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止まり木旅館の住人達
失ったもの
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◇翔
翌日、やっとまともなお客様がいらっしゃった。いや、まともとは言いにくい。やや、難ありだ。本日限りは、椿に労いの言葉をかけてやってもいい。
「お嬢ちゃん、可愛いのぉ! もっと、ちこぉ寄れ」
齢(よわい)87歳というご老人は、かなりセクハラをするお方だ。
お出迎えは、番頭になった俺が担当。ここまでは、ただの気の弱そうな老人だった。けれど、大浴場の清掃帰りの椿を遠目に見かけた途端、豹変。87とは思えない身軽さで椿を追い回し始めた。そして、ついに椿を捕まえたら……(以下略
楓は、客室でのおもてなしを予定していたが、理由を話して厨房に押し込んでおいた。あんな客に楓を……いや、俺も楓にやってみたいとかじゃなくて、えっと……とにかく、椿を生け贄にしたわけだ。
しかし、椿はやはり使えない奴だった。お茶を淹れても、かなり渋いし、不味い。客と一緒に歩いてるのに、襖を客に開けさせるし。ほかにも「なってない!」と言いたいことがたくさんあった。あんなことされたのだから、笑顔が少ないのは追求しないでおこう。
というわけで、俺の出番。難ありだからこそ、さっさと事情を聞き出して、できるだけ早くお帰りいただかなくてはならない。
俺は、千景さんの旅館でお裾分けしてもらった茶菓子を客の老人にお出しした。
「このきんつば……なかなか美味!!」
せいぜい甘いものでも食べて機嫌直してくれ。老人は先程まで、不機嫌だったのだ。椿があまりにも痛々しい格好になったので、一旦下がらせたのだが、それが気に入らなかったらしい。
それにしても、よく食うな。糖尿病になっても、俺知らないから。
「甘いものを食べれば、日常のストレスや悩み事も吹き飛びますよね」
「そうとも! 世の中は、たくさんの甘味とおなごで溢れておる。この2つさえあれば、もう何もいらん! もっともっと長生きできたら……」
老人は、ここで言葉を切り、溜め息をついた。世の中のためにも、この辺りで退場するのも手だぞ?と言いたくなったが、どうにか我慢。
「ご病気なのですか?」
「この歳になったらな、若い頃5分でできていたことが、1時間かかる。何か忘れているような気がすることも増える。言葉も思うように出てこなくて、腹が立つ。身体に悪いところがあっても、もう治らんそうだ。歳なんだと。馬鹿馬鹿しい」
老人は、椿が淹れた苦い茶をぐいっと飲み干して、少し咳き込んだ。
「どなたかと生活されてるんですか?」
「いや、1人だ。妻は、去年死んだ。時々、娘夫婦が訪ねてくるが、全く儂の言う事を聞かん。いつまで経っても、しっかりせん奴らだ」
俺は、楓の顔を思い浮かべた。俺は、番頭になったことで、止まり木旅館における立ち位置としては昇格している。でも、それを引き換えに、失ったものがあった。年をとるようになったのだ。
女将と仕入れ係は、宿の要であるために年をとらない。でも、他の従業員は代えがきくから、そうはいかない。このままいけば、楓は今のまま。俺は、この目の前の老人のように、歳をとることを嘆きながら、死んでいく。そしていつか楓は、別の誰かを好きになって、別の誰かと……
その時、客室のドアをノックする音が聞こえた。「失礼します」という声と共に入ってきたのは、椿だった。
「おお、戻ってきてくれたか!」
「はい。お待たせいたしました! おじいちゃん、人生は有限です。有限だからこそ、その瞬間、瞬間がキラリと光るんです。私、覚悟を決めました! おじいちゃんのためなら、私……。だから、たくさん私と遊びましょう。もう、思い残すことがないっていうぐらいに!」
