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五十八 剣術使いVS剣術使い
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「エル、いつの間に?・・・・・・しかし、まだ兵士は半分の百名以上残っている。出番が来るとは限らんぞ。」
モルフィネスは、エルエスーデの不意な出現に驚きもせず言った。しかし、顔色は青白く冴えない。
「そうだな。千に一つくらいは、俺が出る前にハンベエがくたばる可能性もあるな。例えば、足を滑らすとか、目にゴミが入るとかな。」
エルエスーデは嘲笑いながら言った。
「何だと、千に一つだと。馬鹿な、ハンベエとて人間、この雨の中でいつまでもあの動きが続くわけはない。奴は既に二十分以上動きづめだ。後、五十人も倒せたら、いい方だろう。」
「疲れる? とてもそうは思えんな。それにもう一人いるようだしな。それより、金貨千枚だ。忘れるな。」
エルエスーデはそう言って、モルフィネスに背を向けた。
「待て、エル。何処へ行く?」
「ハンベエが、あの身の程知らずのアホ共を全部片付けるには、まだしばらくかかるだろうから、そこらで雨を凌いでる。」
「まるで、ハンベエが勝つと確信したような言い方だな。」
とモルフィネスは咎めるような顔をし、更に毒づいた。
「ならば、エルお前も一対二百で勝てるという事か?」
「いや、俺には無理だな。やろうとも思わん。第一、面倒くさくて、根気が続かんよ。」
「やけにハンベエの肩を持つが、最悪エルがハンベエを斬り捨ててくれると、私は当てにしていていいのか?」
「一対一の闘いはまた別のものだ。金貨千枚だぞ。」
エルエスーデは金についての念を押すと、今度こそモルフィネスから離れて行った。
「七十三っ」
ハンベエの動きが若干緩慢になっていた。取り囲んで八方から斬り付けて来る敵の攻撃を紙一重で躱しては、一太刀で斬り捨てるのだが、敵の中を駆け抜けるのは既に止めている。最小限の見切りで、移動範囲を狭め、五連撃、六連撃の早業で襲撃側の兵士を纏めて斬り倒していた。
ハンベエの動きが緩慢になったというより、むしろ襲撃側の攻撃が単調になってしまったと言うべきであろうか。最早、襲撃側の兵士達は思考能力が停止したかのように、ただただハンベエに飛び掛かってはデクのように斬られるばかりである。
ハンベエにばかり気を取られている襲撃側の兵士達の後ろから、連隊長宿舎の裏側へ追い掛けて来た兵士達を全て片付けたと見えて、ドルバスがゆったりと戻って来た。
漸く雨脚を弱めた細かな水煙の中、幾重にも取り囲まれながら、独楽の如く立ち回って敵を斬り続けるハンベエの姿が襲撃側の兵士達の向こうに垣間見える。
「九十五っ」
相変わらず、斬り付けるようなハンベエの声である。疲れなど微塵も感じさせない。
「やれやれ、こちらはまだ三十ちょっというのに、少し、気張らんとな。」
とドルバスは言うと、そのまま、目の前で背中を向けているオメデタイ敵兵士達を斬り倒した。
風車のように動くドルバスの薙刀が一振り、二振り、三振りと繰り出されると、敵兵士八人が十六に分かれて地面に転がった。
ドルバスの出現で、ハンベエを取り巻いていた包囲陣がどっと崩れた。
さっきまで、ハンベエに襲い掛かる事だけに頭を支配されていたバンケルク側の兵士達は、急に正気に返ったように恐怖の色を顕にして後退し始めた。
「百八っ」
包囲が崩れ始めたのを感じたハンベエは、今度はひたすら前に前に斬って出始めた。その後ろから、更にドルバスが薙刀を斜め十文字に打ち振るいながら、圧倒的な重量感を持って進んで来る。
崩れ立った襲撃側の兵士達は最早挽回の気力を失った。既に四分の一にまで人数が減っている。
