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第四話
しおりを挟む渥美がいつものように昼食をとろう席を立ったとき、染谷に珍しく呼び止められた。
周りはみんな食堂やビル外の定食屋に向かうことに頭がいっぱいで二人に注意を向ける人はいなかった。
渥美はまた仕事でミスをしたのだろうかと戦々恐々としながら染谷の前に立った。
「渥美さん」
「は、はい」
怖くて染谷の顔を直視できない。
「今日、よかったら帰りに一緒に飲まないかい?」
「はいっ! ……は……え?」
「ダメかな?」
渥美が顔を上げると、小首を傾げている染谷と目が合った。渥美は高速で首を振った。
「ダメじゃないです!」
「よかった。渥美さん、今日の残業はどれくらいかかりそう?」
「うぐ……」
完全に見抜かれている!
渥美は視線を泳がせた。
「二時間……くらい?」
「ダメだ、一時間……いや、三十分で終わらせるよ。大丈夫、俺もいる」
染谷の強い言葉に、渥美は思わず目頭が熱くなった。
それから二人は外の定食屋で昼ご飯を食べ、銀行に寄っていくという染谷と別れて渥美は一人でオフィスに戻ろうとした。
「ねぇ」
ポンポンと、肩を叩かれて振り返るとちょっと怖そうなお兄さんが立っていた。ピアスホールがいくつあるのか数えるのは片耳だけで諦めた。金髪をトサカのように重力に逆立てている、すこし時代錯誤な気もしないでもはないが、とにかくパンチの効いた外見をしている。
こんな人目に付きそうな道中でカツアゲか!? と身構える渥美に、お兄さんはくしゃくしゃの笑顔を見せて歩道の片側を指さした。
「おひとついかが?」
路面にブロックと板を敷いて簡易テーブルを作ってあるらしい。その上に商品となるアクセサリーを並べているようだ。
だがあいにく渥美の趣味ではない銀細工のアクセサリーを見せられて、首を横に振る。
「今忙しいので」
逃げの常套句を述べてその場を離れようとすると、お兄さんに腕を掴まれて引き留められた。この場のやり取りを通行人は見て見ぬふりをするばかりで、止めに入ろうとする勇敢な人はどうやらいないらしい。
「あんたの悩み、あててやろっか?」
「はい?」
必死に掴んでいる手を引きはがそうとしていた渥美は、イライラと聞き返した。
「同性の上司が好きだけど、告白できないでいる。当たってるな?」
「なっ……んで!」
お兄さんのチャラチャラしていた雰囲気が怪しくなる。くしゃくしゃの笑顔もますます胡散臭い。お兄さんに掴まれた腕の所から鳥肌が立って肩が震えた。
「ど……して」
絶望が人の形をしていたらお兄さんのような姿をしているのかもしれない。
渥美はカラクリ人形のように口を開閉し、冷笑を浮かべるお兄さんを見上げた。
「さぁ、どうしてでしょう?」
絶望はカラリと嗤って胡麻化すと、更に言葉をつづけた。
「あんた、あの男とどうなりたい?」
「ど、どうって……」
「俺はあんたの希望を叶える術を知っているぜ」
お兄さんが露台に載っていたひとつのピルケースを手に取った。
「この中に、お前の欲望が詰まっている」
パカリと蓋の開いたピルケースの中には一錠の白い錠剤が入っていた。
「これ、一万円ポッキリ!」
「麻薬ですか」
「媚薬だよ、オニーサン。大好きなあの人を、たった一晩でトリコにする優れものさ」
お兄さんに捕まれている腕がそろそろ痛んできた。
渥美は恐ろしい物を見る目でピルケースの中身を見た。ごくりと生唾を飲み込んで、財布に入っていた一万円札を渡した。
「まいどあり」
にやりと絶望が嗤って、渥美の手の中に冷たいピルケースを残した。
どきどき。どきどき。
渥美の脳内はアドレナリンが放出されっぱなしなのだろうか。そわそわして落ち着かない。それは昼間、手に入れたピルケースをジャケットのポケットに忍ばせているからだろうか。それとも、「飲みに行こう」と言って染谷に付き添われて向かった先が、ドレスコードのあるような立派なお店だったからだろうか。
今のところ染谷がいろいろ話をしてくれているから渥美は相槌を打つだけで大丈夫だが、この話題が終わったら何を話せばいい?
