兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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七十一 濁流の如く

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 タゴロローム守備軍第二連隊長クラトコは、司令部での打合せから戻ると直ぐ様連隊士官を集めて兵士達の監視の強化を命じた。第二連隊でも櫛の歯を引くように、兵士の逃亡現象が始まっていた。
 クラトコは士官達を通じて、タゴロローム守備軍本部が第五連隊への総攻撃を決定した事、しかしながら、第二連隊は自分の責任においてその総攻撃には加わらない事を周知徹底させるようにした。
 そして、ひたすら兵士達に、軽率な行動を取らないよう説得して回った。
 だが、それでもやはり兵士の逃亡を完全に防ぐ事はできなかった。一夜明ければ、第二連隊から百五十人の兵士が消えていた。
 それだけ神経を使っても兵士の逃亡を防ぎ得なかった第二連隊を思えば、他の連隊は推して知るべしである。最も逃亡兵の多かった第四連隊の一千五十人(ブリアンの指示も虚しく、明け方にかけて更に逃亡兵が増加した)を筆頭に、第三連隊九百人、第一連隊六百人と守備軍全体で二千七百人もの逃亡兵が発生していた。
 早朝の出撃に揃った兵士数は第一、第三、第四連隊合わせて六千七百三十人であった。
 本来であれば、これほど多数の脱走者が発生したら、直接の指揮者である中隊長以下に夥しい処分者が出なければ事は納まらない。しかし、兵士達の逃亡の原因を追及すれば、必ず司令官であるバンケルクの行動が問題視されるのは必至であった。
 殊に王女エレナを軟禁しかけた一件はバンケルクの直接的な所管権限から大きく外れてしまう事柄なので、全く誤魔化しの効かない事であった。
 ともあれ、士官の処分は行えそうも無かった。
 クラトコは、何とか自分の軍が最小の逃亡者で済んだのを確認して多少ほっとした。だが、ハンベエ達と戦うのはやはり鬼門であると考えていた。
 今まで唯々諾々と命を奉じてきたバンケルクに逆らったのも、このままハンベエ達第五連隊と戦えば自分の連隊が崩壊すると考えたからである。
 人間とは目の前で起きている事のみに捕われがちなものである。連隊の崩壊を何とか食い止める見込みが出て来て初めて、クラトコは別の危険に気付いた。
 バンケルクと対立状態になった事である。会議の席でも嚇しをかけられたが、仮にバンケルクがハンベエ達を撃ち滅ぼしてタゴロロームに帰還した場合、バンケルクがクラトコを放っておくわけはない。
 クラトコの不安は、ハンベエ達と戦っても勝てないかも知れないというものからいつの間にか、
(バンケルクが勝ってはマズイ。)
 というものに変わっていた。

 さてどうしたものか。クラトコは自軍の大隊長を集める事にした。バンケルクに対抗するための謀議を巡らせるためである。
 だが、人の心は伝わるのであろうか? 召集をかけたクラトコの前に現われたのは、自軍の大隊長達ではなかった。
 将軍バンケルクが十数人の兵士を引き連れてやって来たのだ。
「将軍、急に一体何の用ですか。」
 思わぬ事態にクラトコが怪訝そうに尋ねると、
「貴様の部下から反乱計画の密告があった。貴様の叛意、最早明白だ。」
「何をいきなり。」
 クラトコが真っ青になって立ち上がりかけたところへ、バンケルクに付いて来た兵士達が一斉に襲い掛かった。
 クラトコは剣に手をかける間もなく、前後左右から鱠のように切り刻まれて絶命した。
 昨日の会議でクラトコに反逆の臭いを感じたバンケルクは、相手が事を考え始めた刹那に、まるでその頭の中が見えたかのように、先手を取って抹殺してしまったのだ。
 勿論、まだ反乱を企てる段階までには進んでいなかったが、モルフィネスに裏切られた(とバンケルクは思っている)バンケルクは部下に対する猜疑心が極端に強まっており、詳しく詮議する事もなく、第二連隊長を誅戮してしまった。
 クラトコが甘かったと断ずるべきであろう。外野から見れば、バンケルク達を尻目に会議から立ち去った瞬間から、軍の統制のために、バンケルクがクラトコを害する危険性は十分に予測し得た事である。しかしながら、クラトコはバンケルクに対して何等の警戒もせず、対策も施していなかったようである。
 全く人間という奴は、人のアラはくっきりと見えるが、自分の事となると油断百出、甘さ増量になりがちな生き物ではある。
 タゴロローム陣地内は騒然となった。この混乱を静めるため、この日の早朝に出撃する予定であった第五連隊討伐の軍命令は二日の延長となった。バンケルクは苛立ちを隠せなかったが、混乱する兵士達を前にしては致し方なかったようである。殊に混乱したのは第二連隊である。いや、混乱と言うより崩壊したと言った方が近いかも知れない。連隊長がいきなり処断されたのであるから致し方もあるまい。
 折角繋ぎ止めた兵士達も大いに動揺し、我も我もと半数近い千五百人が逃げ散ってしまった。バンケルクは最早、逃亡兵を追わせなかった。

