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第一章 砂羅万編

第5話 契約

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 空はすっかり茜色。遠くに見える街の家々には灯がともり始め、皆が夜を迎える支度をしている頃、杜夜世(とよせ)はじっと岩陰で座り込んでいた。

 流星は、まだ帰らない。

 流星が街へ向かったのはまだ朝早くだった。あれから杜夜世は、流星に荒らされたキャリーバッグの中を整理整頓し、持っていた非常食のクッキーを口にした。森を少し深く進むと小さな滝があり、そこで水を汲んで喉を潤したのは昼前のこと。身も清めようとしたが、近くに何頭もの動物の足跡を発見した。危険なまねはできない。仕方なく、さっさと元の岩陰へ帰ってきたのだった。

 杜夜世の腹が鳴った。こんな時でも、腹は空くのだ。滝の近くには、赤や黄色の小さな実をつけた木も見かけたが、薬の材料にはなれど、普通の食事にはならないものばかりだった。

 杜夜世は、ずっとぼんやりしている。そして、流星のことを考えている。

 流星は、羽馬で、羽馬だけれど人間で、人間だけれど羽馬。羽馬だけれど、優しくて、優しいけれど、どこか気ままなところが信用できなくて、それでいて彼の言葉は杜夜世をふわりと包んで離さないのだ。

 杜夜世は、とても心細い。流星がなかなか帰ってこないこともあるが、それよりももっと大きなこと。流星という存在を受け入れることで、自分がさらに弱くなってしまったような気がするからだ。つい、ふらふらと頼ってしまい、今もこうして待ちぼうけ。これで、良いのだろうか。
 また、彼に対する責任を負ってしまうことで、今後の旅がより困難なものになるのではないかと、危惧し始めている。

 旅は急ぎではない。一月後の支払いさえ済ませることができれば、後は何の縛りもない。根治苦症以外は。だから、進むのは少しずつでいい。
 それならば、共に歩んでくれる人や馬がいても良いのかもしれない。これまで、あまりにひとりぼっちだった杜夜世。どうすれば、誰かと共に立つ、歩むということが普通になるのだろうか。未体験のゾーンに踏み入る勇気は、まだ、蝋燭の光のような危うさだ。

 けれど、今朝流星に触れられた唇には、まだほんのりと温かさの名残りが宿っていて、それが今の杜夜世をなんとか支えている。

 そして、空に星が浮かんでいるのが見えるようになった頃。街へと続く道の彼方から、白いものが杜夜世に向かって猛スピードで近づいてきた。

「杜夜世!!」

 流星だった。しかし、その姿は羽馬で、背中には知らない壮年の男がまたがっている。杜夜世は、キャリーバッグを自分の方へ引き寄せると、森の方へ後ずさりした。

「どちら様ですか?」

 男は、流星の背中から慣れた様子で飛び降りた。少し派手な格好をしている。砂羅万特有の、白を基調とした大きな布を巻いた衣装ではない。国の役人のように、見るからに上質な生地でできた黒い服。裾が広がった丈の長いコートを羽織っている。青色のネクタイスカーフには象の柄が入っていて、大粒のジャラジャラとした首飾りはあまりに似合っていない。杜夜世が警戒するのも無理はなかった。

「旅芸人の座長をやってる。海烈(かいれつ)だ」

 差し出された分厚い海烈の手に、杜夜世は怯んだ。流星がしゃべる羽馬だということだけでなく、人間に姿を変えることができることも、既にバレていると考えておいた方がいいだろう。さらに、流星が連れてきたということは、既に杜夜世の『事情』についても伝わっているかもしれない。
 ここで見知らぬ人物と接触するのは、悪手ではないだろうか。また、杜夜世の根治苦症が明らかになれば、後々トラブルになるのではないだろうか。そこまで考えると、杜夜世は海烈の手を無視して、少しだけ頭を下げるに留めた。

「根治苦症患者は人見知りが多いらしいな。まぁ、いい。お前、薬師だろ? うちで薬を売らないか?」

 杜夜世は、ぽかんとした顔で海烈を見上げた。海烈は、口元の片端を持ち上げて、ニヤリとしている。その浅黒い顔は、大変愛嬌があって、自然と杜夜世の警戒心も緩んでしまうのだった。

「流星。お前の彼女、すげぇべっぴんさんじゃないか?! 踊りを仕込みたいところだが、発作があるからなぁ……」

 心底残念そうな海烈は、担いでいた布袋を地面に下ろすと、袋の紐を手早く解いた。その瞬間、焼いた肉とハーブの香りが辺りに広がり……

「やっぱりな。腹減っただろ? そこの羽馬が悪いんだぞ。お前さんの髪色はこれがいいだとか、ダメだとか、いろいろ煩くてな。おかげで、時間くっちまった」

 杜夜世は、最悪のタイミングで鳴った自分の腹へ悪態をつきながら、出された肉やパンを睨んだ。

「あの、怖くないんですか?」

 海烈は、細かな草花の文様が入った敷物を地面に敷くと、その上にどっかりと座ってあぐらをかく。そして、ゆっくりと野菜スープを器によそい始めた。

「何が? もしかして、根治苦症のことかい?」

 杜夜世は、我慢できなくなって、素早く肉に手を伸ばしながら、頷いた。海烈は豪快に笑う。

「そんな迷信もあるらしいな。うちは、根治苦症患者もいるぞ? もうどれぐらい経つかなぁ。1年は過ぎたか。それぐらい寝食共にしてても、何ともない。馬鹿の言う話なんて、気にするな! 旨いもんでも食って、元気だしな。話はそれからだ」

