兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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百五 燭光

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 王国金庫の特別監査に名を借りた吸収劇に先立ち、タゴロロームを後にし、不穏な空気立ち込めるゲッソリナに向かった人間がいた。イザベラである。
 モルフィネスの参入を受け入れたその日の夜、ハンベエの要請に従ってイザベラは軍司令官執務室にやって来た。
「来たよ、ハンベエ。アタシに頼みって?」
「早速だが、ゲッソリナに戻ってステルポイジャン達の動向を探って貰えないだろうか? 今日動くか明日動くかと戦々恐々のこちらを知ってか知らずか、兵を動かしたと云う風聞すら聞こえて来ない。随分と気になるのだ。」
「ふーん、それでアタシに探って来いと。他の奴じゃ駄目なのかい。第一諜報活動なら、モルフィネスが群狼隊を使ってやってるようじゃないか。」
「敵の内情を見極めるのは、それなりの奴でないと信が置けない。」
「いいのかい? ハンベエには随分と貸しが貯まってるんだけど、このまま行くとアタシへの借りでがんじがらめになるよ。アタシはその方が有り難いけど。」
 イザベラは妖しく微笑みながら、ハンベエに擦り寄った。
 ハンベエは困ったように見返した。この妖気かと思えるほどフェロモン満載のイザベラの誘惑に何処まで耐えられるのか、かなり自信が無くなって来ている。その内にパックリ喰われてしまうのでは、とハンベエは不安である。
 だが、何故誘惑に耐えねばならないのだろう? その答はハンベエ自身分からない。分からないが、この若者は強情に耐えようと心を定めていた。そうは言ってもイザベラの事が嫌いなのではなかった。今はそんな場合ではないと思うばかりだ。
「いずれ、この乱も収まり、共々生きてあれば、ゆるりと物語りでも交わしながら、借りを返したいものと考えている。」
「およ? ハンベエにしてはロマンチックなセリフだね。上出来だよ、アハハ。」
「そもそも、これは王女の為でもあるんだぜ。」
「解っているよ。じゃあ、明日早朝、司令部の屋根の上で待っていて。ちょっと準備する事が有るから。」
 イザベラはそう言って部屋を立ち去った。

 明けて早朝、ハンベエは司令部の屋根に登った。司令部は石造りである。屋根は平板で、人が歩けるようになっていた。いわゆる陸屋根と呼ばれる形であり、司令部内部から階段で屋根に出る事ができる構造になっていた。囲いのない屋上と言った形である。
(ちょっとした広場だな。)
 司令部の屋根に出たのは初めてであったが、意外な広さと平たい足場に、ハンベエは気分を良くしていた。
 腰から『ヨシミツ』を抜いて素振りを始め、朝の鍛錬にかかった。
 朝の素振りはフデンのところに居た時からの日課であった。タゴロロームに来てからは、忙事多発で、途切れがちではあったが、可能な限り怠らぬよう心掛けている。
 幾多の死線を越え、経験値をかなり貯めたハンベエであったが、武術は結局、肉体の性能に基礎を置く。鍛練を怠れば、勝ち得た物を簡単に失ってしまうだろう。とハンベエは己を戒めていた。
 一時間近く、素振りを繰り返しただろうか。いつの間にか当初の待ち合わせの約束を忘れ、鍛練に夢中に為り始めた頃、漸くイザベラが現れた。
「ふふ、朝から元気のいい事だね。」
 素振りに打ち込むハンベエに含み笑いを浮かべながらイザベラが声を掛ける。毎度の事ながら、思わせぶりな表情のイザベラである。
「待ちくたびれたぜ。さて、こんな朝早くに、こんな場所で何をするんだ。」
 ハンベエが『ヨシミツ』を鞘に収めながら尋ねると、それには答えず、イザベラは空を見上げた。そして、懐から銀製の手鏡を取り出すと空にかざした。
 中天から真っ黒な鳥が、尾を引くホウキ星のように真っしぐらに降りて来てイザベラの差し出した腕に止まった。
 何の余興だ、と言った顔でうろんな物を見るかのようなハンベエに、
「はあい、紹介するね。鴉のクーちゃんだよ。」
 とニンマリ笑いながら、イザベラは鴉の顔をハンベエに向けた。随分と慣れたものだ。鴉は、イザベラの腕に大人しく止まって身じろぎもしない。
 イザベラは、ハンベエの方に鴉を向けながら、自分の口を鴉の耳元(って何処だ?)に持って行き、
「ハンベエって言うんだ、良く覚えといてね。」
 ハンベエが目を剥くほど、優しい声音で言った。
