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03.『聖女』か、それとも……
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喉の渇きを覚えて目を覚ました時、外はまだ真っ暗だった。そしてわたくしのベッドの足元あたりに突っ伏して眠る侍女が居た。
(また……。こんなところで寝たら風邪をひく……)
今夜は夏とは思えぬ程気温が低かった。
わたくしはそっと寝具を抜け出し、寝具に突っ伏して寝入る侍女の体に柔らかい毛布を掛けてやってから、暗闇の中手探りで水差しを探し出した。細い管を通して水をコップに移してから飲み干す。少し口の中を潤すだけと思っていたのに、すっかり空にしてしまった。でも大丈夫。掌を水差しの上に翳すだけでなくなったはずの水が嵩を増してたっぷりと入っていた。これはこの世界に生きる者なら誰でも知っている魔法である。
(水分を空気中から集めて水にする。水を空気中に逃がせば蒸発する)
誰もが知っている魔法の常識。異界の“科学”とよく似ている。でも異界の“科学”や物語の中では当たり前のようにあった氷はここの魔法で作れないものだった。氷は冬に泉が凍ってとれる期間限定の自然の宝石なのだ。
わたくしは手元に残るミミズ腫れをそっと撫でながら、昨日受けた魔法に関する授業を思い出す。
この世界に生息する生き物は二分される。
『魔胞』を持つものと持たざるものだ。前者は人間や魔物などを指し、後者は水や空気、鉱物質のような無機物や、植物や食用にできる獣のような一部の有機物が当てはまるという。
そしてわたくしは、魔法の理から外れた異質な存在であり、この国に忠誠を誓わされた実験体であり、『聖女』だという。
実験体なのになぜ聖女なのか、矛盾じみていてわたくし自身理解できないことばかりだが、どうやら『聖女である』からわたくしの純潔は守られているということは話の雰囲気から察した答えだ。
魔法の理から外れているというのは、多分わたくしを知れば頷ける事なのだろう。
わたくしが発する魔法は桁違いに強く、なのにわたくしの体に魔法の類は効かず、影響しないのだ。
わたくしにはよくわからなかったけれど、母親はこの体質を恐れていた。
学者気取りの貴族たちは、わたくしの中に魔胞がないことまで突き止めたが、魔胞がないのになぜ魔法が使えるのか不思議がっていた。その不思議が、わたくしを実験動物たらしめる要因だった。
「魔法」は魔胞を直接刺激することや魔素を操ることで作用する現象のこと、またその行為を指す。
わたくしたち人間や魔物は普通、魔胞という素粒子増幅器官と魔力回路を体内に持ち、素粒子増幅器官で魔素を溜めることができる仕組みになっている。この二つの器官が魔法の影響を受け、その影響が全身に作用する原点なのだそうだ。学者気取りはこの魔胞を第二の心臓と呼んだ。第三の心臓はふくらはぎだと医学書には書いてあった。
つまり、わたくしは魔胞を持たないから素粒――つまり魔素――が生成されず、魔法を扱うことは不可能であるはずだった。しかし、結果はその真逆で、幼くして魔人と呼ばれる程の火力で家を焼き、滝のような水で家屋を川に押し流す……そんな過去があった。
本当は一人親だからと苦労している母を手伝いたくて風呂焚きをしようとしたわたくしが、結果家を焼き払い、驚いた拍子に慌てて空気中の水を集めたが、それが滝になって村を洪水に巻き込んでしまった。そしてこの事件が近隣の村落だけでなく、たまたま通りがかったキャラバンのせいで近隣諸国のまで知られることとなり、魔人扱いだったわたくしを国の中枢――当時の国王が聖女として迎えてくれた。聖女扱いになったのは王宮に連れ込むのに都合が良かったからだとも噂に聞いている。当時の国王は穏やかだが変わり者で高齢だった。わたくしが王都に連れてこられて始まった穏やかな生活はそう長くは続かなかった。たった2週間でわたくしを迎えてくれた国王は崩御し、翌朝その息子が戴冠式で王冠を被った。
