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 中学生活最後の夏休み。
 直貴は毎日友達と集まって、ありもしない入試に向けて勉強し、思ってもいない将来の夢を語っていた。
 僕は僕で、生徒と暮らしていることなどおくびにも出さないで、まもなく1ヶ月が経とうとしている。

 歪ではあるが、やれる最大限のことはやっていて、それなりに幸せな毎日を送っている……と思う。

 19:00すぎ。
 学校での業務を終え帰宅すると、部屋の明かりはついているのに、直貴の気配がしなかった。

「……なおき? ただいま。いる?」

 返事がない。
 コンビニにでも行ったのかなと思い、スマホをポケットから探り出した瞬間。

 トイレから、嗚咽とともに、バシャーッと派手に嘔吐する音がした。
 慌てて扉を開けると、顔を腫らした直貴が、便座に頬をつけてぐったりしている。

「直貴!? しっかりして」
「……ぅ、」

 もう一度嘔吐。
 背中をさすり何度か吐かせると、直貴は息を切らしながら壁にもたれかかった。

「何があった?」
「……家に帰るタイミング間違えた。昼間、勉強道具置いてからこっち来ようと思ったら親がいて、ベランダに出されてた」
「え? 何時間そうしてたの?」

 直貴は力なく首を横に振る。

「気付いたら倒れてて、親が家に入れてくれたけど起きるまで顔叩かれて、しばらく部屋で寝てたらマシになったから出てきた」
「水は? 飲んだ?」
「……のんでる、けど吐いちゃう」

 どう見ても重度の熱中症だ。
 一刻も早く病院へ連れて行くべきだが、親に連絡がいくとまずい。
 とりあえず、玄関に放りっぱなしの鞄からスポーツドリンクを引っ張り出して、手渡す。

「吐いてもいいからこれ飲んで。ゆっくり、ちょっとずつ」

 僕は手早く電話をかけた。
 3コール。願いは届き、多忙すぎる相手が出た。

『もしもーし。なにー?』
「生徒が熱中症でずっと吐いてる。どうしたらいい?」
『は? バカ、救急車呼べ』

 和泉真宗いずみまさむね
 僕の高校時代の悪友で、現役の内科医だ。

「事情があって病院に連れて行けない。どうすればいい?」
『……冷やすもんあるか? 首と脇の下、太ももの付け根冷やして、空調は除湿でガンガン冷やして。無理に水は飲ませんな。すぐ行く』

 通話がブツっと切れた。
 愛車のシトロエンで飛ばしてきてくれれば、15分もせずに着くだろう。

「直貴、ちょっと頑張れる? 部屋に行こう」
「……また吐いちゃうかも」
「それならそれでいいから。体冷やさないと」

 肩を貸し無理やり起き上がらせ、部屋の真ん中へ寝かせる。
 申し訳程度の冷却シートを言われた箇所に貼り、うちわで仰いだ。

 LEDライトの下でよく見ると、叩かれたであろう頬は結構腫れている。
 冷却シートは使い切ってしまったので、ハンカチを濡らして当てた。

「誰かくるの……?」
「うん。僕の友達で、お医者さん。悪い奴だから、こんな虐待を知っても黙っててくれるよ」

 直貴はほっとしたように目をつぶった。
 早く、早く来てくれ。

 祈っていると、10分ほどで、インターホンが連打された。
 ドアを開けた瞬間、僕は片手で押しのけられ、和泉は一目散に患者の元へ。
 額に手を当て、脈を測りながら、直貴の全身を観察した。

