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止まり木旅館の若女将
使えるものは何でも使え
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「ついに来たか……」
「どうしたんですか? 楓さん」
私は、巴ちゃんの肩をがしっと掴んだ。
「巴ちゃん、あなたの力を借りたいの!」
そう、ついにこの時がやって来たのだ。若女将・楓、試練の時! その名も、二組様同時ご宿泊!
私は、女将の部屋で、台帳に浮かび上がったお客様の情報に目を走らせた。
お一人は、高校生の男の子。何々? ヒーナヒーヨという世界のアケボノ国出身? つまり、文化の感覚はうちの旅館と大差ないということね。それなら、楽勝!
もう一人は、またまたアケボノ国の人。そして……会社役員?! つまり、偉い人ってことね。偉いというよりか、偉そうな人という場合も考えられる。どう見ても、こちらの方が手強そうだ。
こうして、役員担当は私、高校生担当は巴ちゃんという布陣で挑むことになった。
そして迎えた当日。
「もっと……でございますか」
例えお客様から無茶な要求がなされようとも、私はできる限りそれにお応えしようと努めている。……のだけれど、今回ばかりはもうどうしたら……。
困り顔をして、小首を傾げてみた。やはり、相手は忍くんではないから、私に優しくしてくれるわけもなく。
「そうだ。もっとエンターテイメントが必要なんだ!」
お部屋にお通しして以来、ずっとこの調子。頭頂部の毛が大変寂しい、いぶし銀のオヤジから、エンタメとか言われてもねぇ。
でも、私だって何もしなかったわけではないのよ? お琴や三味線を弾いて歌ってみたり、高級和菓子もご賞味いただいた。急遽、『庭の池の鯉にエサをあげてみよう!』ツアーも企画してご参加いただいた。宴会場でカラオケもやってみた。でもこれは、役員様……じゃなかった、かたし様の歌が酷すぎて、強制終了。
「旅館の人間の癖に、この程度しか楽しませられないんだな。親の顔が見てみたいよ」
な・ん・で・すっ・て?! 偉そうな上に失礼だなんて最低よ! こうなったら、何がなんでも満足させて、帰らせてやるんだから!
親の顔か。私だって、見てみたいわ。ここ三年ぐらい見ていないんだもの。だって、死んじゃったから。
うちの母さんは、ここの女将だった。みんなからは、大女将って呼ばれていた。だから私は、若女将なのよね。
「かたし様。よろしければ、温泉などいかがでしょうか? ここからは、別の者がご案内いたします。申し訳ございませんが、そろそろお夕食の準備がございますので、私は一度下がらせていただきます」
私は研さんを呼んで、役員様を温泉に案内してもらった。
さて、今回はどうすればお帰りいただけるのだろうか。この旅館でできることなど知れている。役員様を満足させられるようなエンタメなんて用意できるかしら。私は少し不安になり始めていた。
「楓さーん! 聞いてくださいよー!」
「あら、巴ちゃん。そちらのお客様はいかが?」
巴ちゃんに担当してもらっているお客様は、安村さんと言って、小学生みたいな男子高校生だ。
「私……もう……我慢できません!!」
巴ちゃんは、目を潤ませていた。瞬きすると、大粒の涙が頬を伝う。……やばい。可愛いすぎる! 守ってあげたい!
私は巴ちゃんから事情を聞くと、一人で安村さんの部屋に向かった。
「失礼いたします」
すぐに間の抜けた声で返答があったので、私は半開きになっていた襖を両手で開けた。すると、パフッという音と共に、頭に何かが当たった。
「コホンコホン!!」
気がつけば、私は白い粉だらけ。お客様の前だけれど、なかなか咳が止まらない。
「あ……」
目の前の畳に転がっていたのは、白いチョークの粉をたっぷり含んだ黒板消しだった。ここは、小学校か?! そんなことより、あまりに古典的すぎるでしょ?!
こちらのお客様は、珍しくお鞄持参でお越しになった。たいていの方は手ぶらなんだけどね。おそらく、あの鞄の中にこの黒板消しが……って、何でこんな物を持ち歩いてるのよ?!
