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七十三 解らぬ男
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『決闘を申し込みます。』と言ったエレナの顔をハンベエはまじまじと見た。
静まった湖水の面のように澄み切った目をしていた。表情は穏やかであるが、いつもの柔らかな笑みはない。その顔から読み取れるのは悲壮な決意である。一晩眠って何を思った事であろうか。
こんな場面に直面したら、ロキが真っ青になってすっ飛んで来て、
「ダメだよお。ハンベエ、まさか王女様を斬ろうなんて考えやしないよねえっ」
とばかりに二人の間に割り込んで大騒ぎしそうなものであるが、生憎とこの場には居なかった。
はて、山に芝刈りに行ったものか、それとも川に洗濯に行ったのか。この王女とハンベエの一大事にロキは何処に行ってしまったのだろう。
実は、兵隊達に頼まれて手紙を書いていたのだ。
ハンベエはハナハナ山に到着し、ようやく落ち着いた昨日、ゲッソリナに使者を送ろうとしていた。無論、任地に到着した報告である。
そう、ハンベエ、ついさっきまではハナハナ山に陣を構え、一応宰相命令に従い、この地に駐屯して情勢の変化を窺うつもりになっていたのだ。エレナの言葉にハンベエも、真一文字にバンケルクを討ち果たすべきか迷ったのであった。それ故、ゲッソリナに報告の使者を送るなどという、タゴロローム守備軍の動静を知る者にとっては悠長とも思える行動を取ろうとしていたのである。
ロキは以前、タゴロロームの兵隊達から口銭をとって手紙の代筆をしていた。それで、ゲッソリナへの使者に手紙を言付けたいと考えた兵士が、今回ロキがやって来た事を知り、これ幸いと代筆を頼みにやって来たのである。
その朝、ハンベエはかなり早くにエレナの下にやって来たのであるが、ロキが呼び出されたのはなお早い時間だった。
ロキはエレナの事が心配であり、かつもう元手もある程度貯まって大きな商売に切り替えていたのだが、糊口を凌がせてもらったかつての顧客を無下にもできず、進まぬ気を強いて出かけたのであった。
決闘を申し入れたエレナにとっては、もっけの幸いとは言わぬ迄も都合の良い事だったかも知れない。
「ひっ、姫っ。とんでもありません。お止めください。」
にも拘らず、大慌てで割って入った奴がいた。誰かと思えば、スパルスであった。ロキが居なくても、邪魔する奴はいるようだ。存在感が薄くて、危うく此処にいるのを忘れてしまうところであったが・・・・・・おまけだから仕方ない。
実はスパルス、ハンベエがそれほどの強者だとはつい最近まで思ってもいなかった。ところが、タゴロロームからの帰り道、スパルスが出会った死神エルエスーデをハンベエが倒したらしい、という事をロキの吹聴で知ってしまった。
あの死神を倒したというのだから、ハンベエは悪魔に違いない。フナジマ広場百人斬り、タゴゴロームでの二百人斬殺。聞けば聞くほど、剣呑極まりない男だ。
そんな物騒な男にあろう事か、我が姫君が決闘の申し入れ、護衛の役を仰せつかる身としてはびっくり仰天、気は動転、周章狼狽の極みである。何が熱いのか、湯気まで立ちそうな汗のかきっぷり、気の毒でもあり、滑稽でもあった。
「ハンベエ、まさかその方、恐れ多くも姫君に刃を向けたりいたすまいな。」
スパルスは、エレナを遮るように前に出てハンベエに言った。セリフの勇ましさに引き比べて及び腰になっているのは仕方のないところか。
ハンベエは不機嫌そうに口元を歪めて、スパルスに何か言おうと口を開きかけた。
ハンベエの態度に不穏なものを感じて、思わず身構えたスパルスであったが、何故か首筋に衝撃を感じて意識を失い、そのまま崩れ落ちた。
背後からエレナがスパルスの首を手ガタナで切って落としたのであった。何しに出てきたのやら、踏んだり蹴ったりのスパルスであったが・・・・・・やっぱりおまけだから仕方がない。成仏しろよ。おっと、手ガタナだから死んではいなかった。
