兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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八十二 湯上がり上機嫌

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「ふーっ、すっきりしたぜ。やっぱり風呂ってやつは最高だな。」
「ハンベエ、長湯なんだもん。オイラ、逆上せちゃったよお。」
 ラシャレー浴場と書かれた大きな看板のある石造りの門から、ハンベエとロキが出て来た処であった。
 門の内側には何人かの兵士が警備の任に付いている。浴場内でトラブルが発生しないように、ゴロデリア王国宰相ラシャレーが直接配備した警備兵達である。
 ラシャレー浴場は、入浴料により、『上』、『並』、『恵』、『特上』の四つのクラスに別れていた。
 恵は最下層の暮らしをする者でも入れるようにと、銅貨五枚の値段に設定されていた。もっとも、混浴の上に入浴時間に二十分という制限があった。
 並は男女別々に仕分けられていて、時間制限無し。値段は銅貨二十枚。
 上は個室で、銀貨三枚。貴族や金持ち用であった。
 そして、特上は上より広めの浴場で、貸し切り仕様である。つまり、一人であろうとグループであろうと、好きな人数で貸し切りにできるのだ。ただし、湯船の広さで二十人が限度のようだ。値段は一人につき、金貨一枚という桁違いに高い値段である。その上、一人につき金貨一枚とは不思議な値段であった。つまり、一人で貸し切れば金貨一枚、四人で貸し切れば金貨四枚と、貸し切る人数が多ければ多いほど、提供される設備は一つなのに値段が高くなる仕組みなのだ。『おかしいじゃないか、責任者出て来い!』と文句の一つも言いだす奴がいそうな気がするが、宰相ラシャレー威光の賜物か、この価格基準が罷り通っていた。
 大陸全体では湯に浸かる文化はほとんど無く、その習慣を持つ人口は微々たるものであったが、ラシャレー浴場は割と盛況であった。貧困層は二十分の混浴と言っても、安い値段で垢を落とせるこの施設に安らぎを見いだしていたし、金持ちや貴族は高い値段で貧乏人に己の裕福さを見せ付けようと、上のクラスを選んだ。そして、普通の暮らしの者やゲッソリナに旅行で来た者は並のクラスを選んで入ったのである。旅人の中には旅土産にしようと、気張って上のクラスにする者もいた。
 今回、ハンベエとロキは特上に入った。金貨二枚であった。特上に入るのは物好きの連中である。たかが風呂に、金貨一枚というのは法外な値段であり、しかも、貸し切り以外に特別なサービスが有るわけではない。だが、世の中変り者や見栄っ張りはいるもので、一部の金持ち連中の間では仲間の代金を支払ってラシャレー浴場の特上コースに招待するのがちょっとしたブームになったりもしていた。

「しかし、ハンベエの物好きもひどいよねえ。たかが、風呂に入るのに金貨二枚も払うなんて、銅貨二十枚の中のクラスで十分じゃないかあ。あんまり贅沢してるとお、お金無くなるよお。お金ないと惨めなんだよお。」
 ロキがちょぴり不満げに言った。金銭感覚の鋭いロキはハンベエの無駄遣いが気に入らない様子だ。
「うん、すまん。金の使い方にはもう少し気を付ける。」
 ハンベエはロキに屈託無く言った。
 ハンベエにはハンベエの言い分があるだろう。剣術使いであるハンベエは己の明日の命を陽炎のように儚い物とも感じている。命さえそう感じているのに、金など何であろう。だが、ハンベエはロキの言い分に逆らわなかった。久しぶりに浸かった湯が酷くハンベエの心を爽快にしていた。何やら、この世の全ての人間にこのすっきりとした気分を分けてやりたいとさえ感じるのであった。
 ついさっきも説明したが、この大陸のこの時代、風呂文化はそれほど普及していない。風呂好きなハンベエは珍しい方の部類に入る。別に身だしなみとして入浴していたのではない。純粋に風呂が好きなのであった。師フデンから受け継いだものであったが、風変わりな若者であった。
