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06.晴れの日のお散歩
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疑いが晴れたので、わたしは早速自由の身になった。
その日の晩餐で、アヴァテアから謝罪されて使用人たちから直に受けていた風当たりの強さも改善した。そしてお詫びの品を贈りたいとまで言われ、わたしは少し悩んだ末に「後学のために市に行きたい」と言った。アヴァテアは二つ返事で了承してくれた。
翌日。
わたしはアヴァテアと共に市場に来ていた。
前方で止まった馬車からアヴァテアが降り立った瞬間、駆け寄ってきた人の多さにわたしは最初尻込みしていたが、いつになくにこやかに応対するアヴァテアが手際よく事情を説明して市場の責任者を連れて来させると、そのままわたしたちのためだけの市場ツアーが始まり、群衆が押し寄せてくることは無くなった。
市場を少し歩いただけなのに、目まぐるしいほどの勢いで人とすれ違い、露店に並ぶ商品も変わった。わたしは目をぐるぐるさせながらも、懸命にアヴァテアのそばを歩いた。
市場の責任者である男がいの一番に案内してくれたのは、この街の中でも歴史ある宝飾店だという石造りの堅牢な店だった。
店の出入り口にはドアマンが立っていて、警備も兼ねている。
そんなお店の中に、アヴァテアたちはなんの躊躇いもなく入っていく。わたしは目が合ってしまったドアマンに、つい愛想笑いを浮かべて会釈してから入店を果たした。
お店に入るとすぐ2階の別室に通されて、一通り装身具を見せられた。
わたしがポカーンとしながらその石の産地や歴史を覚えようとしていたが、すぐその説明の複雑さに匙を投げた。
それに、病院生活の長かったわたしに装飾品の目利きができるはずもない。
わたしが静かにアヴァテアと並んで腰掛け、話を聞いて適当に相槌を打っていると、アヴァテアが「さて、どれにしましょうか?」と話を振ってきた。
「?」
「この中から、どれでもお好きなものを選んでください」
改めて見ると、部屋中に運び込まれた宝飾品の量はとんでもない数になっていた。
わたしは目を丸くする。
「え!」
小さく叫ぶと、アヴァテアが「おや?」と首を傾げた。
「結婚祝いの品ですよ」
彼は続ける。
「お気に召しませんか?」
わたしはその場の雰囲気に完全に萎縮してしまった。
今まで博物館にでも来て説明を聞いている気分でいたのに、急に現実に引き戻されて大勢の護衛や店員たちが見守る前にいることを意識して、緊張してしまう。
心臓が早鐘の如くドクンドクンと鳴り止まず、胸に手を当ててふらりと傾いた。
すぐ隣にいたアヴァテアがさりげなく受け止めてくれて助かった。
「少しのあいだ人払いを」
アヴァテアのその言葉に、どれだけ救われた気持ちだったことか…。
わたしはお礼を言おうと顔を上げて、びくりと身をすくめた。
アヴァテアの綺麗な顔が、わたしの鼻先と触れそうな位置にまで近づいてきていた。
知らず知らずのうちに指先がブルブルと震え出し、一瞬視線を下げたアヴァテアが身を引いてくれるまでその震えは止まらなかった。
「……ダメか」
ボソボソと何かを呟く声は低められていて聞き取りづらい。
わたしは恐る恐る周囲を見渡し、雰囲気を変えようと思ったのもあって、意を決してカーテンの掛かった窓辺に駆け寄った。
カーテンに手を添えて屋外を眺めていると、さまざまな人の流れが見え、細々とした日用雑貨や食べ物を売る屋台と人の行列に目を奪われた。
「どうかしましたか」
わたしのすぐ背後にアヴァテアが立つ気配がする。
わたしは季節ものらしい薄いカーテンの布をギュッと強く握りしめた。