 鴉がイザベラに良く懐いているのは解ったが、一体イザベラは何をしようとしているのか? ハンベエは大いに首を捻った。
 イザベラは鴉を左肩の上に移し替えると、怪訝な様子のハンベエを悪戯っぽい瞳で見詰めながら、次のように言った。
「この子を仕込むのには随分と骨が折れたけど、それだけの値打ちは有るのさ。ゲッソリナからのアタシの手紙はこのクーちゃんが届ける事になるからね。」
 そう言いながら、イザベラは何やらトリモチのようなもので、手鏡を足元の床に張り付けた。
「一日おきで、夕方・・・・・・そう六時頃にクーちゃんはこの手鏡を目当てにやって来る。ゲッソリナからのアタシの文を足に結び付けてね。ハンベエは翌朝六時にクーちゃんをこの場所に連れて来て。後はクーちゃんが勝手にゲッソリナのアタシのところへ帰って来るから。」
 ハンベエはイザベラの言葉を聞きながら、得心がいかないのか、何度も大きく首を捻っている。
「ふふふ、何て顔してるんだい、ハンベエらしくもない。」
「そんな事が本当にできるのか。鴉が文を届けるなど・・・・・・。」
「クーちゃんなら、できるさ。アタシが仕込んだからね。」
「昨日のうちにか?」
「馬鹿お言いでないよ。一日や二日でそんな事が仕込めるかい。クーちゃんは雛鳥の時から、アタシが愛情一杯に育て上げて来た可愛い家族だよ。」
 鴉という鳥はその姿や鳴き声から、不吉な鳥と人から嫌われている。その一方で神の使いと崇める人々もいる。その神秘的なほど黒い姿によるものであろう。畑の作物を荒らしたりと、割りと人間の近くに出没するのであるが、人に懐くという話はあまり聞かない。
 鑑賞用にするには、愛らしい姿ではないし、声も美しいとは言えない。夕方に寂しい場所に聞く鴉の声は、我々人間に不気味で不吉な印象を与える事が多い。恐らく、屍肉を喰らう鴉の姿が古い記憶として刷り込まれているためではなかろうか。
 それにしても、鴉と心を通わせるとは、とハンベエはイザベラの知られざる一面に目を見張った。まだまだ、知らない顔が一杯有りそうだ。

「ゲッソリナからタゴロロームまで、どんなに急いでも、人なら五日、馬でも三日掛かる。でも、クーちゃんならひとっ飛び。つまり、敵の情報が驚くべき速さで届くってわけさ。この事が敵との戦いにどんな意味を持つのか・・・・・・分かるだろう、ハンベエ。」
 そんな事ができるのか、とハンベエは驚いていたが、イザベラができると言うならできるのであろう。
「敵が十七万と聞いて、大いに慌てたが、それだけ早く敵の動きが掴めれば、先手を取る事も可能だ。何だか、勝てそうな気もして来たぜ。」
「アタシが味方で良かっただろう。」
 うふふ、とイザベラはハンベエの頬に手をやり、自慢げな笑みを浮かべた。
 ハンベエは無言で肯いた。現在の状況下では、真に大助かりな話で、イザベラの異能ぶりに驚き呆れながらも頼もしく感じた。だがその一方、一体この女何者なんだ? とこの女傑の得体の知れぬ不気味さに、微妙な畏れが湧いて、胸中複雑であった。
 その後、イザベラはクーちゃんと呼ぶ鴉の扱い方をハンベエに伝授した上で、その餌一月分を渡し、肩に鴉を乗せたままタゴロロームを去って行った。
 去り際に、
「ハンベエからも便りをおくれな。恋文なんかでもいいよ。」
 とからかうように言って笑った。敵地に乗り込もうというのに、少しの恐れもない。
(つくづく、驚いた女だ。しかし、何故あのような用意が有るのだ? 一体イザベラは何者なんだ。)
 少し呆けたような顔付きで見送りながら、ハンベエは考え込んでいた。
 まあ、何者でもよいさ、と呟き、ハンベエは『ヨシミツ』を抜いて、そのヤイバを見詰めた。
 しばし見詰めた後、静かに鞘に収め、莞爾として笑った。
(ステルポイジャンという強大な敵を前に、俺らしくも無く、少しビビっちまっていたようだな。)
 怖い者など有るものか、ハンベエは胸の内で殊更に強がって見せた。イザベラに負けてはいられない。

 王国金庫を吸収した時点で、ハンベエがタゴロロームに戻ってから、既に十四日が過ぎていた。
 この間、エレナやモルフィネスの到着、軍資金の算段などバタバタしていたが、ハンベエがそれにばかりかかずり回っていたわけではない。
 一方で、タゴロローム守備軍の再編も着々と進めていた。こちらの方はドルバスを表に立てて進めていた。ハンベエの手持ちの将領としては、ハンベエを除けば、第一にドルバスである。武勇、沈着、信頼度、ハンベエにとってはとにかく頼りになる男だ。
 前にも述べたが、『士官共は皆殺しだ。』というハンベエの発言の為、かつての士官の大半が守備軍を去っていた。
