは考えていた。テッフネールとの闘いの最中、後手に回ってからハンベエに生じた不思議な感覚について。
(体が勝手に動いた。いや、思った動きを思う前にしていたという感じだ。どういう事だ。それに後半、異様に物の動きが遅くなったように感じたが・・・・・・。)
現代医学なら、或いはハンベエの身に起こった現象を説明する事ができるのかも知れない。しかし、ハンベエは自分自身の事でありながら、このメカニズムを解明できなかった。
いやいや、この若者は科学者ではなく、兵法者であった。コトワリを追究する心が無かったわけではないが、それよりテッフネールに勝つテダテを見つける方が焦眉の急であり、原因の究明より技術的活用を優先した。
あの動き、あの時の境地に達する事ができれば、少なくともテッフネールと互角に立ち合う事ができる。今のハンベエにとって重要なのはその一点であった。
(お師匠様は、この境地を会得されていたのだろうか。)
ふと、ハンベエは師のフデンに思いをやった。
テッフネールの金縛りにしてやられないで済んだのも、師フデンとの修行のお陰であった。
(そういえば、あのテッフネールの野郎、俺がお師匠様の弟子と知った途端、目の色変えて斬り掛かって来やがった。)
フデンに関わる事である事なら、尚の事負けるわけにはいかない。ハンベエは『ヨシミツ』を斜め上段に構え、遥か東の朝焼け雲を見詰めて、唇を強く結んだ。
三十分程、その構えのまま、心気を整え、耳目を澄ませた。しかし、昨日テッフネールとの闘いで生じたような感覚は湧いて来ない。
ハンベエは『ヨシミツ』を鞘に収め、腕組みをして右に左に歩いた。
さて・・・・・・さてさてさて・・・・・・と考えては見たが、何ら救いになりそうなものは閃かない。
考える事に飽きて、周りを見回すと、夜半の内に雨が有ったと見え、司令部の建物に横付けされた煙突の傘の部分が濡れており、四角錐の形をした下方の角の一つから、ぽたり、ぽたり、っと雫が落ちていた。
ふとハンベエの目はその雫の動きに釘付けになった。
ニュートンは林檎が木から落ちるのを見て引力に気付いたらしいが、ハンベエは、落ち始めは緩やかであるが、それが下に行くに連れ、速さを増して行く雫の動きに目を吸い寄せられてしまったようだ。
引力による加速である。経験上ハンベエは物が落ちる時のそういう動きを知っていたから、別に不思議とも感じはしなかった。にも拘わらず、何故かハンベエは雫から目が離せなくなってしまった。
ぽたり、ぽたりと落ちる雫を黙ってハンベエは見詰める。
雫はただ上から下に落ちるだけである。何の珍しい事もない。だが、この時ハンベエは落ちて行く雫の単調な動きを何かに憑かれたように目で追い続けていた。
その内に不思議な事に速度を増して落ちて行くはずの雫の動きが、ハンベエには逆に止まっているかのようにゆっくりとしたものに見え始めたのである。
ハンベエは音の聞こえない、それでいて空気の動きまでもが鋭く肌に感じられ、事物の動きが異様にゆったりとした不思議な感覚の世界に入っていた。
「何と無くコツが分かって来たぜ。」
ハンベエは薄っすらと笑いながら呟いた。
人間は後になれば、あの時どうして自分はそんなものに心を捉われたのかと、不思議に思う事があるが、この時、ハンベエは水滴の動きから新たな極意への通過点に分け入っていた。もし兵法の神様というものがいるとしたら、ハンベエはその神様に導かれていたのかも知れない。
もっとも、ハンベエ本人は頑なな迄に神も仏も信じぬ男であるが。
話がズレるが、ハンベエは以前自分自身が新たな力を得たと感じた事が有った。それは、イザベラの妖術に嵌まり、悪夢にうなされて、その悪夢を克服した直後の事であった。自分の体が従前に増して軽く素早く動かせるようになったと感じられた事が有ったのだ。そしてその時は、自分の動きの速さが著しく上がった事に驚いたものであった。
