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九十三 恐怖のボーン
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九十三 恐怖のボーン
サイレント・キッチンの中でも一、二の腕利きとして自他共に認めるボーン・クラッシュことボーンは王妃モスカ夫人の居城ベルゼリット城にサーグルと云う名の庭師として潜入して居た。
通常王妃のように身分の高い者が新たな使用人を雇う場合、何処の馬の骨とも分からぬ氏素姓あやふやな者が雇われる事はない。では、ボーンはどういう手立てでベルゼリット城に潜り込んだのだろう。
手品の種は紹介状であった。王妃に繋がりの有る貴族の紹介状を携えてベルゼリット城に乗り込んだのである。勿論手紙は贋物である。しかし、サイレント・キッチン偽書制作部の手になるその紹介状は、紹介状の主が見ても、『全く記憶に無いが、自分が書いた物に間違いない』と騙されてしまうほどの逸品。
出された手紙を見てみれば、親しく知りたる筆の跡。王妃はこの手にコロリと騙されて、ボーンを疑いもせず雇い入れた。王宮に届く貴族達の手紙を自由に調査閲覧(勿論極秘にだが)できるサイレント・キッチンにかかっては偽手紙などお手のものであった。え、王妃が相手に確認の手紙を出したらどうなるだって?
そんな事も有ろうかと、相手側の貴族の所にもスパイを送り込んでおく抜け目の無さ。何か有ったら、そいつがゴマ化してくれると云う寸法だ。
無論、ボーンがヘマをしたらそれまでだが、バッチリ予習して腕の良い庭師に成り切っていた。こういう器用な処が腕利きと言われる所以であった。
さて、ボーンが潜り込んで調べていると、どうも執事のフーシエの部下が国王の侍医であるドーゲンとしきりに行き来しているらしい。ボーンは直ぐにその情報を『声』に送った。三日としない内にその男は消息を絶ってしまった。おやおや、お仲間の連中が早々と攫ってしまったかとボーンが苦笑いしている内に王妃や側に仕えるガストランタが俄かに慌ただしく動き始めた。
フーシエの部下が行方不明になったと騒ぎになったのは朝の事、予定の刻限になっても部下が戻って来ないとフーシエが王妃に訴えて出たのだ。何処に向けてかボーンには分からなかったが、直ぐに何人かの使者が発っせられた。
そうこうしていると、今度は侍医のドーゲンがやって来て王妃モスカに面会を求めて来た。ドーゲンと面会したモスカは直ぐさま仕度を整えて、ガストランタと共に王宮に向かった。一方、フーシエも又同時に物々しく兵士達を従えて出て行った。ボーンが盗み聞きをして知ったところでは、国王バブル六世が王女エレナに毒を盛られて死亡したと云うのである。
侍医のドーゲンはベルゼリット城の客間に留まった。護衛なのか見張りなのか、十数名の兵士が警備に当たっていた。
状況を窺っていたボーンは、王妃達が城から出た後、城内の兵士達の配置を調べた。ほとんどの兵士達が出払っていた。ただ、先に述べたように侍医ドーゲンの警備だけは厳しく置かれていた。客室の前に二人、東西の裏表の廊下に三人づつ、十四人の兵士が配置されていた。恐らく、客室の中にも何人かの兵士がいるはずだ。
ボーンは、庭師の仕事に使う鋏等を入れている道具箱の中に隠してあった、ほとんど短剣に近い短めの剣を取り出して腰に帯び、同時に錐刀と呼ばれる刃渡り二十センチほどの極めて刃の細い短剣を帯の正面左側に差した。この刀は錐と呼ばれるだけあって、刃がボーンの小指よりもまだ細い。
今のボーンの表情は今まで見た事も無い冷酷なものであった。ガラス玉のように血の通わぬ眼、如何なる感情も読み取れぬ彫像のような頬、ただ空気を通しているかにしか見えない細く小さく開かれた唇。雲に覆われ陽も射ささない日の、昼尚暗い雪原における凍り付いた静寂の如き佇まい。諜報機関サイレント・キッチンで幾多の死線をくぐり抜けて来た非情酷薄な死の仮面、知られざる血も凍るばかりの顔であった。
ボーンは壁に映る影のように気配を消して、身を隠しながらドーゲンの居る客間に進んで行った。
