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止まり木旅館の若女将
イメージの崩壊
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母さんの日記帳からは、樟脳(しょうのう)の匂いが強く香った。そっとページを捲(めく)ると、このようなことが書かれてあった。
『七月十三日
最近、よく夢を見る。何か悪いことが降りかかるような……そんな胸騒ぎがする。
止まり木旅館は安全な場所のはず。だけど、何かが迫っているような気がするのだ。あくまで勘なのだけれど。もし私に何かがあった時に備えて、今日から毎日少しずつでも何かを書き残していくことにしよう。楓のためにできることはこれぐらいだから。まずは、……』
母さんは、その後起きることを予知していたようだ。昔から妙に勘が鋭い人だったから、自然と納得できる。
『まずは、女将の心得から。
止まり木旅館のお客様は、かなり特殊。皆、何らかの傷を抱えておいでになる。無口な人、失礼な人、変な人、乱暴な人……様々だけれど、全て大切なお客様。時の狭間の止まり木で羽を休めて、また元の場所や、新境地に飛び立っていけるように後押ししなければならない。それが、私たちのお仕事なのだから。
止まり木旅館は、お客様にとって最後の砦でもある。ゆったりと過ごすことで心を満たしていただかないと、お帰りにはなれないの。そのためには、決して笑顔を絶やさないで。楓は笑うとかわいいよ。……』
母さん……。母さんは、私と違って美人で気立ての良い女性だった。私が受け継いだのは、髪の色ぐらい。若々しくて、綺麗で、大きくなってからはずっと私のライバルだと思ってきた。でも、今となっては……あくまで、母さんは私の母さんなのだと思い知らされる。そして、師匠でもあるのだ。
いつの間にか視界がぼやけてきて、瞬きすると、座卓の上に小さな小さな水たまりが二つ並んでできていた。
『とは言え、腹が立つこともたくさんあるでしょう。笑顔になんてなれないぐらい、つらいこともあるでしょう。そんな時のストレス解消法を伝えておくわ。』
母さんはいつも淡々と女将業に勤しんでいるように見えていたけれど、そうでもなかったのかもしれない。ストレス解消法か。すごく興味がある。
『一番簡単なのは、庭に穴を掘って、そこに向かって日頃の愚痴を叫ぶこと。かなり喉が枯れる可能性があるので、水筒にお茶を入れて持っておくのがオススメ。』
なんて原始的なんだ。穴に向かって叫んだところで、周囲に内容がダダ漏れになるような……。
『フランスパンを作るのもオススメ。フランスパンを嫌な客に見立てると、自然と力が入ってしっかり捏ねることができるから、美味しいパンに仕上がる。焼きあがった少し固めのパンをかじるのも、ストレス解消に繋がるかもしれない。』
母さん、よくフランスパンを作っていたけれど、こんな理由があったなんて……。あれは、怨念が込められたパンだったのね。
『でも一番効くのは、これ。藁人形。庭の雑草を引き抜いてきて、藁の代わりにするのも良し。もちろん、人型に作り上げた後は、釘と金槌を準備すること。後は、夜中、人気のない庭の裏手などで、気が済むまで打ちつければ、朝にはすっきりしているはず。』
ちょっと! こんなものを娘に受け継いでどうするの?! 母さんのイメージがどんどん崩れていく……。もしかして、こんな呪いをかけるようなことばかりしていたから、元お客様の怨霊に取り憑かれて死んじゃったとかじゃないよね?!
『それでも、すっきりしない時は、やっぱり誰かに話を聞いてもらったり、頼ったりするのが良いかもしれない。楓には、翔くんがいる。翔くんに余裕がない時は、次の方法で、母さんの兄弟に助けてもらいなさい。』
その後書かれていた情報は、先日桜ちゃんから聞いた内容とほぼ同じだった。けれど、名付けて『時の狭間チェーン』のお宿への行き方は、これで判明した。私は時の狭間の住人だから、外の世界には行けないけれど、時の狭間の中での移動は割りと簡単にできるようだ。
ほかには、お料理のことや、お掃除のコツ、定期的にメンテしなければならない旅館設備のことなど、女将業務に関わることがつらつらと何日にも渡って書かれてあった。
そして、最後、八月十二日の日記。
『八月十二日
楓に伝えておかなければならないことは、これで殆ど書き終えたと思う。ただ、一つを除いて。このことは、楓が小さな頃から言い聞かせてきたのだけれど、全く信じてもらえなかった。だから、ここに書いたところで、また信じてくれないかもしれない。
でも、楓をいつも見守っているのは、私だけではないということ。楓は、特別な存在であるということ。それだけは忘れないで。』
何のことだろう? ずっと言い聞かされてきたと言うことは、秘密の話ではないのだろう。いろいろと思い巡らせてみるも、なかなか心当たりが浮かばない。また謎が増えてしまったような気分だ。
しかも、私が特別な存在? 一般的に、母親にとって子どもは宝物のような存在だというから、そういう意味なのだろうか。
ともかく、母さんの生死に直接結びつけられるような情報は見つけることができなかった。特に身体の不調があったという事も記されていなかった。それだけに、まだどこかの世界で生きているんじゃないかと思えてしまう。
同時に、翔に関する情報も書かれていなかった。仕入れ係が行方不明になった時の対処法というのも見当たらなかった。
私は、母さんの日記帳を箪笥の隠し扉の中に仕舞うと、従業員控え室に皆を集めた。
「私は、今から、大女将の弟が経営する『旅館木っ端みじん』に行ってきます。皆、留守をお願いね」
