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第47話 恋をしようよ
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家に着いた。
「ただいまー」
おかしいな。咲江さんの甘ったるい返事がない。残業だろうか?
ダイニングをのぞくと紗希がいた。宅配ピザを食べている。
「ただいま」と俺。
「おかえり」と紗希。こっちを見ない。
「咲江さんは?」
「今日、急な飲みごとなんだって。さっきLINE来た。ご飯適当に食べてって」
「……で、ピザ取ったのか」
「悪い?」
横目に俺を見つつ、不機嫌そうな声で紗希が返事。
「別に。俺の分もあるんだよな?」
「見てわかんない?」
テーブル上にあるのはLサイズのピザだ。
「分かるけど」
「なら聞かないでよ」
やはり不機嫌な声で紗希が言った。
「なあ、紗希。朝のことだけどさ……」
紗希は話を切り出した俺を、今まで見たことのないような目つきで見た。
「ああ、あれ? あれがどうかしたの?」
「謝りたいと思ってさ」
ダイニングの入り口に突っ立ったまま、俺は言った。
「何を謝るの? 私に嘘ついていたこと?」
「嘘をついていたわけじゃない」
「嘘じゃん。彼女いたのに、いないって言ってた」
「……」
紗希、嘘じゃないんだ。萌夢ちゃんは彼女じゃない。ただの、サキュバスなんだ。俺のカフェラテを虎視眈々と狙っている、ただのサキュバスなんだ。
「あの娘はだな……えーと、その……」
「あの“娘”だって。なれなれしいね。私知ってる。あの人、文芸部の後輩でしょ? この前部室で会った人だよね?」
ウエットティッシュで手を、紙ナプキンで口の周囲を拭きつつ紗希が言った。俺は「ああ」と短く返事した。
「梅田さんだっけ。実はさ、ちょっと前から兄さんと梅田さん噂になっていたんだよね。言わなかったけど」
「どんな噂だ」
「まあ、いろいろね。私は信じてなかったけど」
「いろいろって?」
「部室でセックスしてた、とか」
サキュバスらしく直球な言い方だ。
「そんなことはしていない。信じてもらえないかもしれないが」
「信じるけど? だって兄さんのカフェラテ、別に薄くなかったし」
言いたいことは分かった。つまり、サキュバスである紗希には自分が飲んだカフェラテが一番搾りかどうかわかるということだ。
ふーん。そうなんだ。
いやいや。今は感心してる場合じゃない。その発見はいろんな意味で大事なんだが、今はそれどころじゃないんだ。
「セックスしてなくても付き合ってはいたんだ」
「そ、それは……」
「嘘つき」
嘘じゃない。付き合ってない。そう言いたかった。だが、言えない。「ごめん」と言うのが精一杯だった。
「私は、自分がサキュバスだってこと――つまり、一番の秘密を兄さんに喋った。なのに兄さんは私に秘密どころか彼女の存在すら教えてくれなかった。それって、すごく悲しい」
一番の秘密。確かに、サキュバスであるってことはトップシークレット。それを告白するというのはかなり勇気がいることだろう。
ということは……同じサキュバスである萌夢ちゃんにとっても、それは勇気がいるってことじゃないのか? 明るく軽い感じで打ち明けられたのでそうは思わなかったが、そうに違いない。
なんで俺なんかにそんな秘密を喋ったのだろう。頭の中がモヤモヤする。胸のあたりがきゅーっと苦しくなる。
いずれにしろ、そうであるならば、萌夢ちゃんがサキュバスであることを紗希に言うわけにはいかない。俺が紗希に出来る説明はただ一つ。萌夢ちゃんとは付き合っている、だ。
「……ごめん。ちゃんと言えば良かったな」
「そうね。知ってたら、雪に文芸部に入ったらなんてアドバイスもしなかったし」
紗希がくるっとこっちを向いた。