ドーゲンを守る兵士はまず、客間を囲む四つの廊下、それぞれの角に三人づつ配置されている。その一角に向けてボーンは進んで行く。足音一つさせない豹のようにしなやかな身のこなしだ。最初の角に居る三人の兵士を見つけるとシュラリと錐刀を左手に抜いた。そして、柄を逆手に握り込み刃を上着の袖の内側に隠すように持った。
三人の兵士は何やら雑談めいた会話をしているようだ。既にボーンは兵士達と数歩の距離まで近付いていた。別にボーンは遮蔽物の陰に隠れていたわけでも、天狗の隠れ簑を使って姿を消していたわけでもない。ただ気配を消し、一切の音を立てなかっただけである。三人の兵士はボーンの姿が見えていたはずなのに、直ぐ間近になるまで気付かなかったのである。これが陰形と云う技術であった。
「サーグル、何を?」
慌てて身構える護衛の兵士、だが、言葉半ばにはボーンが内懐に入っていた。神速! 錐刀を小さく回し、一人目の兵士の喉笛を掻き切り、流れ込むように二人目の兵士に擦り寄る。腰の剣に手を掛けた二人目の兵士の刀の柄を握る手首を右手で押さえ付けると同時に、左拳を相手の首の後ろ側に回し、頭蓋骨と首の骨の繋がる部分、ボンの窪と呼ばれる所から錐刀の切っ先から根元近くまでズブリと刺し、グイッとえぐった。手練の早業! えぐった瞬間にはもう抜いて相手から離れている。三人目は漸く剣を抜き放っていた。ボーンは動きを止める事無く、腰の剣を抜いて三人目の兵士に迫って行く。剣を正眼に構えようとする相手の鍔元に右に抜いた剣の鍔元を押し当て、身体ごとぶち当てるように壁に押し込むと、左手の錐刀を右のこめかみから突き通していた。
あっと云う間も無かった。ハンベエも素早い動きで人を斬るが、ボーンもやる時は速かったのである。ボーンが身を翻して別の一角に音も無く駆け出した後に、三人の兵士は同時に崩れるように倒れた。
客間の正面にいた兵士はこの光景を見ていた。あまりの出来事にデク人形のように呆然としていた。恐ろしいものを見てしまったのだ。死に神!・・・・・・地獄の使者!・・・・・・魔風が一陣吹いて三人の兵士が攫われて行った。そう云った感じであった。言い難い恐怖にすっぽりと身を包まれ、叫ぶ事すら忘れていた。二人が顔を見合わせ剣を抜いて身構えた時には、もうボーンは次の一角の兵士達に襲い掛かっていた。
「人間じゃない、化け物だ。助けを呼ぼう。」
一人が蒼くなって言った。
「落ち着け、今この城に居るの兵士は俺達だけだ。使用人達を呼んでも足手まといの邪魔になるだけで、何の助けにもならない。」
だが、もう一人が否定した。その間にもボーンの殺戮は止まらない。廊下の角の向こう側の兵士が何事かと身を乗り出した所に行き会わせたボーンは一瞬の戸惑いも無く錐刀を下から斬り上げて、その頸動脈を断ち切った。四人目である。
次には角を回り込み、右の刀を投げていた。遠め(距離五メートルほど)の位置に立っていた兵士の喉笛をボーンの刀が貫いていた。もうの一人の兵士は角を曲がった直ぐ側にいた。ボーンの右手がその口を塞ぎ、左手の錐刀が頸動脈を断ち切る。傍目にはその兵士の前を通り過ぎたくらいにしか見えない素早い動きである。そのまま、喉を刀に貫かれ仰向けに倒れて行こうとする兵士の方に跳び、刺さっている自分の刀を引き抜くと、その刀を返して喉から血を流し半ば倒れようとしているその兵士の首筋を裂いた。六人。
風の如く、いや真空の中を飛んで行く矢のように音を立てず次の角へ。
客間の前に居る二人の兵士は部屋の中にいる仲間達に危難を知らせるのも忘れ、背中合わせに剣を構えて血走らせた目でキョロキョロと回りを窺っていた。叫び声一つ聞こえない。気の狂いそうなほどの静けさの中・・・・・・ドサッ・・・・・・バタッ・・・・・・と、人の倒れる音が聞こえる。二人はその音が、突然現れたあの死に神が仲間の命を奪っていった合図だと・・・・・・身の震えと共に確信していた。
「何か、妙な音がしていないか?」
客間の扉が開かれ、部屋の中に居た事情を知らぬ兵士が、この状況には似つかわしくない間延びした声を掛けた時には、二人は飛び上がらんばかりに肝を潰した。
「敵だ。いや死に神だ。死に神が俺達を殺しに来た。」
