兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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三十五 明後日に向けて逃げろ

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 第五連隊長周辺では、引き続き、タゴロローム守備軍本部に連隊撤退の許可要請を行っていた。しかしながら、守備軍本部からは何の連絡も帰って来なかった。
 虚しく帰ってくる伝令の伝えるところは、第五連隊の撤退時期については、『本部において情勢分析の上、命令する。それまでは陣地防衛に専心せよ。』であった。

 ハンベエに何やら命じられたヘルデンは戦いの半ば頃には既に用を済ませたものと見えて、戻って来てハンベエに復命を行った。
「断定まではできませんが、班長の言ったとおり、要塞前に広がる草原には油をしみ込ませた乾し草やら、逆茂木やら、色々と罠が仕掛けられているみたいでした。後、言われた避難路は一ヶ所見つけておきました。」
 ヘルデンは復命を終えると直ぐに防衛作業に加わって立ち働いた。

 既に夜も更けていた。眼下に燃え盛るおびただしい篝火の海を馬防柵に寄り掛かるようにして見ながら、ハンベエは思案していた。
(タゴロローム要塞と往復した伝令達はヘルデンが見て来たような事に気付いているのだろうか。それとも、ただ、急ぎに急いで、連絡事項を伝えるだけで、周りは見ずにいるのだろうか。)
「明日は総出で来るに違いないな。」
 ハンベエの横にふいに現れた男が言った。ドルバスであった。
 第五連隊の大部分の兵士は眠りについていた。起きているのは見張りの兵士と一部の眠れない兵士のみであり、昼間の疲れを癒すべく、ほとんどの兵士が眠っている。明々と篝火を焚いているが、静かな静かな夜である。
「だな。」
 ハンベエは、正面を見つめたまま答えた。
「本来なら、今夜のうちに陣地を引き払って要塞に合流すべきなのじゃろうが、どうなっているんじゃろうな。総掛かりで来られたらひとたまりもないぞ。ハンベエ発案の大八車もあの数には歯が立たぬであろう。」
「あんな物はただの間に合わせに過ぎん。小刀細工でどうなる数じゃない。この状況で撤退命令が出ないという事はバンケルクって奴に考えがあるのだろうよ。」
「考え?どんな考えだ。」
「それは言えん。ただの推測だからな。だが、明日は、俺達から離れないようにしてくれ。」
 ハンベエはそう言うと、馬防柵を離れ、焚き火を囲んで寝ているヘルデン達、班員のところに行き、自分も眠り始めた。

 一夜明けると、またしても敵の猛攻が始まった。
 だが、敵は今回は一千騎のみで攻撃して来るなどという悠長な事はしてくれなかった。全軍とは言わないが、万を超えると思われる騎兵が怒濤のように押し寄せて来た。
 それでも、第五連隊はこの恐るべき圧力を三十分にわたり、馬防柵のところで防ぎ止めた。必死の防戦であった。
 しかし、何か所かの柵が破られると、決壊した堤から流れ込む濁流のように敵がなだれ込んできた。
 敵の攻撃の烈しさは昨日の比では無かった。まるで、津波であった。陣地内はズタズタに撃ち破られ、最早、手の付けられる状態ではなかった。
「全軍、逃げろおっ。」
 連隊長が狂人のような叫び声で撤退を宣言した。しかも、『退け』ではなく、『逃げろ』であった。
 第五連隊兵士は先を争って、タゴロローム要塞に向けて奔った。
 幸いな事にハンベエ及び班員並びにドルバスはまだ無事であった。

「逃げるぞ。」
 ハンベエは一同に言った。皆、無言で肯いた。
 大崩れに崩れながら、第五連隊は逃げた。アルハインド族の騎兵達は容赦なく、それを追撃した。
 弓騎兵の矢を浴びて、次々と倒れる者、重騎兵に踏み躙られる者、一端、敗勢に陥った者は惨めに狩り立てられるのみである。アルハインド勢は狩猟者の喜びをもって、嬉々として第五連隊兵士を追い立てた。
 それでも、第五連隊にとって多少とも救いとなったのは、またしてもハンベエの提案した大八車による戦車であった。
 前にも説明したように、第五連隊が守っていたタゴゴダの丘とタゴロローム要塞の間には、幅七メートルほどの道が一本であり、道の過ぎると小さな草原が広がっている。その道の両側は、険しい岩山になっている。
 第五連隊の隊長は、退却しながらも、この道を大八車隊で封鎖させて時間を稼がせた。

