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ヤンデレルート
2−12
しおりを挟む「お前はまた自由になれるんだよ、如月」
「室賀……」
そう言う室賀の声は先ほどまで陽介に向けていたものとまるで違う。思いやりに満ちていて、修一が少し動揺するくらい優しい声音をしていた。
「……ッ、うるさい! 黙れ!」
いくら恫喝されようが話をやめようとしない室賀に、とうとう陽介は怒りを爆発させた。
陽介が室賀を頬を殴りつけようと大きく振りかぶる。室賀はなぜか、避ける様子も身構えるわけでもなく黙って陽介を見ているだけだ。
「やめろ! ようす……ッぐ、う…‥っ」
とっさに二人の間に入って室賀をかばおうとしたが失敗に終わった。先程から感じていた胃の痛みが突然増し、胃をナイフで切り刻まれたような激痛がみぞおちに走ったからだった。
室賀が陽介に殴られ、その勢いでたたらを踏む。
二人はまだ睨み合っている。近くを歩く通行人が何事かと三人をチラチラと見ていた。こんな往来でいがみ合う二人を止めなければならないのに、修一は一人では立っているのも辛くてどうにか後ずさり、駐車している自分の車に手をついた。
ーーくそ、今に限って……! 二人を止めないとならないのに、このままじゃ陽介も室賀もーー、
警察沙汰だ、と思った瞬間、口の中に苦い味が広がる。直後にひどい吐き気に襲われて口を抑えた。だがそんなことでは当然吐き気は収まらない。
まずい、吐く。そう直感したと同時に身体から力抜けて、その場で膝から崩れ落ちる。
喉の奥からごぽ、と嫌な音がしたと思ったら、次は視界が鮮やかな赤色に染まった。
ーー何だ? …………血?
鉄の味が口中に広がった。
身体から力が抜ける。座っていることさえ困難で、倒れるギリギリのところで車のドアにもたれかかった。
つんざくような女性の悲鳴が聞こえた。どうしたんだと顔を向けようとしたが、首を動かすのが心底億劫だった。
「如月!」
「……修一ッ!」
いがみ合っていた二人が大きな声で修一を呼ぶ。
室賀に続いて陽介が修一の方を向き、二人が慌てたように駆け寄ってくる。
ーーお前たち、ようやく喧嘩をやめたのか。
そう皮肉を言ってやりたかったが喉から出るのは、こぽ、ごぽという音だけで言葉にはならない。音とともに口から溢れ出た生温かい液体が胸元を汚した。
気がつけば視界が霞んでいて二人がそばで何やら喚いているが、よく聞こえない。
二人とも落ち着いて話してみろと言いたいのに、やはり伝えることは出来なかった。
意識が遠のく。二人に焦点を合わせていることすら億劫だ。急激な寒さと眠気が押し寄せてきて、身を任せるように修一は目を伏せた。身体が傾いて、地面にぶつかるなと思った瞬間誰かに抱きとめられる。触れられたところが温かくて安心する。誰だろうと思ってなんとか目を開けると、やはり陽介だった。……ひどい顔をしている。
ーーなぁ陽介、そんな顔をしないでくれ。頼むから泣くなよ。俺はお前の笑った顔が好きなんだ。
顔色は真っ青で、必死な剣幕で何か叫んでいる。眉を寄せて今にも泣きそうな顔をしていて、さっきの調子はどうしたんだとからかってやりたくなった。
そこからは意識が断続的に沈み、浮上する。
「…………代男性。……中、誘因なく突然多量の鮮血を吐血し…………イタルサイン…………意識混濁、ショック症状を認め………いれ可能でしょうか…………搬送します」
気がつけば陽介とも室賀とも違う声が聞こえた。何を言っているのかよく聞き取れないが緊迫した様子だ。
いつの間にかどこかに寝かされているようで、目を開けるたびに天井の風景が変わる。
まるで鉛を流し込まれたように体が重くて、身動きも出来ず変わっていく風景をぼんやり見ていると急に辺りが明るくなって、いつの間にか大勢の知らない顔に取り囲まれていた。
天井の照明があまりに眩しかったので、再び目を伏せる。
「……らぎさん、如月さん。聞こえますか。目を開けられますか」
不意に誰かに肩を叩かれ、目を開けるように促される。とても億劫だったが、それに従ってなんとか目を開けた。
「医師の佐伯です。ここがどこだか分かりますか。ああ、それは酸素マスクなので外さないで」
「……」
ーー佐伯、先生?