「ハンベエさん、参ります。」
エレナは腰の剣の鞘を左手に握り、剣の柄頭をハンベエに向けて突き出すようにして、一歩踏み出した。
ここは、ハナハナ山の中腹である。雑木林の中を切り分けて、幾分かの平地を作っているがさほどに広くはない。
ハンベエは何も言わず後ろに下がり、エレナと六歩の間合いを取ると、『ヨシミツ』を静かに抜いて斜め下段に構えた。今や、第五連隊の隊長でもなく、王女エレナの知人でもない、ただの剣術使いハンベエであった。
刀を抜いて構えを取ったハンベエを満足そうに見ると、エレナも又剣を抜いて正眼に構えた。
以前、ハンベエはゲッソリナの王宮の門衛に『俺は抜いたら殺すタイプだ。峰打ちなどはしないから、早まった真似はしない方がいいぜ。』と啖呵を切ったが、今回のエレナに対しては何も言うべき言葉を持たなかった。エレナは既に死を決しているものとハンベエは感じていた。
言葉は不要である。
死を覚悟して挑んで来る者を止める術などあろうか。ヒョウホウ者であるハンベエには立ち合う以外の選択肢は無かった。一人の剣術使いとして、エレナの挑戦を承ける事が人としての礼儀である。少なくともハンベエの流儀ではそうなってしまうのであった。
とは言え、ではこのままバッサリとエレナを斬り捨ててしまおう、とハンベエが覚悟を決めてしまったかと言えば、迷いがあった。
いつもなら、剣を抜いて対峙した次の瞬間には斬り込んでいるはずのハンベエである。だが、抜いたら殺すぜ問答無用、後先知らぬ顔のハンベエも、流石に惑っていた。第一、エレナの剣には殺気が感じられない。ハンベエは、初めて人を斬る事に躊躇を覚えた。
旅立ちのはなむけに師フデンは言った。『正義のために戦おうと悪の限りを尽くそうと自由じゃ、そちの思うままに生きるが良い』。思いのままに生きる事がこれほど、迷い多き事であったとは。
一方、エレナは己の剣の切っ先の向こうに見えるハンベエの姿を心を静めて見つめていた。背の高い若者であったが、いつもにも増してその姿が大きく見える。元よりハンベエに勝てるとは考えていないエレナであった。死を覚悟していたし、恐れてはいなかった。それでも尚、ハンベエの姿は大きく、ともすれば押し潰されそうな圧力を感じていた。
時折目が霞み、ハンベエの姿が陽炎の如くゆらゆらと揺れているかのように見える。エレナはじっと耐えていたが、向かい合っているだけで気が遠くなってしまいそうであった。
やがて、眼前のハンベエは小さく息を吐いた。その瞬間だけ、エレナの目にハンベエの姿が小さくなったように映った。誘われるように、エレナは踏み出して行った。ハンベエも又応ずるように踏み込んでくる。
キンッ、二人が共に必殺の間合いに踏み込んだ瞬間、乾いた金属音が発っせられた。
だがそれは、ハンベエの剣とエレナの剣が交わった音では無かった。ハンベエの愛刀『ヨシミツ』が飛んで来た黒い鉄芯を払い落とした音だった。
「!」
エレナは一歩飛び下がると、背後に目をやった。
そこには、いつの間に忍び寄ったのか、イザベラが立っていた。
イザベラは振り返ったエレナ目がけて拳ほどの黒い塊を投げつけた。エレナは反射的にその塊を斬って捨てた。
「しまった。」
とエレナが思ったのは、その塊を斬ったと同時であった。塊に見えたのは黒い袋であった。斬り裂かれた袋から、細かな粉が霧状に飛び散って、エレナに襲い掛かった。
咄嗟にエレナは身を翻して躱そうとしたが、手遅れであった。空中に飛散したその粉を少なからずエレナは吸い込んでしまった。
林の木々が、ハンベエの顔が、イザベラが、エレナの脳中でぐるぐると回り、エレナはよろめくように倒れた。
飛散した粉を避けて、エレナから離れていたハンベエにイザベラが歩み寄って行った。何やら、怒っているようである。
「ハンベエ、王女を斬ろうとしただろう。」
刺を含んだ口調でイザベラが言った。
「決闘しているんだ。当たり前の事だろう。しかし、王女はどうなったんだ?」
ハンベエは努めて冷ややかに言い返した。