「お客様。申し訳ございませんが、一度下がらせていただきます。こちらは、すぐに清掃担当の者が片付けに参りますので、今しばらくお待ちくださいませ」
たとえ、お客様が予想外の行動をしようとも、私は決して動じない。何もなかったかのような顔で頭を下げると、襖を閉めた。
思わず、「やんちゃ坊主め……!」と呟きそうになった時、襖の向こうから独り言が聞こえた。
「なんで、みんな笑わないんだよ……」
その声は、年相応な男の子のもので、妙に私の心の中に響いて残った。
その後、私は、廊下の奥にある物入れで、清掃担当の潤(じゅん)くんを捕獲。悪い人ではないのだけれど、さぼり癖があるのだ。ちょっと薄暗い場所が似合う方で、シルバーグレーの髪や印象に残りにくいあっさりとした顔立ちは、背景に同化するのによく役立っている。ちなみに、物陰で人の話を盗み聞きしていることが多く、いつの間にか皆の秘密を握っているという腹黒男! え、私が言うなって?!
私は潤くんに事情をしっかりと説明して、やんちゃ坊主の元へ向かわせた。
「楓さん!」
着物を着替えるために、女将の部屋に向かっていると、研さんがやってきた。
「お客様、私の色気で、ちょっと湯あたりを起こしちゃったみたいなの。今は、大浴場の近くの客室でお休みいただいているからね!」
「研さん、使ったのは本当に色気だけでしょうね?」
「あはは!」
……この人、絶対に何かやったな!?
いいわ。お陰で少し時間に余裕ができた。ここからは、若女将、楓さんのターンですよ! だって私、やられっぱなしは性に合わないの。
その後、仕返し……じゃなくて、エンターテイメントのご披露に向けた関係者間の交渉は難航を極めた……ということも起こらず、すんなり皆さん快諾してくださった。すっごく覚悟して挑んだから、何だか拍子抜け。
さて、あれから二時間が経った。もう外は暗い。さて、お夕飯前のレクリエーションを始めましょうか!
「かたし様」
役員様は、清潔で真っ白な布団の上に、浴衣姿で横になっていらっしゃった。
「あぁ、お前か」
私の名前はお前ではありません! 楓です! 絶対にこの人は、会社の事務の女の子の名前とか覚えないタイプだわ。ふんっ! 女の敵め!
「そろそろお夕食のお時間でございます。恐れ入りますが、お部屋にお戻りいただけますでしょうか」
役員様は、「どっこいしょ」と言って起き上がった。そして、渋々私の先導でお部屋の前まで移動してくださった。
それでは、ショーの始まり! 始まり!
「どうぞ!」
必殺『有無を言わさぬ女将の笑顔』は、ばっちり決まった。役員様には、ご自身で襖を開けていただかなければならないのだ。
役員様は、一瞬訝しげな顔をされたけれど、すぐに襖の引き手に手をかけた。
――ピチャン、ピチャン、ピチャン……
役員様の頭上から、冷たいお水がポタポタ落ちてきた。そういう仕掛けになっているのだ。
寝起きですものね。お顔を洗ってくださいな。
部屋の入り口からは、中の様子がよく見える。真っ暗な中に、天井のところどころで赤い提灯が揺れている。どこか、おどろおどろしい雰囲気の音楽も流れてきた。
「なんだ、これは?!」
役員様も、ようやく事態のおかしさにお気づきのご様子。おほほ。私がやったことではございませんのよ。当旅館はあずかり知らぬ、ということになっておりますの。
役員様は、こちらを振り返ったけれど、それがまたトリガーになっていた。踏みつけられていた座布団が急に横滑りして、役員様はすってんころりん。
その時、急に左側の壁の一部が赤く照らし出された。そして、部屋の中を生温かい風が流れたかと思うと……
――プシュッ
「きゃーーーーーー!!」
壁に血飛沫のようなものが飛び散って、あらかじめ録音済みの巴ちゃんの叫び声が流れる。
「ぅあああああああ!!」
役員様は、叫びながら右側の壁に後ずさりした。本当に誰かが刺されたのかと思うわよね。だって、ここは暗がりなのだもの。では、早いですが、そろそろクライマックスへと参りましょう。
部屋の再奥にある障子の向こう側に灯りが点いた。と言っても、これは蝋燭の薄明かり。ゆらゆら揺れる橙色の灯りに照らされた障子に映ったのは……
「一本。二本。三本。お前の毛を抜いてやる? 一本残らず抜いてやる……」
ちなみにこれは、録音ではない。仕掛け人の生声だ。老婆のようなシルエットが障子の向こうでゆっくりと揺れている。時折、障子を叩くので、木が軋む音が部屋に響いて、一層それらしい雰囲気が演出されていく。
「やめてくれ! それだけは、それだけはやめてくれーーー!!」
やはり。役員様は頭を押さえて、ガクブル状態。そうだろう、そうだろう。絶対気にしていると思ってたんだよ。大丈夫、本当に抜いたりはしないからね?