「さっき雪からLINE来たんだけどさ。兄さん、雪と一緒に駅まで帰ったの?」
「あ、ああ」
「どういうつもり? 同情ならやめてくんない?」
「同情じゃない」
「もしかして二股かけようとしてる?」
「俺がそんなことすると思うのか?」
紗希が俺の身体を上から下まで舐めるように見た。
「わからない。まだ一緒になって……1年とちょっとだし。兄さんの考えてることなんて、分からない」
俺の考えていること、か。俺も分からないよ、紗希。
「少なくとも、俺は浮気したり二股かけたりはしない。好きになった人を大事にする。それだけだよ」
「好きになった人? それって、文芸部の梅田さんのことだよね?」
紗希の瞳が俺を見つめる。一瞬、間。どう答えるべきか、俺は迷った。
好きになった人、それは誰なんだろう。俺、好きな人いるのか? 萌夢ちゃんとは成り行きで付き合っていることになっただけで、恋愛感情はない。姫島さんもかわいいとは思うが、好きというのとは違う。
紗希を見る。紗希は、妹。俺は紗希をどう思ってるのだろう。紗希となにがしたいんだろ。
「ねえ。カフェラテ飲ませてよ」
唐突に紗希が言った。そのまま俺の方へ歩み寄り、俺の前で跪いた。
「え? 今ここでか?」
「だめなの?」
「でも……」
ぴん。紗希がダブルボイラーを指で弾いた。
「なによ、飲むって言っただけでこんなに熱くなってるくせに」
見下すような笑顔で紗希が言った。俺は返事できない。紗希は言葉を続ける。
「なに格好つけてるの、兄さん? 兄さんがカフェラテくれないなら、私、今から出かけて適当な人から貰うけど?」
「いや、それはやめてくれ」
「なら頂戴」
俺の返事を待たず、紗希が戸棚からマシンを取り出した。
「兄さんなんて、ただのバリスタ。大事なのはこれ」
紗希が抽出口をぎゅっと握りしめる。
「おい、やめろよ」
「あ、それともここかな?」とダブルボイラー触る紗希。
「……そんなとこ触るなよ」
「嬉しいくせに」
紗希が強引にハンドリップを始めようとする。俺は戸惑った。
「咲江さん帰ってくるだろ? マズいって」
「なんか問題ある?」と紗希。
「いや、ない……けど」と俺。
「じゃ、いいじゃん」
ドリップが始まった。なんだかんだ言って俺はバリスタ。圧を高め、抽出するのは気持ちいい。カフェラテを振る舞う行為そのものは快感なのである。
「……はやく出してよ。疲れちゃう」
紗希が俺のハンドドリップにクレーム。
「わかってるって」
「彼女のこと考えたらどう? 私じゃなくあの人にだすって思うとかさ」
「……んな必要ねーよ」
「ふーん」
蔑んだ目で紗希が俺を見た。「ま、いっか」と紗希。
抽出が再開された。ブレザー姿の紗希がマシンをメンテナンス。静かなダイニングにちゅぱ、ちゅぱっとパイプメンテの音が響く。俺の網膜に写る背徳的な光景。
いつもは精密メンテナンスのために俺がパーツを押し込むのだが、今日は紗希が自分から奥の方まで入れ込んできた。
「ん……んあ……ぷは、んぐ」
精密かつ丁寧なメンテナンスのせいだろう、紗希の呼吸が乱れた。
圧がじわっと、こみ上げてきた。ボイラーのラストスパートだ。バリスタたる俺はそれに応えた動きをする。そして、十分な圧を確保してから抽出開始。
「けほ、けほ」
スチームに紗希がむせた。どくどくカップにエスプレッソが注がれ、ミルクが泡立つ。それを紗希はごっくんした。
紗希の顔が少し歪む。
「……苦かった」
当たり前だ。コーヒー、中でもエスプレッソは苦い。
「そういうもんだろ」
「違う。いつもはこんなに苦くない。……兄さんが嘘つくから苦いんだ。兄さんなんか嫌い。嘘つき」
紗希が立ち上がり、口の周りのクレマをティッシュで拭く。
「もういい。やっぱりもう飲まない」
少しの沈黙の後で紗希が言った。またか、と俺は軽くため息をつく。