「気を失っただけの事だよ。それより、王女を殺していいとでも思ったのかい?」
「・・・・・・礼は言わないぞ。」
「別にハンベエのためにやった事じゃないよ。この姫は、バンケルクのためなどに死なせるにはもったいなさ過ぎると思っただけの事さ。しかし、何で王女はこんなに酷い運命に巡り合うのかねえ、次々と。」
「次々と?」
「おっと、今のところ、ハンベエの知った事じゃないよ。それより、ハンベエはハンベエのやる事があるだろう。」
「王女はどうする?」
「安心おし。死なしゃしないから。例え、王女に恨まれる事になっても、このアタシが死なせやしないから。」
「では任せる。」
ハンベエは無愛想に言ってイザベラに背を向け、ハナハナ山を下って行った。
ハンベエはエレナを訪ねる前に、兵士達をハナハナ山の麓に集結させるよう、ドルバス達に命じていた。
ハンベエが麓に降りた頃には、召集を掛けられた兵士達が続々と集まって来ている最中であった。本来の第五連隊兵士である百名余は既に隊伍を整えていたが、後から加わって来た兵士達は混乱しながら、やって来た。班編成も部隊編成も何にもしていないのだか、当たり前である。
しかも、この時点でまだタゴロロームからハンベエ側に寝返ってくる兵士の到来が続いていたものだから、ハナハナ山の麓に於ける兵士の右往左往は混乱を極めていた。
ハンベエは台八車の上に足場を作らせてその上に乗り、一段高い所から兵士達を見下ろしながら、そのど真ん中に進ませた。
「兵士達よおっ」
中央に推し進められた台八車が停止すると、ハンベエは大音声に怒鳴った。
「バンケルク達タゴロローム司令部は、俺達を討伐するために軍を発した。此処に攻め寄せて来るのも明日明後日の間近だ。」
猛獣の咆哮にも似たハンベエの怒鳴り声であった。兵士達は静まり返って声の主に注目した。
「我等第五連隊兵士に対して、タゴロローム司令部が為した非道の数々、聞き及びもし、目にも触れた事と思う。」
ハンベエは兵士に向けて怒号を続けた。
「争いを好まぬ我等第五連隊は隠忍自重、衝突を避けてハナハナ山に転進した。それをあろう事かバンケルクのクソ野郎、飽く迄我等を皆殺しにせんとタゴロローム全軍を出陣させた。大人しくしてりゃあ、調子に乗りやがって。」
嘘も方便と言うが、隠忍自重も衝突を避けも嘘であり、大人しくしてりゃあに到っては大嘘であった。だが、それに異を唱える兵士は一人もいなかった。開いた口が塞がらないのは作者ばかりである。
バンケルクを『白々しくも』と罵ったが、ハンベエだって嘘を吐く。戦意高揚のために殊更に相手を悪し様に言うのは、古今の定石。エレナと向き合った時とは別人のハンベエであった。
「最早この期に及んでの隠忍は臆病者の醜態、こっちから出向いて叩き潰すのが、男ってもんだろう。」
雄弁である。ハンベエ煽る事煽る事。野蛮な理屈で兵士達に訴えていく。
「憚りながらこの俺は、未だ自ら戦って負けた事は一度もなあい。この俺が先頭に立って戦えば必ず勝あつっ。」
自信過剰とも思えるハンベエの発言に、しかし兵士達は苦笑すらしない。事実が物語っている。つい先頃、モルフィネスの襲撃隊を一人で(いや、ドルバスと二人だが、影の薄いドルバスは気の毒。)殲滅したこの若者の武勇に畏怖しない兵士は一人もいなかった。
「男になりたい奴は、俺に、付いて来いっ。」
ハンベエはキメのセリフを吠え立てて、台八車を降りた。
兵士達はハンベエのド迫力にすっかり飲み込まれてしまった。
演説を終えたハンベエの下にロキが駆け寄って来た。
「ハンベエ、兵隊さん達の所で、手紙を書いてあげてたら、突然の召集、びっくりしたよお。オイラも慌てて兵隊さん達に付いて来たけど、とうとう正面衝突になってしまったんだね。」
どうやら、ロキはハンベエとエレナが決闘となり、危うくハンベエがエレナを斬り殺しそうになった事はまだ知らない様子だ。
「ハンベエ、今更何も言わないけど、死んじゃあ駄目だよお。」
「ふっ、俺が死ぬかよ。」
ハンベエはロキに強気に笑って見せた。