人に話を聞いてもらったり、頼ったりするのは、ストレスが溜まった時だけでなくても良いと思う。私は、次なる手がかりに賭けてみることにした。
『七月十三日
最近、よく夢を見る。何か悪いことが降りかかるような……そんな胸騒ぎがする。
止まり木旅館は安全な場所のはず。だけど、何かが迫っているような気がするのだ。あくまで勘なのだけれど。もし私に何かがあった時に備えて、今日から毎日少しずつでも何かを書き残していくことにしよう。楓のためにできることはこれぐらいだから。まずは、……』
母さんは、その後起きることを予知していたようだ。昔から妙に勘が鋭い人だったから、自然と納得できる。
『まずは、女将の心得から。
止まり木旅館のお客様は、かなり特殊。皆、何らかの傷を抱えておいでになる。無口な人、失礼な人、変な人、乱暴な人……様々だけれど、全て大切なお客様。時の狭間の止まり木で羽を休めて、また元の場所や、新境地に飛び立っていけるように後押ししなければならない。それが、私たちのお仕事なのだから。
止まり木旅館は、お客様にとって最後の砦でもある。ゆったりと過ごすことで心を満たしていただかないと、お帰りにはなれないの。そのためには、決して笑顔を絶やさないで。楓は笑うとかわいいよ。……』
母さん……。母さんは、私と違って美人で気立ての良い女性だった。私が受け継いだのは、髪の色ぐらい。若々しくて、綺麗で、大きくなってからはずっと私のライバルだと思ってきた。でも、今となっては……あくまで、母さんは私の母さんなのだと思い知らされる。そして、師匠でもあるのだ。
いつの間にか視界がぼやけてきて、瞬きすると、座卓の上に小さな小さな水たまりが二つ並んでできていた。
『とは言え、腹が立つこともたくさんあるでしょう。笑顔になんてなれないぐらい、つらいこともあるでしょう。そんな時のストレス解消法を伝えておくわ。』
母さんはいつも淡々と女将業に勤しんでいるように見えていたけれど、そうでもなかったのかもしれない。ストレス解消法か。すごく興味がある。
『一番簡単なのは、庭に穴を掘って、そこに向かって日頃の愚痴を叫ぶこと。かなり喉が枯れる可能性があるので、水筒にお茶を入れて持っておくのがオススメ。』
なんて原始的なんだ。穴に向かって叫んだところで、周囲に内容がダダ漏れになるような……。
『フランスパンを作るのもオススメ。フランスパンを嫌な客に見立てると、自然と力が入ってしっかり捏ねることができるから、美味しいパンに仕上がる。焼きあがった少し固めのパンをかじるのも、ストレス解消に繋がるかもしれない。』
母さん、よくフランスパンを作っていたけれど、こんな理由があったなんて……。あれは、怨念が込められたパンだったのね。
『でも一番効くのは、これ。藁人形。庭の雑草を引き抜いてきて、藁の代わりにするのも良し。もちろん、人型に作り上げた後は、釘と金槌を準備すること。後は、夜中、人気のない庭の裏手などで、気が済むまで打ちつければ、朝にはすっきりしているはず。』
ちょっと! こんなものを娘に受け継いでどうするの?! 母さんのイメージがどんどん崩れていく……。もしかして、こんな呪いをかけるようなことばかりしていたから、元お客様の怨霊に取り憑かれて死んじゃったとかじゃないよね?!
『それでも、すっきりしない時は、やっぱり誰かに話を聞いてもらったり、頼ったりするのが良いかもしれない。楓には、翔くんがいる。翔くんに余裕がない時は、次の方法で、母さんの兄弟に助けてもらいなさい。』
その後書かれていた情報は、先日桜ちゃんから聞いた内容とほぼ同じだった。けれど、名付けて『時の狭間チェーン』のお宿への行き方は、これで判明した。私は時の狭間の住人だから、外の世界には行けないけれど、時の狭間の中での移動は割りと簡単にできるようだ。
ほかには、お料理のことや、お掃除のコツ、定期的にメンテしなければならない旅館設備のことなど、女将業務に関わることがつらつらと何日にも渡って書かれてあった。
そして、最後、八月十二日の日記。
『八月十二日
楓に伝えておかなければならないことは、これで殆ど書き終えたと思う。ただ、一つを除いて。このことは、楓が小さな頃から言い聞かせてきたのだけれど、全く信じてもらえなかった。だから、ここに書いたところで、また信じてくれないかもしれない。
でも、楓をいつも見守っているのは、私だけではないということ。楓は、特別な存在であるということ。それだけは忘れないで。』
何のことだろう? ずっと言い聞かされてきたと言うことは、秘密の話ではないのだろう。いろいろと思い巡らせてみるも、なかなか心当たりが浮かばない。また謎が増えてしまったような気分だ。
しかも、私が特別な存在? 一般的に、母親にとって子どもは宝物のような存在だというから、そういう意味なのだろうか。
ともかく、母さんの生死に直接結びつけられるような情報は見つけることができなかった。特に身体の不調があったという事も記されていなかった。それだけに、まだどこかの世界で生きているんじゃないかと思えてしまう。
同時に、翔に関する情報も書かれていなかった。仕入れ係が行方不明になった時の対処法というのも見当たらなかった。
私は、母さんの日記帳を箪笥の隠し扉の中に仕舞うと、従業員控え室に皆を集めた。
「私は、今から、大女将の弟が経営する『旅館木っ端みじん』に行ってきます。皆、留守をお願いね」
人に話を聞いてもらったり、頼ったりするのは、ストレスが溜まった時だけでなくても良いと思う。私は、次なる手がかりに賭けてみることにした。
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