「意地張るなよ。そういうわけにもいかないだろーが。……サキュバスなんだし」
「そうだよ、サキュバスだよ、私。だからなに?」
「だからなにって……飲まないと死ぬんだろ?」
「そうね。でも、別に兄さんのじゃないとダメって訳じゃない」
紗希がティッシュをゴミ箱に捨てた。
「兄さん知らないだろうけど、私、結構モテるんだよね」
紗希がわざとらしい笑みを浮かべて言った。意外ではない。紗希ほどの美少女であれば言い寄る男子生徒は複数いるだろう。実際、青木だって紗希に好意を寄せている。
「そうなんだ」
「そう。この前も告白されてさ」
嘘では無さそうだ。
「へー」
「まだ返事してないんだけど、オッケーしようかなって考えている」
胸がずきっと痛んだ。紗希に彼氏。別におかしくはない。だが、想定してはいなかった。想定外の事態に俺の身体は動揺する。
「いいんじゃないか」
努めて冷静を保とうとするが、かすかに声が震えた。
「いいんだ」
「ああ。俺が止める理由はないだろ?」
「……ふーん」
ぴくり、と紗希の眉が動いた。
「そうね。じゃ、明日返事しよっと。あ、兄さん。質問していい?」
「なんだ?」
「もうカフェラテいらないからね。彼に出して貰うから。あ、もちろん、サキュバスってカミングアウトはしないよ」
「……いきなりそれはないだろ」
「ふーん。じゃ、いつ頃だったらいい? 次の日? 3日目? それとも一週間後?」
意地悪そうな目で紗希が俺を見つめる。
「いや、日数ではなくてだな、まず、手を繋いで、それからデートして、仲良くなって、キスして、それから……」
「セックス?」
呼吸が止まった。紗希の口からそんなワードが出てくるとは思わなかった。
「いや、それは……」
「夜明けのコーヒー、て言うよね? あれってセックスした翌日に飲むコーヒーって意味なんだよ。知ってた?」
「い、いや。知らなかった」
「じゃあ、今から知って。つまり先にセックスしてからコーヒーってことだと思うんだよね。エスプレッソもカフェラテもコーヒーじゃん? てことはさ。彼にカフェラテ出してもらう前にセックスした方がいいかな?」
悪戯ぽさを通り越し、悪魔的な笑みで紗希が俺を見る。俺の額を冷や汗が流れ落ちる。
「こ、高校生だろ。そう簡単にセックスとか……」
「だめなの?」
「だ、だめだろ?」
「兄さんだって、彼女とセックスしたいでしょ? 気持ちいいらしいよ、セックスって」
聞いたことのない、紗希の冷たい声。
「結局、兄さんは私のこと好きじゃないんだよ。好きなのは、あのおっぱいお化けの後輩。いいよ、それで。セックスでもなんでも好きなことすれば?」
「紗希、それは違う!」
「違わない。私、兄さんのカフェラテ処理要員じゃない。マシンを拭くティッシュじゃない。だから、彼氏作って、彼氏のカフェラテ飲ませて貰う。私のこと好きな人から貰うの。濃ゆくなくてもいいもん。美味しくなくてもいいもん」
「待てよ、紗希。そんないきなり彼にカフェラテ飲ませて貰うなんて、無理だ。変な誤解を……」
「いらない!」
紗希が叫んだ。
「兄さんのなんか、もういらない! ……苦かった。すごく、苦かった。あんなに苦いの……もういらない! 他の女の人のこと好きな人のカフェラテなんか、飲みたくない!」
紗希がダイニングセットから立ち上がる。「兄さんのバカ」と言ってダイニングを飛び出した。タンタンタン、と早足で階段を上っていく。
「紗希!」
俺は紗希を追って階段を上る。
「来ないで!」
紗希が扉を閉める。中から鍵をかける音。俺は何度も扉を叩いて呼びかけた。だが、紗希は「来ないで」「あっちいって」と俺を拒絶した。
俺は諦めてダイニングに戻り、冷めたピザを食べた。冷めたピザは美味しくなかった。
「ただいまー」
おかしいな。咲江さんの甘ったるい返事がない。残業だろうか?
