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65遠くまできちゃった
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引き留めてほしかった。むしろ、どんなことがあっても傍に置いてくれるって思い込んでいた。私のことをよく知り、いつも守り続けてきてくれたオレガノ隊長に見捨てられるなんて。もう、誰を信じて生きていけばいいのか分からない。
そうやって泣いていたのも、王都を出る頃までだった。いつの間にか私は北部に向かう寂れた街道をひた進んでいて、真っ暗な森の中で野宿。眠る時には結界を張った。
朝起きても、一人。誰も私を探しに来ない。もうすっかり遠くに来てしまったので、城なんて影も形も見えない場所だ。
これから、どうしたらいいのだろう。
全てがリセットされてしまった今、何かを考えようとするのすら面倒になってしまう。現実を見るのが辛くて、思考がすぐにストップしてしまう。
空を仰ぐと、曇り空が朝焼けの赤を纏っていた。
クレソンさん、心配しているかなぁ。
クレソンさんは王籍を取り戻すべく、ようやく周囲の信頼を取り戻しつつある。もちろん、その後押しをしたのは私かもしれないけれど、本当に些細なこと。結局は彼自身の潜在的な力が目覚め、本来の姿を現しただけなのだ。私の貢献なんて、どこにもない。
むしろ、今後は私の存在が彼の重荷になっていくかもしれない。私は珍しい魔術が使えるだけの一般人だ。対する彼は王族。それに相応しい力も持っている。釣りあえているのは、好きという気持ちだけだ。でも愛だの、そんな綺麗事で全てがまかり通らないことは、まだ十代の私にだって分かる。
なのに、既に城が恋しくて、クレソンさんに会いたくて堪らないなんて。頭と心がすれ違って、相討ちして、血を流している。
私は沢を見つけて、水を少しだけ口に含んだ。昨日から何も食べていないけれど、空腹感は無い。でも、朝特有の冷えはしっかりと感じる。足の指がかじかんでいた。森の空気を胸いっぱいに吸い込み目を閉じる。日本にある自宅の裏山とよく似た匂いがしないでもない。私は、落ち葉が降り積もった木立の間を歩き始めた。辛うじて道だと言えるような道。おそらくそれは、薄っすらとした生命線。
◇
景色が開けたのは、さらに翌日の昼のことだった。つまり、私が歩いていたのは、まだ所謂北の森ではなかったということ。かの森には、人が住めないと聞くからね。
そこは小さいながらも街だった。中心部には大きな街にもありがちな噴水のある広場があり、商店も屋台も立ち並んでいる。人の行き来も多少はあって、馬車も見かけた。市街地には川も流れていて、その上に架かる橋で私は一息をついた。手には肉と野菜を挟んだクレープ。こんな時でも、良い匂いが漂ってくれば素直に体が反応する。その正直さに嫌気がさしながらも、口いっぱいに頬張ってみる。久方ぶりの食事。塩コショウしか使われていないようだけれど、十分に素材の甘さと旨味が引き出されている。美味しい。美味しいけれど、それを分かち合いたい人は、ここにはいない。
橋から川を見下ろすと、歪んだ私の顔がさらに歪んで映り込む。私、やっぱりこの世界に来る意味あったのかな? マリ姫様には救世主として必要とされている。でも、城に居座る口実すらない私に、そんな役目が務まるとは思えない。それに、私より強い人なんてお城にはたくさんいるもの。今や、マリ姫様は国民的な人気者。儚げな姿に、世界樹の次期管理人というミステリアスな肩書き。そして、身を犠牲にしてでも、世界を守ろうとする尊い志。彼女を支えたいと思っている人はたくさんいるはず。
私じゃなくても、いいじゃない。
私はふと、水面に映る自分に手招きされたような気がした。ふっと吸い込まれそうになる。おもむろに手を伸ばす。私、そちらに行けば楽になれるの? そちらに行けば、今度こそ独りぼっちにならずに済む? そう、そちらに行けばいいのね。じゃ、今すぐ行くわ。
さよなら、世界。
「何やってるんだ!?」
「えっ」
私の左腕が、知らない男性に強く掴まれていた。