問いを受けた兵士が言った。物音一つ立てない敵がいつ襲って来るかと恐怖に縛り上げられていたその兵士は、味方の声に狼狽を走らせていた。まるで、声を立てたら直ぐにでも傍らに死に神が現れるとでも思っているかのように。
読者諸君はこの兵士達の反応を訝しく思うかも知れない。何をグズグズしているのか?直ぐにでも仲間に知らせてボーンに立ち向かうべく行動を起こすべきじゃなかったかと。まるでデクの棒、こんな役立たずが良く護衛の兵士の役を任されたものだと。
しかしながら、恐怖に囚われた人間とは得てしてこんなものである。当たり前の思慮が働かず、己の一身を守る事だけに全神経が集中されてしまうのだ。太古の昔、薄暗い森の中で虎や狼のような肉食獣から洞穴に身を隠して震えていた原始的恐怖が本能と云う名で呼び起こされるのである。兵士が本当に兵士として機能するのは、戦意と云う昂揚した気分に後押しされている時だけで、何の事はない、普通の時は一般人と変わりないのだ。
逆に言えば、太古の恐怖が吹き出すほどに、ボーンの纏う空気が恐ろしいものであり、その殺戮の技術に震え上がらされてしまったと云える。
そして、ボーンは速かった。客間の前で兵士達が無駄口を利いているうちに、残りの二つの角に配置された兵士達を片付けたらしい。相も変わらず、物音一つさせず、最初とは反対側の角から姿を現した。
ボーンは止まらない。一直線に客間の前にいる兵士達に向かって走って行く。何しろ、一つの物音も立てないのである。護衛の兵士達の反応は一歩も二歩も遅れた。向かって来るボーンの一番近くに居た兵士が走って来るボーンの頭目掛けて剣を振り下ろした。ボーンが真っ二つにされたかに見えたが、兵士の刀に手応えは無かった。残像であった。ボーンはその兵士の右横を駆け抜けた。突き進むボーンの後ろで、すれ違った兵士が倒れて行く、首筋から血を流しながら。
残り二人、一人が横殴りに剣で斬り付けて来る。ボーンは相手の内懐に飛び込み、敵の刀と己の刀の鍔元を合わせ、上から押さえ付けるようにしてその攻撃を防ぎ、錐刀で相手の喉笛を掻き切る。そして、死に行く敵の体をそのままもう一人に向けて突き飛ばした。
うわっ、ともう一人の兵士が飛ばされて来る味方兵士の体を躱した時には、目の前からボーンの姿が消えていた。生き残りの兵士の全身の毛がゾワッと逆立った瞬間、彼は首筋にチクリと痛みを感じた。そして、それがその兵士のこの世で最後に得た記憶であった。
喉笛を掻き切った兵士をもう一人の兵士に向けて突き飛ばしたボーンは、敵の視界が飛んで来る仲間の死骸に奪われる一瞬の間にその敵の背後に回り込んでいた。そして、敵に振り向く暇も与えず、ボンの窪から間脳まで錐刀で刺し貫いたのだった。
残るは、客間にいる兵士のみ、ボーンは錐刀と己の短めの剣を仕舞うと、倒れている護衛の兵士の一人の手から剣を奪って、持ち心地を確かめるように二度振った。それから、扉の前に立ち、中の様子を窺うようにしばらく立っていた。客間からは何の反応も無い。恐らく息を殺しているのだろう。
ボーンは無表情にそして静かに立っていたが、黙って扉を開けた。
部屋の中央に二人の兵士が、剣を構えて仁王立ちしていた。ドーゲンが部屋の隅で頭を抱え込み、震えているのが見える。一瞬の後、ボーンは扉を閉めた。
部屋の中にいた兵士達はギクリと震えを走らせたが、慌てて廊下に飛び出すような事はしない。ボーンが出て来るのを待ち構えているに違いないのだ。沈黙のまま最後の二人の護衛は立っていた。五秒、いや十秒・・・・・・こういう時の時間は異様に長いものだ。止まっているかのようである。
廊下からは何の物音も聞こえない。二人の兵士は互いに目を見合わすと忍び足で扉に歩み寄った。そして、扉を押し開いて廊下に飛び出そうと息を合わせた。その瞬間である。扉を突き破って剣の切っ先が突き出されて来た。扉は木でできていた。ドドっと途切れなく二度剣の切っ先が扉を突き破った。そしてその切っ先は正確に二人の兵士の胸の真ん中、つまり心臓をえぐっていたのである。
