76 / 132
七十六 命有り、さてもさてもの事にて候
しおりを挟む
あまりにもあっけないバンケルクの最後であった。
地方軍司令官であり、一万五千人を超える兵士を擁していた身が、一介の風来坊に滅ぼされてしまったのである。
ハンベエの強運とその硬軟織り交ぜた奸智の冴えには驚かされるばかりであるが、バンケルクが滅んだ理由がハンベエの強さばかりにあったとも思われない。
バンケルクはハンベエを舐め過ぎていた。否、殊更にちっぽけな取るに足らない人間と見下そうとしていた。そのバンケルクの心底には、王女エレナに絡んだ特別な感情が有ったようである。
思えば、エレナの紹介状を携えて訪ねた最初の出会いから、ハンベエに対するバンケルクの態度は必要以上に高圧的であり、士を遇する所の一カケラも無いものであった。無論、ハンベエの人を人とも思わぬ大物ぶった態度や、身分をわきまえない言動行動に反感を抱かない上役連中はいないのかも知れないのだが、ハンベエにしてみれば悪意はない。
というよりは、ハンベエには身分秩序の感覚が欠落していた。山中でフデンとたった二人切り、その薫陶を受けながら育ったハンベエは、高位にある人間を身分故に畏れ敬うという事を学ばず、或いは、身につかず、山の獣そのままの性格で世間に出て来てしまった。そして、その後は御存じのとおり、剣術の腕にモノを言わせて押し通って来たのである。逆に、ハンベエの出会う人間の方が、最初はその傲岸な物腰に反感を抱きながらも、この若者のあまりな物騒さに遠慮するハメになっている始末である。
バンケルクはハンベエを『上を上とも思わん、反抗的な輩』と言ったが、それはあながち外れてはいなかった。ただ、最初からさながら害虫のように駆除の一点張りであったのはどういうわけだったのだろう?
バンケルクの参謀モルフィネスもまたハンベエの力量を読み誤り、散々な目に逢わされたが、それでもこの参謀がハンベエの実力を多少なりとも評価し、あわよくば味方に引き入れる事も考えたのに対し、バンケルクは徹頭徹尾、ハンベエを害虫と呼び、取るに足らぬ虫ケラと見ようとしていた。
そのあまりな嫌いっぷりは、世の女性方のゴキブリに抱く感情にさも似て、いささか滑稽ですらあった。
そして、その嫌悪の感情の奥底には、王女エレナを挟んでの憎悪が有ったのである。
モルフィネスがタゴロローム退去直前に喝破したが、バンケルクはハンベエに何らかの嫉妬心を持っていたのだろう。その嫉妬心がハンベエを対等の人間として見る事を許さなかった。
バンケルクは四十半ばであった。四十不惑と言われる。大嘘である。人間四十を過ぎ、体力の衰えを感じ始めたこの頃、少年期に抱いた未来への明るい展望も何の根拠もない事だったと悟り、幾らかの者が実は千々に乱れるのである。
輝かんばかりの美しさを持つエレナ(芳紀十八歳)を前に、尊敬を受けつつも、気後れする事も有ったであろう。大いに己の年齢を意識し、焦っていたに違いない。
そこにハンベエが現れた。悪い事に王女の紹介状付きだ。ハンベエ二十歳である。恋する者は盲目とやら、王女とはむしろ反りの合わないこの若者を、バンケルクは無意識に恋敵と感じてしまったのではなかろうか。
勘違いから嫉妬し、とち狂ったバンケルクは、ハンベエに敵意を抱いた。殊更にハンベエを見下したのは、恐らくハンベエの若さへの嫉妬であろう。若さでは勝負にならない。それが、バンケルクにハンベエを対等な人間として観察分析する事を拒否させた。ただ意味も無く、敵意を持って見下すだけの行動を取らせた。・・・・・・ようである。
それ故に、バンケルクはハンベエに対する時、ただ苛立ち、憎悪を燃やすのみで、ハンベエに身を置き換えてその行動を考えてみるという事をしなかった。その結果、ハンベエの予想外の奇襲に為す術もなく破れてしまったのである。
最後にハンベエとの一騎打ちを拒んだのは、そうやって何の意味もなく相手を見下す事でしか己の優越感を保てない、さもしい心根から出たものだったのではなかろうか。