最近は残業疲れで、帰ってもろくにテレビを見ないで眠ってしまっている。新聞はそれほど読まないから定期購読していないし、染谷に印象の良いような話題を何一つ持っていない。
(駄目だ、こんなにおいしそうな料理なのに喉も通らないなんて……)
渥美は密かにため息をついた。
「渥美さん。マナーは気にせずに、どんどん食べていいんだよ」
「……はい」
染谷の優しさが身にこたえる。
その時、柱の陰からこちらに足を向ける女性の姿があった。染谷にこのお店を紹介してもらった際に、柱の陰に化粧室があることはチェック済みだった。渥美は赤ワインに口をつけてトイレに行こうかどうしようか悩んだ。
「すみません、染谷課長でいらっしゃいますよね」
だが悩んでいる間に行きそびれてしまった。
こちらに向かって来た女性が控えめな抑えた声で言って、染谷の隣に立ったからだ。
「プライベートでお過ごしのところお許しください。わたくし、秘書課の小林と申します。実は染谷課長に折り入ってお話が……」
女性は物腰柔らかでいて断固とした雰囲気を持っていた。染谷が渥美の様子を窺う視線を寄越す。渥美はへらりと笑って「どうぞ」という仕草をして染谷の離席を促した。
染谷は「すまない」と一言詫びてから、落ち着いた声の持ち主である美女と連れ立って行ってしまった。
「はぁあ」
思わず大きなため息がでてしまう。
本当は行ってほしくなかった。
女性の誘いなんか断って、誠意を示してほしかった。
こんな素敵なレストラン――予約なしには入れないようなところ――に当日誘われて期待しないバカはいないだろう。
(課長が僕の誕生日を知っててくれるわけないよな……)
じゃあ何のためにこのレストランを予約したのだろう?
もしかして、本当にただここの料理を食べてみたかっただけ?
(ありうる……)
「それにしても遅いな……」
染谷もやはり男。魅惑的な女性が居たら考えられることは一つしかない。
(僕は男で……もう勝ち目はない?)
さっきまでどきどきしていた体が、悲しみに打ち震える。
そして震える手で取りだしたのは、昼間手に入れたピルケースだった。渥美は他人の目を気にしつつも、膝の上で手元を隠すようにピルケースの中から取り出した錠剤を、染谷のワイングラスの中に落とした。
「待たせてごめんね」
しばらくすると、染谷は一人で戻ってきた。
渥美は目を合わせられず、染谷のネクタイに視線を向けた。
「いえ、そんなに待ってませんよ」
「そうかな」
染谷が小首を傾げて渥美と視線を合わせようとしたのがわかった。渥美は戸惑いながら、先ほど店員に頼んで注ぎ足してもらった染谷のワイングラスに入っている赤ワインを見つめた。
「課長、小林さんはどういった要件でこんな所にいたんですか……?」
「ふふ。知りたい?」
渥美は勇気を振り絞って尋ねたのに、染谷はまるで子どものように無邪気に聞き返してくる。
渥美は素直に答えるのが嫌で、無理やり料理を口に詰め込み、返事ができないようにした。
「渥美さん、そうしているとまるでリスみたい」
そう言って染谷は穏やかに笑う。
彼がそっと手元にワイングラスを引き寄せる様を渥美は咀嚼しながらじっと見つめた。
(早く、早く飲んでしまってくれ)
渥美の視線は真っ赤なワインに張り付いて離れなかった。染谷がワイングラスを回すので、赤い液体がクルリクルリと波打って中で回った。
「彼女は……いわゆるヘッドハンティングしに来たんだよ。渥美さんも知っているとは思うけど、うちの会社とJ社はいわゆる好敵手だろ? 俺はどうやらJ社のお偉いさんの目に留まったようだよ。小林さんはなんていうか……スパイ? 影の斡旋業者と言えばいいのかな」
染谷がワイングラスを持ち上げて、わずかに口をつけた。
「それで、課長はどうなさるおつもりですか」
固い口調で尋ねる渥美に、染谷は穏やかな笑みを浮かべて見せた。
「蹴ったよ」
息を飲んだ。渥美の驚きの表情を染谷は不思議そうに見やる。
「俺は、渥美さんと離れたいなんてこれっぽっちも思っていないからね」
ああ、でも渥美さんがこんな頑固じじいから離れたがっていたら、これは残念な告白になってしまったかもね。
そう言ってワイングラスを持ち上げた染谷の右手を渥美は無意識に掴み立ち上がっていた。そしてその勢いのまま、身を乗り出して強引に赤ワインを飲み干した。
「……」
その後、何事もなかったように着席した渥美を、染谷があっけにとられて見ていた。
「どうされました?」
アルコールで真っ赤になった渥美の顔を、しげしげと染谷は見つめる。
「渥美さん、大胆だね」
彼は破顔すると言った。
「そういうの、嫌いじゃない」
と。
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ありがとうございました。
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