(そう云えば、バンケルクの野郎からふんだくってやった金貨五万枚、碌に使わずじまいだったな。)
 何気無くハンベエはハナハナ山に置いてある軍資金をちらと思い出した。第五連隊兵士の新規採用に充て、連隊陣容を整えてタゴロローム守備軍と対抗する目論見の下に略奪した資金であったが、急転直下、敵の出撃を逆に奇襲して決着をつけてしまったので、宙に浮いてしまっていた。
 ハナハナ山に凱旋した時には、ハンベエすっかり忘れてしまっていた。
「そう言えば、ハンベエ。バンケルク将軍の隠匿資金を奪ったって聞いたけどお。どうなったのお?」
 まるで、ハンベエの頭の中が見えたかのようにロキが尋ねてきた。少年、神通力でも持っていたのか。
「おっ、良く知ってるなあ。その話はしたっけな?」
「ううん、聞いてないよお。でも、金の話ならオイラは地獄耳だよお。」
 ロキは片目をつぶってニヤっと笑ってみせた。ちょい悪少年を気取って見せているようだが、ドングリ眼がアンバランスであまり格好がついていない。ハンベエは危うく吹き出すところであった。が、それはあんまり失礼だろうと思ったのか、黙って微笑を返した。
「そのお金はどうしたのお?」
 ハンベエが何も言わないのでロキが追及する。
「うむ、第五連隊再建の資金にするつもりだったんだが、バンケルクの間抜けがあんまり呆気なく片付いちまったんで、そのままになっている。」
「そのままって?」
「ハナハナ山に置いたままさ。」
「どうせ、ハンベエの事だから、要らなくなった金の事なんて、すっかり忘れてたんでしょう。でも、他の兵隊さん達はそのお金がどうなるんだろうって、気が気でないよお。きっと。」
 ロキがちょっと心配そうに言った。
「・・・・・・。」
「まあ、晴れてタゴロローム守備軍の司令官になったんだからあ。早く、連隊に戻った方がいいと思うよお。」
 どうやら、ロキの心配は金自体ではなく、それによって悪い事態が引き起こされる可能性のようだ。『人間の欲望は黄金に止めを刺す』と喝破したのはサマセット・モームか誰かだったように記憶しているが、ハンベエよりは幾分ロキはその機微に通じているのかも知れない。
「司令官か、あんまり気が進まないぜ。」
 ポツリっと呟くようにハンベエは言った。
 この後、どうしようという風にハンベエが小首を捻った時、
「見つけたぞ。ハンベエだ。そいつだ。」
 と声がしてバラバラと五、六人の兵士に取り囲まれた。
 ハンベエはやれやれと薄ら笑いを浮かべた。
「貴様がハンベエか?」
 取り囲んだ兵士達の後ろから馬に乗った士官が現れて言った。
「間違いない。そいつがハンベエだ。」
 取り囲んだ兵士達の中の一人がハンベエを指差して言った。
 ハンベエは顎に手をやり、首を傾けてその兵士の方を見た。囲まれたというのに、緊張感の無いもっさりとした動作だった。
 良く見れば、その兵士は他の兵士より少し身なりの良さそうな服を着ていた。どうやら、その男も士官らしい。
 じっとその男の顔を見つめるハンベエ。妙に見た事のある顔の気がしてならない。そして、はっと気付いた。
 その顔はタゴゴロームでの二百人斬りの後、モルフィネスをずっこけて取り逃がしたハンベエが連隊屯所に帰るべく歩いていた時に、『皆、何をしているんだ。そいつは反逆者だぞ。何故捕らようとしないっ。』と叫んだ士官の顔であった。
 あの時、他の兵士達に相手にされず、尻餅をついて醜態を曝したのだが、今度は近衛師団に潜り込んでいるようだ。
 しかし、ハンベエの眼光に射竦められて、剣を抜く事もできなかった腰抜けのくせに再びハンベエに関わろうと、近衛師団兵士のお先棒を担ぐとは懲りない御仁である。こういう人物を古来、お調子者の馬鹿と呼ぶんだったっけ。

「ふっ。」
 とハンベエは笑った。それから、馬上の士官に目をやり、