そしてわたくしは、新たな国王の命令で王宮のどこか奥まったところにあると思われる塔に閉じ込められ、毎朝毎晩飽きもせず学者気取りたちに研究されている可哀想なとらわれの身となったのである。
いつものように、わたくしは水をガブ飲みした後でぷはっと息をつき、昇り始めた陽の光に目を細めた。
塔にはカーテンも何もない大きなはめ殺しのガラス窓が東側に一つある。そこから見える朝日が好きで、わたくしはよく早起きしていた。
もう少し北寄りの方角には見張り台があって、この時間になると兵士が交代していく。兵士たちは聖女のわたくしが脱走しないように見張ることが仕事のはずだが、目が合うと手を振ってくれるので意外と彼らはフレンドリーだ。内情を知らないから聖女だと謳われるわたくしを外敵から護ろうとしているのだろうと、理性では分かったつもりでいるが“内敵”による被害で辛い日が続けばやさぐれたくもなる。だからここ最近では見張りとわたくしの目があったとしても、このわたくしの利き手が彼らに手をふり返すことはなかった。
そしてわたくしが早起きする本命の理由が別にある。西側に通気用の小さな窓があって爪先立ちするとちょっとだけ外が見えるのだが、その小さな窓の外に手を伸ばし、手鏡を使って真下を覗き見することだ。
小さな鏡に映る世界は緑色の草花と大きな木の幹だ。木の方は樹齢何千年も生きているのか、大きすぎで幹の一部分しか映らない。おそらくその木の真下あたりに、銀色の何かが過った。
すぐにそちらへ面を向けると、襟足だけ髪紐で結えた子どもの姿が映り込んだ。
黒っぽい服装の子どもは暗がりの中で影のように溶け込んでいるが、フードを下ろした今日みたいな日は、その銀色の髪の毛のおかげで居場所が特定しやすい。子どもの性別は遠目にはわからない。魔法が使える者なら男女関係なく髪を伸ばす傾向にあるからだ。そしてフード付きのコートを着ているのは冬の間だけだと思っていたが、どうやら年がら年中身につけるものらしい。多少生地の厚さが変わっているのかも知れないとは思いつつ、なんていっても真っ黒だからな…とそれ以上の思考を放棄した。
最初は何をしているのだろうと思ったが、どうやら子どもは時折この場所へやってきて、草木に魔法で水を撒いていく。ただ親切心から水やりをしているのかと思った。水やりを終えると、その場にしゃがみ込んでじっとしているから本当に最初の頃は子どもが何のためにこんな辺鄙な場所までやってきているのかわからず警戒したものだ。
でも、寒波の厳しい冬を経た後の今では魔法の練習なのではないかと推察し、これはどうやら当たりだったようだ。
本日の子どもは、周囲の草木や地面を入念に濡らすと、指先に小さな火を灯した。付けては消し、付けては消す、を繰り返した。
パッパッパッと赤い火が一点に明滅するのをわたくしは集中してじーっと見つめていた。
(手に、何か持っているのかな…火打石? 魔胞から魔素を注いで火打石から火花が出ているのかな)
わたくしは必死に目を凝らし、時折後ろを振り返っては侍女が寝ているのを確認してから固唾を飲んで見守る。
(冬の間から比べると、格段に上手くなっている…。基礎と言われる水を操る魔法に苦戦していたはずなのに、今では自由自在に火を操っているし、魔素の供給が安定しているように見える)
魔胞は成長とともに容量が増すという。規格外のわたくしと違って、赤ん坊の頃は涙を出す程度の水を操る魔法が使えて、大人になるにつれ練度が増し、さらに応用も効くようになるのだそうだ。
そういえば、大人の中でもとりわけ魔法の扱いが上手な者を「魔法使い」と呼んでいた。でも学者気取りによれば、「魔法使い」は国家資格未認定のただの市井の民と同義で、勉学と実技を習得して魔胞を鍛え、国家資格に合格した者を「魔法士」と呼ぶそうだ。彼らは国の要職に就けるのだとか。学者気取りの貴族も魔法士なのだと言って威張っていた。
わたくしにとって重要なことはそれじゃない。
どうにかしてこの塔を離れ、わたくしはわたくしの意思で生きて自然に身を任せて死ねる日が来ることを願ってやまない。
さらにわたくしは「あわよくば精神」で願っている。
きっと、この扉が開かれる日がくると!