(何という事だ。たった二人だぞ。)
モルフィネスは呆然としていた。
かつて、ハンベエの力を兵士百人分に匹敵するかも知れないと値踏みした事もあるモルフィネスである。当然、味方に多大な被害の出る事も予測していた。
だが、モルフィネスの脳裏に描かれていたのは目の前に展開されたような光景ではない。
モルフィネスが考えていたのは、闘いの過程でハンベエも順々に手傷を負い、勝ったとしても自らも傷だらけで、漸く立っているような姿であった。
それが、多少の疲労は漂わせているものの、かすり傷一つ負っている様子すらない。
残りの兵士達が後退りしながら、ハンベエやドルバスに斬り立てられて行くのを、下知を下す気力さえ無くしてモルフィネスは見つめていた。
「百三十七っ」
敵の残りは十二、三人になり、我勝ちに後ろを見せた。ハンベエの首を狙った兵士達はもう逃げるばかりである。
ハンベエは突然そこで敵を追うのを止め、向きを変えた。ハンベエの視線の先には三十数歩を隔ててモルフィネスが立っていた。
向きを変えたハンベエを見て、ドルバスが一瞬動きを止めたが、ハンベエの視線の先のモルフィネスに気付くと、黙って、逃げて行く兵士達を追って行った。
ハンベエは、無言でモルフィネスを見つめた。モルフィネスも黙ったまま、直ぐに動こうとしないハンベエを見据えていた。雨はすっかり上がり、離れているものの、ハンベエの表情がまざまざと見える。
口元を引き締め、眦を決した厳しい表情になっているが、その目には怒りや激情は読み取れない。ただ闘いに憑かれた者の敢闘の気迫が見えるだけである。
前回、貯水池で対峙した時に比べると若干冷やかさに欠けるが、憎々しいほどに落ち着いている。
(当然、私を殺すつもりだろうな。)
モルフィネスは、若干の恐怖を感じながら、ハンベエの姿をじっと見ていた。
そのモルフィネスの考えを裏付けるように、ハンベエがモルフィネスに向けて一歩踏み出した。
来る、とモルフィネスが全身に緊張を走らせた瞬間、モルフィネスとハンベエの丁度中間の場所に横から姿を現した男がいた。エルエスーデである。
「俺の名はエルエスーデ、恨みはないが死んでもらう。」
現れたエルエスーデは、淡々と言うと、ハンベエに向けてさっと歩みを進めた。
新たな敵の突然の出現であったが、ハンベエは別段驚きはしなかった。何となくであるが、気配を感じていたのである。
エルエスーデは左手で剣の鞘を右手で柄を握り、抜き打ちの構えのまま、特に気負った様子もなく、足速にハンベエに歩み寄った。
相当強い、ハンベエはエルエスーデを一目見るなりそう感じ、警戒しながら更に一歩踏み出そうとした。
その瞬間である。
エルエスーデがいきなり、抜き打ちを放った。
両者の距離は六歩あった。通常であれば、刃の届く距離ではない。だが、読者諸君は既にご存知のとおり、エルエスーデには『風刃剣』という技がある。その『風刃剣』をハンベエ目がけて放ったのであった。
ハンベエは『風刃剣』についての事前知識は全くない。どう考えても剣の届く距離にない位置で、いきなり抜き打ちを放ったエルエスーデに、一瞬面食らってしまった。
並みの剣術使いであったならば、そのままエルエスーデの『風刃剣』の餌食となり、一撃の下に倒されていたに違いない。
だが、既に幾多の修羅場を潜って来たハンベエは、そんじょそこらの剣術使いとは流石に違っていた。頭では無く体が動いた。異様な空気の流れを五感が感じ取り、反射的に身を捩って右に飛んでいた。
本能的に敵の技を躱したはずのハンベエであったが、左の肩口に僅かに痛みが走る。
ハンベエはアルハインド族との戦いに突入する少し前に、皮鎧や鎖帷子等の防具一式をロキを通じて整え、今日もそれを装備していたが、痛みを感じた場所に目をやると、皮鎧どころかその下の鎖帷子まで裂け、肩の肉が斬られていた。戦闘に影響を及ぼすほどの深手ではなかったが、じわりと血が滲んでいた。