このように、相手を良く見ようともしない、対等の土壌に立って優劣を比較計算しない者が、戦いにおいて不覚を取る事は、往々にして起こる事である。
『彼を知り、己を知れば、百戦と云えど危うからず』(孫子)
ハンベエが孫子の兵法に言われる理想的な行動をしたとまでは言わない。しかしながら、バンケルクに比べれば、剣術使いとして身についた性格故にか、相手と自分の状況を良く見比べた上で行動していたのである。
かくしてバンケルクは滅んだ。バンケルクのエレナに対する愛情は嘘では無かっただろう。だが、同時にバンケルクはゴロデリア王国の内乱を睨んで野心を抱いてもいた。意地の悪い見方をすれば、色と欲との二人連れに千々に乱れ狂った挙げ句、自ら滅んでしまったとも云える。
いずれにせよ、何を思っていたにせよ、バンケルクはハンベエに出会って滅んだ。ハンベエに出会わなければ、身を滅ぼす事も無かったかも知れない。全くハンベエという若者は疫病神ではあった。
ところで、バンケルクを滅ぼして喜びに沸いているハンベエ陣営であったが、喜んでばかりでいいのだろうか。いいわけはない。
ハンベエのやった事は理由はともあれ、反乱である。一介の風来坊が軍司令官を葬ってしまったのである。今度ばかりはラシャレーやゴロデリア王国首脳部も黙ってはいないであろう。おまけに味方のはずの王女エレナともバンケルクとの関わりで殺し合いまでやってしまった。
勝ったはいいが、浮かれ飛んでる場合じゃないのである。
ゲッソリナの動向、とりわけラシャレーの方寸が気に掛かるところである。
が、ここは一先ずハナハナ山に目を向けて見よう。あれから、エレナやイザベラ、そして、ロキはどうしているのだろう。
エレナが、目を覚ましたのはハンベエとの決闘から丸一日後、丁度ハンベエ達が戦勝の喜びに沸いている頃であった。
ぼんやりとした視界の向こうの風景を、定まらぬ視点でエレナは見回した。まだ、意識が朦朧としてはっきりしないようだ。
直ぐ側にイザベラが座って、エレナの顔をじっと見つめていた。
(イザベラさん? 私は?・・・・・・そうだ、私はハンベエさんと斬り合いをしていたはず。)
徐々にエレナの脳裏に気を失うまでの記憶が蘇ってきた。
「・・・・・・っ。」
エレナは慌てて起き上がろうとした。が、手足に力が入らない。
「まだ起き上がるのは無理だよ。」
イザベラが言った。穏やかな、どちらかと言えば、優しげな物言いである。普段の妖しげな雰囲気が影を潜め、菩薩風に見えるのは気のせいだろうか?
「・・・・・・、ハンベエさん達は将軍と戦いに出て行ってしまったのですね。結局、私は何も出来なかった。・・・・・・私の邪魔をしたのはハンベエさんのためですか?」
エレナはイザベラに語り掛けた。何処か他人事のような口調である。まだ、薬の作用による朦朧とした状態から抜け出せないようだ。
「ハンベエ? ・・・・・・確かに、あいつに姫様を殺させたくは無かったさ。あいつ本当に斬り殺すところだった。少々見損なったね。・・・・・・だけど、邪魔をしたのはハンベエのためばかりじゃないよ。」
イザベラはちょっと顔を背けて蓮っ葉に言った。
エレナはそんなイザベラの様子を焦点の定まらぬ目で追っていたが、呟くように言った。
「最初は、イザベラさんが私を殺しに来てハンベエさんが邪魔をして、今度は私から挑んだ事ですれど、ハンベエさんが私を殺しそうになってイザベラさんが邪魔をした。何だか笑い話のようですわ。」
勿論、エレナは一片の笑みも浮かべていない。むしろ悲しげな顔をしていた。
「・・・・・・ここは笑うところなんだろうかね?」
イザベラは困ったような顔をした。
「さあ、どうなんでしょう。・・・・・・イザベラさんといい、ハンベエさんといい、私を殺そうとした人なのに、ましてハンベエさんなどは私の大事な人を殺しに出かけたのに、私ちっとも憎めない。むしろ、お二人が羨ましく思えるのは何故なんでしょう。」
