兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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七十 女二人が並べば長話

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 逃げ帰って来た王女追跡隊の報告を受けた第四連隊連隊長ブリアンは、思いもよらぬ報せに驚き、怒り、青褪めた。兵士達が逃亡を始めたという情報は既に耳にしていたが、一遍に千人以上も逃げ出したと聞いては、平静を装うのも厳しい。
 例えは違うが、その青褪めようは、日頃髪の毛の薄くなりはじめた事を気にしている人間が、洗髪の後にごっそりと抜けた髪の毛を見付けてぎょっとする様に似ていた。そういう時に、なあにまた生えてくるさ、と気楽に考える人間は稀である。ブリアンは兵士が一人もいなくなるのではないかと恐怖した。その恐怖は勿論抜け毛の比ではない。
 元より、第四連隊第五大隊の大隊長は、突然自分の大隊兵士数の五分の二が逃亡してしまった事実に責任を感じ、意気消沈してしまっていた。ブリアンは大隊長を譴責もできず、かといって慰めもできず、当然おろおろする姿は見せられず、実に大弱りであった。
 何より今現在は、第五連隊討伐のため、連隊兵士に非常呼集を掛けている最中である。兵士の逃亡は戦意に影響する。
「点呼の状況を。急ぎ、各部隊の兵士数を小隊単位で纏めて知らせよ。」
 ブリアンは連隊長付きの武官に命じた。
 命じられた武官が纏めた情報によれば、
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 第五大隊の二百五十名を除いても何と五百名ほど兵士が減っている事が判明した。四個中隊。先に逃げ出した二個中隊を合わせれば、一個大隊と一個中隊の兵士が消えていた。実に連隊の五分の一強の人数である。
 もし、他の連隊でも同じような事態が進行していたとしたら・・・・・・とブリアンは考えた。
 四連隊で二千人が逃亡、これが全て第五連隊に加われば、第五連隊の人数は一気に二千百人。あの二個中隊が加わればさらに二千三百五十人。バンケルクの率いる兵士一万五百人対ハンベエ率いる兵士二千三百五十人の戦いになる。いや待て、第二連隊はハンベエ討伐に加わらぬと言っていた。すると、七千八百七十五人対二千三百五十人だ。
 未だ数では勝っているが、敵はあのハンベエである。二百人もの敵を一人で向こうに回して(事実はドルバスと二人であったが、見物人の印象は襲撃隊二百人対ハンベエ一人の闘いとして記憶に刷り込まれたらしい。ドルバスには気の毒な話であるが、それほどハンベエの暴れっぷりは、縦横無尽であり、変幻自在であり、破壊力抜群であった。)、荒れ狂ったハンベエの印象は強烈であった。
 その姿を守備軍陣地の兵士達は見ているらしい。おまけに、どう見ても、兵士達は第五連隊の討伐そのものに乗り気でなさそうであった。戦意が乏しく敵将に畏怖を感じる兵士を率いて戦うには、安心出来ない兵力差である。
 ブリアン達将校連は早朝の闘いを目にしてはいない。しかし、二百人の兵士を一人で殲滅したというハンベエの働きは話半分としても、恐ろしいものである。
 既にフナジマ広場百人斬りの武勇伝も守備軍陣地では大いに広まっていた。
 兵士達の間ではハンベエの大暴れが一人の人物を連想させているらしい。
 『伝説の武将フデン』である。フデンは童歌にも歌われるほど、武勇絶倫の人物として知られていた。
 士官以上の連中は将軍として各国各地に戦歴の残るフデンと一介の風来坊に過ぎないハンベエを比べる兵士達の感情を半ば片腹痛く感じているようであるが、フデンの再来とまで兵士達が言い出しているとしたら、由々しい事態である。
 兵士達のハンベエに抱く恐怖心は計り知れないものになりつつあるかも知れない。
 ブリアンは将軍バンケルクへの忠誠を失いはしないが、前途に不安を感じ始めていた。
 だがしかし、不安にばかり浸っているわけにもいかない。ブリアンは連隊長として、兵士に戦の準備をさせる一方、脱走兵を増やさないよう見回りを強化させた。

 夜半に至り、漸くハンベエとドルバスは第五連隊に追い付いた。
 第五連隊兵士達は荷車を守りながら、松明を明々と照らし、街道を占拠して小休止をしていた。街道に巣食う追い剥ぎや野盗のたぐいも、流石に百人を越す第五連隊に手出しをして来る気配はなかった。連隊が運んでいるのが五万枚の金貨であると知ったら話は別かも知れないが。
 ハンベエ達の無事な姿を見つけた第五連隊兵士達から喚声が上がった。指揮を委ねていたヘルデンがすっ飛んで来た。喜色を浮かべている。慣れない指揮にかなり不安だったようだ。
「大将、ご無事で何よりです。」
「おう、襲って来た敵の二百人は全部ぶった斬って来たぜ。残念な事にモルフィネスの野郎は取り逃がしちまったが。」
 ハンベエはへらっと笑って言った。まだ二十歳の若者にしては、不似合いなほどの頼もしげな雰囲気を纏っている。
「みんなあ、大将は襲撃して来た敵を二百人も叩き斬って来たとよ。」
 ヘルデンが兵士達に向けて大声を上げた。
 おおーっ、と兵士達から更なる喚声が上がった。夜中に大声で、迷惑な話である。近所から苦情が・・・・・・いや、この人数で、しかもあまり善人っぽいとは言えない顔ぶれを見れば出なさそうだ。
「二時間休んで、進軍を再開する。灯りを盛んにしろ。油断するな。今は一時も早くハナハナ山に到着する事だ。」
 ハンベエは台八車の上に飛び乗って兵士達に大声で命じた後、道縁の草の上に寝転んだ。疲れがどっと噴き出して来た。