今回得たものは又別であった。物の動きが異様に遅く感じられ(という事はハンベエの反応速度が格段に高まったという事になる)、高速の中での見切りの感覚が一段と高まったようだ。
ハンベエの感じたものが本物であるとしたら、ハンベエは又もやレベルアップした事になる。いや、この際、はっきりと書こう。ハンベエはレベルアップした。新たなる速度領域を身に付けた。
数時間、ハンベエは雫の落ちるのを立ち尽くして見詰め続けた。息をしているのかも疑わしいほど静かに立ち尽くしていた。
やがて、ハンベエは司令部の屋上から立ち去った。
流石に飽きてしまったのかも知れない。おっと、それ以前に水滴も何時までも落ち続けるわけもないので、雫の種が尽きてしまったのだろう。
立ち去る時には、明らかにハンベエは何かを会得したような満ち足りた顔付きになっていた。
その後、執務室に戻るとロキが椅子に座って待っていた。何やら怒っているようである。
はてな? 怒らせるような事をした覚えはないが、少年の心は気難し過ぎて対応仕切れんなあ、とハンベエはボヤキたくなったほどだ。
「ハンベエ、色々と有るんだろうし、今回の敵はちょっとばかし手強いみたいだから、余りガミガミ言いたくないけどお。王女様の御前会議を何の断りも無くスッポかしちゃ駄目じゃないかあ。」
ロキが大声で言った。唾が飛び散ったほどである。
「あ・・・・・・。」
ハンベエ流石に『しまった』という顔になった。
テッフネールの出現前後に決められた、エレナの前にタゴロローム守備軍の主要メンバーを集めて、神輿であるエレナへの守備軍動向の報告も含めて行う会議──ハンベエ達は『御前会議』と称したが――は昨日晴れてその一回目が開催されたばかりであった。
会議は毎日行う事に決まっていた。
ハンベエはテッフネールに出会って、すっかり忘れてしまっていたのであった。
「会議・・・・・・どうなった。」
ハンベエはロキに恐る恐る尋ねた。
「会議は、モルフィネスがそつなく纏めたよお。王女様はハンベエについては、今は大変だろうから、そっとしておこう、と庇ってくれてたよお。みんな、ハンベエの事を心配してたんだからねえ。まあ、オイラが傷の方は大した事ないって説明して、ハンベエにはテッフネールを倒す目算が有って、その為の工夫をしてるって誤魔化しといたけどお。司令官として、示しがつかないんじゃないのお。第一、ハンベエも乗り気だった御前会議が取り止めになったらどうするんだよお。」
「ふむ、済まない事をした。・・・・・・しかし何だな、流石俺の相棒、どうにか上手く取り繕ってくれたようだな。」
みんなが心配していたというのが傲岸なハンベエにとって少々心外で不愉快であったが、ロキの機嫌を取り結ぼうと、少し笑って見せた。しかし、ロキはムスッとしている。
ハンベエは、バツ悪そうに部屋を出ようとした。
「何処行くのお?」
「王女に詫びに行こうかな、と。」
「うん、そうだね。・・・・・・ハンベエ。」
「・・・・・・何だ。」
「昨日より、表情に余裕があるみたいだけどお。」
「何、ロキの言っていたテッフネール対策の工夫がついたってだけの事さ。」
「本当にい?」
「奴の手の内は既に見切ったって言ったろう。」
ハンベエはニヤッと片目をつぶって見せた。
エレナの部屋を訪れ、会議スッポかしを詫びて、二言三言話してから、ハンベエは兵隊用の食堂で無理を言って遅い朝食を取った。
妙に力の入った食いっぷりであった。口の中に入れた食物を粉々に噛み砕かんと強く念じているのか、一口一口気合いを入れて咀嚼していた。まるで、その食事を通じて何かの力を生み出そう、呼び起こそうとでもしているかのようであった。
しばらく後に、ハンベエはモルフィネスが指揮調練している弓部隊の演習場に現れた。