こうエレナはイザベラに言うともなく、独り言のように呟いた。ふと見れば涙が流れている。
「私、涙など流して・・・・・・恥ずかしいですわ。」
エレナは、だが涙を拭おうとはしない。手足が動かないのだから、無理な注文である。
イザベラは手布を取り出して、何も言わず、そうっとエレナの涙を拭いてやった。
「ありがとう、イザベラさん。・・・・・・そう言えば、ロキさんは? まさかハンベエさんと一緒に戦に出かけたのですか?」
「いや、あの坊やは戦には興味が無いらしく、流石にハンベエには付いては行かなかったよ。しかし、ハンベエが出かけた後、姫様とハンベエの決闘を知ってびっくり仰天さ。殊に、ハンベエが姫様を危うく斬り殺すところだった事を話したら、酷く難しい顔付きになってしまってね。つい今し方までは、姫様を気遣って此処に居たんだけどね。考え事をして来るって、外へ出て行ったよ。」
「大丈夫でしょうか?」
「心配いらないよ。あの坊やはあれで、馬鹿な真似をするようなタマじゃない。・・・・・・今一番心配なのは、姫様、あんただよ。」
「私?・・・・・・確かに、バンケルク将軍が死ねば、私には将軍を追って死ぬか、ハンベエさんに敵討ちの闘いを挑んで死ぬか、道は二つしかありませんものね。」
「何でそうなるんだよ。いやその前に、あんたハンベエが勝つものと決めて掛かっているようだけど、案外アイツがやられちまうって事も有り得るんだよ。」
「本当にそう思ってます?」
「・・・・・・。」
「私には、ハンベエさんが敗けるとは思えません。あの人は乱暴者のように見えても、感情だけで戦をするような人では、きっとありません。自ら兵を発した上は、勝てる見込みが有るはずです。」
「・・・・・・、まあ、アタシもそれはそう思うがね。だからと言って、姫様が死ぬのはアタシは嫌だね。何も死ななくてもいいじゃないか。死に急ぐ事は無いじゃないか。」
「嫌? 元々、私を殺そうとしていたイザベラさんが?」
「・・・・・・。」
エレナに言われ、イザベラはぐっと言葉に詰まってしまった。確かに言われるとおりである。一体、アタシは何をしたいのやら、とイザベラは自嘲してしまう。
「ごめんなさい。その事はもう言いますまい。今は本当に私の身を案じてくれているのですよね。有難い事だと思いますわ。」
「まあ、アタシが姫様の身を案じるなんてなあ、おかしな話だけど、アタシだけじゃないよ。あんたが死んじまったら、ロキなんて涙と途方に暮れちまうよ。」
「ロキさん。・・・・・・今回の件では、ロキさんにも無理なお願いをし、危険な目にも遭わせてしまいましたわ。」
「アタシは思うんだけど、あんたは死にたがってる処がある。でも、あんたは生きてていいんだよ。いいや、どんな人間だって生きてていいんだ。世界中の全ての人間に命を狙われてる奴だって、生きていたいと考えていいんだ。勿論、死んだっていいんだけどね。自分の命をどうしようと、それは本人の勝手さ。ましてやロキのように、ただあんたが好きで肩入れしている奴もいる。誰かの為に死ななければいけないなどと考えずに、自分がこの世にまだいたいのかどうか、じっくりと時間を掛けて考えて欲しいもんだね。」
イザベラは解ったような解らぬ長台詞を言った。妙に雄弁である。
「分かりましたわ。ゆっくりと考える事にしますわ。」
エレナはぽつりと答えた。
イザベラは少しほっとしたような顔をし、思い出したように言った。
「ところで、例の二人、まだあんたの周りをうろついてるよ。」
「例の二人?」
「宰相の命令であんたを護衛しているとか言ってた二人だよ。兵士姿に身を変えて、この小屋を窺っているのを見つけたから、『ハンベエとバンケルクの大喧嘩が始まろうってのに、宰相に報せもしないでもいいのかい』って言ってやったら、『我等は我等の仕事を果たすのみ。』だとよ。」
「お仕事ご苦労様な事です。うっちゃって置きましょう。」
エレナの表情が少し和らいだように見えたのは、錯覚であろうか?