兵士達は総勢二千人ほどいたようである。一時間ほどで準備を整え、タゴロロームからやって来る軍勢を迎え撃つべく出立した。
静まった湖水の面のように澄み切った目をしていた。表情は穏やかであるが、いつもの柔らかな笑みはない。その顔から読み取れるのは悲壮な決意である。一晩眠って何を思った事であろうか。
こんな場面に直面したら、ロキが真っ青になってすっ飛んで来て、
「ダメだよお。ハンベエ、まさか王女様を斬ろうなんて考えやしないよねえっ」
とばかりに二人の間に割り込んで大騒ぎしそうなものであるが、生憎とこの場には居なかった。
はて、山に芝刈りに行ったものか、それとも川に洗濯に行ったのか。この王女とハンベエの一大事にロキは何処に行ってしまったのだろう。
実は、兵隊達に頼まれて手紙を書いていたのだ。
ハンベエはハナハナ山に到着し、ようやく落ち着いた昨日、ゲッソリナに使者を送ろうとしていた。無論、任地に到着した報告である。
そう、ハンベエ、ついさっきまではハナハナ山に陣を構え、一応宰相命令に従い、この地に駐屯して情勢の変化を窺うつもりになっていたのだ。エレナの言葉にハンベエも、真一文字にバンケルクを討ち果たすべきか迷ったのであった。それ故、ゲッソリナに報告の使者を送るなどという、タゴロローム守備軍の動静を知る者にとっては悠長とも思える行動を取ろうとしていたのである。
ロキは以前、タゴロロームの兵隊達から口銭をとって手紙の代筆をしていた。それで、ゲッソリナへの使者に手紙を言付けたいと考えた兵士が、今回ロキがやって来た事を知り、これ幸いと代筆を頼みにやって来たのである。
その朝、ハンベエはかなり早くにエレナの下にやって来たのであるが、ロキが呼び出されたのはなお早い時間だった。
ロキはエレナの事が心配であり、かつもう元手もある程度貯まって大きな商売に切り替えていたのだが、糊口を凌がせてもらったかつての顧客を無下にもできず、進まぬ気を強いて出かけたのであった。
決闘を申し入れたエレナにとっては、もっけの幸いとは言わぬ迄も都合の良い事だったかも知れない。
「ひっ、姫っ。とんでもありません。お止めください。」
にも拘らず、大慌てで割って入った奴がいた。誰かと思えば、スパルスであった。ロキが居なくても、邪魔する奴はいるようだ。存在感が薄くて、危うく此処にいるのを忘れてしまうところであったが・・・・・・おまけだから仕方ない。
実はスパルス、ハンベエがそれほどの強者だとはつい最近まで思ってもいなかった。ところが、タゴロロームからの帰り道、スパルスが出会った死神エルエスーデをハンベエが倒したらしい、という事をロキの吹聴で知ってしまった。
あの死神を倒したというのだから、ハンベエは悪魔に違いない。フナジマ広場百人斬り、タゴゴロームでの二百人斬殺。聞けば聞くほど、剣呑極まりない男だ。
そんな物騒な男にあろう事か、我が姫君が決闘の申し入れ、護衛の役を仰せつかる身としてはびっくり仰天、気は動転、周章狼狽の極みである。何が熱いのか、湯気まで立ちそうな汗のかきっぷり、気の毒でもあり、滑稽でもあった。
「ハンベエ、まさかその方、恐れ多くも姫君に刃を向けたりいたすまいな。」
スパルスは、エレナを遮るように前に出てハンベエに言った。セリフの勇ましさに引き比べて及び腰になっているのは仕方のないところか。
ハンベエは不機嫌そうに口元を歪めて、スパルスに何か言おうと口を開きかけた。
ハンベエの態度に不穏なものを感じて、思わず身構えたスパルスであったが、何故か首筋に衝撃を感じて意識を失い、そのまま崩れ落ちた。
背後からエレナがスパルスの首を手ガタナで切って落としたのであった。何しに出てきたのやら、踏んだり蹴ったりのスパルスであったが・・・・・・やっぱりおまけだから仕方がない。成仏しろよ。おっと、手ガタナだから死んではいなかった。
「ハンベエさん、参ります。」
エレナは腰の剣の鞘を左手に握り、剣の柄頭をハンベエに向けて突き出すようにして、一歩踏み出した。
ここは、ハナハナ山の中腹である。雑木林の中を切り分けて、幾分かの平地を作っているがさほどに広くはない。