今更言うまでも無く、ボーンの仕業であった。二人の兵士は足音を忍ばせたつもりであったが、扉の向こう側のボーンには手に取るようにその動きが筒抜けだったのだ。一流中の一流の武術者は視覚のみで敵の動きを捉えない。空気の流れ、わずかな物音、気配・・・・・・研ぎ澄まされた五感全てが目そのものである。客間の中の兵士は扉の向こうのボーンの動きは全く分からなかったが、反対にボーンは扉の向こうで動く兵士達の動きを目に見るが如くはっきり捉えていたのだ。
驚きの声を上げる事も出来ず二人の兵士は崩れ落ち、死の痙攣を始めていた。
静かに扉が開かれ、ボーンが入って来た。氷の像のように無表情であった。ハンベエは最初出会った時に、ボーンを相当の腕前、かなりデキる男と見て取ったが、一流も一流超一流これほどに恐ろしい男だったのだ。ボーンはハンベエを恐れ、敵わぬ相手と一歩引いていたが、どうしてどうして二人が斬り合う事にでもなったら、どちらが勝つか分かったものではない。
ハンベエやロキの前では惚けた味のちょっと弱気な、そしてある意味人の良い役柄を演じていたが、一皮剥けばこれほど恐ろしい殺人技術を持っていたのである。果たして、どちらがボーンの真実の顔なのであろう。だが今は、おトボケを演じている場合では無いのは確かである。容易ならざる事態が進行しており、敵が護衛していたドーゲンが事態の重要な鍵を握る人物である事をボーンは確信していたし、それを味方の手の内に入れない事には、ボーン・クラッシュとあろう者がベルゼリット城に潜入していた意味がまるで無いではないか、と厳しく感じていた。
任務遂行の固い決意がボーンの中に潜んでいたもう一つの顔を呼び出したとも云える。どうにせよ、ボーンの破壊力の前に護衛兵士達は壊滅した。この物語の中においては、今まで見て来たボーン・クラッシュと云う男は意外に抜け目が無く、無理をしない用心深い人物でもあった。今回の行動にも十分な成算、自信のほどが有ったに違いない。
全ての護衛が消滅し、ドーゲンは部屋の隅で震えていた。ボーンを見る眼は恐怖に大きく見開かれ、今にも飛び出しそうである。ボーンは近寄ると、無造作にドーゲンの頭を殴り付けた。国王の侍医は呆気なく気絶した。ボーンは手早く、猿轡を嵌め、手足を縛り上げ、何処から出したのか、頑丈そうな大きな麻袋に詰め込み、肩に担いだ。
それから、軽々とした足取りで城の出口へ向かった。途中、小間使いや使用人などに顔を合わせたが、軽く会釈して通り抜けた。
ボーンがドーゲンに付けられた護衛兵士達を殺戮している間、他の使用人達は全く客間の方に寄り付かなかったが、元々彼等使用人達にはその客間には近付かないように指示が出されていたのである。しかも、悲鳴でも上がっていれば、事情は違ったかも知れないが、静寂の中、ただ何かの倒れる音だけがしていたのは返って不気味であり、敢えて命令を冒してまで確認に行く者はいなかったのである。
ボーンに肩に担いだ袋に何が入っているのか尋ねた者もいる。
「庭木の材料だ。」
ボーンは素っ気なく言った。殺戮の余韻が残っているのか、近寄り難い空気を醸し出しているボーンをそれ以上詮索する勇気を持った者はいなかった。
遮る者もあらばこそ、ボーンは馬車を引き出し麻袋を乗せて去って行った。
サイレント・キッチンの中でも一、二の腕利きとして自他共に認めるボーン・クラッシュことボーンは王妃モスカ夫人の居城ベルゼリット城にサーグルと云う名の庭師として潜入して居た。
通常王妃のように身分の高い者が新たな使用人を雇う場合、何処の馬の骨とも分からぬ氏素姓あやふやな者が雇われる事はない。では、ボーンはどういう手立てでベルゼリット城に潜り込んだのだろう。
手品の種は紹介状であった。王妃に繋がりの有る貴族の紹介状を携えてベルゼリット城に乗り込んだのである。勿論手紙は贋物である。しかし、サイレント・キッチン偽書制作部の手になるその紹介状は、紹介状の主が見ても、『全く記憶に無いが、自分が書いた物に間違いない』と騙されてしまうほどの逸品。
出された手紙を見てみれば、親しく知りたる筆の跡。王妃はこの手にコロリと騙されて、ボーンを疑いもせず雇い入れた。王宮に届く貴族達の手紙を自由に調査閲覧(勿論極秘にだが)できるサイレント・キッチンにかかっては偽手紙などお手のものであった。え、王妃が相手に確認の手紙を出したらどうなるだって?