 巨岩の転がるような勢いで、第五連隊を追い立てたアルハインド勢であったが、四方に展開できない一本道に大八車の戦車を立て並べられたのは、流石に邪魔だったようだ。怒濤の進撃も幾分鈍り、多少の足踏み状態が続いた。
 第五連隊はタゴロローム要塞を目指して、ひた走りに逃げた。
 ハンベエとドルバスは自分の班員が散り散りにならぬよう気を配りながら、迫り来るアルハインド勢と闘いながら退却した。
 途中、あのハリスン中隊長が、馬の下敷きになってもがいているところに行き遭った。
 ハリスンは騎馬で退却中に、敵の攻撃のためか、横倒しになった馬と大八車に挟まれて負傷していた。足は折れているようであり、ひどく苦しそうな顔をしている。
 通りかかったドルバスやハンベエを見つけると、助けを求めた。
「頼む、動けんのだ。連れて行ってくれ。」
 拝むようにするハリスンにドルバスは戸惑った。
 このくそ野郎には反吐が出るような扱いを受けている、助ける気はさらさら起きないが、助けを求める連隊士官を置き去りにするのも気が引ける。しかし、この退却状況では、足手まといに関わる余裕はない。
 ドルバスに一瞬困惑の表情が浮かんだ。
 ハンベエが進み出て言った。
「中隊長、武運長久を願っています。」
 ドルバスはハッとしたようにハンベエに続いた。
「中隊長、武運長久を願っております。」
 さらに、ヘルデン、ゴンザロ、ボルミスもそれに続いた。
「中隊長、武運長久を。」
「武運長久を。」
「武運長久を。」
 そして、一行はその場を離れた。

 独りパーレルが、気の毒そうにして、その場を離れづらそうにしていたが、ハンベエが戻って来て、パーレルの腕を掴み、引きずるようにしてその場を立ち去らせた。
 立ち去るハンベエ達の後ろから、ハリスンの悲痛な叫びが聞こえた。
「助けてくれえ、置いて行くなあああ。・・・・・・おのれ、ハンベエ、おのれドルバス、人でなし、呪ってやるぞ。」
 パーレルは思わず耳を覆った。
 だが、ハンベエやドルバスその他は厳しい表情で前を向いて歩いた。
「最後までくそ野郎だったな。」
 ハンベエが吐き捨てるように言った。
 この状況で助けを求める事自体無理なのだ。呪いたいなら呪え、構ってはいられん。ハンベエは胸の中でつぶやきながら急いだ。

 第五連隊兵士達はタゴロローム要塞目指して、要塞前に広がる草原に押し合いへし合いしながら退却して行ったが、ハンベエ達は途中で別の方向に進んだ。
 ヘルデンの誘導で、道の横にある岸壁に細々とある獣道を登坂したのだ。勿論、高い場所に登るのだから、登坂途中、敵の弓兵士からは格好の標的であり、極めて危険な行為である。
 ハンベエはシンガリを受け持って、半弓を構えた。敵の弓騎兵で、ハンベエの班員に狙いを付ける騎兵を近い奴から、できるだけ倒そうというのである。
 ハンベエがヘルデンに調べさせていたのはこの岸壁を登って逃げる道である。
 切り立った岩山でもどこかに登れる場所が有るだろう。探せ、そして、出来る限り、岩の突起で死角になり、かつ、溝のように岩肌に吸い込まれて、敵の弓を避けやすい道を選べ、ハンベエはそう命じた。
 ヘルデンはこのムチャクチャ都合の良い注文にほぼ近い場所を何とか見つけた。ハンベエはさすがに主人公、滅法悪運強くできている。

 混乱しながら、洪水のように流れて行く敵味方の中、岩山を登るハンベエ班に気付く敵兵もさすがにいて、見つけるや、矢を放って来た。
 ハンベエは矢をつがえる敵を見つけるや素早く矢を撃って撃って撃ちまくった。百発百中! って、百も矢は持っていないが・・・・・・。落馬して立ち往生する敵兵に最後の一矢を放つと、仲間を追ってハンベエは四つ足を使ってマシラのように坂を駈けのぼった。
 ハンベエが岩山を登る班員を狙う敵弓兵を全て射殺してしまえるわけなど当然あるはずもなく、敵からは次々と矢が襲ってきたが、岩の影に身を隠して何とかやり過ごした。
 こういう道を見つけたヘルデンの功績大というところである。道から二十メートルも上に逃れると、ほとんど弓矢の脅威は無くなった。引力は偉大である。
 通常の弓の有効射程は平行距離で最大でも百メートル程度(ただし、それは矢じりを重くして放物線を描かせて射撃した場合)、普通は三十メートルほどである。まして、今現在の戦闘でアルハインド弓騎兵の使用している弓は接近戦闘用の短弓で、上にいる敵への攻撃力ははなはだ弱かったのである。
 そうは言っても班の最後尾として岩山を登ったハンベエには敵の矢が殺到した。常人には及びもつかぬ速度で、巧みに死角を選びながら岩山を登ったハンベエではあるが、何本かの矢が命中した。しかしそれも、金に糸目を付けずに用意した高い高い装備のおかげで、何とかかすり傷程度ですんだ。ハンベエに言わせれば、想定内の被害と言ったところであろう。