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「ただいま」と俺。
「おかえり」と紗希。こっちを見ない。
「咲江さんは?」
「今日、急な飲みごとなんだって。さっきLINE来た。ご飯適当に食べてって」
「……で、ピザ取ったのか」
「悪い?」
横目に俺を見つつ、不機嫌そうな声で紗希が返事。
「別に。俺の分もあるんだよな?」
「見てわかんない?」
テーブル上にあるのはLサイズのピザだ。
「分かるけど」
「なら聞かないでよ」
やはり不機嫌な声で紗希が言った。
「なあ、紗希。朝のことだけどさ……」
紗希は話を切り出した俺を、今まで見たことのないような目つきで見た。
「ああ、あれ? あれがどうかしたの?」
「謝りたいと思ってさ」
ダイニングの入り口に突っ立ったまま、俺は言った。
「何を謝るの? 私に嘘ついていたこと?」
「嘘をついていたわけじゃない」
「嘘じゃん。彼女いたのに、いないって言ってた」
「……」
紗希、嘘じゃないんだ。萌夢ちゃんは彼女じゃない。ただの、サキュバスなんだ。俺のカフェラテを虎視眈々と狙っている、ただのサキュバスなんだ。
「あの娘はだな……えーと、その……」
「あの“娘”だって。なれなれしいね。私知ってる。あの人、文芸部の後輩でしょ? この前部室で会った人だよね?」
ウエットティッシュで手を、紙ナプキンで口の周囲を拭きつつ紗希が言った。俺は「ああ」と短く返事した。
「梅田さんだっけ。実はさ、ちょっと前から兄さんと梅田さん噂になっていたんだよね。言わなかったけど」
「どんな噂だ」
「まあ、いろいろね。私は信じてなかったけど」
「いろいろって?」
「部室でセックスしてた、とか」
サキュバスらしく直球な言い方だ。
「そんなことはしていない。信じてもらえないかもしれないが」
「信じるけど? だって兄さんのカフェラテ、別に薄くなかったし」
言いたいことは分かった。つまり、サキュバスである紗希には自分が飲んだカフェラテが一番搾りかどうかわかるということだ。
ふーん。そうなんだ。
いやいや。今は感心してる場合じゃない。その発見はいろんな意味で大事なんだが、今はそれどころじゃないんだ。
「セックスしてなくても付き合ってはいたんだ」
「そ、それは……」
「嘘つき」
嘘じゃない。付き合ってない。そう言いたかった。だが、言えない。「ごめん」と言うのが精一杯だった。
「私は、自分がサキュバスだってこと――つまり、一番の秘密を兄さんに喋った。なのに兄さんは私に秘密どころか彼女の存在すら教えてくれなかった。それって、すごく悲しい」
一番の秘密。確かに、サキュバスであるってことはトップシークレット。それを告白するというのはかなり勇気がいることだろう。
ということは……同じサキュバスである萌夢ちゃんにとっても、それは勇気がいるってことじゃないのか? 明るく軽い感じで打ち明けられたのでそうは思わなかったが、そうに違いない。
なんで俺なんかにそんな秘密を喋ったのだろう。頭の中がモヤモヤする。胸のあたりがきゅーっと苦しくなる。
いずれにしろ、そうであるならば、萌夢ちゃんがサキュバスであることを紗希に言うわけにはいかない。俺が紗希に出来る説明はただ一つ。萌夢ちゃんとは付き合っている、だ。
「……ごめん。ちゃんと言えば良かったな」
「そうね。知ってたら、雪に文芸部に入ったらなんてアドバイスもしなかったし」
紗希がくるっとこっちを向いた。
「さっき雪からLINE来たんだけどさ。兄さん、雪と一緒に駅まで帰ったの?」
「あ、ああ」
「どういうつもり? 同情ならやめてくんない?」
「同情じゃない」
「もしかして二股かけようとしてる?」