 場面は代わってロキ一行──。
 深夜、イザベラは一人火を囲む輪を離れて、林の中を音も無く歩いていた。焚き火から離れるとほとんど真っ暗闇である。だが、イザベラは夜目が効く。さしたる不便も無く林の中を歩いていた。
 イザベラは誰かに見張られている気配を感じていた。気配は二つ、重なるようにして、物見櫓を出発した時から、着かず離れず付いてきている。
「隠れんぼかい? いい加減飽きないかい。出て来たら、どうだい?」
 イザベラは闇に向かって言った。
 二十メートルほど離れた木の陰から二つの影が現れた。夜目にも覆面をしているのが分かった。
 おやっ、とイザベラは眉を曇らせて後ろを振り返った。正体の明らかでない二つの影に背を向けて後ろを振り返るとは、イザベラらしからぬ危なっかしい振舞いだが、前の二人に殺気を感じなかったのと、背後に人の気配を感じたのである。
 そこには、エレナが立っていた。
 エレナはイザベラの傍らに進み出ると、
「あなた方は何者ですか、ゲッソリナからタゴロロームへ向かう途中もずっと付いてきていたみたいですけど。」
 と遠くの二つの影に向かって言った。
「我々は、宰相閣下から、隠密に王女様の警護を命ぜられた者です。怪しい者ではありません。」
 驚いた事にその影共はあっさりと正体を明かした。そして、そのまま再び姿を消した。
「イザベラさん。」
 エレナはイザベラに向けて声をかけた。既に姿を消した二人にはほとんど関心が無いようだ。
 イザベラはエレナを油断無く見つめて次の言葉を待った。
「少しお話がしたいのですけども。」
 エレナは穏やかな声で言った。
「ふーん、いいよ。」
 とイザベラは答えて、近くの木の根っこに腰を下ろした。
 エレナも又、その隣に座った。

「うふふ。」
 とエレナは笑った。
「まさか、自分の命を狙った人と、隣に座って話をしようだなんて。私、ちょっと変かしら。でも、今日あなたを見ていたら、悪いばかりの人とも思えなくて。」
「そうかい。で、何か聞きたいんだろう。」
「色々と聞きたい事はありますが、先ずは何故私の命を狙ったのですか?」
「何故って、殺し屋だったからさ。人を殺すのを生業なりわいにしてたからさ。」
「殺し屋、そうでしたね。だった、とは?」
「もう辞めたんだよ。ハンベエに見逃してもらってから。」
「見逃してもらった? イザベラさんはハンベエさんと闘ったのですか?」
「ああ、ちょっとした油断から、身動きできないほどブチのめされてね。でも、あの変な男は何故かあたしを殺さずに逃げるように勧めたのさ。」
「そうだったのですか。何故ハンベエさんはあなたを殺さなかったのでしょうね?」
「さあ、ただの気まぐれだったんじゃないのかねえ。それともあたしに気が有るのかも。いやいや、あの朴念仁ぼくねんじんに限ってそれはなさそうだね。」
「ボクネンジン・・・・・・あはは、言えてますね。何だか変な感じです。イザベラさんは何で殺し屋なんかをしていたのです。」
「そりゃあ、生きてくために決まってるじゃないか。金がないと食うものも食えないからねえ。」
「でも、殺し屋をしなくても他に道はあったのでは?」
「・・・・・・。アタシを育てた奴。今はもう居ないが、そいつがアタシに殺しの仕事を教え込んでくれたんだよ。他にどうやって生きて行くのか知らなかったのさ。アタシの事はこのくらいにしておくれ。」
「分かりました。今はハンベエさんに加担しているようですが、どういうわけなんです。命を助けてもらった恩返し?」
「加担ねえ。確かに加担してるねえ。理由は、そうだねえ。面白いからかねえ。ホントに見てて飽きない男だよ、あれは。そろそろ、本題に入ったらどうだい? 本当に聞きたい事はそんな事じゃないんだろ。」
 イザベラはそう言うと、改めてエレナの顔をじっと見つめた。
「では、お聞きします。私の命を狙うのは止めたと聞きましたが、何故ですか?」
「それかい、それは依頼を受けた人間から聞いたあんたの人柄と、会った時の印象があまりにも違ったからさ。で、あんたの乳母を眠りの術に掛けて聞き出したのさ、あんたの身に起こった事件をね。」
「・・・・・・あの事を。」
「で、何だかあんたを殺す気になれなくなったのさ。まあ、あたしも焼きが回っちまったって事かね。」
「その事件の事は誰かに?」
「いや、今のところ誰にも喋っちゃいないよ。」
「ありがとう。もう一つ、私を殺すように命じたのは誰ですの?」
「依頼主の名を明かすのは殺し屋の仁義に反する。が、あんたに聞かれちゃ、教えないわけにもいかないね。もう殺し屋も廃業したわけだし。あたしが殺しの仲介をして来た奴の口を割らせて知った名は・・・・・・。」
 とイザベラはエレナの耳元に口を寄せ、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「・・・・・・まさかとは思いましたが。・・・・・・」
 イザベラの囁きを聞いたエレナの表情が悄然と萎んだ。空けているのも辛そうな、今にも血涙を噴き出しそうなその目に見つめられて、イザベラはちょっと気の毒そうに表情を曇らせ、だがしっかりと肯いた。
「あたしの調べたところでは間違いない。」
 止めを刺すようなイザベラの言葉にエレナは放心したようにうなだれた。
 しばらく二人は無言でその場に座っていたが、やがてイザベラが立ち上がり、
「何時までも、ここに居るわけにもいかないよ。姫様の姿があんまり見えないと他の連中が騒ぎ出す。」
 と焚き火のところへ戻るべく、エレナを促した。
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