兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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八十八 曇り後、時には空振り

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「おいおい、暴れてもいいのかい。」
 いつの間に擦り寄ったのか、ステルポイジャンの直ぐ側にハンベエが来ていた。
「騒ぎを起こした張本人が、何を。」
 ステルポイジャンはふいに側に現れたハンベエにギロリと目を向けた。ニーバルに到っては腰の剣に手が掛かっている。
「そいつはトンだ言い掛かりってもんだ。因縁付けて来たのもルノーって馬鹿、斬り掛かってきたのもルノーって馬鹿。こっちは被害者だぜ。」
 ハンベエは動ずる事無くステルポイジャンに言い返した。
 ステルポイジャンはムッとした顔になったが、ハンベエの言い分にも一理あると思ったようだ。第一、この男はあの時、弓を手にしていなかった。腕組みをして立っていただけである。周りに弓を投げ捨てた様子もなかった。弓が無ければ矢を射る事はできない道理である。とすれば、矢はあの場の兵士の誰かが誤って射てしまったのかも知れない。
 それにしても、よりによって近衛師団長の兜に当たるとは。だが、今となってはどうしようもない。
「それより、あんたの兵隊の方が旗色良くないぜ。いいのかよ。」
 まあ俺にはどうでもいいけどね、という風な気の無い様子でハンベエは言った。
 人数的には王宮警備隊の兵士が圧倒しているのだが、近衛師団側には何騎かの騎兵がいた。一方、王宮警備隊側は城内警備に当たっていたため、歩兵、槍兵ばかりだ。その槍兵もいきなり近衛師団側が襲って来たため、隊伍を整えて騎兵に対抗する事もできず右往左往するばかり、敵騎兵の蹂躙になす術もなく崩れ立っている。ハンベエの言う通り、相当旗色が悪かった。
「何向こうは少人数、そのうち疲れるさ。それとも、手っ取り早く、貴様にどうにかできるのか。」
 ステルポイジャンは戦況を気にするでもなく言った。
「おいおい、俺を誰だと思っているんだい。」
「やって見よ、その大言見届けてやる。」
 ステルポイジャンのこの言葉を聞くや、ハンベエは脱兎の如く駆け出した。
 そして、一人の騎兵の前に躍り出た。
 突然前に飛び出して来たハンベエにその騎兵は慌てて槍を繰り出す。が、ハンベエは槍の穂先を半身に躱すとそのケラ首を掴むなり、力任せに引っ張った。騎兵は槍を突き出し、素早く引き戻すつもりてあったが、引き戻そうと力を入れる寸前にハンベエが引っ張ったものであるから、脆くも体勢を崩してしまった。しかも、相手はハンベエである。腕っぷしには自信のあるハンベエはそのまま凄まじい金剛力を発揮して、騎兵を馬から引きずり降ろしてしまった、そうして、入れ代わりに流れるようにその馬に飛び乗った。
 馬に乗るなりハンベエは、足元に引きずり落とした兵士など目もくれず、相手の槍を引きちぎるようにふんだくり、別の騎兵目がけてまっしぐらに馬を煽ると、槍の石突を水平に振るってすれ違い様に叩き落とした。
 敵の騎兵は後三人、更にハンベエは馬を突進させた。向こうも馬を煽ってハンベエ目がけて二騎同時に突っ込んで来たが、いざ槍を突き出そうと思うと馬上にハンベエの姿が無い。さては馬の腹に忍んだかと、馬首を立てる二人の頭上から宙を舞ったハンベエが降って来て槍を水平に一旋回、同時に馬から叩き落とし、元の馬の背に戻った。何の事はない、敵の騎兵がハンベエの姿を見失ったのはあまりに素早く宙に舞い上がったためであった。
 敵も味方もこのハンベエの、重力知らずの四次元殺法に、お目目まん丸口あんぐり、一瞬我を忘れて呆然とした。
 「今だあっ、」
 雷鳴が轟いたかと思うほどのハンベエの一声に、それまで崩れ立っていた王宮警備隊の兵士達が近衛師団兵達を押し包むようにして、四方八方から殺到した。
「退けいっ。」
 近衛師団兵士達に支えられ、代わりの馬を当てがわれたルノーは既にこの時城門の外に逃れていたが、味方が崩れ立とうとしたこの瞬間に負けを悟ったと見えて鋭く叫んだ。
 近衛師団兵士達はあっと言う間に王宮の外に追い出された。