途端に、ここが知らない街の知らない川の知らない橋の上であることを思い出す。
「ありがとうございます」
そう言わなければならないような気がした。男性は初老で、薄茶の髪に白髪が目立つ。背は高くて、貴族風の畏まった背広風のジャケットを身に着けている。控えめな色だけれど、上質な装いのこの方は、何者なのだろうか。
でも、そんなのどうでも良い。私は独りだもの。誰とも繋がることのできない、異世界人。
私は軽く会釈して歩き出そうとした。すると、再び男性が私の左腕を取る。
「エース様、ですね?」
ゆっくりと唾を飲み込む。正直言って、驚いた。こんな所に私を知る人がいるなんて。
この無言の間は、男性に肯定したと捉えられてしまったらしい。彼は満足げに頷いている。私は何となく、不味いことになったと思った。
◇
半強制的に乗せられた馬車は、数十分間程移動し続けた。その間、自分自身に強力な無色透明の結界を張って、万が一に備える。大人しくついてきてしまったのは、仕方がなかった成り行きもあるとは言え、どことなく人恋しくなっていた私の心の弱さ故かもしれない。
「どうぞこちらへ」
大きな屋敷だった。なだらかな丘の上。四方を森に囲まれていて、遠くの方には湖も臨める。どこかの貴族の避暑のための別荘だろうか。私は男性に促されるままに屋敷へ入っていった。アンゼリカさんの実家に通っていたお陰で、こういう雰囲気には覚えがある。無駄に緊張したりはしない。
通されたのは白と薄いグリーンで統一された上品な印象の応接室。アラベスク柄の入ったソファに腰を下ろすと、タイミングを計らったように侍女さん達がやってきて、目の前のテーブルにティータイムの支度を整えていく。
「こういう甘味はお好みだと聞き及んでおりました」
侍女さん達とのやり取りを見たところ、どうやら男性はこの屋敷の執事といった位置づけらしい。
「そろそろ、名乗っていただけませんか?」
私から口火を切った。野営を繰り返してきた身としては、ようやく人心地がつけてほっとするものの、こんなお屋敷でゆったりと寛げる程の太い神経は持ち合わせていない。まずは、私の味方なのか、それとも敵なのかを見極める必要があった。何しろ私は、これでもお尋ね人なのだから。
「本当に何もご存知ないのですね」
男性は嫌味ではなく、心底びっくりしているようだった。馬鹿にされたとは思わないけれど、またか、という感覚は拭えない。
「ニアレークの白壁と言えば、有名なのですがね」
これは後で知ったことなのだけれど、この国では貴族の家名は領地の屋敷の所在の通称名と一致するらしい。ここは、湖の近くにある白い壁のお屋敷という意味なのだ。
「不勉強ですみません」
「いえ。今から申し上げるお願いには、貴族の知識など不要ですから」
「お願いとは?」
「この屋敷に結界をかけてくださいませんか?」
なんだそんなことか。と思うと同時に、私って、今や魔術の面でしか価値を認めてもらえない人間なのだと分かってしまい、悲しくなる。私は、いつかコリアンダー副隊長から覚えさせられた断り文句を口にすることにした。
「ここにかけると、他所にもかけなければならなくなります。でも私の体は一つ。世界中の人々の家を一軒、一軒かけて回れというのですか? 私は私の力を自分のためだけに使います」
これで、扱いづらい傲慢な人間に見えるでしょう? 私は諦めてくれますようにと祈りながら、執事さんを見つめ続けた。
「分かりました。では、お嬢様にお会いいただけませんか?」
「え? ですから私は……」
その時、応接室がノックされた。入ってきたのは車椅子のようなものに乗せられた少女。年齢は私よりも二、三歳若く見える。
「あぁ、夢みたいだわ。あなたがエース様なのね! いつもお兄様のお手紙にあなたのことが書かれているの。お会いできて本当に嬉しいわ!」
「あ、あの、そのお兄様とは?」
「オレガノお兄様は、あの有名な第八騎士団第六部隊を率いる隊長ですのよ? うちには滅多にお帰りにならないのだけれど、それはそれはご立派なお方なのよ。って、あら、ごめんなさい。あなたは部下ですもの。そんなこと、ご存知ですわよね」
もしかして、オレガノ隊長の妹さん?!