しかし、わたくしの願いはついぞ果たされないのだった――。
わたくしは塔に連れて来られて、様々な痛みを覚えた。
初めは言葉で心を抉られた。
「なぜこんな簡単な問いに答えられないのか」と。
「なぜお前はそんなに愚鈍なのか」と。
「お前はそれでも聖女か?」と。
心無い言葉を何度も浴びせかけられた。
ついにわたくしがハンガーストライキを起こし、反抗すると、体罰が与えられた。
鞭打ちを最初は両手に。次に両足。最後は布地が裂けるほど背中を叩かれた。
「出来損ないにはこんな簡単な問いに答えられるおつむはないようだ」と嘲笑われ。
「なぜお前はそんなに愚鈍で愚図なのか」と。
「お前はそれでも人間か?」と。
そんな言葉の数々を。もっと乱暴に浴びせかけられながら。
わたくしに体罰を与えるのは最初のうちはペーペーの国王だけだった。
状況を打破するための努力はしたつもりだ。わたくしはわたくしなりに勉強を頑張ったこともあった。ネチネチした学者気取りたちの嫌味に耐えて、屈辱的なテストを。試験体になることも体を張って有用であると何度も立証した。
もちろんペーペーで残虐な国王直々の憂さ晴らしにも耐えた。
なのに、いつまで経ってもわたくしは解放されなかった。
わたくしが囚われ続ける理由を問うた。何度も何度も…!
けれど、国王はまるでわたくしを虫けらを見るような蔑む目を向けてきて、変わったのは痛みだけでなく悲しみが訪れるという事実だった。
国王は、なんとわたくし付きの侍女にまで手を出したのだ!
与えられる痛みに、どんどん感覚が麻痺していった。次第に、体力も気力も削られていった。
ポケットから取り出す手鏡に映し出される世界の、なんと平坦なこと。
時折窓の外に現れる子どもの魔法は、日に日に練度が増していった。
火はマッチの明かりのようにポッと点るようになり、蝋燭の火のように持続時間が長くなった。
子ども自身も成長していく。
急に背が高くなり、銀色の髪の毛も長く伸びていた。
小さな窓から覗く、平和な世界。
そこだけ、時間が巡っているような気がする。
振り返ると、寝台には毛布を掛けられて眠る侍女がいる。ここ最近、塔の中はシンと静まり返ってしまった。初めて侍女と顔を合わせた時、にっこりとわたくしに笑いかけてくれた。彼女はあの時、わたくしと同い年で気立てのいい娘と、もう一人息子がいるのだと嬉しそうに話してくれたのだった。「息子」の話はあまり聞けなかったが、娘の話はよく耳にした。
そうだ。そうだった。
わたくしは眠りについたばかりだった侍女を揺すり起こした。そしてこう言ったのだ。「氷菓子が食べたいの」
次の瞬間、侍女は見開いた両目からぼたぼたと涙を流した。ガタガタと震えだす真っ赤な手先が痛々しかったが、わたくしはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「お願い。氷菓子が食べたいのよ」
そしてわたくしは背後を振り返り、ドンドンドン!と強く扉を叩き、見張りの兵を呼んだ。やって来た兵はわたくしたちをいつも気の毒がってくれるけれど、何もしてくれない臆病な男だった。だからわたくしは彼にお願いした。
氷菓子が食べたいから、侍女に持たせて欲しい、と。
男には困った顔をされたが、侍女を塔から連れ出してくれた。
侍女はこちらを振り返らなかった。
戸惑いつつも怯えた様子で、肩を縮こまらせて出て行った。
わたくしは、どうすれば良かったのだろうか。
果たして何が正解だったのだろうか?
わからない。
この閉じ込められた世界で……わたくしは何者にもなれずにいた。
自分の存在意義が薄れたこの世界で。
生きるって、何?
