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止まり木旅館の若女将
新たな主
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客室の座敷の奥には、一際高くなったエリアを用意した。そこに、本日のお客様であるお殿様が、どっかりと腰を下ろしていらっしゃる。少し離れたところでは、礼くんが息をひそめて控えていた。
「ここは、平和だな」
お殿様は、ぽつりと呟いた。
お殿様は、ここが止まり木旅館だと申し上げても、客室に上がられてからも、全く動じる様子がなかった。文化的には、止まり木旅館と同じ流れを汲む場所からのご来訪だ。とは言え、彼の時代とは異なる着付けをした女がいて、電話やテレビといった家電もある。明らかに別世界に来てしまったことは実感できているだろうに、至って冷静だ。さすが武士。
「城下や農村では、昨年の飢饉の影響が残っていて、まだまだ生活が再建できていない民が多い。こんなところで、一人のうのうと過ごしていても良いものなのだろうか」
お殿様の眉間の皺は深い。私がお出ししたお茶をゆっくりと飲み干すと、彼は庭の方を見やった。
今日も、止まり木旅館の庭は、美しく整えられている。錦鯉が泳ぐ池の周りは、少し小高くなっていて、岩や苔の合間に季節の草花が植えこまれている。ここからは角度的に見えにくいが、東屋もある。建物近くでは、白の玉砂利が水の流れのようなうねりを緩やかに描いている。全て、忍くんによるものだ。
私は、池にかかっている小さな石橋から庭全体を眺めるのが好き。
おそらく、お殿様には気分転換が必要なのだと思う。よし。お庭の散歩をお勧めしてみよう!
「ここは、老舗の旅館なのか? 見事な庭だな」
「ありがとうございます。専属の庭師がおりまして、どうにか維持できております」
「そうか。その庭師に会いたい。呼んで参れ」
私は、一瞬回答に困った。なぜなら、今回忍くんは、お客様の前に姿を現したくないと、頑なに言っていたからだ。理由は、分からない。自分が元居た世界、時代からのお客様なのだから、会ってみたくなりそうなものなのに。
でも、お客様がご所望なのだ。私は、忍くんを呼びに、庭の手入れ道具を片付けてある納屋に向かった。
「忍くん、お願いできないかしら?」
「それは、どうしても行かなければなりませんか?」
「えぇ。止まり木旅館でお客様は、一番優先されるべき存在よ。特別な理由もなく、お帰りになれるきっかけを失うことはできません」
「楓さん……」
「そんなに大きな不都合でもあるの? お客様をお待たせしているのよ。従業員としての自覚が足りないわ」
「すみません。すぐに行きます」
忍くんは、作務衣に付いていた土埃をパンパンと手で払うと、私の後ろをついてきた。
「大変お待たせいたしました」
お殿様は、私のお気に入りの場所である石橋の上に堂々と腕を組んで立っていたが、私の声に気づくとこちらを振り返った。
「雲……」
雲? お殿様の顔は驚愕の表情で固まっていた。ふと見ると、忍くんはさっとしゃがんで片膝をつくと、お殿様に向かって頭を下げた。
「お久しゅうございます、殿」
殿……?! もしかして、これって……!!