「エース殿、こちらは当家のお嬢様でローリエ様です」
ちょっと、頭が混乱してきた。
私、ゆく宛もなく適当に王都から北上してきたはず。その間、ほぼ誰にも会わなかったし、あの橋の上にいたのもたまたまだ。そこへ偶然訪れたのが、オレガノ隊長のご実家の執事さんだったってこと? こんなことって、本当にありえるの?!
その時、突然ローリエさんがコンコンと咳込み始めた。元から目が赤らんでいて、あまり調子が良さそうとは言えなかったけれど、この様子では重病なのだろうか。
「お嬢様は、出かけると不調になられるのです。こうしてお屋敷の中にいらっしゃる間はまだ普通に生活できるのですが、窓を開けたり、外からいらっしゃった方とお会いになるだけでも、このように咳き込まれることもございます」
ローリエさんは目をゴシゴシしていた。侍女さんが持ってきたハンカチで鼻水を拭っている。あれ? この症状、なぜか既視感がある。
「これは一年中のことですか? この時期だけですか?」
答えてくれたのは執事さんだ。
「この冬の終わりから初夏までだけです。お陰様で秋の社交シーズンは出かけられるのが救いなのですが、やはりお辛いご様子は使用人一同心苦しく思っておりまして」
なるほど。ってことは、もしかしてこれ、花粉症?!
「医師に見せても治る手立てが分からないのです。最後の頼みの綱として占い師を呼び寄せたところ、屋敷を結界で囲み、外から悪しきものが入り込まないようにすると良いとの助言を得まして、近々私自ら王都へお願いにあがる予定にしておりました。それが、この街の橋の上にいらっしゃったではありませんか。しかも――」
それ以上は言わないで!
私は執事さんの声を遮るように、こう言い放った。
「お嬢様は結界である程度治すことができます」
有限実行。私は手に白の魔術を発動させた。ローリエさんに数歩近づき、彼女の周辺にふわっと魔力を流す。一瞬彼女自身が白く輝いた。
「お嬢様には結界をかけさせていただきました。これで、お嬢様の体に悪しきものは入ってきません。屋敷からお出かけされても、不調にはなりませんよ」
「ありがとうございます!!」
執事さん、侍女さん、そしてご本人のローリエさんが一様に私へ向かって頭を垂れる。
「今の今まで見ず知らずだったにも関わらず、貴重なお力をお使いくださいまして、本当にありがとうございました」
ローリエさんの言葉にハッとする。その通りだ。なんで私。
ローリエさんの顔を見る。そのお顔には、微かにオレガノ隊長の面影があった。
隊長。
こんなことをしても、罪滅ぼしにもならないのに。私が城からいなくなったことで、オレガノ隊長は第二騎士団から厳しい追及を受けているに違いない。ごめんなさい。ごめんなさい。隊長は決して、私を見捨てたんじゃなかった。ただ、私が悪の手先とならないように、無事に生き延びられるように、彼自身を犠牲にしてわざわざ逃してくれたのだ。
「エース様?」
「エース殿?」
急に泣き出した私は、侍女さんに支えられるようにして客室のベッドへと連れられていった。
◇
私がようやく落ち着きを取り戻したのは夕方になってからのこと。貴族らしい、長テーブルの端と端に座り、私とローリエさんは向かい合って夕飯をいただいている。メインディッシュはホーンラビットのシチュー。あの日、オレガノ隊長と食べたメニューだ。