ハンベエは何も言わず後ろに下がり、エレナと六歩の間合いを取ると、『ヨシミツ』を静かに抜いて斜め下段に構えた。今や、第五連隊の隊長でもなく、王女エレナの知人でもない、ただの剣術使いハンベエであった。
刀を抜いて構えを取ったハンベエを満足そうに見ると、エレナも又剣を抜いて正眼に構えた。
以前、ハンベエはゲッソリナの王宮の門衛に『俺は抜いたら殺すタイプだ。峰打ちなどはしないから、早まった真似はしない方がいいぜ。』と啖呵を切ったが、今回のエレナに対しては何も言うべき言葉を持たなかった。エレナは既に死を決しているものとハンベエは感じていた。
言葉は不要である。
死を覚悟して挑んで来る者を止める術などあろうか。ヒョウホウ者であるハンベエには立ち合う以外の選択肢は無かった。一人の剣術使いとして、エレナの挑戦を承ける事が人としての礼儀である。少なくともハンベエの流儀ではそうなってしまうのであった。
とは言え、ではこのままバッサリとエレナを斬り捨ててしまおう、とハンベエが覚悟を決めてしまったかと言えば、迷いがあった。
いつもなら、剣を抜いて対峙した次の瞬間には斬り込んでいるはずのハンベエである。だが、抜いたら殺すぜ問答無用、後先知らぬ顔のハンベエも、流石に惑っていた。第一、エレナの剣には殺気が感じられない。ハンベエは、初めて人を斬る事に躊躇を覚えた。
旅立ちのはなむけに師フデンは言った。『正義のために戦おうと悪の限りを尽くそうと自由じゃ、そちの思うままに生きるが良い』。思いのままに生きる事がこれほど、迷い多き事であったとは。
一方、エレナは己の剣の切っ先の向こうに見えるハンベエの姿を心を静めて見つめていた。背の高い若者であったが、いつもにも増してその姿が大きく見える。元よりハンベエに勝てるとは考えていないエレナであった。死を覚悟していたし、恐れてはいなかった。それでも尚、ハンベエの姿は大きく、ともすれば押し潰されそうな圧力を感じていた。
時折目が霞み、ハンベエの姿が陽炎の如くゆらゆらと揺れているかのように見える。エレナはじっと耐えていたが、向かい合っているだけで気が遠くなってしまいそうであった。
やがて、眼前のハンベエは小さく息を吐いた。その瞬間だけ、エレナの目にハンベエの姿が小さくなったように映った。誘われるように、エレナは踏み出して行った。ハンベエも又応ずるように踏み込んでくる。
キンッ、二人が共に必殺の間合いに踏み込んだ瞬間、乾いた金属音が発っせられた。
だがそれは、ハンベエの剣とエレナの剣が交わった音では無かった。ハンベエの愛刀『ヨシミツ』が飛んで来た黒い鉄芯を払い落とした音だった。
「!」
エレナは一歩飛び下がると、背後に目をやった。
そこには、いつの間に忍び寄ったのか、イザベラが立っていた。
イザベラは振り返ったエレナ目がけて拳ほどの黒い塊を投げつけた。エレナは反射的にその塊を斬って捨てた。
「しまった。」
とエレナが思ったのは、その塊を斬ったと同時であった。塊に見えたのは黒い袋であった。斬り裂かれた袋から、細かな粉が霧状に飛び散って、エレナに襲い掛かった。
咄嗟にエレナは身を翻して躱そうとしたが、手遅れであった。空中に飛散したその粉を少なからずエレナは吸い込んでしまった。
林の木々が、ハンベエの顔が、イザベラが、エレナの脳中でぐるぐると回り、エレナはよろめくように倒れた。
飛散した粉を避けて、エレナから離れていたハンベエにイザベラが歩み寄って行った。何やら、怒っているようである。
「ハンベエ、王女を斬ろうとしただろう。」
刺を含んだ口調でイザベラが言った。
「決闘しているんだ。当たり前の事だろう。しかし、王女はどうなったんだ?」
ハンベエは努めて冷ややかに言い返した。
「気を失っただけの事だよ。それより、王女を殺していいとでも思ったのかい?」
「・・・・・・礼は言わないぞ。」
「別にハンベエのためにやった事じゃないよ。この姫は、バンケルクのためなどに死なせるにはもったいなさ過ぎると思っただけの事さ。しかし、何で王女はこんなに酷い運命に巡り合うのかねえ、次々と。」