「……」
実はレイラの体に乗り移ってから、たびたび指先が震えることに気がついていた。
それは屋敷でも、出先でも変わらず、レイラの体は“男”に恐怖心を抱いていると気付いた。
そのことを説明するのは気が引けて、レイラの誇りに関わるかもしれないと思うとなかなか話題にすることもできず、わたしは窓の外に視線を向けたままアヴァテアに「ごめんなさい」と謝った。
「わたしは、こんな風にあなたに良くしてもらう必要はないです。わたしは、いずれこの体を出ていきます。だから、贈り物はいらないんです。そのお気持ちだけで、十分ですから」
わたしが考え考え、どうにか言葉を口にすると、アヴァテアの息を飲む音が聞こえた。
そして深いため息が吐き出される。
怒られるかも…!と、身構え、ますます縮こまった。
小さくなった肩に、そっと大きな手のひらが乗せられて、わたしはびくりと身を竦ませた。
「そのままでいいので私の質問に答えてくれませんか? 答えづらい問いには、『はい』か『いいえ』で答えてくれればいいですから」
アヴァテアのぬくもりのこもった手のひらは、わたしの肩をすっぽりと覆ってしまった。最初に感じた緊張がその熱に溶かされ、気がつくと私は、震えながらもアヴァテアにその背中を預けていた。
「本当はもっと他に行きたいところがあったのですか?」
「いいえ、目的地があったわけではありません」
「私のことが嫌いですか?」
「いいえ?」
「では、あなたは、私の妻ですよね」
「……はい」
「あなたに私の妻であるという自覚があるならば、私に…。私だけにあなたの名前を呼ぶことをお許しください」
わたしは頬に熱が集まるのを意識しながらコクンと頷いて見せた。
「ミサ」
「はい」
「最後に私のわがままを聞いてください」
わがまま。
(この人も、わがままを言うことがあるんだ…)
わたしが意外に思っていると、
「あなたの髪に触れても、いいですか?」
ますます意外な言葉を耳にした。
「……は、い」
答えた次の瞬間、肩に置かれていた手のひらがそっと一房の髪の毛を掬い上げる。
サラッといく筋か流れ落ちた黒髪にはアヴァテアの前髪も含まれていた。
(か、髪に……キスした……!!)
往来にいた幾人かがこちらに気づき、指差してきたり手を振ってきたりしていたが、私は恥ずかしくてたまらなくて顔を隠すように俯いた。すると、アヴァテアはカーテンを閉めて、揺れるカーテンに包まれたふたりきりの世界で、わたしと目線を合わせるためにかがみ込む。
「ミサ。元聖女レイラにお伝えください。私は、決してあなたを害さないと。だから、お願いします。私を頼ってください」
わたしの耳元で告げられた彼の真摯な言葉は、静かに、わたしの体内に染み渡った。
そして指先の震えが止まった。
わたしはホッと安堵して、アヴァテアの広い肩に手を添えた。そうすることで、わたしの変化を彼も感じ取ってくれただろうと、そう思いたい。
「ありがとうございます」
わたしが心からの感謝を述べると、アヴァテアがひっそりと笑ってくれた。
しばらくして、控えめに扉を叩く音が聞こえてきた。
わたしたちは互いに顔を見合わせ、急に気恥ずかしくなって身繕いもそこそこに身を離すと、椅子に腰掛け直して商人たちを笑顔で迎え入れた。
「結局、こんな素敵な指輪を…」
私は左手の薬指にはまったシンプルな指輪を見てつぶやいた。
結婚指輪だ、と言ってアヴァテアに店の軒先で見せられて、かと思えば彼は仰々しく片膝をついてその場でその指輪をわたしの左手の薬指にはめてくれた。
あんなに厳しい顔つきをしていたドアマンも含め、店前にたむろしていた老若男女がドワッと歓声を上げてお祝いしてくれたので、わたしが拒否する隙は一切なかった。