「そんなことが、あったのですね」
ローリエさんは、ポツリと呟いた。
私は、異世界から来たことや救世主であることを除く、ほとんどのことをローリエさんに話ってしまった。性別のことも。
「私は、ずっとオレガノ隊長に裏切られたと思ってました。でも、本当に裏切ったのは私です。そして私は、また隊長のご縁に救われて、今ここで温かいご飯をいただいています」
「お兄様はきっとあなたのことを責めたりしていないと思うわ」
「でも、追っては来てくれません。もう私は、隊長にとって要らない人間なんです」
すると、ローリエさんの雰囲気がすっと固いものに変化した。
「エースさん。あなたは人のせいばかりですね。私、エースさんはもっと凄い人だと思ってました。いえ、実際に素晴らしい方には違いありませんが、これでは見ていられません」
「失望させたなら、すみません」
「そういう意味ではありませんの。あなた、人にしてもらうことばかりが当たり前になっていますわ。それだけの魔力があり、魔術があり、そして何より健康がある。なのに、ご自分の余裕の範囲内でしか、何も成そうとされていないのですもの。あまりにももったいないですし、待ってばかりいるなんて不健全です。とても幸せだとは思えませんわ!」
「待ってばかり……ですか」
目から鱗だった。
そっか。私、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていたんだ。ひとりぼっちだったのは、私自身が一人きりになろうとしていたから。全部一人で抱え込んで、一人で突っ走って、一人でいじけていた。
あぁ。なんてこと。
「エース様。エース様ならば、きっと自分の手で幸せを掴み取れると思います」
ふっと、マリ姫様の声が蘇る。私の幸せを、誰よりも祈ってくれていた。そして、クレソンさん。私を幸せにすると力強く語っていた。そうだ。私には二人がいる。そして、大切なことを気づかせくれるきっかけをくれたのが、隊長の妹、ローリエさん。
「そうそう。お兄様が手紙でよくお使いになる言葉がありますの」
「どんな言葉ですか?」
「ただ、『生きろ』ですわ。家で塞ぎ込んでいる私への一番のエール。体の調子が思わしくなくても、なかなか相思相愛になれる殿方が見つからなくても、行儀作法の先生に叱られても、いつだって前を向いて生きることが大切なのです」
相手は私よりも若い女性だ。大切に大切に育てられている箱入り娘さん。でも、その言葉には不思議な重みがある。私の中にストンっと落ちて、然るべきところにピタリと嵌ったような気がした。ずっと探していたパズルのピースが見つかったみたいで。
「私、この街で死にそうになっていました。でも、生きてみます。そして、もう待ちません。誰も私を迎えに来てくれないならば、私から皆を迎えにいきます」
そこへ、私でもローリエさんでもない声が食堂に響く。
「その通りよ!」
はっとして扉の方へ目をやると、そこに立っていたのは紫の長い髪をポニーテールにしたスタイル抜群の女性。
「もう待つ必要なんてないわ。女をないがしろにする奴らとは、堂々と戦えばいい。そして、今頃寂しくて泣いてるかもしれないお姫様と王子様を慰めてあげれば、万事解決よ!」
ミントさん、
来てくれたんだ!
