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橘 金春

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「……」

 十束の腕に一撃を浴びせた黒服は、直後に部屋の奥へ飛び退いた。

 二メートルほどの距離を維持したまま、膝をついた十束と向き合っている格好だ。

 左腕の痛みに顔を顰めながら、十束は黒服の動向に注視していた。

 ――何て力だ。 身軽なだけじゃなかったのか……!

 小柄な体躯からは想像もできないほど重い一撃を繰り出した黒服と、これ以上素手でやり合うつもりは毛頭ない。

 じり、と黒服が一歩を踏み出したのと同時に十束は右手で拳銃を構えた。

「……これ以上やるつもりか? なら、こちらも遠慮なく撃たせてもらうぞ」

 警告終了。次に黒服が攻撃に出れば、威嚇射撃の後に発砲できる。

 この部屋の出口は十束の背後の一つだけ。黒服の逃走経路は完全に限られている。

 ――さあ、どう出る? 

 一か八かで威嚇射撃の間合いで突っ込んでくるか、それとも……。

 かすかな挙動も見逃さぬよう、黒服の一挙手一投足をじっと観察する。すると、妙なことが起こった。

 先ほどまでのギラギラとした手負いの獣のような雰囲気が急に失せた。

 立ちすくんだままの黒服は十束を殴打した自分の手と十束を混乱したように交互に眺めている。

 ――急に、どうしたっていうんだ?

 カタカタと小刻みに震えだした黒服は、しまいには頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。

「先輩!」

 ドカドカと複数の足音が響き、榊と後続の捜査員たちが部屋の中に入ってくる。

 複数のライトに照らし出されて、黒服がビクリと身体を痙攣させた。

「抵抗するな! 大人しくするなら発砲はしない!」

 捜査員の言葉に、黒服はよろよろと立ち上がった。追い詰められるようにじりじりと部屋の奥、窓辺へ向かって後退する。

 入り口は駆け付けた捜査員たちで固められている。いくら何でも逃亡は不可能なはずだ。

 後ずさりしていた黒服がついに窓辺まで追い詰められた。

 肝試しにやってくる連中に荒らされたのか、一部の窓にはひびが入り、足元でパリンとガラスの割れる音が響いた。

「もう後はないぞ、観念しろッ!」

 うなだれたように首を傾げていた黒服が不意に顔を上げ――そのまま、首を引き身体を思い切り後ろに傾け、後頭部をガラス窓に打ち付ける。

「な……!」

「やめろっ!!」

 一撃、さらに二撃……窓ガラスがバリバリと音を立てて砕け、仰向けに身体を撓らせたまま、黒服が窓の外に消えた。

 ――嘘だろ、まさか。

 自殺するなんて。

 建物の三階から落ちて無事なはずはない。

 数人の捜査員が窓辺に向かい、下を覗き込むのを十束は呆然と見つめていた。

 ――あっけなさすぎる。本当にヤツは――。

 左腕を抑えながら、引き寄せられるようにフラフラと窓辺に向かう十束の前に榊が立ちはだかった。

「十束先輩、あまり動いちゃ……」

 榊が言い終えないうちに、窓に向かった捜査員たちがにわかにざわつき始める。

「――はぁ!? 嘘だろ、死体がないぞ!」

 その言葉に十束を含めその場にいた全員が窓辺に押し寄せた。

 ライトを当てて確認してみても、駐車スペースとなっているコンクリートの上にはガラス片が散っているだけで、血の一滴すら落ちていない。

 ピリリリと携帯の着信音が鳴り響き、捜査員の一人が電話をとった。

 手短に会話を終えた捜査員は信じられないというように頭を振りながら一同の顔を振り返った。

「外の見張り役から連絡があった。駐車場から出て来た黒服を追ったが、見失ったそうだ……」

 ――化け物か……。

 全員が恐らく同じことを考えているのだろう。

「……俺達は、何を相手にしてるんだろうな」

 誰に言うでもなく、一人の捜査員がぽつりと呟いた。
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