一方、必殺の一撃を放ったつもりのエルエスーデはハンベエの動きに、おやっ、という顔をしたが、躊躇する事なく、そのままの位置から第二撃を放った。
一撃目でエルエスーデの放つ技が何であるかを痛みと共に思い知ったハンベエは、今度は左側に体を飛ばして躱した。
だが、今度は右腕の上腕部分に傷を負ってしまった。浅手であったが、躱しきれなかった。辛うじて、致命傷になるのを避け得ただけである。
二撃目でも致命傷を与えられなかったエルエスーデは僅かに舌打ちしたように見えたが、更に一歩踏み込み、休むことなく三撃目の『風刃剣』を放った。
ハンベエは体を丸めるようにして、大きく後ろに跳んだ。何処を飛んでいるか分からない刃を躱すのに必死の形相になっている。
今度は右足の太ももが裂けていた。これも直撃ではなかったようで、薄く太ももの皮膚が斬られて、血がゆっくりと滲み出る程度である。もっとも、ハンベエは太ももを覆う鎖帷子も装備しているのだが、それはざっくりと断ち割られていた。
次の一撃を食らわないため、ハンベエはエルエスーデから目を離さないようにしながら、後ろ向きに下がった。
ハンベエが下がるのを見たエルエスーデは、逃すまいとするように、摺り足でハンベエとの間合いを詰めるべく追う。
「風刃剣を躱す奴がいるとは驚いたが、防戦一方だな。どうした、手も足もでないか。」
鈍く光る両刃の剣を正眼からやや剣尖を左上に立てた構えで、ハンベエに迫りながらエルエスーデが挑発するように言った。
「ふははははっ。」
突然、ハンベエが狂ったように甲高い笑い声を上げた。哄笑とも言うべき嘲り笑いであった。
「何が可笑しい。気でも触れたか?」
いきなりのハンベエの高笑いにエルエスーデは、ムッとした面持ちになって、問いを発した。
「風刃剣と言うのか、随分もったいぶった名前だ。最初は泡食ったが、切っ先三尺向こうは太刀風で斬ると言う。別段珍しい技じゃない。手品のタネがそれ一つなら貴様に勝ち目はないぜ。」
ハンベエは小馬鹿にしたように言って、エルエスーデに背を向けて歩きだした。
「何だとっ、待てっ、何処へ行く。」
噛み付くようなエルエスーデの声を何処吹く風とハンベエは悠々と歩いた。無防備に見えるハンベエの背中。今斬り付ければ確実に倒せるという思いが、エルエスーデの頭をよぎったが、何かしら罠があるのではないかという疑念が生じて手を出しかねてしまったようだ。
背中を見せてゆったりと歩いていると思ったのは錯覚で、
「遊びは終わりだ。風刃剣とやらで、このハンベエを仕留められるものならやってみろっ。」
と背中越しに言って、ハンベエが振り返った時には、エルエスーデと十数歩離れていた。
ハンベエは、剣尖を天に向ける様にして、右上段に高々と構えると、エルエスーデ目がけて一散に走った。
エルエスーデは、はっとして腰を落とし脇構えに剣を後方に引いた。真一文字に近づいて来るハンベエが七歩の距離に迫った時、裂帛の気合いを込めて剣を横殴りに打ち振るい、『風刃剣』を放った。
その時遅し、かの時速し。
エルエスーデの『風刃剣』が放たれた将にその刹那、ハンベエは地を蹴って宙を飛んだ。一陣の黒い風となり、エルエスーデの頭上を飛び越えると、ドスッと地面に踵を突き刺す様にして敵の向こう側に降り立ち、クルリと振り返って『ヨシミツ』を斜め下段に構えた。
今度はエルエスーデがハンベエに背中を向けている。エルエスーデは、ゆらり、っとハンベエの方に向き直った。
両手に握った剣を横に構えたままの姿勢で体を回したエルエスーデは、驚愕のためか、大きく目を見開いていた。