丁度、部隊は一斉射撃の訓練をしているところであった。
(ハンベエではないか。はて、何をしに・・・・・・おい、危ないぞ。)
不意のハンベエの出現にモルフィネスは怪訝な思いを抱きながらその姿を見ていたが、いきなり顔色を変えた。
兵士達の放った一斉射撃の矢が集まる地点へハンベエが駆けて行き、まるで身を晒すように立ち止まったからだ。
立ち止まったハンベエは、飛来する矢の群れを見ていた。飛んで来る矢はさほど遅くはない。勿論、マッハ二と言われる鉄砲の弾ほどではないが、のんびり見ていられるような速度ではない。
が、何の動きも見せず、矢に身を晒していた。
(まだだ、まだだ。)
と何かを待つように。
こう書くと、何やら矢が紙飛行機か何かのようにゆっくりと飛んでいるかのようであるが、とんでもない話で、モルフィネスがはっとしたのが一斉射撃の矢が放たれた瞬間或いはその一瞬後であり、一秒経つか経たないかの内にはハンベエの身に到達していたのである。
モルフィネスを始め、訓練している兵士達全員が声すら上げ得ず、身を凍らせた。ハンベエを誤殺してしまった。そう思い込んで、震え上がった。
だが、ハンベエは何事もないかのように立っていた。その周りには何百という矢が地面に突き刺さっていたが、ハンベエに当たった矢は一矢も無かったようだ。まるで矢がハンベエの体を通り抜けでもしたとしか思えない。
ハンベエはモルフィネスに気付いたらしく、右手を上げて彼の方に歩き始めた。
「撃ち方やめい、小休止。」
大慌てでモルフィネスが大声で命令を降した。
「ハンベエ、一体何の真似だ。死にたいのか。」
近付いて来るハンベエに、モルフィネスは怒気を含んで怒鳴った。
「いやあ、悪い、悪い。ヒョウホウ修行の一環だ。済まない事をした。」
ハンベエは悪びれた様子も無く、普段の無愛想な面構えは何処へやら、白い歯を見せてモルフィネスに詫びた。
更に文句を言おうと思っていたモルフィネスであったが、ハンベエにそう出られると口ごもってしまった。傲岸で無愛想な癖に時々、妙に憎めない雰囲気を醸し出すハンベエには、冷血漢モルフィネスもお手上げのようだ。
「兵法修行・・・・・・すると、あの矢の雨を躱したというのか。」
「躱したのさ、体の奴が勝手によ。」
ヘラヘラと軽く笑いながらハンベエは言った。
モルフィネスは、こいつ大丈夫か、と薄気味悪く感じると同時に、ハンベエの剣の技は遂に神に入ったのかと驚いた。
無想の境地・・・・・・ハンベエは更にレベルアップしたらしい。
放って置けば、傷を癒してハンベエの前に向こうからやって来るだろう、下手に刺激して犠牲者を出すには及ばない、というのがハンベエの考えであった。
ハンベエには、テッフネールは誰でも彼でも見境無しに斬るような人間には見えなかった。千人斬りを目指し、機会有れば誰か斬らんと企んでいる俺とは違う人間のようだな、とハンベエは思った。
思うに、テッフネールはもう十分と本人が飽きが来るほど、人を斬って斬って斬り倒して来たのではないのだろうか。
奴は斬る相手のえり好みをする、とハンベエは感じていた。テッフネールの狙いの第一がこのハンベエである以上、俺の首を放っておいて、他の者に刃を向ける事は無い。断じて無い。ハンベエはそう見切った。
しかし、このハンベエの見切りは少々外れている気も筆者はしないではない。何故なら、タゴロロームへの道中、ちょっかいを出して来た相手は容赦も躊躇も無く斬って捨てたテッフネールである。自分から人に襲い掛かるという事は無かったが、えり好みをするとまでは断じきれないのである。勿論、雑魚がテッフネールに下手な手出しをしない方がいいのには違いなく、部下兵士に手を出すなというハンベエの指示は正解なのだが。