それでは、最後の仕上げだ。部屋の数カ所から、ピンポン球がポンポン飛び出して、役員様にどんどん直撃。
「抜かないでくれー! やめてくれーー!!」
だから、大丈夫ですってば。たぶんこれは、雰囲気じゃなくて、髪の毛が無くなることを想像して怖がっているのもあるわね。
飛び交うピンポン玉は、火の玉さながら、青白く光っている。その時だった。
――パリンッ!
この音は何……?!
予定外の事態に驚いて、私は慌ててお部屋の電気を点けた。部屋の中は、若干散らかっているものの、あっという間に日常を取り戻す。
「安村様、何てことをしてくださったのですか!」
座卓の上には、割れた急須と湯飲みの破片が散らばっていた。きっとピンポン球が当たったのだろう。役員様のために、旅館の備品の中でも最高級のものをお出ししていたのに……それが裏目に出るなんて……!
「あぁ、ごめんごめん」
ガラッと障子が開いて、老婆のかつらを外しながら、やんちゃ坊主が部屋に入ってきた。
「これ、高かったのに……!」
仕入れたのは翔で、お値段なんて知らないけれど、高かったのは間違いないはず。しかも私、けっこう気に入っていたのに!
怒りのあまり、相手がお客様であることを忘れてしまっていた私。やんちゃ坊主をぎっと睨みそうになった時、大爆笑が聞こえた。
「あはははははは! こう来たか! これが、女将さんのエンタメなんだね?!」
「な? 面白いだろう?! 楽しんでくれたか、おっさん?!」
何これ。役員様とやんちゃ坊主は、すっかり打ち解けて笑顔があふれ、互いの肩をたたきあっている。なんだか仲間はずれにされた気分だ。でもこの二人、無事にアケボノ国に戻って再会することができれば、なかなか良いコンビになるかもしれないと思うと、自然と笑いが込み上げてくる。その時だ。
「かたし様。安村様。お帰りの扉が開きました。」
彼らの背後には、同時に扉が現れたのだ。役員様の扉は、両開きのガラスの自動ドア。やんちゃ坊主の扉は、カーテンみたいな生地のじゃばらになった扉だった。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
なんとかうまくいって良かった。毒を以て毒を制すではないけれど、使えるものはなんでも使わなきゃね。たとえ、それがお客様だったとしても!
二つの扉が消えた後、どこからか現れた潤くんがお部屋の片付けをスタートさせた。私は、みんなに簡単なまかないを作って、さっさと部屋に引き上げることにした。
夕飯の後は、寝巻きの浴衣に着替えて、テレビを見ながら巴ちゃんとビールで乾杯をした。厄介なお客様が無事にお帰りくださった後は、いつもこうやって付き合ってくれるのだ。
「楓さん、二組様とも無事にお帰りくださって、やれやれですね」
「そうね。お二人とも癖があったから、一時はどうなるかと思ったけれど。巴ちゃんも、がんばってくれてありがとう」
「いえいえ」
「ねぇ、なんでテレビって映るんだと思う?」
「さぁ……? 私も科学技術のことには疎いので、なんとも……」
いや、そういう意味じゃないのよ。なぜ、この閉鎖的な不思議空間に存在する旅館で、テレビとやらの電波を受信できているのか?ということなんだけれど。
巴ちゃんは、母さんが一人で女将をやっていた時代にいらっしゃった元お客様。今から数百年前のチェ国出身の元宮廷女官だ。皇帝と不倫していたのがバレて、正妻とその取り巻きに追われていたところ、この旅館に辿りついたらしい。
元女官のスキルを活かして、私よりも長くこの旅館に勤めているベテラン。なのに、私よりも若くて可憐に見えるのはなぜ?!