 岩山の中腹で班員達と合流したハンベエはそこで、全員にしばしの休憩を命じた。休憩ついでに各自の携帯食糧を確認した。全員ハンベエの用意した燻製を未使用で保持していたし、各自水筒一個分(一人約1リットル)の飲料水を持っていた。ハンベエがあらかじめ点検させて準備させておいたのである。
 眼下ではアルハインド勢が第五連隊を踏み躙りながら、タゴロローム要塞に向けて突き進んで行く。
 岩山を登って逃れて行くハンベエ達に気付く味方もいたが、後に続く連隊兵士は皆無であった。
 そんなところを登っても敵の弓の的になるだけ、仮に逃れ得ても敵中に取り残されるだけではないか、連中とち狂ったか? と思ったみたいである。
 あるいは、ただもう逃げるに必死で、何も考える余裕もなく、ひたすらタゴロローム要塞を目指して逃れて行く者が大多数であったようである。
 アルハインド勢からは、ハンベエ達を追って岩山を登って来た兵士が何十人かはいたようである。だが、それらの兵士はただ無惨な目を見ただけであった。
 ハンベエ達を追って登ってくる兵士には今度はドルバスが対応した。
 ハンベエ達は岩山の中腹の踊り場のようになったやや平らな場所に陣取っていたが、ドルバスはそこから、登って来ては顔を出す敵の兵士の首を薙刀で軽く跳ねた。敵は首とその下の体との二つに別れて崖を転げ落ちて行った。
 次の兵も次の兵も性懲りも無く登って来たが、ドルバスの薙刀の一閃で次々と転げ落ちて行った。
 ハンベエ達を追ってきた者達も、アルハインド勢のほんの一部で大部分のアルハインド騎馬兵士達は逃げる連隊兵士を狩り立てながら、一文字にタゴロローム要塞へと向かった。
 逃げ延びた第五連隊兵士達は、タゴロローム要塞前にある草原を突っ切り、どうにか城門に辿り着いた。ようやく逃げ延びた・・・・・・辿り着いた兵士は若干安堵の顔つきになって尻餅をつかんばかりあったが、早く要塞に逃げ込もうと城門を叩いた。

 だが、一向に城門は開く気配がない。それどころか、要塞全体が死んだように静まり返っていた。
「開門っ、開けてくれえ。」
 第五連隊の兵士達は口々に叫んだ。しかし、要塞は静まり返ったまま、城門は一向に開く気配はない。
 まるで、タゴロローム守備軍が要塞からどこかへ移動し、要塞はもぬけの殻になっているかのようだった。
 城門が開かなければ、城壁を乗り越えて要塞内に逃げ込もうと、第五連隊兵士達は試みたが、無理であった。
 前に、要塞の城壁は胸の高さに切られていると述べたが、それはあくまで要塞内から見た城壁の高さである。要塞内の土地は盛り土がなされていて、要塞の外の土地より一段高い位置にあるのだ。
 要塞の外から、侵入をしようとする敵にとっては、要塞の壁は、実は四メートル近くの高さになる。おまけに城壁の上には、敵の侵入を防ぐため、両刃の剣が、四十センチ感覚で植えられていた。
 第五連隊兵士のうち、この要塞の城門までたどり着けた兵士達は、半数以下の千五百人程度であった。
 敵の騎兵団はタゴロローム要塞前の草原に展開しながら、続々と増え続け、城門に集まった敗残兵に襲い掛かかりつつあった。

 せっかく要塞まで逃げ帰ったのに、要塞には逃げ込めない。要塞を背後に控えて第五連隊兵士達は迫り来るアルハインド騎馬兵に絶望的な抵抗を開始した。
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