「確かに俺がハンベエだが、お前なんぞに呼び捨てにされる覚えはないがなあ。それに、人の名を聞く時は先に名乗るように親に言われなかったかい。」
 とせせら笑いなから、言った。毎度お馴染みの人を食った返事である。
「ふん、貴様のような氏素性も知れぬ男に名乗る必要などない。それより、貴様をルノー様がお探しだ。付いて来てもらおう。」
 馬上の士官はハンベエを見下しながら、冷然と言った。
 見たところ大して腕が立ちそうなわけでも無い。俺にビビらないとは困った馬鹿だ。さて、どうしてくれようという風にハンベエ首を捻った。普段のハンベエなら、相手のムカつく態度に半ば喧嘩腰で刀の柄に手が掛かっていてもおかしくない状況であった。しかし、この時のハンベエは気味が悪いほど鷹揚であった。長湯のあまり、ふやけていたのかも知れない。
 そのハンベエの袖をロキが引いた。
「ハンベエ、今日は折角風呂に入ってさっぱりしてるのに、斬り合いしたら、血塗れになっちゃうよお。もったいないから今日は止めとこうよお。」
 ハンベエの剣呑さを知ってるロキは今にも暴れ出しはしないかと心配げだ。蓋をあければ赤々と煮えたぎる溶鉱炉か何かのようにハンベエの胸中を考えているのかも知れない。
「そうだな。」
 ハンベエはロキに片目をつぶって見せ、馬上の士官に言った。
「ルノーって奴がどんな奴か知らんし、興味もねえ。そっちがどんな用か知らねえが、俺は用はねえ。王宮の客間に戻るから、会いたいんなら来るように伝えな。」
「貴様、ルノー将軍の命令だぞ。来ないと言うなら、力付くでも連れて行くぞ。」
 己の主をまるっきり相手にしないハンベエの物言いにその士官は息巻いて怒鳴った。
「力付く・・・・・・あっはっはは、お前馬鹿だろう。俺を誰だと思ってるんだ。この程度の人数で俺をどうするつもりだい。」
 ハンベエは哄笑を上げると、ロキの手を引いて、歩き出した。
 ハンベエの向かう先に、最初にハンベエを指差した元タゴゴロームの士官がいた。その男は、向かって来るハンベエにぎょっとして、数歩後退りした後、今回も又尻餅をついてしまった。
 取り囲んでいる兵士達も、自信そのもの余裕たっぷり食い切れねえぜとばかりのハンベエに手を出しかねて、うかうかと見送ってしまった。
「誉れある近衛師団兵士が、たった一人に何たるザマか。仕方ない、取り敢えず、ハンベエが王宮に戻った事だけでもルノー様にお伝えしよう。」
 馬上の士官は己自身もハンベエに手を出しかねたのを棚に上げて、兵士達に舌打ちした。哀れなのは、尻餅をついた元タゴゴロームの士官である。わざわざ恥を曝しに登場したようなものだった。
 難を逃れたハンベエとロキ、いや難を逃れたのは近衛師団の兵士達だったかも知れないが、二人は少し離れた所まで来て立ち止まった。
「ハンベエ、今日は斬らなかったね。良く我慢したよお。」
 とロキは満足げに言った。ハンベエが暴れなかったので、見直したようだ。
「まっ、俺はまだ若い。この先、斬り合いする機会には事欠かないだろうからな。連れのロキも居た事だし、今日ぐらいは見逃してやるさ。それに、奴等がもうちょっと仲間をいっぱい連れて来てくれた方が手間が省けて助かるからな。」
 ハンベエは小さく笑って言った。人を斬らなかった事を喜ぶロキへの返事なのに、妙に会話が噛み合わないハンベエである。恐らく念頭に、誰にも明かしていない千人斬りがあるから、こんな返事になってしまうのだろう。
「ええー、じゃあハンベエは、あいつらが又絡んで来たら、今度は斬っちゃうつもりなのお?」
「前にも言ったが、ヒョウホウ者だからな。」
 そう言いながら、つるりと顔を撫でて見せるハンベエであった。
 そのハンベエをロキはちょっぴり複雑な表情で見ていた。
 今回は騒動を避けたハンベエではあるが、ルノーとの間にはまだ一悶着有りそうであった。
 空を見上げると、おりから雲が妖しげにちぎれ飛んでいた。
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