そうやって泣いていたのも、王都を出る頃までだった。いつの間にか私は北部に向かう寂れた街道をひた進んでいて、真っ暗な森の中で野宿。眠る時には結界を張った。
朝起きても、一人。誰も私を探しに来ない。もうすっかり遠くに来てしまったので、城なんて影も形も見えない場所だ。
これから、どうしたらいいのだろう。
全てがリセットされてしまった今、何かを考えようとするのすら面倒になってしまう。現実を見るのが辛くて、思考がすぐにストップしてしまう。
空を仰ぐと、曇り空が朝焼けの赤を纏っていた。
クレソンさん、心配しているかなぁ。
クレソンさんは王籍を取り戻すべく、ようやく周囲の信頼を取り戻しつつある。もちろん、その後押しをしたのは私かもしれないけれど、本当に些細なこと。結局は彼自身の潜在的な力が目覚め、本来の姿を現しただけなのだ。私の貢献なんて、どこにもない。
むしろ、今後は私の存在が彼の重荷になっていくかもしれない。私は珍しい魔術が使えるだけの一般人だ。対する彼は王族。それに相応しい力も持っている。釣りあえているのは、好きという気持ちだけだ。でも愛だの、そんな綺麗事で全てがまかり通らないことは、まだ十代の私にだって分かる。
なのに、既に城が恋しくて、クレソンさんに会いたくて堪らないなんて。頭と心がすれ違って、相討ちして、血を流している。
私は沢を見つけて、水を少しだけ口に含んだ。昨日から何も食べていないけれど、空腹感は無い。でも、朝特有の冷えはしっかりと感じる。足の指がかじかんでいた。森の空気を胸いっぱいに吸い込み目を閉じる。日本にある自宅の裏山とよく似た匂いがしないでもない。私は、落ち葉が降り積もった木立の間を歩き始めた。辛うじて道だと言えるような道。おそらくそれは、薄っすらとした生命線。
◇
景色が開けたのは、さらに翌日の昼のことだった。つまり、私が歩いていたのは、まだ所謂北の森ではなかったということ。かの森には、人が住めないと聞くからね。
そこは小さいながらも街だった。中心部には大きな街にもありがちな噴水のある広場があり、商店も屋台も立ち並んでいる。人の行き来も多少はあって、馬車も見かけた。市街地には川も流れていて、その上に架かる橋で私は一息をついた。手には肉と野菜を挟んだクレープ。こんな時でも、良い匂いが漂ってくれば素直に体が反応する。その正直さに嫌気がさしながらも、口いっぱいに頬張ってみる。久方ぶりの食事。塩コショウしか使われていないようだけれど、十分に素材の甘さと旨味が引き出されている。美味しい。美味しいけれど、それを分かち合いたい人は、ここにはいない。
橋から川を見下ろすと、歪んだ私の顔がさらに歪んで映り込む。私、やっぱりこの世界に来る意味あったのかな? マリ姫様には救世主として必要とされている。でも、城に居座る口実すらない私に、そんな役目が務まるとは思えない。それに、私より強い人なんてお城にはたくさんいるもの。今や、マリ姫様は国民的な人気者。儚げな姿に、世界樹の次期管理人というミステリアスな肩書き。そして、身を犠牲にしてでも、世界を守ろうとする尊い志。彼女を支えたいと思っている人はたくさんいるはず。
私じゃなくても、いいじゃない。
私はふと、水面に映る自分に手招きされたような気がした。ふっと吸い込まれそうになる。おもむろに手を伸ばす。私、そちらに行けば楽になれるの? そちらに行けば、今度こそ独りぼっちにならずに済む? そう、そちらに行けばいいのね。じゃ、今すぐ行くわ。
さよなら、世界。
「何やってるんだ!?」
「えっ」
私の左腕が、知らない男性に強く掴まれていた。
途端に、ここが知らない街の知らない川の知らない橋の上であることを思い出す。
「ありがとうございます」
そう言わなければならないような気がした。男性は初老で、薄茶の髪に白髪が目立つ。背は高くて、貴族風の畏まった背広風のジャケットを身に着けている。控えめな色だけれど、上質な装いのこの方は、何者なのだろうか。
でも、そんなのどうでも良い。私は独りだもの。誰とも繋がることのできない、異世界人。
私は軽く会釈して歩き出そうとした。すると、再び男性が私の左腕を取る。
「エース様、ですね?」
ゆっくりと唾を飲み込む。正直言って、驚いた。こんな所に私を知る人がいるなんて。
この無言の間は、男性に肯定したと捉えられてしまったらしい。彼は満足げに頷いている。私は何となく、不味いことになったと思った。