でも、金色のシンプルな指輪を見ていると、心が浮き立つ感覚を覚えた。
(レイラも、喜んでいるのかな? だとしたら、いいな)
わたしは指輪に向かって柔らかく微笑んで、少し前を歩くアヴァテアの手に手を滑り込ませた。
周囲の人間がざわつくが、気になったのは一瞬で、アヴァテアの深いアメジストの瞳と目が合うと自然と笑みが溢れていた。
わたしたちはそのまま二人で露店を巡り、お昼ご飯に軽食をつまんで、市街に集まる色々な人たちと言葉を交わした。
みんな優しくて、陽気で、気さくだった。
わたしたちが路肩のベンチに座って仲良く手を握り合っているのを見た通りすがりの人々が、「お幸せに」と笑顔で手を振ってくれたり、「『氷炎の騎士』様には『炎姫』様がお似合いだ」などと世間話をした別れ際に惜しんでそう声をかけてくれたりもした。
「『ヒョウエンの騎士』様ってあなたのこと?」
わたしの問い掛けに、耳敏いペトロスが寄ってくるが、彼が熱弁を振るう前にアヴァテアが不承不承といった様子で頷くので、わたしは納得して質問を続けた。
「もしかして『炎姫』って有名人なのですか?」
聞けば、一も二もなく「そうです」と答えが返ってきた。
「今まではあまりいい印象がなかったですけど、本日アヴァテア様と一緒に過ごしたおかげで市井での悪印象も払拭されたのでは?」
と、これは護衛としてそばについていたペトロスの言葉。
わたしは「へぇ」と感心していたが、ペトロスはアヴァテアに睨みつけられ、渋々そばを離れていった。
「あ、あれは? なんですか?」
串肉を頬張っていたアヴァテアは、わたしが指さす方向に視線を向けて、肉を嚥下してから「あぁ」と呟いた。
「あれは双面鏡という、通信手段で使われる魔法道具です」
アヴァテアが手拭きでわざわざわたしの指先を拭ってくれるから、なんとなくアヴァテアの育ちの良さを感じた。
「昔は生産が難しくて貴族階級にしか流通していませんでしたが、今では技術革新と共に生産が伸びて、キーアヴァハラ屈指の名産品です」
「双面鏡…」
「見にいってみましょうか」
アヴァテアが立ち上がった。と同時に、離れていた手を握り込まれる。
双面鏡を近くで見ると、それは透明度の高い硝子とか鏡のように見えた。
スマートフォンより薄く、縁を飾る装飾まで凝っていて芸術品のようだ。値段は先ほどの見せてもらった宝飾店よりは確かに安いがそれでも高い。一般市民からすれば宝石並みの高級品である。
(意外と高いなぁ…)
思わず考え込んでしまう。
双面鏡を磨いていた店主は「ちと高いですかなぁ」と笑って、磨いていたものを手渡してきた。
「これは実用的ですが、お安いですよぉ」
確かに、渡された双面鏡は装飾部分が一切ない。ツルッとした六角形だ。
「これはどういう時に、どうやって使うのですか?」
わたしが不思議そうに言うと、突然持っていた鏡面に店主の顔が写った。
「これは、双子鏡とも呼ばれます。2枚一組になっておりまして、遠くにいる人と話をしたい時に使うのです」
「通話ができるのですか?」
「ツウワ? 不勉強で申し訳ないですなぁ。ツウワが何かは存じませぬが、こうして映し出された相手の顔を見ることで念話ができますなぁ」
「そうですか、ありがとうございます」
わたしは丁寧にお辞儀をしながら店主のお爺さんに持っていた双面鏡を返した。店主の手元には、同じ形の双面鏡が握られており、わたしが持っていた鏡面に突然映し出されたのは、店主のお爺さんが持っている鏡に映し出された景色だったのだと理解した。
「購入しないのですか?」
「えぇ。大変勉強になりました」
わたしは再び店主に会釈をして、お礼を述べる。店主は「またおいで」と言ってくれた。
「今日はありがとうございました」