何の覚悟を決めたんだ?!と思った瞬間、老人の目から涙が溢れた。そして、背後には扉が出現。楓がいないから、ちょっと心配していたけれど、なんとかなったようだ。
「扉はこちらですよ!」
椿が、老人を扉の前へ案内している。締めの台詞は、俺から言わせてもらおう。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
俺と椿は、静かに扉に向かって頭を下げた。
「私、がんばりましたよね?!」
「そうだな、今日はよくやった」
バッタのようにぴょんぴょん飛び跳ねる椿。じゃれついてくるのがうざったかったので、頭をぐしゃぐしゃに撫でつけてやった。
楓は、まだ厨房に詰めていて、カツオ出汁の良い香りが漂ってくる。俺は、女将部屋に向かった。大変気にくわないが、この件について話ができるのは、あの人しかいない。導きの神だ。
老人と話していて、今更ながら焦ってしまったのだ。
ちなみに、礼から仕入れ係を取り上げるつもりはない。あの糞ババアと俺は、以前から折り合いが悪かったので、もう限界だったし。礼には、特殊体質になることも既に伝えてある。きっと本人も、せっかく手に入れた夢のような権利を手放したいとは思わないだろう。
では、別の特権階級を神に用意してもらう? いや、そんなの無理だ。
あの時は、どうにかして楓を千景さんのところに帰さないと!と必死で、この事はすっぽりと頭から抜け落ちていた。楓に、もう会えなくなるって、思っていたから。
楓が俺を選んでくれる場合のこと、もっと考えておけば良かった……。
もちろん、全てを受け入れて、生きている限り楓の側にいて、楓の役に立てればそれで良いという考えもある。でも、俺がいなくなった後、楓が誰かのものになるのは……。いや、今も俺のものってわけじゃないんだけど。
本当に何も方法は無いのだろうか。楓とずっと一緒にいられる方法。
俺は、よたよたとした足取りで女将部屋に辿り着くと、いつも通りに引き戸を開けた。すると、強い光に視界を奪われて……意識が吹き飛んだ。
翌日、やっとまともなお客様がいらっしゃった。いや、まともとは言いにくい。やや、難ありだ。本日限りは、椿に労いの言葉をかけてやってもいい。
「お嬢ちゃん、可愛いのぉ! もっと、ちこぉ寄れ」
齢(よわい)87歳というご老人は、かなりセクハラをするお方だ。
お出迎えは、番頭になった俺が担当。ここまでは、ただの気の弱そうな老人だった。けれど、大浴場の清掃帰りの椿を遠目に見かけた途端、豹変。87とは思えない身軽さで椿を追い回し始めた。そして、ついに椿を捕まえたら……(以下略
楓は、客室でのおもてなしを予定していたが、理由を話して厨房に押し込んでおいた。あんな客に楓を……いや、俺も楓にやってみたいとかじゃなくて、えっと……とにかく、椿を生け贄にしたわけだ。
しかし、椿はやはり使えない奴だった。お茶を淹れても、かなり渋いし、不味い。客と一緒に歩いてるのに、襖を客に開けさせるし。ほかにも「なってない!」と言いたいことがたくさんあった。あんなことされたのだから、笑顔が少ないのは追求しないでおこう。
というわけで、俺の出番。難ありだからこそ、さっさと事情を聞き出して、できるだけ早くお帰りいただかなくてはならない。
俺は、千景さんの旅館でお裾分けしてもらった茶菓子を客の老人にお出しした。
「このきんつば……なかなか美味!!」
せいぜい甘いものでも食べて機嫌直してくれ。老人は先程まで、不機嫌だったのだ。椿があまりにも痛々しい格好になったので、一旦下がらせたのだが、それが気に入らなかったらしい。
それにしても、よく食うな。糖尿病になっても、俺知らないから。
「甘いものを食べれば、日常のストレスや悩み事も吹き飛びますよね」
「そうとも! 世の中は、たくさんの甘味とおなごで溢れておる。この2つさえあれば、もう何もいらん! もっともっと長生きできたら……」