 現在、ゲッソゴロロ街道は、行軍中の第五連隊を先頭に、ロキ一行、タゴロロームからの大量の逃亡兵と団子レースの大混乱中であり、詳しい実況中継を伝えたい気持ちもあるが、一先ず、ハンベエ達第五連隊の動向に話を絞る事とする。
 最近、ちょっと影が薄くなりつつあったが、やはりこの男を捨て置くわけには行かない。何と言っても主人公であるし、又物騒極まりない若者であるから、目を放している隙に何をしでかしているか分かったものじゃない。
 タゴロロームでは、クラトコ粛正の二日後、何とか第五連隊討伐の陣容を整えたが、その頃にはハンベエ達第五連隊もハナハナ山に到達していた。
 ハナハナ山に着いたハンベエは大急ぎで二つの事を命じた。一つはかつてハナハナ党が使用していた山塞を修復して、第五連隊が使用できるように手を入れさせる事であり、今一つは近隣の村々から食料を調達する事である。
 タゴロロームから幾分かの食料は運んできたが、連隊規模で精々十日分である。現在の第五連隊は百一人、実に連隊の三十分の一以下の人数であり、彼等だけの食料であれば十分過ぎるほどの量であった。
 が、ハンベエは大いに新規隊員を募集し、最低でも以前の連隊規模に早急に戻すつもりであった。
 また、その一方でゴンザロの活動に期待を寄せる思いも有って、ひょっとしたら、タゴロロームからハンベエ達の側に寝返ってくる兵士もいるかも知れないと考えていた。そうなった場合、何と言っても食料だけは準備しておく必要がある。
 食料の調達──調達であって、徴発ではない。幸いにして、金はある。バンケルクから奪った金。汚い金でも綺麗に使ってやるぜ、とハンベエが言ったかどうかはさておき、四方の村に人を走らせて、食料を買い求めさせた。
 そうこうしているうちに、ハナハナ山の第五連隊の処に、タゴロロームからの逃亡兵が駆け込むように押し寄せて来た。

曰く、

「タゴロローム守備軍に愛想が尽きた。第五連隊に加えてくれ。」

曰く、

「味方するぜ。」

曰く、

「タゴロロームの連中イカレちまって、もう行き場が無い。仲間に入れてくれ。」

 えっ・・・・・・とせとら、エトセトラ。

 逃亡兵の寝返り入隊志願を聞くと、ハンベエが飛んできた。
 ハンベエは四の五の言わなかった。
「良く来た。俺が第五連隊隊長ハンベエだ。入隊を歓迎する。」
 誰に対しても一つ覚えのセリフで、頼もしげに受け入れた。
 自分自身は一つ覚えで通したが、その一方で、パーレル、ボルミスその他に命じて、入隊して来た脱走兵達から、ゴンザロの消息、タゴロローム守備軍の状況を聞いて回らせた。ちなみに、ドルバスとヘルデンは食料調達に出かけていた。
 ゴンザロの消息はすぐに知れた。
 バンケルク達司令部に捕らえられ、殺されたという。この情報については、どの脱走兵も同じ回答であり、最早疑うべくもない事実のようであった。
 ゴンザロ死亡の報せを聞いたハンベエは、ブスッと黙り込んでいた。予想し得た事であり、驚きはしなかった。
 最初出会った時の印象では、小狡くて、当てにできない、悪く世間ズレのした中年男であった。だが、アルハインド族との戦いから生きて戻ってからは、頼もしい謀略屋であった。この男の活躍により、どれだけ第五連隊が有利になったか分からない。ハンベエも後半はゴンザロの働きを認め、半ば頼みにもしていた。
 その死には、直接とは言えないまでも、俺も一片の責任がある、とハンベエは感じざるを得ない。だが、死んだ者に取れる責任などはない。ただ、思いを胸に抱いて生きていくのみである。
 一将功成りて万骨枯れる、という。戦争を指揮する者の栄光は全て、死んだ兵士の上に咲くものなのである。ハンベエはそのやりきれなさを噛みしめながら、無情たらんと心に決した。
 そして又、ゴンザロはゴンザロの算段で事に臨んだのだ、その死を悼む事は許されても、独りよがりに己を責め、イタズラに悲嘆する事はむしろゴンザロに対する冒涜であると考える事とした。
 ゴンザロの死ぬ直前のセリフまではハンベエには届かなかった。脱走兵達もそこまで込み入った事情は知らないのである。だが、元々の第五連隊兵士達はゴンザロの死を憐れみはしなかった。きっと、納得付くの死であったに違いないと信じたのである。
 そして、次々に飛び込んで来る脱走兵達を見ながら、
(ゴンザロがやってのけたのだ。)
 とその功績を胸中で讃えた。