脳裏に大きくなった子どもの姿が思い浮かぶ。
キラキラと朝日にきらめく手鏡に映し出された子どもに、思わず問いかけたくなった。
「生きるって何?」
ベッドの上に移動し、ごろんと寝転がったわたくしがそう囁けば、身長が伸びて、魔胞が鍛えられて、魔法の技術力が高まって、どんどんと自信がついて力が漲って成長した子どもが小走りに塔のそばから走り去っていく姿が脳裏に浮かんだ。
将来に、希望と期待に満ちているような、そんな足取りで。迷いなく進む。小さくなっていく背中。
わたしの中からじわりと込み上げてきた熱いものが、眦から流れ落ちていって、ぷつりと、途切れた。記憶も音も景色も、全部。
(また……。こんなところで寝たら風邪をひく……)
今夜は夏とは思えぬ程気温が低かった。
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(水分を空気中から集めて水にする。水を空気中に逃がせば蒸発する)
誰もが知っている魔法の常識。異界の“科学”とよく似ている。でも異界の“科学”や物語の中では当たり前のようにあった氷はここの魔法で作れないものだった。氷は冬に泉が凍ってとれる期間限定の自然の宝石なのだ。
わたくしは手元に残るミミズ腫れをそっと撫でながら、昨日受けた魔法に関する授業を思い出す。
この世界に生息する生き物は二分される。
『魔胞』を持つものと持たざるものだ。前者は人間や魔物などを指し、後者は水や空気、鉱物質のような無機物や、植物や食用にできる獣のような一部の有機物が当てはまるという。
そしてわたくしは、魔法の理から外れた異質な存在であり、この国に忠誠を誓わされた実験体であり、『聖女』だという。
実験体なのになぜ聖女なのか、矛盾じみていてわたくし自身理解できないことばかりだが、どうやら『聖女である』からわたくしの純潔は守られているということは話の雰囲気から察した答えだ。
魔法の理から外れているというのは、多分わたくしを知れば頷ける事なのだろう。
わたくしが発する魔法は桁違いに強く、なのにわたくしの体に魔法の類は効かず、影響しないのだ。
わたくしにはよくわからなかったけれど、母親はこの体質を恐れていた。
学者気取りの貴族たちは、わたくしの中に魔胞がないことまで突き止めたが、魔胞がないのになぜ魔法が使えるのか不思議がっていた。その不思議が、わたくしを実験動物たらしめる要因だった。
「魔法」は魔胞を直接刺激することや魔素を操ることで作用する現象のこと、またその行為を指す。
わたくしたち人間や魔物は普通、魔胞という素粒子増幅器官と魔力回路を体内に持ち、素粒子増幅器官で魔素を溜めることができる仕組みになっている。この二つの器官が魔法の影響を受け、その影響が全身に作用する原点なのだそうだ。学者気取りはこの魔胞を第二の心臓と呼んだ。第三の心臓はふくらはぎだと医学書には書いてあった。
つまり、わたくしは魔胞を持たないから素粒――つまり魔素――が生成されず、魔法を扱うことは不可能であるはずだった。しかし、結果はその真逆で、幼くして魔人と呼ばれる程の火力で家を焼き、滝のような水で家屋を川に押し流す……そんな過去があった。
本当は一人親だからと苦労している母を手伝いたくて風呂焚きをしようとしたわたくしが、結果家を焼き払い、驚いた拍子に慌てて空気中の水を集めたが、それが滝になって村を洪水に巻き込んでしまった。そしてこの事件が近隣の村落だけでなく、たまたま通りがかったキャラバンのせいで近隣諸国のまで知られることとなり、魔人扱いだったわたくしを国の中枢――当時の国王が聖女として迎えてくれた。聖女扱いになったのは王宮に連れ込むのに都合が良かったからだとも噂に聞いている。当時の国王は穏やかだが変わり者で高齢だった。わたくしが王都に連れてこられて始まった穏やかな生活はそう長くは続かなかった。たった2週間でわたくしを迎えてくれた国王は崩御し、翌朝その息子が戴冠式で王冠を被った。