「どうしたんですか? 楓さん」
私は、巴ちゃんの肩をがしっと掴んだ。
「巴ちゃん、あなたの力を借りたいの!」
そう、ついにこの時がやって来たのだ。若女将・楓、試練の時! その名も、二組様同時ご宿泊!
私は、女将の部屋で、台帳に浮かび上がったお客様の情報に目を走らせた。
お一人は、高校生の男の子。何々? ヒーナヒーヨという世界のアケボノ国出身? つまり、文化の感覚はうちの旅館と大差ないということね。それなら、楽勝!
もう一人は、またまたアケボノ国の人。そして……会社役員?! つまり、偉い人ってことね。偉いというよりか、偉そうな人という場合も考えられる。どう見ても、こちらの方が手強そうだ。
こうして、役員担当は私、高校生担当は巴ちゃんという布陣で挑むことになった。
そして迎えた当日。
「もっと……でございますか」
例えお客様から無茶な要求がなされようとも、私はできる限りそれにお応えしようと努めている。……のだけれど、今回ばかりはもうどうしたら……。
困り顔をして、小首を傾げてみた。やはり、相手は忍くんではないから、私に優しくしてくれるわけもなく。
「そうだ。もっとエンターテイメントが必要なんだ!」
お部屋にお通しして以来、ずっとこの調子。頭頂部の毛が大変寂しい、いぶし銀のオヤジから、エンタメとか言われてもねぇ。
でも、私だって何もしなかったわけではないのよ? お琴や三味線を弾いて歌ってみたり、高級和菓子もご賞味いただいた。急遽、『庭の池の鯉にエサをあげてみよう!』ツアーも企画してご参加いただいた。宴会場でカラオケもやってみた。でもこれは、役員様……じゃなかった、かたし様の歌が酷すぎて、強制終了。
「旅館の人間の癖に、この程度しか楽しませられないんだな。親の顔が見てみたいよ」
な・ん・で・すっ・て?! 偉そうな上に失礼だなんて最低よ! こうなったら、何がなんでも満足させて、帰らせてやるんだから!
親の顔か。私だって、見てみたいわ。ここ三年ぐらい見ていないんだもの。だって、死んじゃったから。
うちの母さんは、ここの女将だった。みんなからは、大女将って呼ばれていた。だから私は、若女将なのよね。
「かたし様。よろしければ、温泉などいかがでしょうか? ここからは、別の者がご案内いたします。申し訳ございませんが、そろそろお夕食の準備がございますので、私は一度下がらせていただきます」
私は研さんを呼んで、役員様を温泉に案内してもらった。
さて、今回はどうすればお帰りいただけるのだろうか。この旅館でできることなど知れている。役員様を満足させられるようなエンタメなんて用意できるかしら。私は少し不安になり始めていた。
「楓さーん! 聞いてくださいよー!」
「あら、巴ちゃん。そちらのお客様はいかが?」
巴ちゃんに担当してもらっているお客様は、安村さんと言って、小学生みたいな男子高校生だ。
「私……もう……我慢できません!!」
巴ちゃんは、目を潤ませていた。瞬きすると、大粒の涙が頬を伝う。……やばい。可愛いすぎる! 守ってあげたい!
私は巴ちゃんから事情を聞くと、一人で安村さんの部屋に向かった。
「失礼いたします」
すぐに間の抜けた声で返答があったので、私は半開きになっていた襖を両手で開けた。すると、パフッという音と共に、頭に何かが当たった。
「コホンコホン!!」
気がつけば、私は白い粉だらけ。お客様の前だけれど、なかなか咳が止まらない。
「あ……」
目の前の畳に転がっていたのは、白いチョークの粉をたっぷり含んだ黒板消しだった。ここは、小学校か?! そんなことより、あまりに古典的すぎるでしょ?!
こちらのお客様は、珍しくお鞄持参でお越しになった。たいていの方は手ぶらなんだけどね。おそらく、あの鞄の中にこの黒板消しが……って、何でこんな物を持ち歩いてるのよ?!
