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1 茜色

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 誰もいない教室の窓側、後ろから2番目。
 高3にもなって、机に突っ伏して泣く日が来るとは思わなかった。
 わんわん泣くわけじゃない。ただ、ぽろっ、ぽろっと、涙の粒が落ちて、少しだけ鼻をぐずぐずさせて。
 みっともないことこの上ないけど、このまま帰るわけにもいかないし、ただここで顔を腕に埋めて、泣きやんでくれるのを待つしかなかった。

――たかが、テストの点が落ちたくらいで。

 自分でそう思う。なのに、この世の終わりみたいな……バカじゃないかと。
 でも頭のどこかで誰かがこう言う。

――勉強だけが取り柄のお前が成績悪かったら、あとは何が残るんだ?

 ひどくつまらない人間だ。
 勉強ができることでなんとか支えていたちっぽけなアイデンティティが、こんなにも簡単に崩れるんだから。


 新年度はじめの全国実力診断テストで、人生で取ったことのない点をとった。
 趣旨は学校全体の学力を測るものだから、定期テストほど力が入っているわけでもないけど、受験に気合を入れなければならない3年生の初っ端でこんな風につまずくのは、単純にショックだった。

 顔を上げると、教室は夕日で真っ赤になっていて、外からは部活の声が小さく聞こえる。
 いい加減帰らなきゃ、と思ったら、また涙の粒が落ちた。
「もうやだ……」
 絞り出すようにつぶやいた、そのとき。

「どうしたの? 大丈夫?」
 教室の前の扉から、スーツ姿の先生がひょっこりと顔を出していた。
 現国の三船先生。心配そうに、形の良い眉を寄せている。
 俺が何も答えないでいると、机の間をジグザグと縫ってこちらに来た。
 しゃがみこんで目線を合わせる。

「大丈夫? 体調悪い?」
「いえ、大丈夫です……」
 小さくつぶやいた俺の目をじっと見た。泣いてるって思ったんだと思う。
「……何か嫌なことがあったのかな?」
 俺は黙って首を横に振った。
 先生は困ったように小さく息を吐いたあと、隣の席のいすを引き寄せて、すとんと座った。
 胸に下げたネームホルダーが揺れる。

――2年現代国語 三船秋人みふねあきひと

 ゆるく斜めに流した、少し長い前髪。その下からのぞく、優しげな垂れ目。真っ直ぐな鼻筋。薄くて赤い口。たぶん20代後半。
 俺は授業を受けたことがないけど、若くて優しくて生徒との距離が近くて、みんなに人気の先生だと聞いた。
 用事があって職員室から3階まで上がってきたんだろうに、そんなそぶりも見せず、当然のように生徒に寄り添う。

「言いづらかったら、理由は言わなくていいけど。少し横にいてもいい?」
「はい」
 隠すつもりはなかったけど、どう言っていいか分からなくて、また顔を腕に埋めた。

 鼻をすすると、先生が立ち上がって、ドアの方へ行く気配がした。
 腕のすきまからチラッと見ると、前後の扉を閉めてくれていた。
 そしてまた戻ってきて、俺の横に座る。
「気を使ってもらってすいません」
「違うよ、気を使ったわけじゃない。僕のプライバシーの問題だから」
 そう言って、眉尻を下げる。
 心底優しいな、と思った。
 ぐずぐず泣く生徒の横に付き添うことを、自分の勝手みたいにさらりと言ってのける。

「……テストの、点が落ちたんです」
 聞こえるかどうか分からないくらいの声で、言葉にしてみた。
 先生は驚くわけでもなぐさめるわけでもなく、普通に聞き返した。
「どの教科?」
「数学と生物と化学です」
「どのくらい落ちちゃったの?」
「2年間ずっと満点近かったのが、みんな半分くらい」
「そう。でもそれは」

 言いかけた言葉の最後を聞く前に、ふいっと顔を上げた。
 するとなぜか、この場に似つかわしくない感想がぽつりとわいた。

「茜色……綺麗ですね」

 教室を染める、燃える赤。窓の外は、赤とオレンジと紫が複雑に混ざり合った、神秘的な空。
 先生は、驚いて俺の目を見た。

「ごめん。いまから僕、教師としてダメなこと言うね?」
「なんでしょうか」
「テストの点なんて、成瀬なるせくんの人生にとって、ちっとも重要じゃないと思う」

 今度は俺が驚く番だった。目を見開いて、先生に顔を向ける。
 先生の表情は、まじめそのものだった。

「茜色はね、綺麗なんだ。成瀬くんの言うとおり。それが分かるのって、テストで良い点を取ることより何倍も大事なことだと僕は思う。それに、いまそのことに気づいたのって……もしかしたら、まつげに涙の粒がついていたからかも?」

 俺が黙っていると、先生はゆるく微笑んだ。

「今回の実力テストは、理数科目が例年よりハイレベルになってしまって、全国的に平均がガクンと落ちたみたい。やり直しをすることはできないから、成績の評定に入れないようにと、きのう文科省から通達が来たんだ」
「え」
 俺だけじゃなかった……?

「本当ですか? さっきはそんなこと言ってなかったじゃないですか」
 励ますための嘘かと思って聞いてみたけど、先生は小さく笑った。
「だって、言おうとしたら、君があんなこと言うから」
 途端恥ずかしくなって、何もない空中を手で大きく払った。

「僕は、成績の良い生徒より、……いや、成績が良いのは努力の証拠だからそれも素晴らしいんだけど。でも、成瀬くんみたいに感じることができる子は、素敵だと思うよ」

 なんと答えていいやら困っていると、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

「あらら、下校だ。付き合わせてごめんね」
「いや、付き合ってもらったのはこっちなんで。すいません、ありがとうございました」
 俺が立ち上がりカバンを手に取ると、先生も椅子を戻して、後ろのドアを開けてくれた。

「僕は教材室に行くから、ここで。またあした」
「はい、さようなら」
 丁寧に頭を下げる。顔を上げると、3年古文の藤澤先生が階段から上がってきた。
 三船先生の姿を見つけると、ぱっと顔を明るくして、フレアスカートを揺らして駆け寄る。
 たぶん俺のことには気付いていなくて、なんだか親しそうだった。

 俺は、くるりと背中を向けて、教材室側とは反対の階段に向かって歩き出す。
 ガラガラとドアを開ける音が聞こえたのでほんの少し振り返ると、三船先生が扉を開けて、片手で藤澤先生を通していた。
 口元は「どうぞ」と言っていたと思う。
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