◇
半強制的に乗せられた馬車は、数十分間程移動し続けた。その間、自分自身に強力な無色透明の結界を張って、万が一に備える。大人しくついてきてしまったのは、仕方がなかった成り行きもあるとは言え、どことなく人恋しくなっていた私の心の弱さ故かもしれない。
「どうぞこちらへ」
大きな屋敷だった。なだらかな丘の上。四方を森に囲まれていて、遠くの方には湖も臨める。どこかの貴族の避暑のための別荘だろうか。私は男性に促されるままに屋敷へ入っていった。アンゼリカさんの実家に通っていたお陰で、こういう雰囲気には覚えがある。無駄に緊張したりはしない。
通されたのは白と薄いグリーンで統一された上品な印象の応接室。アラベスク柄の入ったソファに腰を下ろすと、タイミングを計らったように侍女さん達がやってきて、目の前のテーブルにティータイムの支度を整えていく。
「こういう甘味はお好みだと聞き及んでおりました」
侍女さん達とのやり取りを見たところ、どうやら男性はこの屋敷の執事といった位置づけらしい。
「そろそろ、名乗っていただけませんか?」
私から口火を切った。野営を繰り返してきた身としては、ようやく人心地がつけてほっとするものの、こんなお屋敷でゆったりと寛げる程の太い神経は持ち合わせていない。まずは、私の味方なのか、それとも敵なのかを見極める必要があった。何しろ私は、これでもお尋ね人なのだから。
「本当に何もご存知ないのですね」
男性は嫌味ではなく、心底びっくりしているようだった。馬鹿にされたとは思わないけれど、またか、という感覚は拭えない。
「ニアレークの白壁と言えば、有名なのですがね」
これは後で知ったことなのだけれど、この国では貴族の家名は領地の屋敷の所在の通称名と一致するらしい。ここは、湖の近くにある白い壁のお屋敷という意味なのだ。
「不勉強ですみません」
「いえ。今から申し上げるお願いには、貴族の知識など不要ですから」
「お願いとは?」
「この屋敷に結界をかけてくださいませんか?」
なんだそんなことか。と思うと同時に、私って、今や魔術の面でしか価値を認めてもらえない人間なのだと分かってしまい、悲しくなる。私は、いつかコリアンダー副隊長から覚えさせられた断り文句を口にすることにした。
「ここにかけると、他所にもかけなければならなくなります。でも私の体は一つ。世界中の人々の家を一軒、一軒かけて回れというのですか? 私は私の力を自分のためだけに使います」
これで、扱いづらい傲慢な人間に見えるでしょう? 私は諦めてくれますようにと祈りながら、執事さんを見つめ続けた。
「分かりました。では、お嬢様にお会いいただけませんか?」
「え? ですから私は……」
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「あぁ、夢みたいだわ。あなたがエース様なのね! いつもお兄様のお手紙にあなたのことが書かれているの。お会いできて本当に嬉しいわ!」
「あ、あの、そのお兄様とは?」
「オレガノお兄様は、あの有名な第八騎士団第六部隊を率いる隊長ですのよ? うちには滅多にお帰りにならないのだけれど、それはそれはご立派なお方なのよ。って、あら、ごめんなさい。あなたは部下ですもの。そんなこと、ご存知ですわよね」
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ちょっと、頭が混乱してきた。
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「お嬢様は、出かけると不調になられるのです。こうしてお屋敷の中にいらっしゃる間はまだ普通に生活できるのですが、窓を開けたり、外からいらっしゃった方とお会いになるだけでも、このように咳き込まれることもございます」
ローリエさんは目をゴシゴシしていた。侍女さんが持ってきたハンカチで鼻水を拭っている。あれ? この症状、なぜか既視感がある。
「これは一年中のことですか? この時期だけですか?」
答えてくれたのは執事さんだ。
「この冬の終わりから初夏までだけです。お陰様で秋の社交シーズンは出かけられるのが救いなのですが、やはりお辛いご様子は使用人一同心苦しく思っておりまして」
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それ以上は言わないで!