テッフネールとの闘いの翌朝、一日置きのイザベラへの通信を鴉のクーちゃんに托すと、いつも通りに司令部の屋上での鍛練を始めた。
イザベラ宛ての手紙には次のようにしたためられていた。
『昨日、かねて連絡のあったテッフネールと立ち合う。
尋常ならざる使い手にて、勝敗決せず。次回を期して相手方一旦撤退、敢えて追わさず。
当方、五体満足、心配無用。
引き続き、敵情を求む。』
イザベラの奴、心配するかな、とチラとハンベエは思いかけたが、そんなタマじゃねえよな、苦笑した。
テッフネールと斬り合った後、不機嫌とも思えるほど気の張った仏頂面を続けていたハンベエであった。が、どうやら、緊張の糸とやらは何時までも張り続けられるものでもないようだ。
この時、それがぷっつりと切れるのではなく、何とは無しに緩んだのは、この若者の凄みと言えよう。元来ハンベエは恐怖心が鈍く、命というものに対する関心が薄いようである。それは他人に対してもであるが、自分自身の命についても同様なようで、緊張の果てにおかしくなってしまうようなタマではなかった。ヒョウホウ修行がそういう精神構造を形成したのであろうか。
鍛練に入りながら、ハンベエは考えていた。テッフネールとの闘いの最中、後手に回ってからハンベエに生じた不思議な感覚について。
(体が勝手に動いた。いや、思った動きを思う前にしていたという感じだ。どういう事だ。それに後半、異様に物の動きが遅くなったように感じたが・・・・・・。)
現代医学なら、或いはハンベエの身に起こった現象を説明する事ができるのかも知れない。しかし、ハンベエは自分自身の事でありながら、このメカニズムを解明できなかった。
いやいや、この若者は科学者ではなく、兵法者であった。コトワリを追究する心が無かったわけではないが、それよりテッフネールに勝つテダテを見つける方が焦眉の急であり、原因の究明より技術的活用を優先した。
あの動き、あの時の境地に達する事ができれば、少なくともテッフネールと互角に立ち合う事ができる。今のハンベエにとって重要なのはその一点であった。
(お師匠様は、この境地を会得されていたのだろうか。)
ふと、ハンベエは師のフデンに思いをやった。
テッフネールの金縛りにしてやられないで済んだのも、師フデンとの修行のお陰であった。
(そういえば、あのテッフネールの野郎、俺がお師匠様の弟子と知った途端、目の色変えて斬り掛かって来やがった。)
フデンに関わる事である事なら、尚の事負けるわけにはいかない。ハンベエは『ヨシミツ』を斜め上段に構え、遥か東の朝焼け雲を見詰めて、唇を強く結んだ。
三十分程、その構えのまま、心気を整え、耳目を澄ませた。しかし、昨日テッフネールとの闘いで生じたような感覚は湧いて来ない。
ハンベエは『ヨシミツ』を鞘に収め、腕組みをして右に左に歩いた。
さて・・・・・・さてさてさて・・・・・・と考えては見たが、何ら救いになりそうなものは閃かない。
考える事に飽きて、周りを見回すと、夜半の内に雨が有ったと見え、司令部の建物に横付けされた煙突の傘の部分が濡れており、四角錐の形をした下方の角の一つから、ぽたり、ぽたり、っと雫が落ちていた。
ふとハンベエの目はその雫の動きに釘付けになった。
ニュートンは林檎が木から落ちるのを見て引力に気付いたらしいが、ハンベエは、落ち始めは緩やかであるが、それが下に行くに連れ、速さを増して行く雫の動きに目を吸い寄せられてしまったようだ。
引力による加速である。経験上ハンベエは物が落ちる時のそういう動きを知っていたから、別に不思議とも感じはしなかった。にも拘わらず、何故かハンベエは雫から目が離せなくなってしまった。
ぽたり、ぽたりと落ちる雫を黙ってハンベエは見詰める。
雫はただ上から下に落ちるだけである。何の珍しい事もない。だが、この時ハンベエは落ちて行く雫の単調な動きを何かに憑かれたように目で追い続けていた。
