兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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九十二 不快指数120%

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 王宮の門衛が気絶させられ、大騒動になっている頃ハンベエはまだ地下に居た。居たどころではない、ニーバルにくっついて地下の抜け道を隅から隅まで二時間余りも捜し回った。
 だが、結局トドのつまりには『なんでえ、居ないじゃねえかよ。』となって王女の部屋に戻って来た。居るはずもない。イザベラと王女は最初から抜け道などに入っていないのだから。
 先刻既に全て承知の上のハンベエはともかく、ニーバルや王宮警備隊の兵士にとっては骨折り損のくたびれ儲け、いかさまご苦労千万な話であった。
 入る時には『してやったり』顔で、もう王女は捕えたも同然と意地の悪い笑み満面であったニーバルも些か萎れた疲れ顔。一方ハンベエ、いつもと変わらぬ無愛想な無表情であったが、それでも少しは物足りなげな風情を作って見せていた。
 ニーバルは少し疲れの滲んだ塩っぽい顔で、何を見るとも無く部屋を見回していた。地下の抜け道を這いずり回って相当参っていたのか冴えない表情である。そのニーバルの眼がふと衣裳棚に留まった。
 扉が開いている。最初、ニーバルはそれを見て、扉が開いているな、とただぼんやりと感じただけである。地下の抜け道巡りで消耗甚だしかったためであろうか、思考回路が鈍っているようだ。だが、頭に引っ掛かる事が有ったのだろう。ただ『扉が開いているな。』が『あれ? 扉が開いている』に変わり、次には『何で扉が開いているんだ。』に変わった。
 一度芽生えた疑惑は急速にニーバルの中で肥大化し、ある形を纏って抜き難い、半ば確信めいた疑惑となった。
「ハンベエ、扉が開いているぞ。」
 ニーバルが冷やかに言った。氷の刃を口中奥深く呑んでいるかの如き冷やかさであった。
「うん? 開いてるなあ。」
 ハンベエはニーバルの咎めるような口調をまるで相手にせず、だからどうしたと云う風に応じた。実を云えば、ハンベエは衣裳棚の扉が開いている事にはとっくの昔に気付いていた。それを見た瞬間、ハンベエは内心『ヤラレタ!』と思った。衣裳棚の扉を開けっ放しにしたのが、エレナ達とは限らない。しかし、ハンベエはそれがエレナ達の仕業、殊にイザベラの仕掛けたイタズラであると直覚した。離れていても、ハンベエとイザベラには通じ合うものがあるようである。
 ハンベエはニーバルなどよりとっくに先に、衣裳棚の扉が開いている事、そしてその意味する処に気付いていた。その上、ニーバルに気付かれぬようにさり気無く扉を閉めてしまおうと思えば、それも出来たのであった。だが、敢えてそうしなかったのである。この辺り、ハンベエの事を好む好戦的な本性がそれをさせなかったと云えよう。
「確かこの部屋に入って来た時に、ハンベエ、貴様が中を調べ、扉を閉じたのだったよな。」
「ああ、そうだったな。何しろイザベラって奴は油断も隙もない奴だから、この俺も過敏な対応を迫られて、思わず空っぽの衣裳棚まで調べちまったぜ。」
「本当に中には誰も居なかったのか?」
 刺のある言い回しでニーバルがハンベエに一歩迫った。腰の剣に手が掛かっている。
「ふん、誰も居なかったじゃねえか。第一おめえも後ろから見ていたはずだ。」
 ニーバルの腹の内などハンベエは百も承知であった。だが、敢えて白々しくトボけて見せた。
 既に地下からは相当な数の王宮警備隊その他の兵士達が戻って来ていた。彼等は、王女の部屋には入り切らず、廊下にまで列を為し始めていた。ざっと五十人というところか。
(ざっと五十人。斬り頃だな。)