「今まで何しておった!?!! 青山の城に行ったきり、ずっと姿を眩ませておったではないか!! まさか、寝返ったのか?!」
お殿様から、物凄い気迫が放たれる。私は思わず自分の着物の端をギュッと握りしめた。
「申し訳ございません。ずっとここにおりました。殿の元に帰れなくなったのです」
「どういうことだ?! 抜け忍は、例外なく張り付けの上、死刑だ。しかし、お前は長く私に仕えてきた者。最後に申し開きぐらい聞いてやろう」
「ありがたき幸せに存じます」
忍くんは、変装して青山城の裏門をくぐった瞬間、止まり木旅館に辿り着いてしまったこと、止まり木旅館は時空の狭間に存在するため、思うように帰れなかったことを話した。
「では、余も帰れぬと言うのか」
「いいえ。殿は必ずお帰りにならなければなりません。家臣も、民も、皆が殿のお帰りを待っているはずです」
「……果たして、どうだろうか。昨年の飢饉で、城の備えは全て出し尽くした。今年の収穫の見通しも暗い。皆が不満をくすぶらせているのは、余も分かっておるのじゃ。そんな中、赤川の城に不穏な動きがある故、戦が近いかもしれぬ」
「なれば、なおさら早くお戻りにならねば!」
「お前のような隠密ですら、ここから抜け出せないのだぞ。余にできるわけがなかろう」
二人は、しばらく黙ったままじっとしていたが、口を開いたのはお殿様の方だった。
「雲。もう一度、余に仕える気はないか?」
忍くんは、すっと顔を上げて、お殿様と目を合わせた。
「殿。私には、新たな主がおります故、お断りいたします」
「新たな主?」
「はい」
そう言うと、忍くんは私の方を見て、しっかりと頷いた。
「……若女将か」
「得体の知れぬ私を保護し、ここに置いてくださいました。この旅館の外は、白い霧に包まれた地獄です。そこで行き倒れた私を救ってくださった生命の恩人なのです」
お殿様と忍くんは、しばらく火花を散らしているかのように見えた。が、ふと、お殿様は視線を池の水面に移した。
「良かろう。ここで新たな主に、誠心誠意仕えよ」
「はっ」
忍くんは、地面に頭を擦り付けるように、深く頭を下げた。
「殿。これからもご立派であらせられますよう……」
「皆まで言うな。分かっておる」
お殿様は、微かに笑った。
そして、彼の背後に扉が現れた。麻の葉の柄が入った、質素な襖(ふすま)だった。
「お帰りの扉が開きました」
お殿様は、ここにいらした時よりも姿勢が良くなっていた。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
「雲のことを、頼む」
お殿様はそう言うと、しっかりとした足取りで扉の向こうへ消えていった。
「忍くん、良かったの? もしかすると、一緒に帰れたかもしれないのに」
私は、いまだ消えた扉の辺りに向かって頭を下げ続ける忍くんに声をかけた。
「つれないこと、言わないでくださいよ。俺の主は、楓さん。あなた、ただ一人です」
「……ありがとう、忍くん」
「ここは、平和だな」
お殿様は、ぽつりと呟いた。
お殿様は、ここが止まり木旅館だと申し上げても、客室に上がられてからも、全く動じる様子がなかった。文化的には、止まり木旅館と同じ流れを汲む場所からのご来訪だ。とは言え、彼の時代とは異なる着付けをした女がいて、電話やテレビといった家電もある。明らかに別世界に来てしまったことは実感できているだろうに、至って冷静だ。さすが武士。
「城下や農村では、昨年の飢饉の影響が残っていて、まだまだ生活が再建できていない民が多い。こんなところで、一人のうのうと過ごしていても良いものなのだろうか」
お殿様の眉間の皺は深い。私がお出ししたお茶をゆっくりと飲み干すと、彼は庭の方を見やった。
今日も、止まり木旅館の庭は、美しく整えられている。錦鯉が泳ぐ池の周りは、少し小高くなっていて、岩や苔の合間に季節の草花が植えこまれている。ここからは角度的に見えにくいが、東屋もある。建物近くでは、白の玉砂利が水の流れのようなうねりを緩やかに描いている。全て、忍くんによるものだ。
私は、池にかかっている小さな石橋から庭全体を眺めるのが好き。
おそらく、お殿様には気分転換が必要なのだと思う。よし。お庭の散歩をお勧めしてみよう!