「俺がそんなことすると思うのか?」
紗希が俺の身体を上から下まで舐めるように見た。
「わからない。まだ一緒になって……1年とちょっとだし。兄さんの考えてることなんて、分からない」
俺の考えていること、か。俺も分からないよ、紗希。
「少なくとも、俺は浮気したり二股かけたりはしない。好きになった人を大事にする。それだけだよ」
「好きになった人? それって、文芸部の梅田さんのことだよね?」
紗希の瞳が俺を見つめる。一瞬、間。どう答えるべきか、俺は迷った。
好きになった人、それは誰なんだろう。俺、好きな人いるのか? 萌夢ちゃんとは成り行きで付き合っていることになっただけで、恋愛感情はない。姫島さんもかわいいとは思うが、好きというのとは違う。
紗希を見る。紗希は、妹。俺は紗希をどう思ってるのだろう。紗希となにがしたいんだろ。
「ねえ。カフェラテ飲ませてよ」
唐突に紗希が言った。そのまま俺の方へ歩み寄り、俺の前で跪いた。
「え? 今ここでか?」
「だめなの?」
「でも……」
ぴん。紗希がダブルボイラーを指で弾いた。
「なによ、飲むって言っただけでこんなに熱くなってるくせに」
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「なに格好つけてるの、兄さん? 兄さんがカフェラテくれないなら、私、今から出かけて適当な人から貰うけど?」
「いや、それはやめてくれ」
「なら頂戴」
俺の返事を待たず、紗希が戸棚からマシンを取り出した。
「兄さんなんて、ただのバリスタ。大事なのはこれ」
紗希が抽出口をぎゅっと握りしめる。
「おい、やめろよ」
「あ、それともここかな?」とダブルボイラー触る紗希。
「……そんなとこ触るなよ」
「嬉しいくせに」
紗希が強引にハンドリップを始めようとする。俺は戸惑った。
「咲江さん帰ってくるだろ? マズいって」
「なんか問題ある?」と紗希。
「いや、ない……けど」と俺。
「じゃ、いいじゃん」
ドリップが始まった。なんだかんだ言って俺はバリスタ。圧を高め、抽出するのは気持ちいい。カフェラテを振る舞う行為そのものは快感なのである。
「……はやく出してよ。疲れちゃう」
紗希が俺のハンドドリップにクレーム。
「わかってるって」
「彼女のこと考えたらどう? 私じゃなくあの人にだすって思うとかさ」
「……んな必要ねーよ」
「ふーん」
蔑んだ目で紗希が俺を見た。「ま、いっか」と紗希。
抽出が再開された。ブレザー姿の紗希がマシンをメンテナンス。静かなダイニングにちゅぱ、ちゅぱっとパイプメンテの音が響く。俺の網膜に写る背徳的な光景。
いつもは精密メンテナンスのために俺がパーツを押し込むのだが、今日は紗希が自分から奥の方まで入れ込んできた。
「ん……んあ……ぷは、んぐ」
精密かつ丁寧なメンテナンスのせいだろう、紗希の呼吸が乱れた。
圧がじわっと、こみ上げてきた。ボイラーのラストスパートだ。バリスタたる俺はそれに応えた動きをする。そして、十分な圧を確保してから抽出開始。
「けほ、けほ」
スチームに紗希がむせた。どくどくカップにエスプレッソが注がれ、ミルクが泡立つ。それを紗希はごっくんした。
紗希の顔が少し歪む。
「……苦かった」
当たり前だ。コーヒー、中でもエスプレッソは苦い。
「そういうもんだろ」
「違う。いつもはこんなに苦くない。……兄さんが嘘つくから苦いんだ。兄さんなんか嫌い。嘘つき」
紗希が立ち上がり、口の周りのクレマをティッシュで拭く。
「もういい。やっぱりもう飲まない」
少しの沈黙の後で紗希が言った。またか、と俺は軽くため息をつく。
「意地張るなよ。そういうわけにもいかないだろーが。……サキュバスなんだし」