そう言ってから二人一緒に馬車に乗り込む。行きは一人だったのに、どうしたのだろうか…。そう不思議に思っていると、わたしの顔をじっとみていたアヴァテアがフッと息をついた。
「今から念話の練習をしてみませんか?」
「いえ、いいです」
即断する。
アヴァテアがちょっと拍子抜けした顔でわたしを見ていた。
「なぜですか?」
アヴァテアに尋ねられて、即答した。
「念話と普通の会話の区別がつかないからです」
「念話というのは、双面鏡がなければ使えない魔法です。念話をする時、必ず双面鏡に顔が写っている必要があります」
「とは言っても……」
「……それに、もし何かあった時に双面鏡があると便利ですし……」
「買わなかったじゃないですか」
「……」
「買ったんですか?!」
わたしが詰め寄ると、アヴァテアは馬車の窓を開けて護衛のペトロスを呼びつけ、小箱を受け取った。中には当然、双面鏡が入っていた。しかも、高級な方の。
わたしが口を開けて固まっていると、アヴァテアは静かに窓を閉めて、わたしの隣に座り直した。
「お互いに、もし何かあった時のことを考えて、です。私のためを思うなら、お守りがわりに持ち歩いていてください」
アヴァテアの懇願するような声を耳元で囁かれ、わたしは急速に赤面する顔を俯かせた。
「……ミサ」
麗しい声で名前を呼ばれて、誰が断れるというのだろう。
わたしは赤い顔を悟られないよう、深く頭を下げて「ありがとうございます」と言いながら、双面鏡の片方が入った箱を丁重に受け取った。
なのに、
「耳の裏まで真っ赤ですよ」
そう言って含み笑いをするから…!
わたしは慌てて両耳を塞ごうとして、危うく双面鏡を取り落としそうになって…、やめた。
「……見ないでください!」
小さく叫ぶわたしと笑顔のアヴァテアを乗せて、馬車は屋敷へ辿る緩やかな道を軽快に飛ばした。
その日の晩餐で、アヴァテアから謝罪されて使用人たちから直に受けていた風当たりの強さも改善した。そしてお詫びの品を贈りたいとまで言われ、わたしは少し悩んだ末に「後学のために市に行きたい」と言った。アヴァテアは二つ返事で了承してくれた。
翌日。
わたしはアヴァテアと共に市場に来ていた。
前方で止まった馬車からアヴァテアが降り立った瞬間、駆け寄ってきた人の多さにわたしは最初尻込みしていたが、いつになくにこやかに応対するアヴァテアが手際よく事情を説明して市場の責任者を連れて来させると、そのままわたしたちのためだけの市場ツアーが始まり、群衆が押し寄せてくることは無くなった。
市場を少し歩いただけなのに、目まぐるしいほどの勢いで人とすれ違い、露店に並ぶ商品も変わった。わたしは目をぐるぐるさせながらも、懸命にアヴァテアのそばを歩いた。
市場の責任者である男がいの一番に案内してくれたのは、この街の中でも歴史ある宝飾店だという石造りの堅牢な店だった。
店の出入り口にはドアマンが立っていて、警備も兼ねている。
そんなお店の中に、アヴァテアたちはなんの躊躇いもなく入っていく。わたしは目が合ってしまったドアマンに、つい愛想笑いを浮かべて会釈してから入店を果たした。
お店に入るとすぐ2階の別室に通されて、一通り装身具を見せられた。
わたしがポカーンとしながらその石の産地や歴史を覚えようとしていたが、すぐその説明の複雑さに匙を投げた。
それに、病院生活の長かったわたしに装飾品の目利きができるはずもない。
わたしが静かにアヴァテアと並んで腰掛け、話を聞いて適当に相槌を打っていると、アヴァテアが「さて、どれにしましょうか?」と話を振ってきた。
「?」
「この中から、どれでもお好きなものを選んでください」
改めて見ると、部屋中に運び込まれた宝飾品の量はとんでもない数になっていた。