その内に不思議な事に速度を増して落ちて行くはずの雫の動きが、ハンベエには逆に止まっているかのようにゆっくりとしたものに見え始めたのである。
ハンベエは音の聞こえない、それでいて空気の動きまでもが鋭く肌に感じられ、事物の動きが異様にゆったりとした不思議な感覚の世界に入っていた。
「何と無くコツが分かって来たぜ。」
ハンベエは薄っすらと笑いながら呟いた。
人間は後になれば、あの時どうして自分はそんなものに心を捉われたのかと、不思議に思う事があるが、この時、ハンベエは水滴の動きから新たな極意への通過点に分け入っていた。もし兵法の神様というものがいるとしたら、ハンベエはその神様に導かれていたのかも知れない。
もっとも、ハンベエ本人は頑なな迄に神も仏も信じぬ男であるが。
話がズレるが、ハンベエは以前自分自身が新たな力を得たと感じた事が有った。それは、イザベラの妖術に嵌まり、悪夢にうなされて、その悪夢を克服した直後の事であった。自分の体が従前に増して軽く素早く動かせるようになったと感じられた事が有ったのだ。そしてその時は、自分の動きの速さが著しく上がった事に驚いたものであった。
今回得たものは又別であった。物の動きが異様に遅く感じられ(という事はハンベエの反応速度が格段に高まったという事になる)、高速の中での見切りの感覚が一段と高まったようだ。
ハンベエの感じたものが本物であるとしたら、ハンベエは又もやレベルアップした事になる。いや、この際、はっきりと書こう。ハンベエはレベルアップした。新たなる速度領域を身に付けた。
数時間、ハンベエは雫の落ちるのを立ち尽くして見詰め続けた。息をしているのかも疑わしいほど静かに立ち尽くしていた。
やがて、ハンベエは司令部の屋上から立ち去った。
流石に飽きてしまったのかも知れない。おっと、それ以前に水滴も何時までも落ち続けるわけもないので、雫の種が尽きてしまったのだろう。
立ち去る時には、明らかにハンベエは何かを会得したような満ち足りた顔付きになっていた。
その後、執務室に戻るとロキが椅子に座って待っていた。何やら怒っているようである。
はてな? 怒らせるような事をした覚えはないが、少年の心は気難し過ぎて対応仕切れんなあ、とハンベエはボヤキたくなったほどだ。
「ハンベエ、色々と有るんだろうし、今回の敵はちょっとばかし手強いみたいだから、余りガミガミ言いたくないけどお。王女様の御前会議を何の断りも無くスッポかしちゃ駄目じゃないかあ。」
ロキが大声で言った。唾が飛び散ったほどである。
「あ・・・・・・。」
ハンベエ流石に『しまった』という顔になった。
テッフネールの出現前後に決められた、エレナの前にタゴロローム守備軍の主要メンバーを集めて、神輿であるエレナへの守備軍動向の報告も含めて行う会議──ハンベエ達は『御前会議』と称したが――は昨日晴れてその一回目が開催されたばかりであった。
会議は毎日行う事に決まっていた。
ハンベエはテッフネールに出会って、すっかり忘れてしまっていたのであった。
「会議・・・・・・どうなった。」
ハンベエはロキに恐る恐る尋ねた。
「会議は、モルフィネスがそつなく纏めたよお。王女様はハンベエについては、今は大変だろうから、そっとしておこう、と庇ってくれてたよお。みんな、ハンベエの事を心配してたんだからねえ。まあ、オイラが傷の方は大した事ないって説明して、ハンベエにはテッフネールを倒す目算が有って、その為の工夫をしてるって誤魔化しといたけどお。司令官として、示しがつかないんじゃないのお。第一、ハンベエも乗り気だった御前会議が取り止めになったらどうするんだよお。」
「ふむ、済まない事をした。・・・・・・しかし何だな、流石俺の相棒、どうにか上手く取り繕ってくれたようだな。」