そんな事も有ろうかと、相手側の貴族の所にもスパイを送り込んでおく抜け目の無さ。何か有ったら、そいつがゴマ化してくれると云う寸法だ。
無論、ボーンがヘマをしたらそれまでだが、バッチリ予習して腕の良い庭師に成り切っていた。こういう器用な処が腕利きと言われる所以であった。
さて、ボーンが潜り込んで調べていると、どうも執事のフーシエの部下が国王の侍医であるドーゲンとしきりに行き来しているらしい。ボーンは直ぐにその情報を『声』に送った。三日としない内にその男は消息を絶ってしまった。おやおや、お仲間の連中が早々と攫ってしまったかとボーンが苦笑いしている内に王妃や側に仕えるガストランタが俄かに慌ただしく動き始めた。
フーシエの部下が行方不明になったと騒ぎになったのは朝の事、予定の刻限になっても部下が戻って来ないとフーシエが王妃に訴えて出たのだ。何処に向けてかボーンには分からなかったが、直ぐに何人かの使者が発っせられた。
そうこうしていると、今度は侍医のドーゲンがやって来て王妃モスカに面会を求めて来た。ドーゲンと面会したモスカは直ぐさま仕度を整えて、ガストランタと共に王宮に向かった。一方、フーシエも又同時に物々しく兵士達を従えて出て行った。ボーンが盗み聞きをして知ったところでは、国王バブル六世が王女エレナに毒を盛られて死亡したと云うのである。
侍医のドーゲンはベルゼリット城の客間に留まった。護衛なのか見張りなのか、十数名の兵士が警備に当たっていた。
状況を窺っていたボーンは、王妃達が城から出た後、城内の兵士達の配置を調べた。ほとんどの兵士達が出払っていた。ただ、先に述べたように侍医ドーゲンの警備だけは厳しく置かれていた。客室の前に二人、東西の裏表の廊下に三人づつ、十四人の兵士が配置されていた。恐らく、客室の中にも何人かの兵士がいるはずだ。
ボーンは、庭師の仕事に使う鋏等を入れている道具箱の中に隠してあった、ほとんど短剣に近い短めの剣を取り出して腰に帯び、同時に錐刀と呼ばれる刃渡り二十センチほどの極めて刃の細い短剣を帯の正面左側に差した。この刀は錐と呼ばれるだけあって、刃がボーンの小指よりもまだ細い。
今のボーンの表情は今まで見た事も無い冷酷なものであった。ガラス玉のように血の通わぬ眼、如何なる感情も読み取れぬ彫像のような頬、ただ空気を通しているかにしか見えない細く小さく開かれた唇。雲に覆われ陽も射ささない日の、昼尚暗い雪原における凍り付いた静寂の如き佇まい。諜報機関サイレント・キッチンで幾多の死線をくぐり抜けて来た非情酷薄な死の仮面、知られざる血も凍るばかりの顔であった。
ボーンは壁に映る影のように気配を消して、身を隠しながらドーゲンの居る客間に進んで行った。
ドーゲンを守る兵士はまず、客間を囲む四つの廊下、それぞれの角に三人づつ配置されている。その一角に向けてボーンは進んで行く。足音一つさせない豹のようにしなやかな身のこなしだ。最初の角に居る三人の兵士を見つけるとシュラリと錐刀を左手に抜いた。そして、柄を逆手に握り込み刃を上着の袖の内側に隠すように持った。
三人の兵士は何やら雑談めいた会話をしているようだ。既にボーンは兵士達と数歩の距離まで近付いていた。別にボーンは遮蔽物の陰に隠れていたわけでも、天狗の隠れ簑を使って姿を消していたわけでもない。ただ気配を消し、一切の音を立てなかっただけである。三人の兵士はボーンの姿が見えていたはずなのに、直ぐ間近になるまで気付かなかったのである。これが陰形と云う技術であった。
「サーグル、何を?」