わたしは目を丸くする。
「え!」
小さく叫ぶと、アヴァテアが「おや?」と首を傾げた。
「結婚祝いの品ですよ」
彼は続ける。
「お気に召しませんか?」
わたしはその場の雰囲気に完全に萎縮してしまった。
今まで博物館にでも来て説明を聞いている気分でいたのに、急に現実に引き戻されて大勢の護衛や店員たちが見守る前にいることを意識して、緊張してしまう。
心臓が早鐘の如くドクンドクンと鳴り止まず、胸に手を当ててふらりと傾いた。
すぐ隣にいたアヴァテアがさりげなく受け止めてくれて助かった。
「少しのあいだ人払いを」
アヴァテアのその言葉に、どれだけ救われた気持ちだったことか…。
わたしはお礼を言おうと顔を上げて、びくりと身をすくめた。
アヴァテアの綺麗な顔が、わたしの鼻先と触れそうな位置にまで近づいてきていた。
知らず知らずのうちに指先がブルブルと震え出し、一瞬視線を下げたアヴァテアが身を引いてくれるまでその震えは止まらなかった。
「……ダメか」
ボソボソと何かを呟く声は低められていて聞き取りづらい。
わたしは恐る恐る周囲を見渡し、雰囲気を変えようと思ったのもあって、意を決してカーテンの掛かった窓辺に駆け寄った。
カーテンに手を添えて屋外を眺めていると、さまざまな人の流れが見え、細々とした日用雑貨や食べ物を売る屋台と人の行列に目を奪われた。
「どうかしましたか」
わたしのすぐ背後にアヴァテアが立つ気配がする。
わたしは季節ものらしい薄いカーテンの布をギュッと強く握りしめた。
「……」
実はレイラの体に乗り移ってから、たびたび指先が震えることに気がついていた。
それは屋敷でも、出先でも変わらず、レイラの体は“男”に恐怖心を抱いていると気付いた。
そのことを説明するのは気が引けて、レイラの誇りに関わるかもしれないと思うとなかなか話題にすることもできず、わたしは窓の外に視線を向けたままアヴァテアに「ごめんなさい」と謝った。
「わたしは、こんな風にあなたに良くしてもらう必要はないです。わたしは、いずれこの体を出ていきます。だから、贈り物はいらないんです。そのお気持ちだけで、十分ですから」
わたしが考え考え、どうにか言葉を口にすると、アヴァテアの息を飲む音が聞こえた。
そして深いため息が吐き出される。
怒られるかも…!と、身構え、ますます縮こまった。
小さくなった肩に、そっと大きな手のひらが乗せられて、わたしはびくりと身を竦ませた。
「そのままでいいので私の質問に答えてくれませんか? 答えづらい問いには、『はい』か『いいえ』で答えてくれればいいですから」
アヴァテアのぬくもりのこもった手のひらは、わたしの肩をすっぽりと覆ってしまった。最初に感じた緊張がその熱に溶かされ、気がつくと私は、震えながらもアヴァテアにその背中を預けていた。
「本当はもっと他に行きたいところがあったのですか?」
「いいえ、目的地があったわけではありません」
「私のことが嫌いですか?」
「いいえ?」
「では、あなたは、私の妻ですよね」
「……はい」
「あなたに私の妻であるという自覚があるならば、私に…。私だけにあなたの名前を呼ぶことをお許しください」
わたしは頬に熱が集まるのを意識しながらコクンと頷いて見せた。
「ミサ」
「はい」
「最後に私のわがままを聞いてください」
わがまま。
(この人も、わがままを言うことがあるんだ…)
わたしが意外に思っていると、
「あなたの髪に触れても、いいですか?」
ますます意外な言葉を耳にした。
「……は、い」
答えた次の瞬間、肩に置かれていた手のひらがそっと一房の髪の毛を掬い上げる。
サラッといく筋か流れ落ちた黒髪にはアヴァテアの前髪も含まれていた。
(か、髪に……キスした……!!)