「お客様。申し訳ございませんが、一度下がらせていただきます。こちらは、すぐに清掃担当の者が片付けに参りますので、今しばらくお待ちくださいませ」
たとえ、お客様が予想外の行動をしようとも、私は決して動じない。何もなかったかのような顔で頭を下げると、襖を閉めた。
思わず、「やんちゃ坊主め……!」と呟きそうになった時、襖の向こうから独り言が聞こえた。
「なんで、みんな笑わないんだよ……」
その声は、年相応な男の子のもので、妙に私の心の中に響いて残った。
その後、私は、廊下の奥にある物入れで、清掃担当の潤(じゅん)くんを捕獲。悪い人ではないのだけれど、さぼり癖があるのだ。ちょっと薄暗い場所が似合う方で、シルバーグレーの髪や印象に残りにくいあっさりとした顔立ちは、背景に同化するのによく役立っている。ちなみに、物陰で人の話を盗み聞きしていることが多く、いつの間にか皆の秘密を握っているという腹黒男! え、私が言うなって?!
私は潤くんに事情をしっかりと説明して、やんちゃ坊主の元へ向かわせた。
「楓さん!」
着物を着替えるために、女将の部屋に向かっていると、研さんがやってきた。
「お客様、私の色気で、ちょっと湯あたりを起こしちゃったみたいなの。今は、大浴場の近くの客室でお休みいただいているからね!」
「研さん、使ったのは本当に色気だけでしょうね?」
「あはは!」
……この人、絶対に何かやったな!?
いいわ。お陰で少し時間に余裕ができた。ここからは、若女将、楓さんのターンですよ! だって私、やられっぱなしは性に合わないの。
その後、仕返し……じゃなくて、エンターテイメントのご披露に向けた関係者間の交渉は難航を極めた……ということも起こらず、すんなり皆さん快諾してくださった。すっごく覚悟して挑んだから、何だか拍子抜け。
さて、あれから二時間が経った。もう外は暗い。さて、お夕飯前のレクリエーションを始めましょうか!
「かたし様」
役員様は、清潔で真っ白な布団の上に、浴衣姿で横になっていらっしゃった。
「あぁ、お前か」
私の名前はお前ではありません! 楓です! 絶対にこの人は、会社の事務の女の子の名前とか覚えないタイプだわ。ふんっ! 女の敵め!
「そろそろお夕食のお時間でございます。恐れ入りますが、お部屋にお戻りいただけますでしょうか」
役員様は、「どっこいしょ」と言って起き上がった。そして、渋々私の先導でお部屋の前まで移動してくださった。
それでは、ショーの始まり! 始まり!
「どうぞ!」
必殺『有無を言わさぬ女将の笑顔』は、ばっちり決まった。役員様には、ご自身で襖を開けていただかなければならないのだ。
役員様は、一瞬訝しげな顔をされたけれど、すぐに襖の引き手に手をかけた。
――ピチャン、ピチャン、ピチャン……
役員様の頭上から、冷たいお水がポタポタ落ちてきた。そういう仕掛けになっているのだ。
寝起きですものね。お顔を洗ってくださいな。
部屋の入り口からは、中の様子がよく見える。真っ暗な中に、天井のところどころで赤い提灯が揺れている。どこか、おどろおどろしい雰囲気の音楽も流れてきた。
「なんだ、これは?!」
役員様も、ようやく事態のおかしさにお気づきのご様子。おほほ。私がやったことではございませんのよ。当旅館はあずかり知らぬ、ということになっておりますの。
役員様は、こちらを振り返ったけれど、それがまたトリガーになっていた。踏みつけられていた座布団が急に横滑りして、役員様はすってんころりん。
その時、急に左側の壁の一部が赤く照らし出された。そして、部屋の中を生温かい風が流れたかと思うと……
――プシュッ
「きゃーーーーーー!!」
壁に血飛沫のようなものが飛び散って、あらかじめ録音済みの巴ちゃんの叫び声が流れる。
「ぅあああああああ!!」
役員様は、叫びながら右側の壁に後ずさりした。本当に誰かが刺されたのかと思うわよね。だって、ここは暗がりなのだもの。では、早いですが、そろそろクライマックスへと参りましょう。
部屋の再奥にある障子の向こう側に灯りが点いた。と言っても、これは蝋燭の薄明かり。ゆらゆら揺れる橙色の灯りに照らされた障子に映ったのは……
「一本。二本。三本。お前の毛を抜いてやる? 一本残らず抜いてやる……」
ちなみにこれは、録音ではない。仕掛け人の生声だ。老婆のようなシルエットが障子の向こうでゆっくりと揺れている。時折、障子を叩くので、木が軋む音が部屋に響いて、一層それらしい雰囲気が演出されていく。
「やめてくれ! それだけは、それだけはやめてくれーーー!!」
やはり。役員様は頭を押さえて、ガクブル状態。そうだろう、そうだろう。絶対気にしていると思ってたんだよ。大丈夫、本当に抜いたりはしないからね?