慌てて身構える護衛の兵士、だが、言葉半ばにはボーンが内懐に入っていた。神速! 錐刀を小さく回し、一人目の兵士の喉笛を掻き切り、流れ込むように二人目の兵士に擦り寄る。腰の剣に手を掛けた二人目の兵士の刀の柄を握る手首を右手で押さえ付けると同時に、左拳を相手の首の後ろ側に回し、頭蓋骨と首の骨の繋がる部分、ボンの窪と呼ばれる所から錐刀の切っ先から根元近くまでズブリと刺し、グイッとえぐった。手練の早業! えぐった瞬間にはもう抜いて相手から離れている。三人目は漸く剣を抜き放っていた。ボーンは動きを止める事無く、腰の剣を抜いて三人目の兵士に迫って行く。剣を正眼に構えようとする相手の鍔元に右に抜いた剣の鍔元を押し当て、身体ごとぶち当てるように壁に押し込むと、左手の錐刀を右のこめかみから突き通していた。
あっと云う間も無かった。ハンベエも素早い動きで人を斬るが、ボーンもやる時は速かったのである。ボーンが身を翻して別の一角に音も無く駆け出した後に、三人の兵士は同時に崩れるように倒れた。
客間の正面にいた兵士はこの光景を見ていた。あまりの出来事にデク人形のように呆然としていた。恐ろしいものを見てしまったのだ。死に神!・・・・・・地獄の使者!・・・・・・魔風が一陣吹いて三人の兵士が攫われて行った。そう云った感じであった。言い難い恐怖にすっぽりと身を包まれ、叫ぶ事すら忘れていた。二人が顔を見合わせ剣を抜いて身構えた時には、もうボーンは次の一角の兵士達に襲い掛かっていた。
「人間じゃない、化け物だ。助けを呼ぼう。」
一人が蒼くなって言った。
「落ち着け、今この城に居るの兵士は俺達だけだ。使用人達を呼んでも足手まといの邪魔になるだけで、何の助けにもならない。」
だが、もう一人が否定した。その間にもボーンの殺戮は止まらない。廊下の角の向こう側の兵士が何事かと身を乗り出した所に行き会わせたボーンは一瞬の戸惑いも無く錐刀を下から斬り上げて、その頸動脈を断ち切った。四人目である。
次には角を回り込み、右の刀を投げていた。遠め(距離五メートルほど)の位置に立っていた兵士の喉笛をボーンの刀が貫いていた。もうの一人の兵士は角を曲がった直ぐ側にいた。ボーンの右手がその口を塞ぎ、左手の錐刀が頸動脈を断ち切る。傍目にはその兵士の前を通り過ぎたくらいにしか見えない素早い動きである。そのまま、喉を刀に貫かれ仰向けに倒れて行こうとする兵士の方に跳び、刺さっている自分の刀を引き抜くと、その刀を返して喉から血を流し半ば倒れようとしているその兵士の首筋を裂いた。六人。
風の如く、いや真空の中を飛んで行く矢のように音を立てず次の角へ。
客間の前に居る二人の兵士は部屋の中にいる仲間達に危難を知らせるのも忘れ、背中合わせに剣を構えて血走らせた目でキョロキョロと回りを窺っていた。叫び声一つ聞こえない。気の狂いそうなほどの静けさの中・・・・・・ドサッ・・・・・・バタッ・・・・・・と、人の倒れる音が聞こえる。二人はその音が、突然現れたあの死に神が仲間の命を奪っていった合図だと・・・・・・身の震えと共に確信していた。
「何か、妙な音がしていないか?」
客間の扉が開かれ、部屋の中に居た事情を知らぬ兵士が、この状況には似つかわしくない間延びした声を掛けた時には、二人は飛び上がらんばかりに肝を潰した。
「敵だ。いや死に神だ。死に神が俺達を殺しに来た。」
問いを受けた兵士が言った。物音一つ立てない敵がいつ襲って来るかと恐怖に縛り上げられていたその兵士は、味方の声に狼狽を走らせていた。まるで、声を立てたら直ぐにでも傍らに死に神が現れるとでも思っているかのように。