修一を起こしたのは一ヶ月前に足の治療をしてくれた医師の佐伯だった。最後に会ったのは確か二週間ほど前で、恐らくもう二度と会うことはないと思っていたのに何故ここにいるのだろうか。それに自分が今どこにいるのかと言う変なこと聞かれる。当然だと、首を少し動かしあたりを見渡すが、この場所は知っているような気もするし、知らない場所な気もした。
わからない、と答えるために何やら口に被さっている邪魔な物をどかして伝えようとしたが、持ち上げた手を軽く押さえられ制止された。
ーーそういえば陽介はどこだろう。……そばに居てやらないと。
どれくらい前かはわからないが最後に見た陽介の顔は可哀そうなくらい今にも泣きそうに歪んでいたから、とても心配だった。
近くには見当たらないし声も聞こえないので、目の前の佐伯に陽介はどこかと聞きたいのだがうまく声が出せない。
「……うすけ、は?」
「井領さんでしたらちゃんと近くにいますよ」
なんとか発した言葉は酸素マスクとやらのせいでくぐもった小さな声になったが、佐伯はしっかりと聞き取ってくれたようだ。陽介が近くにいると聞いて少し安心した。
「ここは病院です。いいですか。如月さんは今、多量に出血しています。恐らく上部消化管からのものと思われますが、出血量が多いので止血を試みる前にまず輸血を行います。血圧が安定し次第、専門医が内視鏡で止血措置を行います。如月さんは今までに、輸血をしたことはありますか?」
「……」
佐伯が何かを伝えたいようだったが、ほとんど頭に入ってこない。彼の質問に答えたいが、それよりも今は眠ってしまいたかった。
「仕方がない、輸血始めて。……先生が到着し次第すぐに内視鏡室に移せるように準備をーー」
修一の返答が待ちきれなかったのか、佐伯は似たような白衣を着た周囲の人間にテキパキと指示を出している。
霞む視界でぼんやりとそれを眺めていたら再び意識が沈んでいった。
「……ッ」
「あー、如月さん。動かないで。君、手を押さえといて」
突然、喉に硬い異物が突き刺さり思わずえずく。混乱して、それを排除しようと重い腕をようやく持ち上げたのに阻まれてしまった。
手を押さえろなんて、ひどいじゃないか。そう抗議しようとしたが喉に異物を突っ込まれているので反論もできない。
うっすら目を開けると、白衣を着た40代くらいの見知らぬ男がモニターを見ながら何かを操作している。
「今、胃にカメラを入れてますからね。出血源が特定できたのでこのまま止血をしますよ。だから動かないで下さいね。……ミダゾラム2ミリ追加して」
ーー胃カメラ? ……止血?
言葉からするにこの男は医師で自分は何か処置を受けているのだろう。苦しかったが動くのも億劫だったので彼のすることに身を任せた。
少しすると、どろりと意識が沈みそうになったので、そのまま眠ってしまおうと目を閉じた。
地に足がついていないみたいに足元がふわふわとしている。
ここはどこだ。陽介は? さっきは泣きそうな顔をしていたから、早くそばに行ってやらないと。そう思っていると、ふと陽介の後ろ姿が目に入った。
陽介、と声をかけたいのにうまく言葉にならない。
彼が行ってしまう。駆け出そうとしたが上手く走れない。待ってくれ、とその後ろ姿に向かって強く念じると、それが伝わったのか陽介が振り向いてくれた。
てっきり嬉しそうに笑ってこちらに来てくれると思ったのに、彼は悲しそうな顔をしてその場に立ち尽くしたままだ。陽介のそばに居たいのに二人の距離はまるで縮まない。
しばらくそうしていると、彼がほろほろと涙をこぼし始めた。
ーーどうしたんだ、陽介。泣かないでくれ。
そばに行って慰めてやりたいのに彼に近づくこともできない。
ーー俺はいつもお前を泣かせてばっかりだ。ごめんな。
陽介が泣いているのはきっと自分のせいだと、修一は思った。
いつだってそうだ。悲しませて、傷つけて、陽介の期待を裏切ってきた。そうして一度目の結婚が駄目になった。数ヶ月前に偶然彼に再会して奇跡的に二度目のチャンスを得ることができたのに、またこうして彼を傷つけてしまっている。
最後に陽介の笑った顔を見たのはいつだっただろう。向日葵みたいに朗らかに笑う彼が好きだったのに、最近はそんな笑顔を全く見せてくれない気がした。
最近の陽介は笑っていても、少し怖い。ちゃんと笑った顔を最後に見たのはいつだっただろうか? 結婚記念日…‥いや、誕生日だったか。とにかくもうだいぶ前だ。
陽介が笑ってくれないのは当然だと思った。自分はいい夫ではなかったから。今みたいに泣かせてばかりで、ただの一人も幸せにできない、ろくでなしの夫だ。
ーーだから今度こそ幸せにしてやりたい、笑ってほしい。どうすれば愛してるって、お前だけだって伝わる? ……俺にはわからないんだ。そういうことを誰かに相談してみればよかったかな。そうだ、夫婦カウンセリングとかいうのを受けてみようか。そういうのがあるって誰かに聞いたんだ。だから今度、二人で行ってみよう。……なぁ陽介、二人で頑張ってみないか。だって俺たちはまた、ふうふになるんだから。だからもう、泣き止んでくれよ。頼むから……。
陽介は何も言ってくれない。陽介の涙を拭ってやりたいのに届かない。何故か手が持ち上がらなくて瞼も重くて、とても眠い。
いつの間にか、これは夢なのだと察していた。……夢の中でくらい笑ってくれてもいいではないか。
つれない陽介に不満を覚えながら、修一は意識を霧散させた。
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