君の瞳は恋を映す

彩川いちか

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22 遠い光

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 ふっと、意識が浮上する。真っ白な天井を見つめながらぼんやりとした思考の中で状況を把握しようと試みるものの、上手くいかない。

(……ここ、どこだっけ……?)

 どうやら俺はベッドに寝かされているらしい。身体を起こそうとするも鉛のように重たくて動かないので、諦めた。視線だけで辺りを見回すと、隣のカーテンの奥から潜めた声がぽつぽつと聞こえてくる。

「おそといきたい~」
「まだダメよ。ちゃんと治ってからじゃないと」
「だって、つまんな~い」

 幼い子どもを宥める母親の声が耳朶を打つ。ゆっくりと深呼吸を繰り返していると徐々に記憶が蘇ってくるのを感じた。そうだ、俺は朝から体調が悪くて保健室に行ったのだ。そして、そこで――

(あぁ……俺、入院したんだっけな……)

 靄がかったような思考の中でぼんやりと考える。あの後、保健室で症状を診てもらい少し横になったものの、一向に回復の兆しが見えなかった俺は養護教員に付き添われて総合医療センターを受診することになった。血液検査と尿検査の所見から検査入院を勧められ、そのまま小児科のA病棟に入院することになったのだ。

「あ……」

 ふと視線を動かすと、ベッドサイドのテーブルに置かれたスマホが目に入る。手を伸ばしてディスプレイをオンにすると、時刻はすでに十四時を回っていた。どうやら朝の回診以降半日ほど眠っていたらしい。

(……学校)

 ちょうど五限目が終わる頃だろう。けれど、今の俺に通学するだけの気力も体力もないことは自分自身が一番よくわかっていた。

(一昨日から……応募書類の提出だったはずなのにな……)

 あんなに頑張って履歴書の志望欄を埋め、就職試験に向けて少しずつ準備を進めていたというのに、まさかこんな形で頓挫することになるとは思わなかった。第一希望であった企業には別の生徒が試験に進むらしい。やはり学校としてもなにかしらの病気が疑われている生徒を試験に送り込むわけにはいかないらしく、検査入院を終えて原因がハッキリしてから志望先の企業を選び直す方向で話が進んでいる、と、入院の手続きをすべて行ってくれた相良先生から聞いた。

「はぁ……」

 ままならない現実に打ちひしがれてしまい、大きなため息が漏れる。もうなにもかもどうでもいいという気持ちになっていた俺は、そのままゆっくりと瞼を閉じて眠りにつこうとした。
 その瞬間、病室の扉が引かれ誰かが入ってきた気配がした。首を動かす気力もなくて視線だけそちらに向けると、ゆっくりとカーテンが開かれていく。

「体調はどうだ? 雪也」
「相良……先生」

 カーテンの隙間から見慣れた顔が覗く。心配そうに眉根を顰めた表情をしていたけれど、それでも幼い頃からともに過ごしてきた相手だからか、安心感の方が強い。俺がゆっくりと上半身を起こすと、相良先生はベッドサイドの椅子に腰掛けた。

「顔色は少し良くなったように見えるが……まだちょっとしんどそうだな」

 俺の表情を見遣った相良先生は安心したように息をついて俺の額に手を置いた。ひんやりとした感触が心地良くてゆるりと目を細める。

「熱は下がったみたいだな。良かった」

 相良先生は俺の額から手を離すと、そのまま指先でそっと前髪をかき分けてくれた。その優しい仕草に、じわりと眦が熱くなる。この人はいつだってそうだ。俺の弱さも全て包み込むように受け入れてくれるから、俺はこの人の前でだけは素直な自分でいられるような気がする。

「よし、ちょっと俺と散歩するか。ドクターには許可もらってるからな」

 相良先生はそう言うと、俺の身体を支えながら静かにベッドから降ろしてくれた。点滴スタンドを転がしながらそのままゆっくりと二人で病室を出て廊下を進んでいくと、途中で巡回中の看護師とすれ違ったので、「散歩してきます」と軽く会釈をする。
 病棟内は大勢の人たちが行き交っていた。歩くと少し息が苦しいので、途中で一度立ち止まり休憩を取りつつざわめく廊下を過ぎ、病棟の中心に設けられている中庭へと出た。中庭にはベンチやテーブルが置かれていて、入院患者と面会者の憩いの場となっているようだった。俺たちは日陰にあるベンチに腰掛けると、相良先生が大きく伸びをする。