読者諸君はこの兵士達の反応を訝しく思うかも知れない。何をグズグズしているのか?直ぐにでも仲間に知らせてボーンに立ち向かうべく行動を起こすべきじゃなかったかと。まるでデクの棒、こんな役立たずが良く護衛の兵士の役を任されたものだと。
しかしながら、恐怖に囚われた人間とは得てしてこんなものである。当たり前の思慮が働かず、己の一身を守る事だけに全神経が集中されてしまうのだ。太古の昔、薄暗い森の中で虎や狼のような肉食獣から洞穴に身を隠して震えていた原始的恐怖が本能と云う名で呼び起こされるのである。兵士が本当に兵士として機能するのは、戦意と云う昂揚した気分に後押しされている時だけで、何の事はない、普通の時は一般人と変わりないのだ。
逆に言えば、太古の恐怖が吹き出すほどに、ボーンの纏う空気が恐ろしいものであり、その殺戮の技術に震え上がらされてしまったと云える。
そして、ボーンは速かった。客間の前で兵士達が無駄口を利いているうちに、残りの二つの角に配置された兵士達を片付けたらしい。相も変わらず、物音一つさせず、最初とは反対側の角から姿を現した。
ボーンは止まらない。一直線に客間の前にいる兵士達に向かって走って行く。何しろ、一つの物音も立てないのである。護衛の兵士達の反応は一歩も二歩も遅れた。向かって来るボーンの一番近くに居た兵士が走って来るボーンの頭目掛けて剣を振り下ろした。ボーンが真っ二つにされたかに見えたが、兵士の刀に手応えは無かった。残像であった。ボーンはその兵士の右横を駆け抜けた。突き進むボーンの後ろで、すれ違った兵士が倒れて行く、首筋から血を流しながら。
残り二人、一人が横殴りに剣で斬り付けて来る。ボーンは相手の内懐に飛び込み、敵の刀と己の刀の鍔元を合わせ、上から押さえ付けるようにしてその攻撃を防ぎ、錐刀で相手の喉笛を掻き切る。そして、死に行く敵の体をそのままもう一人に向けて突き飛ばした。
うわっ、ともう一人の兵士が飛ばされて来る味方兵士の体を躱した時には、目の前からボーンの姿が消えていた。生き残りの兵士の全身の毛がゾワッと逆立った瞬間、彼は首筋にチクリと痛みを感じた。そして、それがその兵士のこの世で最後に得た記憶であった。
喉笛を掻き切った兵士をもう一人の兵士に向けて突き飛ばしたボーンは、敵の視界が飛んで来る仲間の死骸に奪われる一瞬の間にその敵の背後に回り込んでいた。そして、敵に振り向く暇も与えず、ボンの窪から間脳まで錐刀で刺し貫いたのだった。
残るは、客間にいる兵士のみ、ボーンは錐刀と己の短めの剣を仕舞うと、倒れている護衛の兵士の一人の手から剣を奪って、持ち心地を確かめるように二度振った。それから、扉の前に立ち、中の様子を窺うようにしばらく立っていた。客間からは何の反応も無い。恐らく息を殺しているのだろう。
ボーンは無表情にそして静かに立っていたが、黙って扉を開けた。
部屋の中央に二人の兵士が、剣を構えて仁王立ちしていた。ドーゲンが部屋の隅で頭を抱え込み、震えているのが見える。一瞬の後、ボーンは扉を閉めた。
部屋の中にいた兵士達はギクリと震えを走らせたが、慌てて廊下に飛び出すような事はしない。ボーンが出て来るのを待ち構えているに違いないのだ。沈黙のまま最後の二人の護衛は立っていた。五秒、いや十秒・・・・・・こういう時の時間は異様に長いものだ。止まっているかのようである。
廊下からは何の物音も聞こえない。二人の兵士は互いに目を見合わすと忍び足で扉に歩み寄った。そして、扉を押し開いて廊下に飛び出そうと息を合わせた。その瞬間である。扉を突き破って剣の切っ先が突き出されて来た。扉は木でできていた。ドドっと途切れなく二度剣の切っ先が扉を突き破った。そしてその切っ先は正確に二人の兵士の胸の真ん中、つまり心臓をえぐっていたのである。