そしてわたくしは、新たな国王の命令で王宮のどこか奥まったところにあると思われる塔に閉じ込められ、毎朝毎晩飽きもせず学者気取りたちに研究されている可哀想なとらわれの身となったのである。
いつものように、わたくしは水をガブ飲みした後でぷはっと息をつき、昇り始めた陽の光に目を細めた。
塔にはカーテンも何もない大きなはめ殺しのガラス窓が東側に一つある。そこから見える朝日が好きで、わたくしはよく早起きしていた。
もう少し北寄りの方角には見張り台があって、この時間になると兵士が交代していく。兵士たちは聖女のわたくしが脱走しないように見張ることが仕事のはずだが、目が合うと手を振ってくれるので意外と彼らはフレンドリーだ。内情を知らないから聖女だと謳われるわたくしを外敵から護ろうとしているのだろうと、理性では分かったつもりでいるが“内敵”による被害で辛い日が続けばやさぐれたくもなる。だからここ最近では見張りとわたくしの目があったとしても、このわたくしの利き手が彼らに手をふり返すことはなかった。
そしてわたくしが早起きする本命の理由が別にある。西側に通気用の小さな窓があって爪先立ちするとちょっとだけ外が見えるのだが、その小さな窓の外に手を伸ばし、手鏡を使って真下を覗き見することだ。
小さな鏡に映る世界は緑色の草花と大きな木の幹だ。木の方は樹齢何千年も生きているのか、大きすぎで幹の一部分しか映らない。おそらくその木の真下あたりに、銀色の何かが過った。
すぐにそちらへ面を向けると、襟足だけ髪紐で結えた子どもの姿が映り込んだ。
黒っぽい服装の子どもは暗がりの中で影のように溶け込んでいるが、フードを下ろした今日みたいな日は、その銀色の髪の毛のおかげで居場所が特定しやすい。子どもの性別は遠目にはわからない。魔法が使える者なら男女関係なく髪を伸ばす傾向にあるからだ。そしてフード付きのコートを着ているのは冬の間だけだと思っていたが、どうやら年がら年中身につけるものらしい。多少生地の厚さが変わっているのかも知れないとは思いつつ、なんていっても真っ黒だからな…とそれ以上の思考を放棄した。
最初は何をしているのだろうと思ったが、どうやら子どもは時折この場所へやってきて、草木に魔法で水を撒いていく。ただ親切心から水やりをしているのかと思った。水やりを終えると、その場にしゃがみ込んでじっとしているから本当に最初の頃は子どもが何のためにこんな辺鄙な場所までやってきているのかわからず警戒したものだ。
でも、寒波の厳しい冬を経た後の今では魔法の練習なのではないかと推察し、これはどうやら当たりだったようだ。
本日の子どもは、周囲の草木や地面を入念に濡らすと、指先に小さな火を灯した。付けては消し、付けては消す、を繰り返した。
パッパッパッと赤い火が一点に明滅するのをわたくしは集中してじーっと見つめていた。
(手に、何か持っているのかな…火打石? 魔胞から魔素を注いで火打石から火花が出ているのかな)
わたくしは必死に目を凝らし、時折後ろを振り返っては侍女が寝ているのを確認してから固唾を飲んで見守る。
(冬の間から比べると、格段に上手くなっている…。基礎と言われる水を操る魔法に苦戦していたはずなのに、今では自由自在に火を操っているし、魔素の供給が安定しているように見える)
魔胞は成長とともに容量が増すという。規格外のわたくしと違って、赤ん坊の頃は涙を出す程度の水を操る魔法が使えて、大人になるにつれ練度が増し、さらに応用も効くようになるのだそうだ。
そういえば、大人の中でもとりわけ魔法の扱いが上手な者を「魔法使い」と呼んでいた。でも学者気取りによれば、「魔法使い」は国家資格未認定のただの市井の民と同義で、勉学と実技を習得して魔胞を鍛え、国家資格に合格した者を「魔法士」と呼ぶそうだ。彼らは国の要職に就けるのだとか。学者気取りの貴族も魔法士なのだと言って威張っていた。
わたくしにとって重要なことはそれじゃない。
どうにかしてこの塔を離れ、わたくしはわたくしの意思で生きて自然に身を任せて死ねる日が来ることを願ってやまない。
さらにわたくしは「あわよくば精神」で願っている。
きっと、この扉が開かれる日がくると!