「おのれ、おのれ、おのれ、覚えておれよっ。」
 ルノーは捨て台詞を吐いて、馬首を巡らせ駆け去って行く。他の近衛師団兵士も負傷者達を収容にかかった。
「よし、追うな。手出し無用だ。去るに任せよ。」
 近衛師団兵士達が退却にかかったと見るや、ステルポイジャンは大声で自軍の兵士に命じた。大将軍の威光浅からず、一令能く兵卒を統帥し、王宮警備隊兵士は見る間に行儀良く停止した。
 ハンベエはひらりと馬から飛び降りると、小首を傾げながらステルポイジャンの前までツカツカと歩いて行った。
「噂に違わぬ武勇の腕前、やるのう。」
 近づいて来るハンベエにステルポイジャンは意外に好意的な笑みを浮かべて言った。
 だが、ハンベエはステルポイジャンの笑みに迎合する事なく、少し愁いを帯びた思案顔で言った。
「いいのか、追わなくて。」
「元々、我等と近衛師団との間に争う理由等ない。追う必要があるわけないではないか。」
「いや、俺が言ってるのは近衛師団じゃあない。逃げる奴等に何やら別の人間が混じっていたように思ったが。」
 とハンベエは意味有りげに言った。
「別の人間。」
 今度はステルポイジャンの方が首を捻った。そして、訝しげにハンベエの顔色を窺った。
「いや、いいんだ。俺の見間違いかも知れんし、第一俺には関係の無い事だった。」
 ハンベエは相変わらず気のない素振りで言った。
「むう・・・・・・。」
 と首を捻るステルポイジャンに、傍らにいたニーバルが耳打ちした。
「閣下、惑わされてはなりませぬ。こやつ意外な食わせ者かも知れません。」
 ステルポイジャンはニーバルをちらりと見て、改めてハンベエをまじまじと見つめた。
「・・・・・・まあ、良い。その方が何を見たのか知らんが、王宮の警備を手薄にするわけには参らぬ。それより、その方このわしに話があるとの事だったな。わしの方にもその方に話がある。ついて参れ。」
 ステルポイジャンはそう言うと、建物に向けて歩き始めた。
(不発か。)
 とハンベエは胸中、些か落胆していた。
 ハンベエの計算では争い事の勢いとして、逃げる近衛師団を王宮警備隊の兵士達が追って行き、王宮内の警備体勢に綻びが生じるものと狙っていたのである。
 読者の諸君は既に感付いているものと思うが、ルノー目がけて放たれた矢はやはりハンベエの仕業であった。ハンベエは弓を手にしていなかった。投げたのである。普通の兵士ではできる芸当では無かったであろうが、手裏剣の扱いに通暁しているハンベエはそれを弓の矢に応用して、あたかも弓から放たれたが如き勢いのある飛矢を演出して見せたのである。矢は陰形の術を使って気配を消し、音も無く弓兵士に忍び寄って、その背中に掛けてある矢筒から摺り取ったものである。
 幸いにして、誰にでも出来る芸当では無かったので、弓を手にしていなかったハンベエに疑いはの目は向かなかったが、狙っていたほどの効果は上げられなかったようである。
 ステルポイジャンの命令が良く王宮警備隊兵士を制止し、暴発を食い止めてしまった。こうなると分かっていれば、手出しなどせず、近衛師団の騎兵をもっと暴れさせておけば良かった、とハンベエはほぞを噛んだ。更に、それではと、逃げる近衛師団に不審な者が混じっていたぞと誘ってみたが、乗って来そうもないので、誤魔化したのであった。敵は意外に手強いようだ。
 ハンベエはステルポイジャンを追ってゆるゆると付いて行った。
 その後ろを王妃モスカとガストランタが少し離れて歩く。
 ガストランタはハンベエの背中を睨み付けていた。あろう事か王妃を後ろにして歩いている、無礼にもほどがあるというものだ。
 ガストランタの睨み付けるハンベエの背中には『ヘイアンジョウ・カゲトラ』が・・・・・・無かった。
 ハンベエは王宮の城門には一人でやって来ていた。ロキは、客室でお留守番というほどでもないが、これから騒動を起こそうというハンベエが巻き込んではならないと置いて来たのである。ハンベエはロキを一人残すのが気掛かりだったのか、守り刀として『ヘイアンジョウ・カゲトラ』をロキに預けた。ハンベエ、どこまでも運の良い奴! いや、それともガストランタの姿を見かけた時から、師フデンから譲り受けた短刀を通じて己の正体を悟られるのを懸念していたのだろうか?