 士官が居なくては、編成が大変・・・・・・かと思われたが、ハンベエにとっては、むしろ好き勝手に決められると、都合が良かったようだ。或は、そこまで見通しての発言だったのであろうか? いやいや、バンケルクを撃ち破った後ノコノコとゲッソリナに向かったこの男、そこまでの思案は無かっただろう。
 編成自体は五人一班を基礎とする構成に変更は加えなかった。後は人選である。ハンベエとドルバスは武勇を基準に小隊長を選んだ。腕が立つかどうかである。
 ハンベエは山を降りて以来、人を見る毎に『こいつは斬れるか』と観察をしていた事も有り、姿を見ただけである程度の強弱が付けられる。
 その尺度で、小隊長四百名を任命した。その四百から互選で中隊長八十名を選ばせ、更に中隊長八十名から互選で大隊長十六名を選ばせた。小隊長、中隊長は同じ方式で補填した。
 こうして、拙速ではあったが、十六大隊一万人の編成を終えたのである。なお、班長についても各班で互選させた。
 途中から加わったモルフィネスがハンベエの人選を見て、年功も知識も足りぬ者を腕力だけで取り立てるとは沙汰の限りだと、顔を曇らせたが、ハンベエに言わせれば、現場指揮官は先頭に立って兵を率い、戦いの中でできるだけ生き延びる必要がある。まず、腕が立たねば話にならん、と思っていた。
 俺達は戦争するんだ。強い事が一番、戦争に勝つ事を第一に編成をする、ハンベエは危ぶむモルフィネスに強く言ってのけた。
 しかし、腕っぷしばかりで、人間の練れていない者を上にしたら、軍紀が乱れるのではないか、とモルフィネスは尚も不安を隠さない。モルフィネス、ハンベエ相手だと何故か率直な発言をするようだ。
「軍紀を乱す奴がいれば、このハンベエがすっ飛んで行って首刎ねてやるわ。」
 ハンベエはカラリと笑って言った。
 なるほど、それもそうか、とモルフィネスは自分の心配を杞憂だとアッサリと認めてしまった。
 ハンベエのおっかなさを知らぬ守備軍兵士はいないであろう。他の者が大将ならともかく、ハンベエが大将であれば、成り上がり士官も身を慎むであろう。そういう恐ろしさがハンベエにはある。
 しかし、モルフィネスの心配ももっともな事だと思ったのか、ハンベエは守備軍兵士に訓示を行った。モルフィネスから仕入れた近衛兵団討滅時のステルポイジャン配下兵士の悪行を例に挙げ、同種類似の行為を為す者がハンベエ配下にいた場合は八つ裂きにするから、そう心得よ、と言ったのである。
 幸か不幸か、そのハンベエの訓示を疑う者はいなかった。ハンベエならば、配下兵士といえども容赦無く斬り捨てるに違いない、と誰もが思ったのである。軍紀は粛然とした。
 残るは連隊長の人選であるが、まだ決まっていない。候補者一名はドルバスがほぼ間違いないところだった。ドルバスの現在の地位は正式なものではないが、副司令官と言ったところである。
 司令官ハンベエに代わってというよりも、ハンベエがハナハナ山からゲッソリナに向かってしまった当初から、タゴロローム守備軍を実際に統率して来たのはドルバスなのであった。勿論、副司令官の地位を外すつもりはハンベエにはない。連隊長は兼務になるだろう。
 三個連隊と一個大隊、従前の守備軍規模に足らず、ステルポイジャン軍の前には大鷲と雀であったが、ハンベエは十日余りで守備軍をほぼ掌握した。
 守備軍編成の中で、特別な扱いを受けたのは、旧第五連隊の兵士達であった。ハンベエは彼等を他の小隊に組み込む事はせず、司令官直属の部隊とした。隊長はヘルデンであった。
 言ってみれば旗本、親衛隊として位置付けたのである。
 親衛隊長の役を与えられたヘルデンであるが、隊長の椅子の坐り心地を味わう間などハンベエは与えない。直ぐに別の任務を命じた。
 タゴゴダの丘を越えて、外部から騎馬の傭兵部隊を雇って来い、というのである。
「できれば、三百騎。」
 とハンベエは言った。
 ヘルデンにはロキが同行する事になった。何処でどう聞き付けたのか、この少年はそういう交渉事ならオイラの出番と、心配顔のハンベエを振り切るようにヘルデンに付いて行った。ハンベエと付き合う内に感化されたのか、それとも成長期特有の冒険心の為か、どんどん大胆不敵になって行くロキである。
 一方のハンベエが、以前に比べると少しばかり思慮を巡らし、慎重な一面を見せ始めたというのに・・・・・・。
 ヘルデンとロキが騎馬部隊募集に出掛けた翌日、イザベラからの第一報が届いた。彼女の出立から丁度六日目であった。
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