しかし、わたくしの願いはついぞ果たされないのだった――。
わたくしは塔に連れて来られて、様々な痛みを覚えた。
初めは言葉で心を抉られた。
「なぜこんな簡単な問いに答えられないのか」と。
「なぜお前はそんなに愚鈍なのか」と。
「お前はそれでも聖女か?」と。
心無い言葉を何度も浴びせかけられた。
ついにわたくしがハンガーストライキを起こし、反抗すると、体罰が与えられた。
鞭打ちを最初は両手に。次に両足。最後は布地が裂けるほど背中を叩かれた。
「出来損ないにはこんな簡単な問いに答えられるおつむはないようだ」と嘲笑われ。
「なぜお前はそんなに愚鈍で愚図なのか」と。
「お前はそれでも人間か?」と。
そんな言葉の数々を。もっと乱暴に浴びせかけられながら。
わたくしに体罰を与えるのは最初のうちはペーペーの国王だけだった。
状況を打破するための努力はしたつもりだ。わたくしはわたくしなりに勉強を頑張ったこともあった。ネチネチした学者気取りたちの嫌味に耐えて、屈辱的なテストを。試験体になることも体を張って有用であると何度も立証した。
もちろんペーペーで残虐な国王直々の憂さ晴らしにも耐えた。
なのに、いつまで経ってもわたくしは解放されなかった。
わたくしが囚われ続ける理由を問うた。何度も何度も…!
けれど、国王はまるでわたくしを虫けらを見るような蔑む目を向けてきて、変わったのは痛みだけでなく悲しみが訪れるという事実だった。
国王は、なんとわたくし付きの侍女にまで手を出したのだ!
与えられる痛みに、どんどん感覚が麻痺していった。次第に、体力も気力も削られていった。
ポケットから取り出す手鏡に映し出される世界の、なんと平坦なこと。
時折窓の外に現れる子どもの魔法は、日に日に練度が増していった。
火はマッチの明かりのようにポッと点るようになり、蝋燭の火のように持続時間が長くなった。
子ども自身も成長していく。
急に背が高くなり、銀色の髪の毛も長く伸びていた。
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そこだけ、時間が巡っているような気がする。
振り返ると、寝台には毛布を掛けられて眠る侍女がいる。ここ最近、塔の中はシンと静まり返ってしまった。初めて侍女と顔を合わせた時、にっこりとわたくしに笑いかけてくれた。彼女はあの時、わたくしと同い年で気立てのいい娘と、もう一人息子がいるのだと嬉しそうに話してくれたのだった。「息子」の話はあまり聞けなかったが、娘の話はよく耳にした。
そうだ。そうだった。
わたくしは眠りについたばかりだった侍女を揺すり起こした。そしてこう言ったのだ。「氷菓子が食べたいの」
次の瞬間、侍女は見開いた両目からぼたぼたと涙を流した。ガタガタと震えだす真っ赤な手先が痛々しかったが、わたくしはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「お願い。氷菓子が食べたいのよ」
そしてわたくしは背後を振り返り、ドンドンドン!と強く扉を叩き、見張りの兵を呼んだ。やって来た兵はわたくしたちをいつも気の毒がってくれるけれど、何もしてくれない臆病な男だった。だからわたくしは彼にお願いした。
氷菓子が食べたいから、侍女に持たせて欲しい、と。
男には困った顔をされたが、侍女を塔から連れ出してくれた。
侍女はこちらを振り返らなかった。
戸惑いつつも怯えた様子で、肩を縮こまらせて出て行った。
わたくしは、どうすれば良かったのだろうか。
果たして何が正解だったのだろうか?
わからない。
この閉じ込められた世界で……わたくしは何者にもなれずにいた。
自分の存在意義が薄れたこの世界で。
生きるって、何?
脳裏に大きくなった子どもの姿が思い浮かぶ。
キラキラと朝日にきらめく手鏡に映し出された子どもに、思わず問いかけたくなった。
「生きるって何?」
ベッドの上に移動し、ごろんと寝転がったわたくしがそう囁けば、身長が伸びて、魔胞が鍛えられて、魔法の技術力が高まって、どんどんと自信がついて力が漲って成長した子どもが小走りに塔のそばから走り去っていく姿が脳裏に浮かんだ。
将来に、希望と期待に満ちているような、そんな足取りで。迷いなく進む。小さくなっていく背中。
わたしの中からじわりと込み上げてきた熱いものが、眦から流れ落ちていって、ぷつりと、途切れた。記憶も音も景色も、全部。
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