「は~、いい天気だな。雪也、寒くないか?」
「はい」

 相良先生の言葉に小さく頷きつつ答えると、彼は安心したように笑った。

「こうしてゆっくり過ごすのも久しぶりだな」
「……はい」

 小学生の頃は相良先生や施設の近い年頃の子どもたちと一緒に釣りに出かけたりしていたものだが、中学・高校に上がってからはほとんどなかったように思う。俺はぼんやりと空を見上げながら、相良先生との懐かしい記憶を辿っていた。

「小さい時のお前はす~ぐ熱出してたよなぁ」
「……そうでしたか?」
「あぁ、そうだったよ。お前はいつも無理して我慢して……それで熱を出して。この前連れて行った小児科あったろう? お前がちいせぇ頃は今の先生のおやっさん先生が現役の時でな、よ~く診てもらってた」

 そう言われてもあまりピンとこないというか、覚えがないというのが正直なところだ。それでも、相良先生は懐かしむように目を細めているので、きっと本当のことなのだろうと思う。

「お前が施設に来てから、俺はずっと見てきたんだ。最初はな、『なんて大人しい子なんだ』って驚いたよ。だけど、すぐにわかった。雪也は大人しいんじゃなくて、人と関わるのを恐れてるんだって」
「……そんなこと……」

 俺が否定しようと言葉を口にするものの、それは最後まで声にならず空気へと溶けていく。そんな俺の様子を見た相良先生は小さく笑う。
 この人はいつもこうなのだと思う。普段は比較的乱雑で大雑把な性格をしているのに、本当は誰よりも優しくて繊細な人なのだ。
 ふぅ、と大きな息を吐き出した相良先生がふたたび空を見上げていく。その視線の先を追い、俺もゆっくりと顔を上げた。秋を予感させるような高い空には雲ひとつなく、どこまでも澄み渡っていた。

「でもな、そんな雪也が少しずつ変わっていったんだ。最初は『はい』『いいえ』しか言わなかったし、全然笑ってもくれなかったけどよ……今じゃこんなによく笑うようになっただろう。成長していくに連れて……お前が熱を出すことも少なくなっていって。学校に行くのが楽しいってお前の口から出た日にゃあ、家に帰って女房に泣きついちまった。俺は……俺は、お前がこのまま元気にここ施設を巣立っていくんだろうって……そう信じていた」

 声を震わせた相良先生はそこで言葉を区切ると、俺の方へと視線を向けた。その双眸はどこまでも優しくて、そして同時に深い悲しみと後悔が入り混じったような色をしていた。

「……雪也。検査結果のことだが」
「……」

 俺は無言のままこくりと小さく首を縦に振った。相良先生はそんな俺の反応を見て、まるでなにかの覚悟を決めたかのように小さくため息をついた。相良先生の膝の上に置かれている手が、ゆっくりと握り込まれていくのを視界の端で捉えた。

「一昨日受けたCT検査で……肝臓と脾臓が腫れて胃を圧迫していることがわかった」

 俺はただ静かに相良先生の言葉を聞いていた。まるで他人事のように、どこか遠い世界の話のように感じながら。
 硬い反応を見せる俺に、相良先生は一瞬躊躇うような素振りを見せたがすぐに言葉を続けた。