今更言うまでも無く、ボーンの仕業であった。二人の兵士は足音を忍ばせたつもりであったが、扉の向こう側のボーンには手に取るようにその動きが筒抜けだったのだ。一流中の一流の武術者は視覚のみで敵の動きを捉えない。空気の流れ、わずかな物音、気配・・・・・・研ぎ澄まされた五感全てが目そのものである。客間の中の兵士は扉の向こうのボーンの動きは全く分からなかったが、反対にボーンは扉の向こうで動く兵士達の動きを目に見るが如くはっきり捉えていたのだ。
驚きの声を上げる事も出来ず二人の兵士は崩れ落ち、死の痙攣を始めていた。
静かに扉が開かれ、ボーンが入って来た。氷の像のように無表情であった。ハンベエは最初出会った時に、ボーンを相当の腕前、かなりデキる男と見て取ったが、一流も一流超一流これほどに恐ろしい男だったのだ。ボーンはハンベエを恐れ、敵わぬ相手と一歩引いていたが、どうしてどうして二人が斬り合う事にでもなったら、どちらが勝つか分かったものではない。
ハンベエやロキの前では惚けた味のちょっと弱気な、そしてある意味人の良い役柄を演じていたが、一皮剥けばこれほど恐ろしい殺人技術を持っていたのである。果たして、どちらがボーンの真実の顔なのであろう。だが今は、おトボケを演じている場合では無いのは確かである。容易ならざる事態が進行しており、敵が護衛していたドーゲンが事態の重要な鍵を握る人物である事をボーンは確信していたし、それを味方の手の内に入れない事には、ボーン・クラッシュとあろう者がベルゼリット城に潜入していた意味がまるで無いではないか、と厳しく感じていた。
任務遂行の固い決意がボーンの中に潜んでいたもう一つの顔を呼び出したとも云える。どうにせよ、ボーンの破壊力の前に護衛兵士達は壊滅した。この物語の中においては、今まで見て来たボーン・クラッシュと云う男は意外に抜け目が無く、無理をしない用心深い人物でもあった。今回の行動にも十分な成算、自信のほどが有ったに違いない。
全ての護衛が消滅し、ドーゲンは部屋の隅で震えていた。ボーンを見る眼は恐怖に大きく見開かれ、今にも飛び出しそうである。ボーンは近寄ると、無造作にドーゲンの頭を殴り付けた。国王の侍医は呆気なく気絶した。ボーンは手早く、猿轡を嵌め、手足を縛り上げ、何処から出したのか、頑丈そうな大きな麻袋に詰め込み、肩に担いだ。
それから、軽々とした足取りで城の出口へ向かった。途中、小間使いや使用人などに顔を合わせたが、軽く会釈して通り抜けた。
ボーンがドーゲンに付けられた護衛兵士達を殺戮している間、他の使用人達は全く客間の方に寄り付かなかったが、元々彼等使用人達にはその客間には近付かないように指示が出されていたのである。しかも、悲鳴でも上がっていれば、事情は違ったかも知れないが、静寂の中、ただ何かの倒れる音だけがしていたのは返って不気味であり、敢えて命令を冒してまで確認に行く者はいなかったのである。
ボーンに肩に担いだ袋に何が入っているのか尋ねた者もいる。
「庭木の材料だ。」
ボーンは素っ気なく言った。殺戮の余韻が残っているのか、近寄り難い空気を醸し出しているボーンをそれ以上詮索する勇気を持った者はいなかった。
遮る者もあらばこそ、ボーンは馬車を引き出し麻袋を乗せて去って行った。
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