 ハンベエは胸中でほくそ笑んでいた。ついさっきまでは王女の脱出にのみ、心を砕いていたのだが、イザベラのイタズラを見つけた時に、王女達の無事な脱出を確信した。イザベラは王女を余裕で脱出させる手立てが有るようだと。そうなると、ハンベエの胸の内には師フデンから命ぜられた『千人斬り』の試練の方が頭をもたげて来た。現在ハンベエの達成数は三百二十六人。まだ三分の一にも達していない。此処らで何人かプラスしておきたい処だ。

 そもそも、ゲッソリナに来てから近衛軍団長ルノーに因縁を付けられたり、王宮警備隊に家捜しをされて揉めたりと、この血の気の多い若者にとっては何度も血の雨が降りそうな場面が出来しゅったいしていた。
 いつものハンベエなら、『良いカモござんなれ。』とばかりに腰の『ヨシミツ』に物を言わせる処だが、今回に限ってはのらりくらりと大人の対応をして来た。が、王女の脱出の目処がついたのを確信したのか、此処に到っては、寸毫も手を控える気配は無さそうだ。目の奥に、やるならやってやるぜ的な好戦の焔がゆらゆらと立ち上り始めていた。『ヨシミツ』は王女の部屋に入る時に抜いたまま、垂らした右手に握ったままだ。
 言葉には出さずとも、そんなハンベエの変化を肌に感じたのか、ニーバルは一歩下がった。
「生憎、貴様の体が邪魔で衣裳棚の中は見えなかった。あの時、実は中に王女エレナが居たんだろう。」
 後退りしながらもニーバルは厳しい口調で言った。
 ハンベエはわざとらしく小首を捻っていたが、
「全く凄え想像力だ、そこまで行くと笑えるぜ。・・・・・・何遍言っても通じねえようだが、俺には王女を庇う義理なんてコレっぽっちも有りゃしねえんだ。王女が居たら、ひっ捕えていたよ。第一、王女を庇うつもりなら、何故わざわざ衣裳棚の中を改めるなんて危ない真似をするんだい。」
「我々の目を欺く為だ。」
「ふん、漸く解って来たぜ。さっきから聞いてれば、有りそうも無い因縁を吹っかけて来やがる。要は王女の事に引っ掛けて、どう有ってもこの俺と事を構えようって魂胆だな。それなら最初からそう言えよ。相手になってやるからよ。」
 ハンベエは不敵に笑いながら言い放った。苦笑いを通り越して、スッキリ爽やか笑顔になっていた。
「きっ、貴様、手向かうつもりか?」
「当たり前だろう。何でこの俺がお前なんぞに恐れ入ってヘイコラしなきゃならんのだ。お前、大物にでもなったつもりか? ステルポイジャンは大物だろうが、お前なんぞ、その後ろ盾で威張ってるチンケな野郎じゃないか。身の程弁えて口を聞け。」
 ハンベエの悪口炸裂、此処まで言われた日には、冷静さを装っていたニーバルの血も逆流して目から吹き出そうかと云うもの。
「者共っ、掛かれっ。」
 と兵士達に命じた。
 すわっと兵士達がハンベエに襲い掛かろうとしたが、それより速くハンベエが稲光りの如く動いていた。ニーバルが兵士達に命令を放ったその語尾も終わらぬ内に、ニーバルとの距離を飛鳥の如く詰めたハンベエの右手に握る『ヨシミツ』の刃が、吸い付くようにニーバルの首に当てられていた。首筋を走るヒヤリとした感触に、ニーバルは液体窒素でもぶっかけられたように凍り付いて固まってしまった。
「慌てんじゃねえよ。此処に居る兵士共がざっと五十人か。まっ、俺にとっちゃあどうって事の無い数だ。それから、王宮の兵士全部集めて二千五百ってところか。大した数だが、何人斬れるか、試してみるのも悪かねえ。・・・・・・が、だ。兵士の親玉はステルポイジャンだろう。大将軍が本当にこのハンベエとやり合うつもりかどうか。兵士達の屍の山が築かれるのを望んでいるかどうか、まずそれを確認するのがお前の仕事だろうが。」
 ハンベエは薄ら笑いすら浮かべた余裕の表情で長口舌。
「他の連中も今は大人しくしてな。下手な動きをしたら、この馬鹿の首が落ちるぞ。やるとなったら、トコトン相手してやるからよ。」