「お前、最近ずっと食欲がねぇって言ってたろう。胃が圧迫されて、物理的に食い物が入るスペースがねぇ状態だったってことなんだろうと思う」
「……」

 自分の指先がひどく冷たくなっているのがわかる。心臓を鷲掴みにされたような感覚で、喉の奥が引き攣れている。

「それに、昨日の心電図の状態から……心臓の弁膜に少し異常があるらしいことも」
「心臓……」

 相良先生はそこで言葉を切ると、大きく息を吸い込んだ。俺はただ、相良先生の白髪の交じった無精ひげをぼんやりと眺めながら、その続きを待っていた。

「血液検査で、コレステロール値に異常があった。お前は……『ライソゾーム病』じゃねぇか、っていう疑いがあるらしい」
「ライソ……?」

 初めて耳にする言葉にぽかりと口が開いてしまう。俺の反応に、相良先生は「あぁ」と短く頷いた。

「生まれつき身体の中にある必要な酵素の働きが弱かったり、あるいは酵素自体がない病気のこと……らしい。分解されない老廃物が年齢を重ねるごとに蓄積されていって、身体の不調を引き起こす。手が突っ張ったりするような神経症状も出たりすることもある。病状の発現時期や進行スピードは千差万別で、早いこともあれば遅いこともある」

 相良先生の口から紡ぎ出される言葉の数々が、まるで呪文のように頭の中をぐるぐると回り続けている。心臓の辺りがぞわぞわしていて落ち着かない。

「ほかの病気でもみられる症状が多いから、正式な診断が難しいそうなんだ。これから精密検査をして詳しいことを調べることになる。骨髄検査、眼底検査、遺伝子検査……他にも色々やるらしい」
「そう、ですか……」

 まだ――実感がわかない。自分がそんな病気を抱えているなんて、とてもじゃないが信じられない。俺はゆっくりと視線を落とし、自分の手のひらをじっと見つめる。今までとなんら変わらない、見慣れた自分の手だ。

(骨髄検査……)

 俺はぼんやりと相良先生の言葉を頭の中で反芻する。俺は拭いきれない灰色の感情を抱えたまま、見つめ続けていた自分自身の手をぎゅっと強く握り締める。

「最初はなにかの間違いだと思ったよ。だってそうだろ? お前が……あんなに元気だったお前が、国の指定難病なんだってよ……信じられるかよ……」

 大きく息を吐き、頭を抱えた相良先生の震える声がやけに遠くに聞こえる。この人は、俺のことをずっと見守ってきてくれた。俺が施設に入った時から、ずっと。だからきっと、俺がそんな病気であることを知った時のショックは、俺なんかよりずっと大きかったはずだ。
 身体の奥からどんどんと冷たさが這い上がってくるようなそんな感覚に陥る。自分が自分でなくなるようで怖かった。

「……治らない、んすかね?」

 精一杯の力で絞り出した声は、相良先生の声とはなぜか対照的に明るさを孕んだ声色のものだった。相良先生は顔を上げると、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。その双眸は涙で潤んでいて、今にも泣き出しそうにみえた。

「治る」

 不意に、ざぁっと大きな風が俺たちの間を通り抜けていった。相良先生の言葉が俺の鼓膜を揺らす。
 それでも、身体の奥からせり上がってくるような熱い奔流が、俺の心に『否』と訴えかけてくる。

(あぁ……治らねぇんだろうな……)

 俺はぼんやりと相良先生の目を見つめ返しながら、そんなことを思った。きっとこれは予感なんかじゃない。この身体の中で燻っている熱が、心を蝕んでいく黒い影が、そう叫んでいた。

「この世に絶対に治らない病気なんてねぇよ。骨髄移植とか、症状を緩和させる薬とか、やり方は色々あるんだと」

 悲しげに眉尻を下げた相良先生の表情に、じわじわと不安が広がっていく。それはまるで炭酸水のように少しずつ弾けながら徐々に広がっていき、やがて大きな波となって俺の心を押し流していった。

「ライソゾーム病は症例数が少ねぇらしいから、まだわかっていないことも多いみたいだ。けどな、世界は日々進歩してるし、昔不治の病だと言われた癌だって今や働きながら治す時代だ。これからだって、もっと色んな病気の新しい治療法が見つかっていくはずだ。だから……お前は大丈夫さ、雪也」

 腕を伸ばした相良先生が俺の頭をくしゃくしゃと撫で回した。その手のひらの温かさにじわりと目頭が熱くなる。

「そう、ですね……きっと……」

 俺はそう言って小さく笑ってみせた。うまく笑えているかすらも、もうわからない。それでも、今だけは――なにも考えずに、この人の優しさに浸っていたかった。
 相良先生はそんな俺を見つめ、どこか寂しそうに笑った。
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