「自分の名前、分かる?」
「塚原直貴です」
「何歳?」
「もうすぐ15」
「これ指、何本に見える?」
「2本」
「意識は大丈夫そうだな」

 そこでようやく和泉は僕の方へ振り返り、眉間にシワを寄せて尋ねた。

「病院連れてけないって、どういうことだ? ……ってまあ、見りゃ分かるけど」

 直貴の顔の腫れと僕の性格を考えれば、5秒でお見通しだろう。
 和泉はため息をつきつつ、鞄の中から氷嚢ひょうのうを取り出す。
 僕は頭を掻きながら答えた。

「受け持ってるクラスの子。家にいられなくて外フラついてる生活してたから、先月から保護してる」
「家族にはここは知られてないんだな?」
「うん。知ってるのは、校長と、児童相談所の担当者だけ」
「なんだ、完全バックアップか。良かった。捨て猫拾って勝手に育ててんのかと思ったわ」

 真っ赤だった直貴の顔色が、少し落ち着いてきている。
 僕はほっとしつつ尋ねた。

「点滴とか必要? やっぱり病院に連れて行ったほうがいいかな」
「様子見て、自力で経口補水液が飲めればとりあえず平気。でも、これ以上吐くようならうちに運ぶからな」

 三軒茶屋で、祖父の代からの開業医。
 本人は武者修行で大学病院勤務だが、当然、自宅に帰れば医療設備は整っている。

「あの……ごめんなさい」
「ん?」

 おそるおそる謝罪を口にする直貴に、和泉はぐーっと近づいて言った。

「この世に患者が謝らなきゃいけない病は存在しません。見つけたらノーベル医学賞だな」
「えっと、治療費とか」
「ああ、お代? 自費診療3万円、きっちり焼肉で請求するから大丈夫。なあ、木下?」

 和泉の毒舌は、優しさだ。
 僕とは真逆で、本当に相手のためになることしか言わない……そういう人物だと思う。
 先生、先生と慕われて。

「和泉、本当に助かったよ。ありがとう」
「いやお前、説明責任があんだぞ。どうせ今後も医者にはかかれないだろうから、主治医は俺。一からきっちり説明しろ」

 僕は、自分たちの関係以外の全てを話した。
 和泉は神妙な面持ちで話を聞いていたが、全てが済むと、うーんと言って腕を組んだ。

「卒業まで7ヶ月。隠しおおせるか?」
「……神のみぞ知る、かな」

「バカ、神も仏もアテになんねえっつうの。真剣に考えろ。きょうみたいなことがあって、親に連絡しなきゃいけないようなことになったら? 児相は前例どうのこうの言ったかも知んねえけど、それは結果論で何もなかったから言えるんだ。もし親が殴り込んできて、学校行政もろとも隠してましたってなったら、お前のクビも飛ぶし直貴だって危ない」

 真正面からの正論だった。
 何も答えられないでいる僕に、直貴はつぶやいた。

「……やっぱり俺、迷惑かけちゃうし、家に戻ります」
「え? ダメだよ。それで追い出されたら、またどこか知らない人のところへ行くんでしょ? 絶対にダメ」
「でもなんか、ほんと、色んな人に迷惑かけすぎだと思うから」

 和泉は呆れたように、長いため息をつく。

「子供は心配するんじゃなくて安心すんのが仕事。んで木下、これ提案。逃げ込み先をひとつ増やすのはどうだ?」
「……というのは」
「ここがヤバそうな時は、うちに来な。俺がいるかは分かんないけど、愉快な親父と世話焼きのおふくろがいるから」

 これはありがたい。
 和泉なら信頼できるし、医者なら、そこにいる意味も自然で問題ない。
 ご家族もいる。
 僕なんかよりよっぽど『里親さん』らしいと思った――少し悲しいけれど。

「直貴、それでいい?」
「……はい、よろしくお願いします」

 直貴が弱々しく言うと、和泉はにひひと笑い、手を差し出した。
 直貴がその手を掴むと、和泉は背中を支えながら、ゆっくりと体を起こす。
 経口補水液を受け取った直貴は、ほんの少し口に含んだ。

「俺あした非番だし、とりあえず落ち着くまで居るわ」
「焼肉、5万くらいにしようか?」
「直貴が元気になったらな」
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