「あの無礼者がハンベエという男だったのようですな。今回も王妃様など眼中にないような振舞い。いかがいたしますか?」
 ガストランタは王妃の耳元に口を寄せて囁いた。
「あれがハンベエか。・・・・・・ほほ、まあ良い。礼儀というものを知らぬだけなのであろう。」
 意外にも、王妃モスカは少し楽しげにガストランタに小声で返した。
「・・・・・・。」
「ふふ、腑に落ちぬような顔をしておるな。わらわはのう、強い男が好きじゃ、そなたのようにの。先ほど見たハンベエという男の働き、惚れ惚れしたぞえ。あの衣服の下はさぞや鍛えられ、若駒のように引き締まった体をしておるのじゃろうな。それに面魂も精気がみなぎっておって、わらわの好みじゃ。」
 モスカはゆらゆらと遠ざかって行くハンベエの背中に妖艶で好色そうな目を向けて言った。
「しかし、あやつは敵ではありませんか。少なくとも、王女エレナと親しくしていた男。」
「ほほ、妬いておるのか?・・・・・・まだ、敵と限ったものでもあるまい。それにエレナは今や父親殺しで追われる身。例え敵であったとしても、こちらに乗り換える事もあろうぞ。いいや、馬鹿でなければそうしようぞ。現にハンベエという男、先ほどステルポイジャンの手助けをしていたではないか。」
「ハンベエという男、油断のならない食わせ者に見えましたが。」
「ふふ、心配せずともそちを捨てたりはいたさぬ。だが、あのハンベエという男も、わらわの足下にひれ伏させ、忠誠を誓わせてみたいものよ。」
 モスカはそう言うと、美しくも不気味な笑みを浮かべた。まるで、わらわにかかればどんな男も骨抜きじゃ、とでも嘯いているかのようであった。

 さて、ハンベエ、そんな事とは露知らず、というのは大間違いで、読者諸君も既にご存知の通り、この若者は獣並みに耳が良い。しかも、今は周りのどんな些細な変化も見逃すまいと五感を研ぎ澄ましていた。モスカとガストランタは誰にも聞こえぬつもりで話していたようであるが、ハンベエの聴覚が潜水艦のソナーさながらにしっかりと捕らえていた。
 が、ハンベエはそんな気振りは針の先ほども表に出さず、黙然と無愛想な面をぶら下げてステルポイジャンの後ろを歩いていた。果たして、ハンベエは思いもよらぬモスカの言葉に、おいおい勘弁してくれと鳥肌を立てたのか、それとも、おやおや俺って意外とモテるのかと鼻の下を長くしたのか。
 表情に少しも現さず、やがて大将軍ステルポイジャンの部屋と入って行った。ハンベエ、今回の策略は中途半端な不発に終わってしまったようだが、このまま手を拱いているようではヒョウホウ者の名が泣こうというもの。次なる秘策はあるのか無いのか。
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