「ハンベエさん、王女様が、エレナ姫が会いたいとやって来ています。ロキも一緒です。」
 パーレルが息急き切って走り込んで来た。
 ハンベエはこの時、ハナハナ山の中腹に設置した天幕の中で休息を取っていた。
 パーレルの報告にハンベエは、無愛想な面をぶら下げて天幕から出た。
 見ると、既に天幕の前にエレナ、ロキ、イザベラ、おまけでスパルスが勢揃いしていた。
 流石にモルフィネス一派は此処には来ていない。きっと何処かで別れたのだろう。
「ロキ、無事だったか。」
 ロキの姿を見つけ、ハンベエは表情を緩めて言った。
「当ったり前だよお。見事大役を果たして、宰相の人柄を見極めてきたよお。」
 ロキは胸を反らせて大威張りに言った。
 ハンベエは次にエレナとイザベラを代わる代わるに見た。まさか、エレナとイザベラが相携えて訪問して来ようとは、ちょっとばかし心臓の鈍くできているこの男も大いに驚いている。
 イザベラについては、ロキの身の上を頼んでいたので、ハナハナ山にやって来た事は驚かないが、エレナとイザベラが揃ってやって来るとは想像の枠をはみ出していた。
「イザベラ、約束通りロキを守ってくれたようだな。改めて、礼を言う。」
 ハンベエにそう言われたイザベラは、何処か曖昧な悪戯っぽい笑みを浮かべて黙っていた。
「さて、王女、命を狙ったイザベラと仲良く訪問とは、恐れ入ったが・・・・・・一体何しに来たのかな。」
 ハンベエは露骨に怪訝そうな表情を浮かべて、エレナに言った。
「あら、ハンベエさん。随分迷惑そうなお顔ですが、来て悪かったかしら。」
「いや、歓迎する。色々と話も有るだろうから、とりあえず、天幕の中へ。狭苦しいが、我慢していただこう。」
 皮肉めいたエレナな言葉に動ずる事も無く、ハンベエは三人を天幕の中に誘った。この男の面と胸の肉は規格外の厚みを持っているようだ。
 四人は天幕の中に入り、スパルスは外に残された。おまけだから仕方ない。
 天幕の中で、ハンベエは、エレナとロキのゲッソリナ脱出、タゴロローム訪問、軟禁、脱出、逃避行の顛末を聞いた。専ら説明したのはロキであった。
「驚く事ばかりだ。モルフィネスがね。奴を殺し損ねて大いに悔やんだが、殺すばかりが能じゃ無かったわけだ。しかし、バンケルクは何故王女を軟禁したのかな。」
 ロキの説明の中では、バンケルクとエレナのやり取りは抜け落ちていた。つまり、モルフィネスがバンケルクを見限る事になったバンケルクのエレナに対する恋情の部分はハンベエに伝わらなかったのである。
「それは、私と将軍の間で少し諍いがあったものですから。」
「諍い?・・・・・・まあ、聞かぬ事にして置こう。だが、王女を軟禁するとはバンケルクも大間抜けな真似をしたものだ。墓穴を掘るとはこの事だな。」
 ハンベエは吐き捨てるように言った。
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