それでは、最後の仕上げだ。部屋の数カ所から、ピンポン球がポンポン飛び出して、役員様にどんどん直撃。
「抜かないでくれー! やめてくれーー!!」
だから、大丈夫ですってば。たぶんこれは、雰囲気じゃなくて、髪の毛が無くなることを想像して怖がっているのもあるわね。
飛び交うピンポン玉は、火の玉さながら、青白く光っている。その時だった。
――パリンッ!
この音は何……?!
予定外の事態に驚いて、私は慌ててお部屋の電気を点けた。部屋の中は、若干散らかっているものの、あっという間に日常を取り戻す。
「安村様、何てことをしてくださったのですか!」
座卓の上には、割れた急須と湯飲みの破片が散らばっていた。きっとピンポン球が当たったのだろう。役員様のために、旅館の備品の中でも最高級のものをお出ししていたのに……それが裏目に出るなんて……!
「あぁ、ごめんごめん」
ガラッと障子が開いて、老婆のかつらを外しながら、やんちゃ坊主が部屋に入ってきた。
「これ、高かったのに……!」
仕入れたのは翔で、お値段なんて知らないけれど、高かったのは間違いないはず。しかも私、けっこう気に入っていたのに!
怒りのあまり、相手がお客様であることを忘れてしまっていた私。やんちゃ坊主をぎっと睨みそうになった時、大爆笑が聞こえた。
「あはははははは! こう来たか! これが、女将さんのエンタメなんだね?!」
「な? 面白いだろう?! 楽しんでくれたか、おっさん?!」
何これ。役員様とやんちゃ坊主は、すっかり打ち解けて笑顔があふれ、互いの肩をたたきあっている。なんだか仲間はずれにされた気分だ。でもこの二人、無事にアケボノ国に戻って再会することができれば、なかなか良いコンビになるかもしれないと思うと、自然と笑いが込み上げてくる。その時だ。
「かたし様。安村様。お帰りの扉が開きました。」
彼らの背後には、同時に扉が現れたのだ。役員様の扉は、両開きのガラスの自動ドア。やんちゃ坊主の扉は、カーテンみたいな生地のじゃばらになった扉だった。
「この度はご利用ありがとうございました。もう二度とお会いすることがありませんよう、従業員一同お祈りしております」
なんとかうまくいって良かった。毒を以て毒を制すではないけれど、使えるものはなんでも使わなきゃね。たとえ、それがお客様だったとしても!
二つの扉が消えた後、どこからか現れた潤くんがお部屋の片付けをスタートさせた。私は、みんなに簡単なまかないを作って、さっさと部屋に引き上げることにした。
夕飯の後は、寝巻きの浴衣に着替えて、テレビを見ながら巴ちゃんとビールで乾杯をした。厄介なお客様が無事にお帰りくださった後は、いつもこうやって付き合ってくれるのだ。
「楓さん、二組様とも無事にお帰りくださって、やれやれですね」
「そうね。お二人とも癖があったから、一時はどうなるかと思ったけれど。巴ちゃんも、がんばってくれてありがとう」
「いえいえ」
「ねぇ、なんでテレビって映るんだと思う?」
「さぁ……? 私も科学技術のことには疎いので、なんとも……」
いや、そういう意味じゃないのよ。なぜ、この閉鎖的な不思議空間に存在する旅館で、テレビとやらの電波を受信できているのか?ということなんだけれど。
巴ちゃんは、母さんが一人で女将をやっていた時代にいらっしゃった元お客様。今から数百年前のチェ国出身の元宮廷女官だ。皇帝と不倫していたのがバレて、正妻とその取り巻きに追われていたところ、この旅館に辿りついたらしい。
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