 杜夜世は、言いたいことや尋ねたいことがたくさんあったが、ひとまず食事を優先させた。白雪が見たら、「猫みたいー」と言われそうな行儀の悪さで、肉をかじり、スープを口に掻き込んでいく。

 流星は、物欲しそうに杜夜世と海烈の方を見つめていた。しかし、羽馬の状態では、人間の食べ物が食べられない。食べられないというか、好みに合わない上、食べても消化に時間がかかるのだ。

「おい、流星。お前、そんなに食べたいなら、人間に戻ったらどうなんだ?」

 海烈が茶化すように声をかけるものだから、流星はイライラしたのか、前脚の蹄を地面に何度も打ちつけた。


「杜夜世と2人きりの時じゃないと戻れないんだ」

「のろけかよ。ま、美少女だし、お前らも若いからなぁ」

「わ、私と流星はそんなのじゃなくて……!!」

「とりあえず黙って食べな。ここは気温差も激しいからな。しっかり食って、もうちょっと肉つけとかないと、すぐにくたばっちまう」

 こうして、月明かりの下、突然の野外夕食会は過ぎていった。

「トヨ、だったか?」

 たらふく食べた後、海烈は、げっぷをしながら、木筒に朱珠留(しゅしゅる)の実で作った果実酒を注いだ。

「はい」

 食べ物に釣られて、すっかり気が抜けていた杜夜世は、気を引き締め直した。ここからは、仕事の話。いや、生きていくための話だ。
 
 海烈は、杜夜世を薬師として認識し、薬を売ってほしいと話した。いくら食事をふるまってくれた上、根治苦症を毛嫌いしない人物であっても、ここは慎重にいかねばならない。

「話はリュウから聞いた」

 思わず杜夜世は、流星の方をとびっきり冷たい視線で睨みつけた。

「山に行きたがってるとしか言ってないよ」

 それならば、杜夜世の最終目的は隠しておけるだろう。繋蔓多(けいまんた)の山へは、観光目的で向かう人も多い。人心地がついて、杜夜世は海烈に向き直った。が、海烈はそれをそのまま鵜呑みにするような男ではない。

「そうだな。それしか聞いていない。だが、ただ山を遠目に見たいってわけじゃないんだろ? だいたい根治苦症患者が、道中酷い目に合うのを分かっていながら、わざわざ旅なんかするもんか」

 海烈は、果実酒をもう1つの木筒に注ぐと、杜夜世の前に置いた。

「お前らも、俺達と一緒なんだろ? 伝説の果実を狙っている。違うか?」

 よく考えたら当たり前のことだ。根治苦症の患者は世界中にたくさんいる。あの新聞のコラムだけでも読んだ人は大勢いるだろう。同じ事を考える人がいたとしても、おかしくはない。そう思うと、杜夜世は、急に脱力したように俯いた。

「どうした? 食う前の方が威勢良かったんじゃないか? ま、心配するな。お前さんをとって食おうってわけじゃない。ただ、手を組みたいだけだ」

 海烈は、杜夜世の頭をポンポンと叩いた。流星は、小さく嘶(いなな)いて、威嚇している。


「気安く触るな!」

「流星、それは私の台詞よ。大丈夫だから、大人しくしてて」


 杜夜世は、近づいてきた流星の首を優しく撫でて宥(なだ)めた。

「とりあえず、飲みなよ。これなら、根治苦症の薬との飲み合わせも悪くないはずだ」

 果実酒を一口飲んで、ようやく落ち着きを取り戻した杜夜世に、海烈は事情を話し始めた。

 海烈の一座は、社会的な弱者の寄せ集めだ。本人、または家族が重病者である者ばかり。そして、皆、貧しい。そこで、各地を巡って芸を披露しながら、病気を治すための手がかりや薬を集めて生活しているのだ。
 
 そしてある時、海烈もひょんなことで、繋蔓多の山の伝説の果実のことを知る。ならば、自由の身である彼らが、すぐに山を目指して、果実を取りに行けばいいのか、と言えばそうではない。山には、大きな障害があるからだ。

「国軍だ。そして、果実がある頂上は、羽馬師団が守っている」

 もし、果実に近づけるとしたら、国軍を殲滅するか、国軍の羽馬師団に入って頂上に近づくかの二択。前者は、まず不可能だ。ならば、後者ということになる。そこで一座は、羽馬師団に送り込める人材を国の各地で探していた。
 

「え、私には、薬師としてって……」

「そうだ。うちの奴らに薬を売ってやってほしい。それで、お前の実力を見る。で、俺が良いと思ったら、薬師枠で軍に入るための学校に入ってもらおう。その資金はこちらで持つ。けど、分かってるよな?」

「伝説の果実は、皆で分け合うのですね?」


 杜夜世は、目を閉じた。これは賭けだ。罠か、チャンスか、回り道か。海烈は悪人には見えない。でも、それだけで決めて良いものか。しかし、これ以上にないぐらい良い話だ。杜夜世が目を開けると、流星の青い瞳と目が合った。1人と1頭が同時に頷く。


「分かりました。その話、のりましょう」

「契約成立だな」


 海烈は、自分の木筒に再びなみなみと果実酒を注ぐと、杜夜世の木筒にガツンとぶち当てた。

「よし! トヨ、リュウ。これから俺のことは、座長か、カイって呼んでくれ。皆が救われるまで、全力で踊って、全力で稼いで、全力で生きるぞ!!!」

 海烈は、羽馬の流星に体当たりして、雄叫びを上げた。杜夜世は、この人も何かの動物に化けたりするんじゃないだろうかと、ふと思った。
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