往来にいた幾人かがこちらに気づき、指差してきたり手を振ってきたりしていたが、私は恥ずかしくてたまらなくて顔を隠すように俯いた。すると、アヴァテアはカーテンを閉めて、揺れるカーテンに包まれたふたりきりの世界で、わたしと目線を合わせるためにかがみ込む。
「ミサ。元聖女レイラにお伝えください。私は、決してあなたを害さないと。だから、お願いします。私を頼ってください」
わたしの耳元で告げられた彼の真摯な言葉は、静かに、わたしの体内に染み渡った。
そして指先の震えが止まった。
わたしはホッと安堵して、アヴァテアの広い肩に手を添えた。そうすることで、わたしの変化を彼も感じ取ってくれただろうと、そう思いたい。
「ありがとうございます」
わたしが心からの感謝を述べると、アヴァテアがひっそりと笑ってくれた。
しばらくして、控えめに扉を叩く音が聞こえてきた。
わたしたちは互いに顔を見合わせ、急に気恥ずかしくなって身繕いもそこそこに身を離すと、椅子に腰掛け直して商人たちを笑顔で迎え入れた。
「結局、こんな素敵な指輪を…」
私は左手の薬指にはまったシンプルな指輪を見てつぶやいた。
結婚指輪だ、と言ってアヴァテアに店の軒先で見せられて、かと思えば彼は仰々しく片膝をついてその場でその指輪をわたしの左手の薬指にはめてくれた。
あんなに厳しい顔つきをしていたドアマンも含め、店前にたむろしていた老若男女がドワッと歓声を上げてお祝いしてくれたので、わたしが拒否する隙は一切なかった。
でも、金色のシンプルな指輪を見ていると、心が浮き立つ感覚を覚えた。
(レイラも、喜んでいるのかな? だとしたら、いいな)
わたしは指輪に向かって柔らかく微笑んで、少し前を歩くアヴァテアの手に手を滑り込ませた。
周囲の人間がざわつくが、気になったのは一瞬で、アヴァテアの深いアメジストの瞳と目が合うと自然と笑みが溢れていた。
わたしたちはそのまま二人で露店を巡り、お昼ご飯に軽食をつまんで、市街に集まる色々な人たちと言葉を交わした。
みんな優しくて、陽気で、気さくだった。
わたしたちが路肩のベンチに座って仲良く手を握り合っているのを見た通りすがりの人々が、「お幸せに」と笑顔で手を振ってくれたり、「『氷炎の騎士』様には『炎姫』様がお似合いだ」などと世間話をした別れ際に惜しんでそう声をかけてくれたりもした。
「『ヒョウエンの騎士』様ってあなたのこと?」
わたしの問い掛けに、耳敏いペトロスが寄ってくるが、彼が熱弁を振るう前にアヴァテアが不承不承といった様子で頷くので、わたしは納得して質問を続けた。
「もしかして『炎姫』って有名人なのですか?」
聞けば、一も二もなく「そうです」と答えが返ってきた。
「今まではあまりいい印象がなかったですけど、本日アヴァテア様と一緒に過ごしたおかげで市井での悪印象も払拭されたのでは?」
と、これは護衛としてそばについていたペトロスの言葉。
わたしは「へぇ」と感心していたが、ペトロスはアヴァテアに睨みつけられ、渋々そばを離れていった。
「あ、あれは? なんですか?」
串肉を頬張っていたアヴァテアは、わたしが指さす方向に視線を向けて、肉を嚥下してから「あぁ」と呟いた。
「あれは双面鏡という、通信手段で使われる魔法道具です」
アヴァテアが手拭きでわざわざわたしの指先を拭ってくれるから、なんとなくアヴァテアの育ちの良さを感じた。
「昔は生産が難しくて貴族階級にしか流通していませんでしたが、今では技術革新と共に生産が伸びて、キーアヴァハラ屈指の名産品です」
「双面鏡…」
「見にいってみましょうか」