地方軍司令官であり、一万五千人を超える兵士を擁していた身が、一介の風来坊に滅ぼされてしまったのである。
ハンベエの強運とその硬軟織り交ぜた奸智の冴えには驚かされるばかりであるが、バンケルクが滅んだ理由がハンベエの強さばかりにあったとも思われない。
バンケルクはハンベエを舐め過ぎていた。否、殊更にちっぽけな取るに足らない人間と見下そうとしていた。そのバンケルクの心底には、王女エレナに絡んだ特別な感情が有ったようである。
思えば、エレナの紹介状を携えて訪ねた最初の出会いから、ハンベエに対するバンケルクの態度は必要以上に高圧的であり、士を遇する所の一カケラも無いものであった。無論、ハンベエの人を人とも思わぬ大物ぶった態度や、身分をわきまえない言動行動に反感を抱かない上役連中はいないのかも知れないのだが、ハンベエにしてみれば悪意はない。
というよりは、ハンベエには身分秩序の感覚が欠落していた。山中でフデンとたった二人切り、その薫陶を受けながら育ったハンベエは、高位にある人間を身分故に畏れ敬うという事を学ばず、或いは、身につかず、山の獣そのままの性格で世間に出て来てしまった。そして、その後は御存じのとおり、剣術の腕にモノを言わせて押し通って来たのである。逆に、ハンベエの出会う人間の方が、最初はその傲岸な物腰に反感を抱きながらも、この若者のあまりな物騒さに遠慮するハメになっている始末である。
バンケルクはハンベエを『上を上とも思わん、反抗的な輩』と言ったが、それはあながち外れてはいなかった。ただ、最初からさながら害虫のように駆除の一点張りであったのはどういうわけだったのだろう?
バンケルクの参謀モルフィネスもまたハンベエの力量を読み誤り、散々な目に逢わされたが、それでもこの参謀がハンベエの実力を多少なりとも評価し、あわよくば味方に引き入れる事も考えたのに対し、バンケルクは徹頭徹尾、ハンベエを害虫と呼び、取るに足らぬ虫ケラと見ようとしていた。
そのあまりな嫌いっぷりは、世の女性方のゴキブリに抱く感情にさも似て、いささか滑稽ですらあった。
そして、その嫌悪の感情の奥底には、王女エレナを挟んでの憎悪が有ったのである。
モルフィネスがタゴロローム退去直前に喝破したが、バンケルクはハンベエに何らかの嫉妬心を持っていたのだろう。その嫉妬心がハンベエを対等の人間として見る事を許さなかった。
バンケルクは四十半ばであった。四十不惑と言われる。大嘘である。人間四十を過ぎ、体力の衰えを感じ始めたこの頃、少年期に抱いた未来への明るい展望も何の根拠もない事だったと悟り、幾らかの者が実は千々に乱れるのである。
輝かんばかりの美しさを持つエレナ(芳紀十八歳)を前に、尊敬を受けつつも、気後れする事も有ったであろう。大いに己の年齢を意識し、焦っていたに違いない。
そこにハンベエが現れた。悪い事に王女の紹介状付きだ。ハンベエ二十歳である。恋する者は盲目とやら、王女とはむしろ反りの合わないこの若者を、バンケルクは無意識に恋敵と感じてしまったのではなかろうか。
勘違いから嫉妬し、とち狂ったバンケルクは、ハンベエに敵意を抱いた。殊更にハンベエを見下したのは、恐らくハンベエの若さへの嫉妬であろう。若さでは勝負にならない。それが、バンケルクにハンベエを対等な人間として観察分析する事を拒否させた。ただ意味も無く、敵意を持って見下すだけの行動を取らせた。・・・・・・ようである。
それ故に、バンケルクはハンベエに対する時、ただ苛立ち、憎悪を燃やすのみで、ハンベエに身を置き換えてその行動を考えてみるという事をしなかった。その結果、ハンベエの予想外の奇襲に為す術もなく破れてしまったのである。
最後にハンベエとの一騎打ちを拒んだのは、そうやって何の意味もなく相手を見下す事でしか己の優越感を保てない、さもしい心根から出たものだったのではなかろうか。
このように、相手を良く見ようともしない、対等の土壌に立って優劣を比較計算しない者が、戦いにおいて不覚を取る事は、往々にして起こる事である。
『彼を知り、己を知れば、百戦と云えど危うからず』(孫子)
ハンベエが孫子の兵法に言われる理想的な行動をしたとまでは言わない。しかしながら、バンケルクに比べれば、剣術使いとして身についた性格故にか、相手と自分の状況を良く見比べた上で行動していたのである。
