君の瞳は恋を映す

彩川いちか

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25 断ち切れない想い

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 俺はゆっくりと深呼吸してから、意を決してメッセージアプリを起動した。赤字で記された未読のメッセージ数は、そのすべてが若葉とのものだった。あの日以降、見ることを避けてきた若葉からの連絡。俺は震える指先をなんとか押さえ込みながら、ゆっくりとそこをタップする。

『今日は誘ってくれてありがとう! たくさんの空の写真を見て、本当に目の前にそれぞれの景色が広がってるみたいに感じられてすごく楽しかったし、インスピレーションをもらった気がするよ』
『今度こそいい絵が描けそうかも。目指せ脱スランプ!』

(……っ)

 そのメッセージを目にした瞬間、心が震えた。若葉がどんな顔をしながらこのメッセージを綴ったのかと思うと、切なさと愛おしさが同時に込み上げてくる。
 指を滑らせた先の次のメッセージは、翌日の日付だった。俺が相良先生に連れられて小児科を受診した日だ。

『おはよ~。今日から雪也くんは面接対策なんだよね?』
『私もそろそろ予備校で面接の練習が始まるよ~。その前に今日も部活です! 私も頑張ってくるね』
『お疲れさま~。今日はね、美術部の活動で海に行ったよ。貝殻とかを集めに行ったんだ~。めっちゃ日焼けしちゃった。ちょっと痛いかも。今度会った時びっくりしないでね! 笑』
『今朝からちょっとずつだけど絵を描くのが楽しくなってきたよ。スランプ前みたいにはまだ全然描けてないけど、今日は下絵を描けたの。この調子で頑張っていこうと思う』
『これも雪也くんがいろんなところに一緒に行ってくれたからだね。ありがとう!』

 そんなメッセージとともに、『感謝』という大きなスタンプが添えられている。俺はそれを見つめながら唇を強く噛み締めた。指先が震え、スマホを危うく落としそうになってしまう。
『ありがとう』なんて、言われるような人間ではない。むしろ俺が、彼女に感謝を伝えたいくらいだというのに。
 じわりと目頭が熱くなり、視界がぼやけていくのがわかる。俺はそれを誤魔化すように目元を押さえながら小さく息を吐いた。そしてそのまま次のメッセージへと指を滑らせる。日付は先ほどのメッセージから約一週間後になっていた。

『おはよ! 私も昨日予備校で面接の練習があったよ~。練習だってわかってるのに、超緊張しっぱなしだった~』
『雪也くんは就職試験の準備で忙しいかな? 本当に大変だと思うから、無理はしすぎないでね!』
『あっ、でも雪也くんならきっと大丈夫! 応援してるよ! 返事は気にしないでいいからね』

 そんなメッセージとともに、デフォルメされた猫のキャラクターが黄色いポンポンを振っているイラストのスタンプが送られている。これが若葉から送られてきた最後のメッセージだった。

(なんで……)

 どうして彼女は、あれから一週間近く既読すらつけなかった俺を責めないのだろう。どうして、暖かな労いの言葉をくれるのだろう。

(俺は……彼女を傷つけたかもしれないのに)

 あの日、相良先生に自分の生い立ちを聞いて、もしかしたらと考え俺は逃げるようにして若葉との連絡を絶った。
 もし、俺が若葉の立場だったら。仲良くしていた人間から急に連絡を無視されるようになってしまったとしたら、どう思うだろうか。その人間に対して不信感を抱いたりするのではないだろうか。怒りのままに、絶交宣言でもするかもしれない。
 それなのに、彼女はそんな俺になおも優しい言葉をくれている。

「どうして……」

 なんて情けない声なのだろう。喉の奥から絞り出した声はあまりに弱々しかった。ひくりと喉の奥が震えてしまう。
 大きく息を吐くと、心臓を鷲掴みにされたように苦しくなった。ぱたりと落ちた雫が、スマホのディスプレイを滑っていく。

「……俺」

 鼻の奥が熱い。胸が、張り裂けそうに痛い。
 俺から連絡する資格なんて、ないのかもしれない。そもそも、若葉は視力を失ってしまったのかもしれないのだから、ありがとうもごめんも、もはや彼女には届かない言葉なのかもしれない。

(……それでも)

 それでも――俺は。
 震える指先で、ゆっくりとディスプレイをタップする。

『久しぶり』
『元気?』

 たったそれだけの短い文字を打つだけなのに、ひどく緊張した。打ち間違えぬようゆっくり綴った七文字に、ありったけの想いを乗せて送信ボタンを押す。

「……送っちまった」

 もう後戻りはできない。目の前に表示された緑色の吹き出しを、俺は何度も確かめるように読み返してしまう。

「もっと……なんか気のきいたメッセージにすりゃよかった」

 今更ながらに後悔が押し寄せてくる。「久しぶり」や「元気?」だけでは味気ない気がするが、かといって長々とメッセージを送るのも気が引ける。
 自分の不器用さに、はぁ、と大きなため息を吐いた瞬間、ディスプレイ上に既読の文字がついた。

「……!」

 そして、俺の送ったメッセージのすぐ後に新しい吹き出しが現れる。

『久しぶり!』

 たったそれだけの言葉がこんなにも嬉しいなんて思わなかった。じわりと目頭が熱くなる感覚がして慌てて目元を押さえる。

『私は元気だよ』
『雪也くんは?』

 軽快なプッシュ音とともに、二つの吹き出しが追加された。そのメッセージに、心の奥から揺り動かされるような錯覚を抱いた。
 自分を落ち着けるようにはぁっと重い息を吐き出しながら、目尻を乱暴に拭った。