やがて、その額に赤い糸筋が縦に走ったと見るや、流れ出る血が、見る見るうちに上半身を朱に染め、このハンベエを消すために喚ばれて来た男は、がっくりと膝をついた。そしてそのまま、物一つ言う事なく、地に倒れ伏した。
モルフィネスは、エルエスーデの不意な出現に驚きもせず言った。しかし、顔色は青白く冴えない。
「そうだな。千に一つくらいは、俺が出る前にハンベエがくたばる可能性もあるな。例えば、足を滑らすとか、目にゴミが入るとかな。」
エルエスーデは嘲笑いながら言った。
「何だと、千に一つだと。馬鹿な、ハンベエとて人間、この雨の中でいつまでもあの動きが続くわけはない。奴は既に二十分以上動きづめだ。後、五十人も倒せたら、いい方だろう。」
「疲れる? とてもそうは思えんな。それにもう一人いるようだしな。それより、金貨千枚だ。忘れるな。」
エルエスーデはそう言って、モルフィネスに背を向けた。
「待て、エル。何処へ行く?」
「ハンベエが、あの身の程知らずのアホ共を全部片付けるには、まだしばらくかかるだろうから、そこらで雨を凌いでる。」
「まるで、ハンベエが勝つと確信したような言い方だな。」
とモルフィネスは咎めるような顔をし、更に毒づいた。
「ならば、エルお前も一対二百で勝てるという事か?」
「いや、俺には無理だな。やろうとも思わん。第一、面倒くさくて、根気が続かんよ。」
「やけにハンベエの肩を持つが、最悪エルがハンベエを斬り捨ててくれると、私は当てにしていていいのか?」
「一対一の闘いはまた別のものだ。金貨千枚だぞ。」
エルエスーデは金についての念を押すと、今度こそモルフィネスから離れて行った。
「七十三っ」
ハンベエの動きが若干緩慢になっていた。取り囲んで八方から斬り付けて来る敵の攻撃を紙一重で躱しては、一太刀で斬り捨てるのだが、敵の中を駆け抜けるのは既に止めている。最小限の見切りで、移動範囲を狭め、五連撃、六連撃の早業で襲撃側の兵士を纏めて斬り倒していた。
ハンベエの動きが緩慢になったというより、むしろ襲撃側の攻撃が単調になってしまったと言うべきであろうか。最早、襲撃側の兵士達は思考能力が停止したかのように、ただただハンベエに飛び掛かってはデクのように斬られるばかりである。
ハンベエにばかり気を取られている襲撃側の兵士達の後ろから、連隊長宿舎の裏側へ追い掛けて来た兵士達を全て片付けたと見えて、ドルバスがゆったりと戻って来た。
漸く雨脚を弱めた細かな水煙の中、幾重にも取り囲まれながら、独楽の如く立ち回って敵を斬り続けるハンベエの姿が襲撃側の兵士達の向こうに垣間見える。
「九十五っ」
相変わらず、斬り付けるようなハンベエの声である。疲れなど微塵も感じさせない。
「やれやれ、こちらはまだ三十ちょっというのに、少し、気張らんとな。」
とドルバスは言うと、そのまま、目の前で背中を向けているオメデタイ敵兵士達を斬り倒した。
風車のように動くドルバスの薙刀が一振り、二振り、三振りと繰り出されると、敵兵士八人が十六に分かれて地面に転がった。
ドルバスの出現で、ハンベエを取り巻いていた包囲陣がどっと崩れた。
さっきまで、ハンベエに襲い掛かる事だけに頭を支配されていたバンケルク側の兵士達は、急に正気に返ったように恐怖の色を顕にして後退し始めた。
「百八っ」
包囲が崩れ始めたのを感じたハンベエは、今度はひたすら前に前に斬って出始めた。その後ろから、更にドルバスが薙刀を斜め十文字に打ち振るいながら、圧倒的な重量感を持って進んで来る。
崩れ立った襲撃側の兵士達は最早挽回の気力を失った。既に四分の一にまで人数が減っている。
(何という事だ。たった二人だぞ。)
モルフィネスは呆然としていた。
かつて、ハンベエの力を兵士百人分に匹敵するかも知れないと値踏みした事もあるモルフィネスである。当然、味方に多大な被害の出る事も予測していた。