 更に、一旦ハンベエ目掛けて足を踏み出して、そのまま抜き差しならずに動きを止めている兵士達に言った。久々に怖い者無しの喧嘩屋に戻ったらしい。
 首筋に冷たい物を当てられて、凍るばかりに固まる一方、憤怒と屈辱と恐怖で蒼白になったニーバルは、口元を震わせながら、ハンベエに追い立てられてステルポイジャンの執務室へ向かう事となった。
 目的の部屋に着くと、ハンベエは扉を荒々しく開けて、ニーバルを突き飛ばした。ニーバルは転がるように、椅子に腰掛けたステルポイジャンの前まで行って止まった。
「何事か。」
 ステルポイジャンが不機嫌極まりないといった顔で言った。
「こっ、このハンベエと申す者が怪しい動きをしたので、捕らえようとしたところ、ふっ、不埒にもこの私に刃を突き付け、この部屋まで・・・・・・。」
 怒りのためニーバルの声は震えていた。
「不埒だと。笑わせやがる。大将軍、思いもつかねえ因縁付けて喧嘩売って来たのはそいつの方だぜ。だが、親玉のあんたも俺に喧嘩売るってんなら買ってやるぜ。王宮兵士が何人居ようが知った事じゃねえ。この俺がどれだけ恐ろしい男か、思い知るがいい。」
「待て、何の話かさっぱり分からん。それに王妃様の前である。先ずは刀を鞘に納めよ。」
 ステルポイジャンは落ち着いた様子でハンベエに言った。ハンベエは渋々といった具合に『ヨシミツ』を鞘に戻した。
 部屋には、まだ王妃モスカとガストランタが居たのである。
 ステルポイジャンはニーバルに説明を求めた。ニーバルは一部始終を話す。話を聞いたステルポイジャンは渋い顔のまま言った。
「ハンベエに不審なところは無いではないか。」
「しかし、ハンベエは私に刃を突き付けたのですぞ。」
「ふん、刃を突き付けられたお前が不覚を取っただけではないか。恥を知れ、愚か者。」
 ステルポイジャンは苦々しげにニーバルを見据えた。これにはニーバルも一言も無いようで、黙って俯いた。
「ハンベエ、その方、本気で今からわしと事を構えるつもりか?」
 押し黙ったニーバルからハンベエに目を移すとステルポイジャンは、抑揚の無い声で言った。
「それはそっち次第だ。王女の味方じゃねえって幾ら言っても信用しねえし、第一、このハンベエをちょっとばかりの人数でどうにかできると舐めてやがるのが気に食わねえ。斬り合いは大好きだから、やるってのなら受けて立つぜ。」
「大層な口を利きおって。」
 ハンベエの大口にガストランタが苛立つ。だが、ステルポイジャンは特に立腹するでも無く、
「わしには今のところ、その方と争う理由は無い。それより、王女は地下の抜け道には居なかったのだな。」
 と冷静な口調で言った。
「その事なら、地下を隅から隅まで捜しました。どう考えても地下の抜け道には入らなかったとしか思えません。」
 ニーバルが顔を上げて言った。
「とすれば、門衛の二人を倒したのはやはり王女達か。」
 ステルポイジャンはぽつりと言った。
 王妃モスカがさも悔しそうに唇を噛み締めている。
 ハンベエは刀こそ納めたが、油断無く身構えていた。
「王妃様に火急にお報せしたい事が。」
 この時、重苦しい空気のステルポイジャンの部屋に転げ込むように飛び込んで来た者が居た。どうやら王妃の家来らしい。その者は、王妃モスカの前にとんで行くと、片膝をつき、
「王妃様、大変です。」
 と何かを伝えようとした。
「待てっ。」
 ステルポイジャンが一喝して、その発言を留めた。
「のう、ハンベエ、その方が居ると色々と揉め事が絶えんようだ。速やかに任地であるタゴロロームに赴いてはどうだ。」
 ステルポイジャンはハンベエに穏やかな口調で言った。平静を装っているのだろうか。拍子抜けどころか、気味が悪くて背筋が寒くなるほど、静かな静かなステルポイジャンであった。
「ふーん、じゃあそうするかな。あちこちから散々不愉快な因縁付けられた揚句、暴れもしないってのは業っ腹だが、此処はあんたの顔を立てて大人しく立ち去る事としよう。」
