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10 卒業

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 慣れた道順であきの家に着き、インターホンを押す。
 すぐに鍵が回る音がして、扉が開くと、優しい表情のあきが出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」
「あの、これ、親が持ってけって」
 紙袋を渡すと、あきは、受け取ったきり固まった。
「……えっと、ご家族に言ったの?」
「あ、いや。先生の家で勉強教わってくるって言っただけ。でも、言ってみた」
 我に返ったあきは、はにかんだ表情で「ありがとう」と言って俺の頭をそっとなでてくれた。

 室内に入る。
 何度も来た家なのに、これからはちゃんと恋人の家なんだなという、不思議な感覚になった。

「はい、じゃあそこに座ってください」
 本棚から教科書を抜き取りながら、先生モードのあきが言う。
「先生よろしくお願いします」
 あえて呼んでみたら、あきはクスクスと笑った。


 教科書を開き、森鴎外『舞姫』のページへ。
「話自体は、習ったから分かるよね?」
「うん。でも、あんまり印象に残らなかった。話は分かったけど、それが何なのかはよく分からなかったかな」

 舞姫のざっとした筋はこうだ。
 国の支援を受けてドイツへ留学した優秀な学生が、踊り子と恋に落ちた。
 当然周りには反対され、支援を打ち切られてしまう。
 それでも反対を押し切って踊り子と暮らすようになったけれど、友人に戻ってこいと言われた。
 国を取るか恋を取るかで悩んだ末、国を選んで、踊り子と身篭った赤ちゃんを捨てることにした。
 そして踊り子は発狂。
 狂ってしまった踊り子を置いてドイツを去る主人公は、これで良かったのだと自分に言い聞かせるように、こうするよう勧めた友人に感謝の念を抱くと同時に、ほんの少し、彼を恨む気持ちも残っていると、そう自白して話は終わる。

 あきは俺の隣に座って、こちらをのぞき込んだ。
「細かい解釈を始める前に、1つ質問。深澄は、豊太郎のこと、無責任だと思う?」

「うーん……仕方ない、かな。いまみたいに個人の意思が尊重される時代でもないだろうし。それに、勉強するっていう名目でお金を出してもらって来てるわけだから。エリスはかわいそうだけどね」

「もし深澄がその立場だったらどうする? 自分は国策で留学しに来ていて、でも恋に落ちてしまって、周りに戻ってこいと言われて、気づけば彼女は治る見込みがないほど精神が崩壊してしまっていて……どうする?」

 なるほど、安村先生の授業が全然ピンと来なかった理由はこれか。
 自分ならどうするかなんて、少しも考えなかった。
 それに、もし考えていたとしても、いまこんな風にあきと好き同士でいる現状じゃなかったら、ぼんやりした答えだっただろう。

「うーん……一生悩んで苦しんで罪の意識を背負うことを覚悟したうえで、消えるかな。それで苦しんでも、自業自得だと自分に言い聞かせて生きる。死ぬまで」

「僕がおかしくなっちゃったら、捨てる?」
「世が明治で、あきが外国人だったらね。捨てると思う。でもそうじゃないから、何があってもずっとそばにいるつもり」
 あきは、眉尻を下げて俺の頭をなでた。

「高校時代の僕は、エリスを捨てるのは絶対おかしいと思ったけど、でも同時に、もう2度と幸せだった頃には戻れない彼女を責任感だけで面倒見て一生を終えるなんて、そんな人生でいいのかなとも思った」

 それでね、と言ってあきが開いた教科書は、うちの学校で使っているものではなく、古く使い込まれた……要するに、あきが当時使っていたもの。
 舞姫の最後のページに、緑のボールペンでこう書いてある。

――他人は、自分の人生の責任は取ってくれない。

「これが、僕の先生が言ったこと。どんなに的確で親切なアドバイスだったとしても、言う通りにしてその後間違いだったと気づいたって、そのアドバイスをしてくれたひとが責任を取ってくれるわけじゃない。そう言ったの。でも、先生が言ったのはここまで。だから豊太郎の判断が正しいかとか、友人への憎しみをつぶやいた気持ちが良いのか悪いのかとか、そういうのは一切言わなかった」

 前に1度だけあきの授業を受けたときに、『正解者』を出さないんだなという感想を抱いたのだけど、これが原点なのかなと思った。

「そういうわけで、僕は周りの大反対を押し切って、国語の先生になるために進路変更しました。僕の人生の責任も選択権も、僕にしかないと思ったからね」

「やっぱりあきはかっこいい」
「先生には、感謝してもしきれないかな。先生から舞姫の授業を受けていなかったら、僕はいま深澄とこうしていないんだから」

 あきの教科書をのぞき込む。
 行の間やページのあちこちに、細かい文字で書き込みがしてあって、『徹底解剖』というのがぴったりな読み込み具合。
 それでもあきが手に入れたのは、たったひとつのシンプルな答えだった。

「僕は、大事な選択に迫られた時には、いつもこのことを思い浮かべるんだ。深澄に好きだと言おうと思った時もそう。社会的には絶対ダメって思ったけど、僕の人生の責任は僕にあるからいいことにした。もし誰かに止められて、それに従った結果深澄を手に入れられなかったら、それが社会的に正しいことだとしても、僕はずっと悔いるだろうと思ったからね」

 優しく微笑まれて、胸がぎゅーっとなった。
 言葉に詰まって、どうしようもなくて苦笑いする。

「それじゃあ、1行目から。やる?」
「はい。お願いします」
 頭をぺこっと下げたら、あきが、優しい先生の顔になった。
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