「ここは、老舗の旅館なのか? 見事な庭だな」
「ありがとうございます。専属の庭師がおりまして、どうにか維持できております」
「そうか。その庭師に会いたい。呼んで参れ」
私は、一瞬回答に困った。なぜなら、今回忍くんは、お客様の前に姿を現したくないと、頑なに言っていたからだ。理由は、分からない。自分が元居た世界、時代からのお客様なのだから、会ってみたくなりそうなものなのに。
でも、お客様がご所望なのだ。私は、忍くんを呼びに、庭の手入れ道具を片付けてある納屋に向かった。
「忍くん、お願いできないかしら?」
「それは、どうしても行かなければなりませんか?」
「えぇ。止まり木旅館でお客様は、一番優先されるべき存在よ。特別な理由もなく、お帰りになれるきっかけを失うことはできません」
「楓さん……」
「そんなに大きな不都合でもあるの? お客様をお待たせしているのよ。従業員としての自覚が足りないわ」
「すみません。すぐに行きます」
忍くんは、作務衣に付いていた土埃をパンパンと手で払うと、私の後ろをついてきた。
「大変お待たせいたしました」
お殿様は、私のお気に入りの場所である石橋の上に堂々と腕を組んで立っていたが、私の声に気づくとこちらを振り返った。
「雲……」
雲? お殿様の顔は驚愕の表情で固まっていた。ふと見ると、忍くんはさっとしゃがんで片膝をつくと、お殿様に向かって頭を下げた。
「お久しゅうございます、殿」
殿……?! もしかして、これって……!!
「今まで何しておった!?!! 青山の城に行ったきり、ずっと姿を眩ませておったではないか!! まさか、寝返ったのか?!」
お殿様から、物凄い気迫が放たれる。私は思わず自分の着物の端をギュッと握りしめた。
「申し訳ございません。ずっとここにおりました。殿の元に帰れなくなったのです」
「どういうことだ?! 抜け忍は、例外なく張り付けの上、死刑だ。しかし、お前は長く私に仕えてきた者。最後に申し開きぐらい聞いてやろう」
「ありがたき幸せに存じます」
忍くんは、変装して青山城の裏門をくぐった瞬間、止まり木旅館に辿り着いてしまったこと、止まり木旅館は時空の狭間に存在するため、思うように帰れなかったことを話した。
「では、余も帰れぬと言うのか」
「いいえ。殿は必ずお帰りにならなければなりません。家臣も、民も、皆が殿のお帰りを待っているはずです」
「……果たして、どうだろうか。昨年の飢饉で、城の備えは全て出し尽くした。今年の収穫の見通しも暗い。皆が不満をくすぶらせているのは、余も分かっておるのじゃ。そんな中、赤川の城に不穏な動きがある故、戦が近いかもしれぬ」
「なれば、なおさら早くお戻りにならねば!」
「お前のような隠密ですら、ここから抜け出せないのだぞ。余にできるわけがなかろう」
二人は、しばらく黙ったままじっとしていたが、口を開いたのはお殿様の方だった。
「雲。もう一度、余に仕える気はないか?」
忍くんは、すっと顔を上げて、お殿様と目を合わせた。
「殿。私には、新たな主がおります故、お断りいたします」
「新たな主?」
「はい」
そう言うと、忍くんは私の方を見て、しっかりと頷いた。
「……若女将か」
「得体の知れぬ私を保護し、ここに置いてくださいました。この旅館の外は、白い霧に包まれた地獄です。そこで行き倒れた私を救ってくださった生命の恩人なのです」
お殿様と忍くんは、しばらく火花を散らしているかのように見えた。が、ふと、お殿様は視線を池の水面に移した。
「良かろう。ここで新たな主に、誠心誠意仕えよ」
「はっ」
忍くんは、地面に頭を擦り付けるように、深く頭を下げた。
「殿。これからもご立派であらせられますよう……」
「皆まで言うな。分かっておる」
お殿様は、微かに笑った。
そして、彼の背後に扉が現れた。麻の葉の柄が入った、質素な襖(ふすま)だった。
「お帰りの扉が開きました」
お殿様は、ここにいらした時よりも姿勢が良くなっていた。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
「雲のことを、頼む」
お殿様はそう言うと、しっかりとした足取りで扉の向こうへ消えていった。
「忍くん、良かったの? もしかすると、一緒に帰れたかもしれないのに」
私は、いまだ消えた扉の辺りに向かって頭を下げ続ける忍くんに声をかけた。
「つれないこと、言わないでくださいよ。俺の主は、楓さん。あなた、ただ一人です」
「……ありがとう、忍くん」
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