アヴァテアが立ち上がった。と同時に、離れていた手を握り込まれる。
双面鏡を近くで見ると、それは透明度の高い硝子とか鏡のように見えた。
スマートフォンより薄く、縁を飾る装飾まで凝っていて芸術品のようだ。値段は先ほどの見せてもらった宝飾店よりは確かに安いがそれでも高い。一般市民からすれば宝石並みの高級品である。
(意外と高いなぁ…)
思わず考え込んでしまう。
双面鏡を磨いていた店主は「ちと高いですかなぁ」と笑って、磨いていたものを手渡してきた。
「これは実用的ですが、お安いですよぉ」
確かに、渡された双面鏡は装飾部分が一切ない。ツルッとした六角形だ。
「これはどういう時に、どうやって使うのですか?」
わたしが不思議そうに言うと、突然持っていた鏡面に店主の顔が写った。
「これは、双子鏡とも呼ばれます。2枚一組になっておりまして、遠くにいる人と話をしたい時に使うのです」
「通話ができるのですか?」
「ツウワ? 不勉強で申し訳ないですなぁ。ツウワが何かは存じませぬが、こうして映し出された相手の顔を見ることで念話ができますなぁ」
「そうですか、ありがとうございます」
わたしは丁寧にお辞儀をしながら店主のお爺さんに持っていた双面鏡を返した。店主の手元には、同じ形の双面鏡が握られており、わたしが持っていた鏡面に突然映し出されたのは、店主のお爺さんが持っている鏡に映し出された景色だったのだと理解した。
「購入しないのですか?」
「えぇ。大変勉強になりました」
わたしは再び店主に会釈をして、お礼を述べる。店主は「またおいで」と言ってくれた。
「今日はありがとうございました」
そう言ってから二人一緒に馬車に乗り込む。行きは一人だったのに、どうしたのだろうか…。そう不思議に思っていると、わたしの顔をじっとみていたアヴァテアがフッと息をついた。
「今から念話の練習をしてみませんか?」
「いえ、いいです」
即断する。
アヴァテアがちょっと拍子抜けした顔でわたしを見ていた。
「なぜですか?」
アヴァテアに尋ねられて、即答した。
「念話と普通の会話の区別がつかないからです」
「念話というのは、双面鏡がなければ使えない魔法です。念話をする時、必ず双面鏡に顔が写っている必要があります」
「とは言っても……」
「……それに、もし何かあった時に双面鏡があると便利ですし……」
「買わなかったじゃないですか」
「……」
「買ったんですか?!」
わたしが詰め寄ると、アヴァテアは馬車の窓を開けて護衛のペトロスを呼びつけ、小箱を受け取った。中には当然、双面鏡が入っていた。しかも、高級な方の。
わたしが口を開けて固まっていると、アヴァテアは静かに窓を閉めて、わたしの隣に座り直した。
「お互いに、もし何かあった時のことを考えて、です。私のためを思うなら、お守りがわりに持ち歩いていてください」
アヴァテアの懇願するような声を耳元で囁かれ、わたしは急速に赤面する顔を俯かせた。
「……ミサ」
麗しい声で名前を呼ばれて、誰が断れるというのだろう。
わたしは赤い顔を悟られないよう、深く頭を下げて「ありがとうございます」と言いながら、双面鏡の片方が入った箱を丁重に受け取った。
なのに、
「耳の裏まで真っ赤ですよ」
そう言って含み笑いをするから…!
わたしは慌てて両耳を塞ごうとして、危うく双面鏡を取り落としそうになって…、やめた。
「……見ないでください!」
小さく叫ぶわたしと笑顔のアヴァテアを乗せて、馬車は屋敷へ辿る緩やかな道を軽快に飛ばした。
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