だが、モルフィネスの脳裏に描かれていたのは目の前に展開されたような光景ではない。
モルフィネスが考えていたのは、闘いの過程でハンベエも順々に手傷を負い、勝ったとしても自らも傷だらけで、漸く立っているような姿であった。
それが、多少の疲労は漂わせているものの、かすり傷一つ負っている様子すらない。
残りの兵士達が後退りしながら、ハンベエやドルバスに斬り立てられて行くのを、下知を下す気力さえ無くしてモルフィネスは見つめていた。
「百三十七っ」
敵の残りは十二、三人になり、我勝ちに後ろを見せた。ハンベエの首を狙った兵士達はもう逃げるばかりである。
ハンベエは突然そこで敵を追うのを止め、向きを変えた。ハンベエの視線の先には三十数歩を隔ててモルフィネスが立っていた。
向きを変えたハンベエを見て、ドルバスが一瞬動きを止めたが、ハンベエの視線の先のモルフィネスに気付くと、黙って、逃げて行く兵士達を追って行った。
ハンベエは、無言でモルフィネスを見つめた。モルフィネスも黙ったまま、直ぐに動こうとしないハンベエを見据えていた。雨はすっかり上がり、離れているものの、ハンベエの表情がまざまざと見える。
口元を引き締め、眦を決した厳しい表情になっているが、その目には怒りや激情は読み取れない。ただ闘いに憑かれた者の敢闘の気迫が見えるだけである。
前回、貯水池で対峙した時に比べると若干冷やかさに欠けるが、憎々しいほどに落ち着いている。
(当然、私を殺すつもりだろうな。)
モルフィネスは、若干の恐怖を感じながら、ハンベエの姿をじっと見ていた。
そのモルフィネスの考えを裏付けるように、ハンベエがモルフィネスに向けて一歩踏み出した。
来る、とモルフィネスが全身に緊張を走らせた瞬間、モルフィネスとハンベエの丁度中間の場所に横から姿を現した男がいた。エルエスーデである。
「俺の名はエルエスーデ、恨みはないが死んでもらう。」
現れたエルエスーデは、淡々と言うと、ハンベエに向けてさっと歩みを進めた。
新たな敵の突然の出現であったが、ハンベエは別段驚きはしなかった。何となくであるが、気配を感じていたのである。
エルエスーデは左手で剣の鞘を右手で柄を握り、抜き打ちの構えのまま、特に気負った様子もなく、足速にハンベエに歩み寄った。
相当強い、ハンベエはエルエスーデを一目見るなりそう感じ、警戒しながら更に一歩踏み出そうとした。
その瞬間である。
エルエスーデがいきなり、抜き打ちを放った。
両者の距離は六歩あった。通常であれば、刃の届く距離ではない。だが、読者諸君は既にご存知のとおり、エルエスーデには『風刃剣』という技がある。その『風刃剣』をハンベエ目がけて放ったのであった。
ハンベエは『風刃剣』についての事前知識は全くない。どう考えても剣の届く距離にない位置で、いきなり抜き打ちを放ったエルエスーデに、一瞬面食らってしまった。
並みの剣術使いであったならば、そのままエルエスーデの『風刃剣』の餌食となり、一撃の下に倒されていたに違いない。
だが、既に幾多の修羅場を潜って来たハンベエは、そんじょそこらの剣術使いとは流石に違っていた。頭では無く体が動いた。異様な空気の流れを五感が感じ取り、反射的に身を捩って右に飛んでいた。
本能的に敵の技を躱したはずのハンベエであったが、左の肩口に僅かに痛みが走る。
ハンベエはアルハインド族との戦いに突入する少し前に、皮鎧や鎖帷子等の防具一式をロキを通じて整え、今日もそれを装備していたが、痛みを感じた場所に目をやると、皮鎧どころかその下の鎖帷子まで裂け、肩の肉が斬られていた。戦闘に影響を及ぼすほどの深手ではなかったが、じわりと血が滲んでいた。
一方、必殺の一撃を放ったつもりのエルエスーデはハンベエの動きに、おやっ、という顔をしたが、躊躇する事なく、そのままの位置から第二撃を放った。