私は執事さんの声を遮るように、こう言い放った。
「お嬢様は結界である程度治すことができます」
有限実行。私は手に白の魔術を発動させた。ローリエさんに数歩近づき、彼女の周辺にふわっと魔力を流す。一瞬彼女自身が白く輝いた。
「お嬢様には結界をかけさせていただきました。これで、お嬢様の体に悪しきものは入ってきません。屋敷からお出かけされても、不調にはなりませんよ」
「ありがとうございます!!」
執事さん、侍女さん、そしてご本人のローリエさんが一様に私へ向かって頭を垂れる。
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ローリエさんの言葉にハッとする。その通りだ。なんで私。
ローリエさんの顔を見る。そのお顔には、微かにオレガノ隊長の面影があった。
隊長。
こんなことをしても、罪滅ぼしにもならないのに。私が城からいなくなったことで、オレガノ隊長は第二騎士団から厳しい追及を受けているに違いない。ごめんなさい。ごめんなさい。隊長は決して、私を見捨てたんじゃなかった。ただ、私が悪の手先とならないように、無事に生き延びられるように、彼自身を犠牲にしてわざわざ逃してくれたのだ。
「エース様?」
「エース殿?」
急に泣き出した私は、侍女さんに支えられるようにして客室のベッドへと連れられていった。
◇
私がようやく落ち着きを取り戻したのは夕方になってからのこと。貴族らしい、長テーブルの端と端に座り、私とローリエさんは向かい合って夕飯をいただいている。メインディッシュはホーンラビットのシチュー。あの日、オレガノ隊長と食べたメニューだ。
「そんなことが、あったのですね」
ローリエさんは、ポツリと呟いた。
私は、異世界から来たことや救世主であることを除く、ほとんどのことをローリエさんに話ってしまった。性別のことも。
「私は、ずっとオレガノ隊長に裏切られたと思ってました。でも、本当に裏切ったのは私です。そして私は、また隊長のご縁に救われて、今ここで温かいご飯をいただいています」
「お兄様はきっとあなたのことを責めたりしていないと思うわ」
「でも、追っては来てくれません。もう私は、隊長にとって要らない人間なんです」
すると、ローリエさんの雰囲気がすっと固いものに変化した。
「エースさん。あなたは人のせいばかりですね。私、エースさんはもっと凄い人だと思ってました。いえ、実際に素晴らしい方には違いありませんが、これでは見ていられません」
「失望させたなら、すみません」
「そういう意味ではありませんの。あなた、人にしてもらうことばかりが当たり前になっていますわ。それだけの魔力があり、魔術があり、そして何より健康がある。なのに、ご自分の余裕の範囲内でしか、何も成そうとされていないのですもの。あまりにももったいないですし、待ってばかりいるなんて不健全です。とても幸せだとは思えませんわ!」
「待ってばかり……ですか」
目から鱗だった。
そっか。私、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていたんだ。ひとりぼっちだったのは、私自身が一人きりになろうとしていたから。全部一人で抱え込んで、一人で突っ走って、一人でいじけていた。
あぁ。なんてこと。
「エース様。エース様ならば、きっと自分の手で幸せを掴み取れると思います」
ふっと、マリ姫様の声が蘇る。私の幸せを、誰よりも祈ってくれていた。そして、クレソンさん。私を幸せにすると力強く語っていた。そうだ。私には二人がいる。そして、大切なことを気づかせくれるきっかけをくれたのが、隊長の妹、ローリエさん。
「そうそう。お兄様が手紙でよくお使いになる言葉がありますの」
「どんな言葉ですか?」
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「私、この街で死にそうになっていました。でも、生きてみます。そして、もう待ちません。誰も私を迎えに来てくれないならば、私から皆を迎えにいきます」
そこへ、私でもローリエさんでもない声が食堂に響く。
「その通りよ!」
はっとして扉の方へ目をやると、そこに立っていたのは紫の長い髪をポニーテールにしたスタイル抜群の女性。
「もう待つ必要なんてないわ。女をないがしろにする奴らとは、堂々と戦えばいい。そして、今頃寂しくて泣いてるかもしれないお姫様と王子様を慰めてあげれば、万事解決よ!」
ミントさん、
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国王たちが戻った頃には、地鳴りと水害で、国が半壊していた。
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家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
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