 ハンベエはそう言って、扉の所まで行くと、今一度ステルポイジャンを振り返った。そうして、
「大将軍。コーデリアス閣下を失なわれて気の毒に思う。」
 最後に一言、扉の向こうに消えた。立ち去ると決めたハンベエはグズグズはしていない。自分の客室に帰ってロキを伴うと、あっという間も無く王宮を後にしたのであった。

「何があったのだ。」
 ハンベエが部屋から出た後、もう良かろうと、王妃への使者にステルポイジャンが尋ねた。
「そっ、それが侍医のドーゲン様が攫われました。」
 使者は血を吐くような痛恨の面持ちで言った。
 その言葉を聞くや否や王妃モスカの顔が蒼白となり、次には醜く歪んだ。
「そんな、何と云う事。」
 モスカは呻くように呟いた。ガストランタも慌てて立ち上がった。
「王妃様、一先ずベルゼリット城へ。」
 ガストランタはモスカを抱えるようにして立ち上がらせ、慌ただしく部屋から出て言った。王妃モスカは今にも心臓発作で倒れはしまいかと云うほどに蒼ざめた顔色の悪さであった。
 後には、ステルポイジャンとニーバルが残っていた。
「ニーバル。」
 ステルポイジャンが低い声で名を呼んだ。地の底に住まう死の国の王が吠えたかと思うほど、それは恐ろしい響きであった。
「はっ。」
 ただならぬステルポイジャンの雰囲気に、ニーバルは我知らず直立不動の姿勢を取り、冷や汗を流していた。
「全ては王妃の差し金か?」
 何もかもを見通したかのようにステルポイジャンが尋ねた。
「はい、王妃様のたっての御意向で、抗する術も有りませんでした。」
「王妃が国王陛下に毒を盛るように命じ、その罪をエレナ王女に被せるように命じたのだな。」
「はい、閣下の仰せの通りです。」
「毒を盛ったのは誰だ?」
「ドーゲンです。」
「お痛わしや国王陛下。・・・・・・おのが妃と侍医に毒を盛られようとは。・・・・・・それにしても、ニーバル。何と云う事を仕出かしてくれたのだ。」
 この言いようから見ると、ハンベエが疑念を抱いた通り、ステルポイジャンは国王の毒殺には全く関与していなかったようだ。
「しかし、王妃様の強い命令でありまして。」
「王妃の命令であったら、このわしに断りも無しで良いと?」
「申し訳ありません、大将軍。」
 ニーバルはパッと身をひれ伏させると、床に頭を擦り付けた。
「済んでしまった事を言っても始まらぬ。しかし、二度とこのような勝手な真似をして見よ。目を潰し、鼻を削ぎ、手足の指を切り落として荒野に放逐されるものと思え。ガストランタにもしっかと伝えておけ。貴様等はこのわしに悪名を着せたのだぞ。」
「申し訳もありません。」
 ニーバルは泣き出さんばかりに詫びの声を上げた。
「ドーゲンが攫われたとすれば、十中八、九いや九分九厘サイレント・キッチンの仕業じゃな。どうにせよ、このような真相は王家の恥。世間に曝す訳にはいかん。国王陛下の死は病死とする外ないな。」
「では閣下! 王女の毒殺に見せ掛けるという策略は・・・・・・。」
「愚か者が、この上恥の上塗りをするつもりか。」
 ステルポイジャンに決め付けられて、ニーバルは身を縮めた。
「それより、王妃を通じて貴族共に兵を率いて王宮に参集するよう命じよ。南方の我等が主力、そしてフィルハンドラ王子が到着するまで、王宮を誰にも渡すわけにはいかん。国王陛下を我等の手で弔い、陛下の遺言書に従って王子を玉座に就けるのだ。」
「承知しました。」
「・・・・・・ハンベエとはこのまま敵となってしまうのかも知れんな・・・・・・全く惜しい男だ。」
 ステルポイジャンは無念そうにこぼした。
 その言葉に、ニーバルは己の主の胸中が全く解らなくなり、呆けたようにその顔を見詰め続けていた。
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