老人は、ここで言葉を切り、溜め息をついた。世の中のためにも、この辺りで退場するのも手だぞ?と言いたくなったが、どうにか我慢。
「ご病気なのですか?」
「この歳になったらな、若い頃5分でできていたことが、1時間かかる。何か忘れているような気がすることも増える。言葉も思うように出てこなくて、腹が立つ。身体に悪いところがあっても、もう治らんそうだ。歳なんだと。馬鹿馬鹿しい」
老人は、椿が淹れた苦い茶をぐいっと飲み干して、少し咳き込んだ。
「どなたかと生活されてるんですか?」
「いや、1人だ。妻は、去年死んだ。時々、娘夫婦が訪ねてくるが、全く儂の言う事を聞かん。いつまで経っても、しっかりせん奴らだ」
俺は、楓の顔を思い浮かべた。俺は、番頭になったことで、止まり木旅館における立ち位置としては昇格している。でも、それを引き換えに、失ったものがあった。年をとるようになったのだ。
女将と仕入れ係は、宿の要であるために年をとらない。でも、他の従業員は代えがきくから、そうはいかない。このままいけば、楓は今のまま。俺は、この目の前の老人のように、歳をとることを嘆きながら、死んでいく。そしていつか楓は、別の誰かを好きになって、別の誰かと……
その時、客室のドアをノックする音が聞こえた。「失礼します」という声と共に入ってきたのは、椿だった。
「おお、戻ってきてくれたか!」
「はい。お待たせいたしました! おじいちゃん、人生は有限です。有限だからこそ、その瞬間、瞬間がキラリと光るんです。私、覚悟を決めました! おじいちゃんのためなら、私……。だから、たくさん私と遊びましょう。もう、思い残すことがないっていうぐらいに!」
何の覚悟を決めたんだ?!と思った瞬間、老人の目から涙が溢れた。そして、背後には扉が出現。楓がいないから、ちょっと心配していたけれど、なんとかなったようだ。
「扉はこちらですよ!」
椿が、老人を扉の前へ案内している。締めの台詞は、俺から言わせてもらおう。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
俺と椿は、静かに扉に向かって頭を下げた。
「私、がんばりましたよね?!」
「そうだな、今日はよくやった」
バッタのようにぴょんぴょん飛び跳ねる椿。じゃれついてくるのがうざったかったので、頭をぐしゃぐしゃに撫でつけてやった。
楓は、まだ厨房に詰めていて、カツオ出汁の良い香りが漂ってくる。俺は、女将部屋に向かった。大変気にくわないが、この件について話ができるのは、あの人しかいない。導きの神だ。
老人と話していて、今更ながら焦ってしまったのだ。
ちなみに、礼から仕入れ係を取り上げるつもりはない。あの糞ババアと俺は、以前から折り合いが悪かったので、もう限界だったし。礼には、特殊体質になることも既に伝えてある。きっと本人も、せっかく手に入れた夢のような権利を手放したいとは思わないだろう。
では、別の特権階級を神に用意してもらう? いや、そんなの無理だ。
あの時は、どうにかして楓を千景さんのところに帰さないと!と必死で、この事はすっぽりと頭から抜け落ちていた。楓に、もう会えなくなるって、思っていたから。
楓が俺を選んでくれる場合のこと、もっと考えておけば良かった……。
もちろん、全てを受け入れて、生きている限り楓の側にいて、楓の役に立てればそれで良いという考えもある。でも、俺がいなくなった後、楓が誰かのものになるのは……。いや、今も俺のものってわけじゃないんだけど。
本当に何も方法は無いのだろうか。楓とずっと一緒にいられる方法。
俺は、よたよたとした足取りで女将部屋に辿り着くと、いつも通りに引き戸を開けた。すると、強い光に視界を奪われて……意識が吹き飛んだ。
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