「っ……俺、も」
『元気だ』

 なんて素っ気ない言葉だろう。それでも、これ以上のメッセージが思いつかなかった。
 生き別れの双子の可能性も否めない。人生で初めての恋をするというあたたかな夢を見させてもらった。
 それだけで――それだけで、よかったはずなのに。

「っ……く、そ……」

 視界が歪み、熱いものが頬を伝っていく。真っ白な病室はひどく静かで、俺の情けない嗚咽だけが静寂を裂く。
 どうして、俺はこんなに苦しいんだろう。彼女に出逢ったあの日から、ずっとそうだ。苦しくて、切なくて、痛くて堪らない。
 彼女の優しさに触れるたび、俺はどうしようもないほど胸を掻きむしられる。喉が押し潰されたように苦しくなって、息をするのもやっとの思いで。それでも俺はこの感情を捨てることもできずに、情けなく彼女に縋ろうとしているのだ。
 ぐるぐると巡る感情を整理しようと、俺はゆっくりと息を吐き出す。そっと窓の外へと視線を向けると、茜色に深い群青色が混ざり始めていて、夜が近づいていることを認識する。

『よかった!』
『急に学校休んでしまったから心配かけたかなって思ってて』
『ごめんね』

 そんなメッセージとともに、デフォルメされたイルカのキャラクターが「ごめん」という文字を背負っているスタンプが送られてくる。なんだか可笑しくてなって、ふっと笑みが零れた。ゆっくりとディスプレイに指先を滑らせ、躊躇いながら文字を打っていく。

『怪我、大丈夫なのか』

 目の事は、なぜか聞けなかった。それは彼女自身が一番気にしているであろうことだから、というのもあったけれど、俺自身がそれを聞くのが怖かったのかもしれない。

『うん!』
『いろいろあってあばらが折れちゃったんだけど、今はもう普通に動けるよ』
『目が見えなくなっちゃったから、ちょっと外を出歩くのはまだ難しいけどね』

 ディスプレイに表示されたメッセージに、ずくりと心臓が嫌な音を立てて軋む。担任から事故の事を聞いていたので薄々察していたものの、いざその現実を文字にされてしまうのは衝撃的だった。

「っ……」

 しばらくディスプレイを見つめたまま固まってしまう。なんと言葉を返せばいいのか、わからない。俺は一度大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと文字を打った。
 その一文を入力するのに、俺はひどく時間をかけた気がする。何度も打ち間違え、うまく言葉が出てこない。そしてそれを送信するかどうかも躊躇った。けれど、ここでなにも送らないでいたら、きっと後悔するだろうという予感がした。だから俺は、震える指先をなんとか抑え込みながら、ゆっくりと画面をタップした。

『完全に見えなくなったのか?』

 そのメッセージに既読がつくのを、俺はじっと画面を見つめながら待つ。すると、数秒後に既読がつき、新しい吹き出しが現れた。

『明るいか暗いかくらいしかわかんないけど、音声認識アプリとかで結構普通に生活できてるよ~』
『これもね、今、声で入力してるの。すごいでしょ? 笑』

 目の前の文面から、若葉の明るい声が聞こえてくるようだった。視力を失ってもなお、前向きに生きようとする彼女の強さが垣間見える。

「……」

 しばらく考えても、『すごいな』と打つべきなのか、それとも『頑張ってるんだな』と彼女を労うべきなのか迷ってしまい、俺は画面をじっと見つめたまましばらく固まってしまう。するとその時、また新しい吹き出しが現れた。

『絵を描くのも工夫すればできるかもって言われてるから、今はいろんな道具に慣れるのを頑張ってるんだ』
『浪人しちゃうだろうけど、美大を目指すのも変わらない目標にしてる!』

「は……?」

 そのメッセージを目で追い、思考が一瞬止まる。
 だって彼女は――もう、目が見えないはずなのに。

(なんで)

 希望を奪われてしまったというのに、若葉はそれでも未来へと歩みを進めようとしている。
 どうしてそこまでして、夢に突き進むことができるのだろう。光の有無しかわからなくなってしまった今でも、「描く」ことへの情熱を失っていない。その強い想いに、俺は息をすることさえ忘れて見入ってしまった。

『それから、予定よりちょっと早いけど今日から面会がオッケーになったんだ~!』
『総合医療センターのB棟の三階にいるよ』
『エレベーターの横の多目的トイレを過ぎたらすぐの病室』
『すぐわかると思うから、いつでも会いに来てってクラスのみんなに伝えてくれると嬉しいなぁ』

「!」

 軽快な音とともに表示されたメッセージ。それを目にした瞬間、俺の心臓はどくりと大きく跳ねた。

「……わ、かば」

 会いたい。今すぐに。
 そう強く思ってしまう自分にひどく戸惑う。どうしてこんなふうに思うのか、自分でもよくわからない。
 もう自分に噓は吐けないと、全身全霊で心がそう叫んでいるのがわかる。
 それでも――君に会いたい。
 ただ、会いたい。会って、この手で触れて、彼女の体温を感じたい。
 会って、話がしたい。彼女の声が聞きたい。その笑顔に触れたい。その身体を抱きしめて、若葉の存在を感じたい――そんな欲が溢れて止まらない。
 手元のディスプレイに表示された時刻は、面会時間終了の三十分前を指している。

(まだ――)

 こんなにも誰かに焦がれたのは、生まれて初めてのことだった。この感情がなんという名前のものなのか、わからない。けれど、心の奥底から溢れ出してくるこの強烈な感情に、気が付かないふりをすることなんてできなかった。
 気付けば、俺は手に持ったスマホをベッドサイドに乱暴に投げ捨て、左腕に差し込まれている点滴に手を伸ばしていた。
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