「次々と?」
「おっと、今のところ、ハンベエの知った事じゃないよ。それより、ハンベエはハンベエのやる事があるだろう。」
「王女はどうする?」
「安心おし。死なしゃしないから。例え、王女に恨まれる事になっても、このアタシが死なせやしないから。」
「では任せる。」
ハンベエは無愛想に言ってイザベラに背を向け、ハナハナ山を下って行った。
ハンベエはエレナを訪ねる前に、兵士達をハナハナ山の麓に集結させるよう、ドルバス達に命じていた。
ハンベエが麓に降りた頃には、召集を掛けられた兵士達が続々と集まって来ている最中であった。本来の第五連隊兵士である百名余は既に隊伍を整えていたが、後から加わって来た兵士達は混乱しながら、やって来た。班編成も部隊編成も何にもしていないのだか、当たり前である。
しかも、この時点でまだタゴロロームからハンベエ側に寝返ってくる兵士の到来が続いていたものだから、ハナハナ山の麓に於ける兵士の右往左往は混乱を極めていた。
ハンベエは台八車の上に足場を作らせてその上に乗り、一段高い所から兵士達を見下ろしながら、そのど真ん中に進ませた。
「兵士達よおっ」
中央に推し進められた台八車が停止すると、ハンベエは大音声に怒鳴った。
「バンケルク達タゴロローム司令部は、俺達を討伐するために軍を発した。此処に攻め寄せて来るのも明日明後日の間近だ。」
猛獣の咆哮にも似たハンベエの怒鳴り声であった。兵士達は静まり返って声の主に注目した。
「我等第五連隊兵士に対して、タゴロローム司令部が為した非道の数々、聞き及びもし、目にも触れた事と思う。」
ハンベエは兵士に向けて怒号を続けた。
「争いを好まぬ我等第五連隊は隠忍自重、衝突を避けてハナハナ山に転進した。それをあろう事かバンケルクのクソ野郎、飽く迄我等を皆殺しにせんとタゴロローム全軍を出陣させた。大人しくしてりゃあ、調子に乗りやがって。」
嘘も方便と言うが、隠忍自重も衝突を避けも嘘であり、大人しくしてりゃあに到っては大嘘であった。だが、それに異を唱える兵士は一人もいなかった。開いた口が塞がらないのは作者ばかりである。
バンケルクを『白々しくも』と罵ったが、ハンベエだって嘘を吐く。戦意高揚のために殊更に相手を悪し様に言うのは、古今の定石。エレナと向き合った時とは別人のハンベエであった。
「最早この期に及んでの隠忍は臆病者の醜態、こっちから出向いて叩き潰すのが、男ってもんだろう。」
雄弁である。ハンベエ煽る事煽る事。野蛮な理屈で兵士達に訴えていく。
「憚りながらこの俺は、未だ自ら戦って負けた事は一度もなあい。この俺が先頭に立って戦えば必ず勝あつっ。」
自信過剰とも思えるハンベエの発言に、しかし兵士達は苦笑すらしない。事実が物語っている。つい先頃、モルフィネスの襲撃隊を一人で(いや、ドルバスと二人だが、影の薄いドルバスは気の毒。)殲滅したこの若者の武勇に畏怖しない兵士は一人もいなかった。
「男になりたい奴は、俺に、付いて来いっ。」
ハンベエはキメのセリフを吠え立てて、台八車を降りた。
兵士達はハンベエのド迫力にすっかり飲み込まれてしまった。
演説を終えたハンベエの下にロキが駆け寄って来た。
「ハンベエ、兵隊さん達の所で、手紙を書いてあげてたら、突然の召集、びっくりしたよお。オイラも慌てて兵隊さん達に付いて来たけど、とうとう正面衝突になってしまったんだね。」
どうやら、ロキはハンベエとエレナが決闘となり、危うくハンベエがエレナを斬り殺しそうになった事はまだ知らない様子だ。
「ハンベエ、今更何も言わないけど、死んじゃあ駄目だよお。」
「ふっ、俺が死ぬかよ。」
ハンベエはロキに強気に笑って見せた。
兵士達は総勢二千人ほどいたようである。一時間ほどで準備を整え、タゴロロームからやって来る軍勢を迎え撃つべく出立した。
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