「そうだよ、サキュバスだよ、私。だからなに?」
「だからなにって……飲まないと死ぬんだろ?」
「そうね。でも、別に兄さんのじゃないとダメって訳じゃない」
紗希がティッシュをゴミ箱に捨てた。
「兄さん知らないだろうけど、私、結構モテるんだよね」
紗希がわざとらしい笑みを浮かべて言った。意外ではない。紗希ほどの美少女であれば言い寄る男子生徒は複数いるだろう。実際、青木だって紗希に好意を寄せている。
「そうなんだ」
「そう。この前も告白されてさ」
嘘では無さそうだ。
「へー」
「まだ返事してないんだけど、オッケーしようかなって考えている」
胸がずきっと痛んだ。紗希に彼氏。別におかしくはない。だが、想定してはいなかった。想定外の事態に俺の身体は動揺する。
「いいんじゃないか」
努めて冷静を保とうとするが、かすかに声が震えた。
「いいんだ」
「ああ。俺が止める理由はないだろ?」
「……ふーん」
ぴくり、と紗希の眉が動いた。
「そうね。じゃ、明日返事しよっと。あ、兄さん。質問していい?」
「なんだ?」
「もうカフェラテいらないからね。彼に出して貰うから。あ、もちろん、サキュバスってカミングアウトはしないよ」
「……いきなりそれはないだろ」
「ふーん。じゃ、いつ頃だったらいい? 次の日? 3日目? それとも一週間後?」
意地悪そうな目で紗希が俺を見つめる。
「いや、日数ではなくてだな、まず、手を繋いで、それからデートして、仲良くなって、キスして、それから……」
「セックス?」
呼吸が止まった。紗希の口からそんなワードが出てくるとは思わなかった。
「いや、それは……」
「夜明けのコーヒー、て言うよね? あれってセックスした翌日に飲むコーヒーって意味なんだよ。知ってた?」
「い、いや。知らなかった」
「じゃあ、今から知って。つまり先にセックスしてからコーヒーってことだと思うんだよね。エスプレッソもカフェラテもコーヒーじゃん? てことはさ。彼にカフェラテ出してもらう前にセックスした方がいいかな?」
悪戯ぽさを通り越し、悪魔的な笑みで紗希が俺を見る。俺の額を冷や汗が流れ落ちる。
「こ、高校生だろ。そう簡単にセックスとか……」
「だめなの?」
「だ、だめだろ?」
「兄さんだって、彼女とセックスしたいでしょ? 気持ちいいらしいよ、セックスって」
聞いたことのない、紗希の冷たい声。
「結局、兄さんは私のこと好きじゃないんだよ。好きなのは、あのおっぱいお化けの後輩。いいよ、それで。セックスでもなんでも好きなことすれば?」
「紗希、それは違う!」
「違わない。私、兄さんのカフェラテ処理要員じゃない。マシンを拭くティッシュじゃない。だから、彼氏作って、彼氏のカフェラテ飲ませて貰う。私のこと好きな人から貰うの。濃ゆくなくてもいいもん。美味しくなくてもいいもん」
「待てよ、紗希。そんないきなり彼にカフェラテ飲ませて貰うなんて、無理だ。変な誤解を……」
「いらない!」
紗希が叫んだ。
「兄さんのなんか、もういらない! ……苦かった。すごく、苦かった。あんなに苦いの……もういらない! 他の女の人のこと好きな人のカフェラテなんか、飲みたくない!」
紗希がダイニングセットから立ち上がる。「兄さんのバカ」と言ってダイニングを飛び出した。タンタンタン、と早足で階段を上っていく。
「紗希!」
俺は紗希を追って階段を上る。
「来ないで!」
紗希が扉を閉める。中から鍵をかける音。俺は何度も扉を叩いて呼びかけた。だが、紗希は「来ないで」「あっちいって」と俺を拒絶した。
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