かくしてバンケルクは滅んだ。バンケルクのエレナに対する愛情は嘘では無かっただろう。だが、同時にバンケルクはゴロデリア王国の内乱を睨んで野心を抱いてもいた。意地の悪い見方をすれば、色と欲との二人連れに千々に乱れ狂った挙げ句、自ら滅んでしまったとも云える。
いずれにせよ、何を思っていたにせよ、バンケルクはハンベエに出会って滅んだ。ハンベエに出会わなければ、身を滅ぼす事も無かったかも知れない。全くハンベエという若者は疫病神ではあった。
ところで、バンケルクを滅ぼして喜びに沸いているハンベエ陣営であったが、喜んでばかりでいいのだろうか。いいわけはない。
ハンベエのやった事は理由はともあれ、反乱である。一介の風来坊が軍司令官を葬ってしまったのである。今度ばかりはラシャレーやゴロデリア王国首脳部も黙ってはいないであろう。おまけに味方のはずの王女エレナともバンケルクとの関わりで殺し合いまでやってしまった。
勝ったはいいが、浮かれ飛んでる場合じゃないのである。
ゲッソリナの動向、とりわけラシャレーの方寸が気に掛かるところである。
が、ここは一先ずハナハナ山に目を向けて見よう。あれから、エレナやイザベラ、そして、ロキはどうしているのだろう。
エレナが、目を覚ましたのはハンベエとの決闘から丸一日後、丁度ハンベエ達が戦勝の喜びに沸いている頃であった。
ぼんやりとした視界の向こうの風景を、定まらぬ視点でエレナは見回した。まだ、意識が朦朧としてはっきりしないようだ。
直ぐ側にイザベラが座って、エレナの顔をじっと見つめていた。
(イザベラさん? 私は?・・・・・・そうだ、私はハンベエさんと斬り合いをしていたはず。)
徐々にエレナの脳裏に気を失うまでの記憶が蘇ってきた。
「・・・・・・っ。」
エレナは慌てて起き上がろうとした。が、手足に力が入らない。
「まだ起き上がるのは無理だよ。」
イザベラが言った。穏やかな、どちらかと言えば、優しげな物言いである。普段の妖しげな雰囲気が影を潜め、菩薩風に見えるのは気のせいだろうか?
「・・・・・・、ハンベエさん達は将軍と戦いに出て行ってしまったのですね。結局、私は何も出来なかった。・・・・・・私の邪魔をしたのはハンベエさんのためですか?」
エレナはイザベラに語り掛けた。何処か他人事のような口調である。まだ、薬の作用による朦朧とした状態から抜け出せないようだ。
「ハンベエ? ・・・・・・確かに、あいつに姫様を殺させたくは無かったさ。あいつ本当に斬り殺すところだった。少々見損なったね。・・・・・・だけど、邪魔をしたのはハンベエのためばかりじゃないよ。」
イザベラはちょっと顔を背けて蓮っ葉に言った。
エレナはそんなイザベラの様子を焦点の定まらぬ目で追っていたが、呟くように言った。
「最初は、イザベラさんが私を殺しに来てハンベエさんが邪魔をして、今度は私から挑んだ事ですれど、ハンベエさんが私を殺しそうになってイザベラさんが邪魔をした。何だか笑い話のようですわ。」
勿論、エレナは一片の笑みも浮かべていない。むしろ悲しげな顔をしていた。
「・・・・・・ここは笑うところなんだろうかね?」
イザベラは困ったような顔をした。
「さあ、どうなんでしょう。・・・・・・イザベラさんといい、ハンベエさんといい、私を殺そうとした人なのに、ましてハンベエさんなどは私の大事な人を殺しに出かけたのに、私ちっとも憎めない。むしろ、お二人が羨ましく思えるのは何故なんでしょう。」
こうエレナはイザベラに言うともなく、独り言のように呟いた。ふと見れば涙が流れている。
「私、涙など流して・・・・・・恥ずかしいですわ。」
エレナは、だが涙を拭おうとはしない。手足が動かないのだから、無理な注文である。
イザベラは手布を取り出して、何も言わず、そうっとエレナの涙を拭いてやった。
「ありがとう、イザベラさん。・・・・・・そう言えば、ロキさんは? まさかハンベエさんと一緒に戦に出かけたのですか?」
「いや、あの坊やは戦には興味が無いらしく、流石にハンベエには付いては行かなかったよ。しかし、ハンベエが出かけた後、姫様とハンベエの決闘を知ってびっくり仰天さ。殊に、ハンベエが姫様を危うく斬り殺すところだった事を話したら、酷く難しい顔付きになってしまってね。つい今し方までは、姫様を気遣って此処に居たんだけどね。考え事をして来るって、外へ出て行ったよ。」