みんなが心配していたというのが傲岸なハンベエにとって少々心外で不愉快であったが、ロキの機嫌を取り結ぼうと、少し笑って見せた。しかし、ロキはムスッとしている。
ハンベエは、バツ悪そうに部屋を出ようとした。
「何処行くのお?」
「王女に詫びに行こうかな、と。」
「うん、そうだね。・・・・・・ハンベエ。」
「・・・・・・何だ。」
「昨日より、表情に余裕があるみたいだけどお。」
「何、ロキの言っていたテッフネール対策の工夫がついたってだけの事さ。」
「本当にい?」
「奴の手の内は既に見切ったって言ったろう。」
ハンベエはニヤッと片目をつぶって見せた。
エレナの部屋を訪れ、会議スッポかしを詫びて、二言三言話してから、ハンベエは兵隊用の食堂で無理を言って遅い朝食を取った。
妙に力の入った食いっぷりであった。口の中に入れた食物を粉々に噛み砕かんと強く念じているのか、一口一口気合いを入れて咀嚼していた。まるで、その食事を通じて何かの力を生み出そう、呼び起こそうとでもしているかのようであった。
しばらく後に、ハンベエはモルフィネスが指揮調練している弓部隊の演習場に現れた。
丁度、部隊は一斉射撃の訓練をしているところであった。
(ハンベエではないか。はて、何をしに・・・・・・おい、危ないぞ。)
不意のハンベエの出現にモルフィネスは怪訝な思いを抱きながらその姿を見ていたが、いきなり顔色を変えた。
兵士達の放った一斉射撃の矢が集まる地点へハンベエが駆けて行き、まるで身を晒すように立ち止まったからだ。
立ち止まったハンベエは、飛来する矢の群れを見ていた。飛んで来る矢はさほど遅くはない。勿論、マッハ二と言われる鉄砲の弾ほどではないが、のんびり見ていられるような速度ではない。
が、何の動きも見せず、矢に身を晒していた。
(まだだ、まだだ。)
と何かを待つように。
こう書くと、何やら矢が紙飛行機か何かのようにゆっくりと飛んでいるかのようであるが、とんでもない話で、モルフィネスがはっとしたのが一斉射撃の矢が放たれた瞬間或いはその一瞬後であり、一秒経つか経たないかの内にはハンベエの身に到達していたのである。
モルフィネスを始め、訓練している兵士達全員が声すら上げ得ず、身を凍らせた。ハンベエを誤殺してしまった。そう思い込んで、震え上がった。
だが、ハンベエは何事もないかのように立っていた。その周りには何百という矢が地面に突き刺さっていたが、ハンベエに当たった矢は一矢も無かったようだ。まるで矢がハンベエの体を通り抜けでもしたとしか思えない。
ハンベエはモルフィネスに気付いたらしく、右手を上げて彼の方に歩き始めた。
「撃ち方やめい、小休止。」
大慌てでモルフィネスが大声で命令を降した。
「ハンベエ、一体何の真似だ。死にたいのか。」
近付いて来るハンベエに、モルフィネスは怒気を含んで怒鳴った。
「いやあ、悪い、悪い。ヒョウホウ修行の一環だ。済まない事をした。」
ハンベエは悪びれた様子も無く、普段の無愛想な面構えは何処へやら、白い歯を見せてモルフィネスに詫びた。
更に文句を言おうと思っていたモルフィネスであったが、ハンベエにそう出られると口ごもってしまった。傲岸で無愛想な癖に時々、妙に憎めない雰囲気を醸し出すハンベエには、冷血漢モルフィネスもお手上げのようだ。
「兵法修行・・・・・・すると、あの矢の雨を躱したというのか。」
「躱したのさ、体の奴が勝手によ。」
ヘラヘラと軽く笑いながらハンベエは言った。
モルフィネスは、こいつ大丈夫か、と薄気味悪く感じると同時に、ハンベエの剣の技は遂に神に入ったのかと驚いた。
無想の境地・・・・・・ハンベエは更にレベルアップしたらしい。
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