一撃目でエルエスーデの放つ技が何であるかを痛みと共に思い知ったハンベエは、今度は左側に体を飛ばして躱した。
だが、今度は右腕の上腕部分に傷を負ってしまった。浅手であったが、躱しきれなかった。辛うじて、致命傷になるのを避け得ただけである。
二撃目でも致命傷を与えられなかったエルエスーデは僅かに舌打ちしたように見えたが、更に一歩踏み込み、休むことなく三撃目の『風刃剣』を放った。
ハンベエは体を丸めるようにして、大きく後ろに跳んだ。何処を飛んでいるか分からない刃を躱すのに必死の形相になっている。
今度は右足の太ももが裂けていた。これも直撃ではなかったようで、薄く太ももの皮膚が斬られて、血がゆっくりと滲み出る程度である。もっとも、ハンベエは太ももを覆う鎖帷子も装備しているのだが、それはざっくりと断ち割られていた。
次の一撃を食らわないため、ハンベエはエルエスーデから目を離さないようにしながら、後ろ向きに下がった。
ハンベエが下がるのを見たエルエスーデは、逃すまいとするように、摺り足でハンベエとの間合いを詰めるべく追う。
「風刃剣を躱す奴がいるとは驚いたが、防戦一方だな。どうした、手も足もでないか。」
鈍く光る両刃の剣を正眼からやや剣尖を左上に立てた構えで、ハンベエに迫りながらエルエスーデが挑発するように言った。
「ふははははっ。」
突然、ハンベエが狂ったように甲高い笑い声を上げた。哄笑とも言うべき嘲り笑いであった。
「何が可笑しい。気でも触れたか?」
いきなりのハンベエの高笑いにエルエスーデは、ムッとした面持ちになって、問いを発した。
「風刃剣と言うのか、随分もったいぶった名前だ。最初は泡食ったが、切っ先三尺向こうは太刀風で斬ると言う。別段珍しい技じゃない。手品のタネがそれ一つなら貴様に勝ち目はないぜ。」
ハンベエは小馬鹿にしたように言って、エルエスーデに背を向けて歩きだした。
「何だとっ、待てっ、何処へ行く。」
噛み付くようなエルエスーデの声を何処吹く風とハンベエは悠々と歩いた。無防備に見えるハンベエの背中。今斬り付ければ確実に倒せるという思いが、エルエスーデの頭をよぎったが、何かしら罠があるのではないかという疑念が生じて手を出しかねてしまったようだ。
背中を見せてゆったりと歩いていると思ったのは錯覚で、
「遊びは終わりだ。風刃剣とやらで、このハンベエを仕留められるものならやってみろっ。」
と背中越しに言って、ハンベエが振り返った時には、エルエスーデと十数歩離れていた。
ハンベエは、剣尖を天に向ける様にして、右上段に高々と構えると、エルエスーデ目がけて一散に走った。
エルエスーデは、はっとして腰を落とし脇構えに剣を後方に引いた。真一文字に近づいて来るハンベエが七歩の距離に迫った時、裂帛の気合いを込めて剣を横殴りに打ち振るい、『風刃剣』を放った。
その時遅し、かの時速し。
エルエスーデの『風刃剣』が放たれた将にその刹那、ハンベエは地を蹴って宙を飛んだ。一陣の黒い風となり、エルエスーデの頭上を飛び越えると、ドスッと地面に踵を突き刺す様にして敵の向こう側に降り立ち、クルリと振り返って『ヨシミツ』を斜め下段に構えた。
今度はエルエスーデがハンベエに背中を向けている。エルエスーデは、ゆらり、っとハンベエの方に向き直った。
両手に握った剣を横に構えたままの姿勢で体を回したエルエスーデは、驚愕のためか、大きく目を見開いていた。
やがて、その額に赤い糸筋が縦に走ったと見るや、流れ出る血が、見る見るうちに上半身を朱に染め、このハンベエを消すために喚ばれて来た男は、がっくりと膝をついた。そしてそのまま、物一つ言う事なく、地に倒れ伏した。
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