「大丈夫でしょうか?」
「心配いらないよ。あの坊やはあれで、馬鹿な真似をするようなタマじゃない。・・・・・・今一番心配なのは、姫様、あんただよ。」
「私?・・・・・・確かに、バンケルク将軍が死ねば、私には将軍を追って死ぬか、ハンベエさんに敵討ちの闘いを挑んで死ぬか、道は二つしかありませんものね。」
「何でそうなるんだよ。いやその前に、あんたハンベエが勝つものと決めて掛かっているようだけど、案外アイツがやられちまうって事も有り得るんだよ。」
「本当にそう思ってます?」
「・・・・・・。」
「私には、ハンベエさんが敗けるとは思えません。あの人は乱暴者のように見えても、感情だけで戦をするような人では、きっとありません。自ら兵を発した上は、勝てる見込みが有るはずです。」
「・・・・・・、まあ、アタシもそれはそう思うがね。だからと言って、姫様が死ぬのはアタシは嫌だね。何も死ななくてもいいじゃないか。死に急ぐ事は無いじゃないか。」
「嫌? 元々、私を殺そうとしていたイザベラさんが?」
「・・・・・・。」
エレナに言われ、イザベラはぐっと言葉に詰まってしまった。確かに言われるとおりである。一体、アタシは何をしたいのやら、とイザベラは自嘲してしまう。
「ごめんなさい。その事はもう言いますまい。今は本当に私の身を案じてくれているのですよね。有難い事だと思いますわ。」
「まあ、アタシが姫様の身を案じるなんてなあ、おかしな話だけど、アタシだけじゃないよ。あんたが死んじまったら、ロキなんて涙と途方に暮れちまうよ。」
「ロキさん。・・・・・・今回の件では、ロキさんにも無理なお願いをし、危険な目にも遭わせてしまいましたわ。」
「アタシは思うんだけど、あんたは死にたがってる処がある。でも、あんたは生きてていいんだよ。いいや、どんな人間だって生きてていいんだ。世界中の全ての人間に命を狙われてる奴だって、生きていたいと考えていいんだ。勿論、死んだっていいんだけどね。自分の命をどうしようと、それは本人の勝手さ。ましてやロキのように、ただあんたが好きで肩入れしている奴もいる。誰かの為に死ななければいけないなどと考えずに、自分がこの世にまだいたいのかどうか、じっくりと時間を掛けて考えて欲しいもんだね。」
イザベラは解ったような解らぬ長台詞を言った。妙に雄弁である。
「分かりましたわ。ゆっくりと考える事にしますわ。」
エレナはぽつりと答えた。
イザベラは少しほっとしたような顔をし、思い出したように言った。
「ところで、例の二人、まだあんたの周りをうろついてるよ。」
「例の二人?」
「宰相の命令であんたを護衛しているとか言ってた二人だよ。兵士姿に身を変えて、この小屋を窺っているのを見つけたから、『ハンベエとバンケルクの大喧嘩が始まろうってのに、宰相に報せもしないでもいいのかい』って言ってやったら、『我等は我等の仕事を果たすのみ。』だとよ。」
「お仕事ご苦労様な事です。うっちゃって置きましょう。」
エレナの表情が少し和らいだように見えたのは、錯覚であろうか?
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
ああ、本気さ!19歳も年が離れている会社の女子社員と浮気する旦那はいつまでもロマンチストで嫌になる…
白崎アイド
大衆娯楽
19歳も年の差のある会社の女子社員と浮気をしている旦那。
娘ほど離れているその浮気相手への本気度を聞いてみると、かなり本気だと言う。
なら、私は消えてさしあげましょう…
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
怪異・おもらししないと出られない部屋
紫藤百零
大衆娯楽
「怪異・おもらししないと出られない部屋」に閉じ込められた3人の少女。
ギャルのマリン、部活少女湊、知的眼鏡の凪沙。
こんな条件飲めるわけがない! だけど、これ以外に脱出方法は見つからなくて……。
強固なルールに支配された領域で、我慢比べが始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる